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2006.03.29

43 情報システムの設計/開発と必要なスキル

前コラムで情報システム開発のトラブルに対する所見を述べたが,品質の基本になる設計力について触れておきたい.情報システムの開発は①経営者側の設定(目的・費用・納期)②利用者側の設定(業務仕様の設定)③コンピュータ側の設定(システム設計,パッケージ適用設計,プログラム設計)によって行なわれる.(図はクリックで拡大)

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業務仕様を元に行なうシステム設計作業とはDATA・BASE設計,システム全体の構造設計(処理ブロック構成の設計),ブロック単位の機能設計,プログラム単位への分割,といった内容である.家で言えば間取図と機能・器具・備品を決める作業にあたる.

この作業で作られた設計図はプログラム開発に向けて必要であるが,システム全体の姿を表しており,開発規模見積,開発計画,開発分業体制,開発順位,進捗管理,仕様変更管理,プロジェクトマネージメント等にとっても大事な設計図になる.この設計図(システムの間取図)の出来ばえ如何が,開発の成否を左右する事になる.

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そこで,業務仕様の大枠をおさえて間取図に機能展開する能力が問われる.巨大なシステムは構造的に展開することが求められる.LSIの設計図のような図面になる.ブロック間のインターフェースも定義する事になる.

問題はこの作業が日本人は総じて苦手である.訓練もあまりされていない..'日本人はOSを作れない’と言われる由縁である.どうしても一筆書きの設計,つぎはぎの設計になる.システム体系図の日米比較をすると,明らかにアメリカの体系図は大味ではあるが構造的論理的ですっきりしている.多くの人が分業して開発できそうな図になっている.日本の場合は機能構造がデコボコで未整理で全体の論理体系が見えない事が多い.

設計は通常処理の骨格を設計した上で,細かな事を別モジュールとして逐次追加する発想(構造化設計)が大事であり,いきなり細かい仕様を骨格に組み入れると一筆書きになってしまうのである.

情報システムに限らず,物つくりは荒削りからブレークダウンして行く工程を踏む.業務設計にしろシステム設計にしろ,大きな機能構成から細部の機能構成に落とし込み,全体の構造体系が作り上げられるのである(構造化設計)

日米のもう一つの違いはコンセプト,目的の追求度合である.米のように,この度合が強ければ,システムはシンプルになる.これがハッキリしていない事の多い日本では,何でもシステムに組み込むことになり,結局,開発費の増大,情報投資の不効率化,品質の悪化,ブラックボックス化,硬直化などに陥る.さらに,パッケージの発達を阻害し,手作りシステムから脱却できない事になる.

元来,日本では現状をすべてシステム機能に反映したがる風潮があり,これがシステムを複雑にし,結果,品質悪化やコスト高を招いてしまう.使用頻度の少ない機能や例外処理をどこまでシステムに組み入れるかは,コスト,開発期間,テスト,信頼性,運用性,維持性にかかわる事であり,きわめて重要なポイントである.

以上のように,情報システムの開発はテクニカルなスキルより,システムの間取図(機能体図)を作る能力がきわめて重要である.その為に,業務を良く知っている事が必要であり,巨大システムであっても少数精鋭での作業になる.

この設計能力は実は情報システムにかかわらず,図解表現の能力と同じある.同じテーマについて複数人で図解表現をした時,見事に10人10色になる.それほどに図解力(設計力)に違いが出るのである.この上に情報システムが乗っかっているとしたら,きわめてリスキーな事である.この図解表現力,設計力の向上はきわめて重要なテーマなのである.

情報システムの設計図を複数人で作り,優れている図面を選択して開発を進める方法や優秀な類似システム経験者に設計を依頼する方法はコストの割りに効果が大きいと考えられる.

又,顧客,ベンダーどちらが設計するにしろ,この設計図を共有し,その精度を高める事が品質向上,トラブル回避,効率化の基本になる.

企業システム,公共システムは年々ますます巨大化する.技術,ツール,インフラも多様化する.勿論,一筆書きでは作れない.全体をいかに構造的に設計し,局所的な対応をいかに可能とするかが重要である.残念ながら,現実には,システムが長年のつぎはぎで,無秩序のまま,ブラックボックス化しているケースが多いと思われる.その為に,変化への対応,改革に膨大な費用がかかる事が予想される.

