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2006.01.31

29 1頁と100頁の契約書に見る日米文化

日本と米国の文化比較の一つとして,比喩的に’1ページと100ページの契約書’としたが,根底に流れる思考風土を述べてみたい

同じ仕事をするのに,日本とアメリカの契約書の違いはビジネスや野球選手の契約にあるように,表題くらい違う.米国は仕事を始める時に契約書を見るが,日本はトラブルが起こった時に契約書を見る,あるいは全く見ない事も根本的に違う.

どちらが合理的なのだろうか.あえて日本の合理性を主張するならば,曖昧の合理性である.そこまで細かく言うな,分かっている,あるいは,はっきりしておかない方が融通が利く,白黒はっきりさせない方が当面,争いが起こらない,と玉虫色の合理性である.長い人間の英知かもしれない.歴史のある国ほど,玉虫色の文化があるように思う.

日本全体で見ると,この曖昧な合理性が根強く残っている.トラブルが発生すると法律や契約ではなく,道義性の議論が始まる.又,合理性を求めるとアメリカのまねだと批判する.法律や契約以前の暗黙知としての道義・信頼は大切だが,それに頼りすぎて曖昧にしている事が多いように思う.

この曖昧な合理性はもっと重大な問題と関係している.リスクから目をそらしたり,思考力,決断力すらも曖昧にしているのではないか,その結果,立論力が育たない事につながっていないか,という問題である.思考力や立論力は低くても,行動力や結束力があれば良いとする考えもあるが,国際化や社会の複雑化,難問の増大,競争社会あるいは個の自立には,この立論力が必要だと思うのである.

よく,理(論理,コンセプト)と気(やる気,行動力)が両輪と言われるが,理の無い気は衆愚化を招き,気の無い理は行動が伴わない.曖昧な合理性はともすると理より気を大事にしている文化なのかも知れない.だから1ページの契約書でも仕事がやれるのである.しかし大きな問題が起こった時,きわめて深刻なトラブルになり,事前の考え方や詰めの甘さを嘆く事になるのである.

最近の偽装問題で言えば,販売主に瑕疵責任があるところまで決めているが,賠償能力をどのように担保するかは不問である.担保がなければ,瑕疵責任は全うできないのである.理の部分は素朴な事までも欠落している事が多い.建築確認機関が重大問題を見逃した時,どうするのか,など当たり前の理が欠落している.ご免ではすまないのである.

アメリカ流に日本が塗り替えられるのは問題だ,拝金主義はダメだ,利潤追求は問題だ,格差社会はダメだ,市場原理,効率重視は問題だ,実業がなくマネーゲームの錬金事業は問題だ,官から民や規制緩和は問題だ,などと批判する識者が多いが,気が優先して,理が聞こえてこない.頭の中は1ページのままである.

仕事も国も本当に理論武装が大事で1ページで会社や国が経営できない時代なのである.トラブルのつど契約のページ数が増えてくるようでは時代の変化とのギャップが広がるのである.大きな理論・哲学とそこから導かれる先手の理が必要なのである.憲法問題なども,まさにこの理論武装の欠落が問題なのである.

いつの世も,若者は理を好む.時々間違った理に走る事もあるが,曖昧さは若者を悩ませ,堕落に向かわせる温床になる.若者は自ら理を考える力が,必ずしもあるわけではなく,大人の理を期待しているところがある.

理の無い社会は若者から嫌われる.思考力も育たない.1ページだけでは若者の能力や行動力が発揮されない気がする.若者が受身に見えるのはこのせいだろうか.大人の責任は重い.

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