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2005.11.20

24 談合問題の本質

公共事業の談合事件が後を絶たない.その度に,’お上が競争しろ,と言ったのに競争しなかった’と民を罰している様に見えるのである.民間取引では考えられない’罰’なのである.官尊民卑の風土を感じるのである.

公共事業の談合は’公平性・公明性を失わせ,お上の立場を台無しにした,お上に高い買い物をさせた,結果余計な税金を使わせた’事なのだろうか.

そもそも物を買う行為は,買い手の判断,責任である.買い手は買う理由・機能・品質・納期・コスト・予算等を吟味し決断するのである.気に入らなければ買わないのである.売り手側が罪になる事はない.

果たしてお上は,この当たり前の買い手の判断,責任を自覚しているのだろうか.適正予算が組まれていれば,談合有無にかかわらず,税金の無駄使いにつながらないのではないか,不当に高い買い物は談合のせいではなく,いい加減な予算や役所の無能力が原因だと思うのだが.

まず予算の問題である.いくら談合があろうと,予算以上の価格には出来ない訳で,適正な予算化が重要である.契約率(予算に対する購入価格)がよく話題になるが,予算が適正でなければ契約率は何の意味もないのである.

ましてや,景気対策(ばらまき事業)の公共事業は競争によるコスト削減の意識は働かないなのである.

次に随意契約やコンペが必要な物件までも,価格のみの競争入札にする傾向がある.競争入札は役所にしてみれば,公平さが担保出き,手間や責任を回避できる購入方法である.これに走りすぎていないかの問題である.応札各社の工夫や特徴を殺してしまうのである.

さらに言えば,議会で決めた事業と予算を役所は右から左に執行するだけと思っている節がある.なまじ専門的な要員を持つ事は責任が発生する.従って業者責任にできるような仕事の仕方ばかりを考えているように思う.その先に,売り手の談合があるように見えるのである.

談合による税金の無駄使いとよく言われるが,購買能力がない役所が物を買う事の方がはるかに無駄使いを誘発していると思うのだが.

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2005.11.15

23 政治に望む立論力

政治の根底に人間の性格,思想,がある.この上に考え方,政策がある.一見,政策論で反対している様でも,本当は性格が気に入らない為の反対だったりもする.

そこで,人間の性格・思考を考えると,

性格的には
①強硬な人②穏健な人,
思考的には
①感情を優先する人(理より気)②論理を優先する人(気より理),
政治思想的には
①国家・伝統・秩序・和を大事に思う人②市民・個人・平等を大事に思う人,
経済政策には
①資本主義的に考える人②社会主義的に考える人,

に分類される.従って,小選挙区制によって政党が集約されつつも,このタイプが入り混じり,時として謀反劇や離合集散が起こるのである.

日本の政党は50年体制崩壊後,離合集散の途上である.左派・右派でもなく,大きな政府・小さな政府でもなく,穏健派・強権派でもなく,改革派・保守派でもなく,農耕派・狩猟派でもなく,混合経済派・資本主義経済派でもなく,まだまだ性格・思考・対立軸を分類できる政党にはなっていない.ましてや安定的な2大政党など程遠い.

行く末は,米国に似た形,リベラル・穏健派とコンサーバティブ・タカ派に別れ,双方にラジカルな改革の色彩が混ざる形になるかもしれない.

しかし,安保体制のような,国の基本政策を共有した上でなければ2大政党は機能しない.憲法9条問題が定まらない限り,2大政党には程遠い.まだまだ軍事武装より先に論理武装が必要である.

自民党の9条改正案は戦争はしないが,自衛の為に自衛隊を持つ,であるが,論理性がとぼしい.定義不可能な`自衛`と言う言葉を使うからである.軍備を持つのか,持たないのか,持つとするなら,その行使は状況によってシビリアンコントロールで決断する,が普通である.シビリアンコントロールが不安,あるいは,いかなる理由でも戦争放棄なら,軍備は持てない.この問題はきわめて単純である.

単純な論理をしっかりしていないと,政治は出来ないし,信頼も生まれない.海外から見ても,不思議な国,いい加減な国に見えるだけである.湯でカエルになる危険もある.

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2005.11.07

22 少子高齢化対策

ひ孫や孫の周りに何人の年配者がいるだろうか,年金生活夫婦に親がいる人も多い.

少子高齢化は,間違いなく,文明や経済の発達に比例する.貧しい時代は多子で寿命も,今より,はるかに短かかったのである.これが必然的な現象としても,これを踏まえた社会の仕組みは描き切れていない.難問拡大の中で,何としても,多子高齢化社会に向けた社会の仕組みを作っていかなければならないのである.

少子化と高齢化が同時に進んだ時の最大の問題は年金・介護・医療,そして経済力低下である.老老介護の悲惨な事態も他人事ではなくなる.国も個人も豊富な富があるなら別だが,何としても子供を増やす以外に解決策はないと思う.まさに子供は名実ともに社会の宝になるのである.

この多子化はいろいろな施策が論じられているが,決定打はない.生み安い,育てやすい環境や経済的支援策を論じても,結婚・出産年齢の低齢化にはつながらない.そこで,二つの事を考えてみた.

まず,収入や生活レベルや子供の教育レベルを落としてでも,あるいは手間や苦労が掛っても,子だくさんの喜び,価値観を社会全体で高めなければならない.貧乏人の子だくさん,ではなく,子だくさんの貧乏人を大事な価値感にしなければならないと思う.子供を世話する高齢者はいくらでもいる.高齢者にとって,子供の面倒は生きがいにもなる.

二つ目は大学を大幅に減らす事である.1割り程度の進学率にし,就労は高卒を当たり前にする.進学競争や教育費用の削減,就労人口の増加,職人の増加,結婚・出産年齢の若返り,が実現する.

教育を受ける自由や知力が心配なら,生涯学習を充実する方が教育本来の姿だと思う.中身の乏しい見せ掛けの高学歴社会は少子化,高コスト社会を招くだけで,さしたる価値はないように思うのである.大学の大衆化は,4年間遊んでいる若者(200万人くらいか)をかかえる事になる.大学を減らすデメリットは,にわかに思いつかない.

高齢化に見合う多子化がなければ,国は衰退し,個人も苦境に陥る.もちろん,高齢化は元気な高齢化への努力も必要である.国をあげて,皆で実現したいものである.

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