このように,システム設計とは業務をシステム化するだけでなく,将来の進化も見据えた,機能の構造化なのである.今や,新システムが動けばよい,だけでなく,巨大なシステム程,長期に渡る,メンテナンス性が極めて重要なファクターになる.その為の仕掛けもシステム設計に含まれるのである.

最後にシステム設計・開発者の必要スキルについて体系と具体的な知識を紹介しておきたい.

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2006.03.28

42 情報システムのトラブル

システム開発の規模にかかわらず,開発ソフトに関する発注者(顧客)と受注者(プロバイダー)の間でのトラブルやアプリケーションシステムのトラブルが絶えない.ハードウエアーの品質やトラブル対策は発達してきたが,ソフトは依然として’雨降って地固まる'的性格を持ったままである.最近の銀行や証券等の社会的巨大システムのトラブルを契機に改めてその対策が議論され始めた.

トラブルは大きく分けて開発段階のトラブル(機能,開発規模,開発費用,納期、引渡し方法etc)と運用段階のトラブル(誤動作,機能不足,性能,資源不足,操作性etc)に分かれる

開発段階のトラブル

システム開発の契約は建築物の契約のように図面があって契約する事は皆無である.システム開発の仕事は荒削りの段階から概要設計,詳細設計,プログラム開発,テスト,移行仕様,移行システム等具現化していく事であるからである.

従って開発途上で当初計画から乖離していく事は当たり前であり,ここに調整が常に発生するのである.ただし開発費用の増大等の調整はベンダー側の実力不足,過小見積,当初機能に含まれるとの主張を理由に顧客側は納得しない事が多い.

その背景は,,曖昧な契約でも,ベンダーが専門家として具現化してくれるとの期待が顧客側にあるからである.期待を込めてリスクも含めて発注する.そしてシステムが安定稼動後,開発費を払う考えである.

この事から

①リスク負担が受注競争のポイントになりやすい
②開発工程の重要性を低下させる要因になる
③設計確認,システム確認,テスト評価など顧客責任の意識が低下する
④顧客は安定稼動まで金を払わない

等の顧客の盲目的丸投げが,トラブルを必要以上に増加させていると思う.顧客もベンダーも結果的には甚大なトラブルを背負うことになる.

開発契約書においても何を契約したのか不明で金額だけが存在している場合が多い.いわゆる一式いくら,一山いくらの契約(実際は発注書)である.

この実態を見ると,単に契約段階でシステム内容を明確化しようとの論調は顧客側主体で設計開発部隊を持ち,設計図を作り,足らない所を発注するケースしかない.この考えでシステム開発をしている企業はあるが,ほとんどは概要を示す程度の取引である.

典型的な分野は公共分野,医療分野である.公共,医療分野は専門組織を持たず,フルターンキービジネスになっている.情報システムをまだ道具を買う意識にとどまっているのである.機能を表す単語を並べたRFPで競争入札している現実では契約段階での明確化はまず不可能である.

曖昧さのリスクはすべてベンダーの責任として応札しているとの事から過去にどれだけベンダーの負担をしてきたか計りしれない.残念ながら,これからもこの問題は続く.官が率先してシステム開発の特性を踏まえた入札や契約のあり方を考えるべきである.

そこで,ソフト開発の特性を踏まえた契約方法であるが,業務仕様や性能が明確化されたシステムは一括契約書で,明確化されていないシステムは工程別分割契約書で契約することが自然である.曖昧のままで丸投げは一見顧客側にノーリスクに写るが青天井の費用・リスクはベンダーは受け入れないはずであるし,受け入れたとしても,トラブルは顧客自身にも甚大な被害が出るのである.

やむなく,工程別分割契約が出来ない曖昧なままでの一括契約をする場合,せめて予想されるリスクの対応方法を決めておく事が大事である.解約の条文,業務仕様作成・確認の条文,費用変動時の条文,プロジェクト推進やシステム確認・検収に関する条文,等が必要である.

特に業務仕様を誰が作り,誰が確認するのかを契約で明らかにする事である.金額やリスクに大きく関係するからである.このような契約内容で双方の共通認識をし,プロジェクトを進めるべきなのである.

この約束があって契約金額が決まるのである.この契約書によって双方が活動計画を共有しプロジェクトが開始する.そんな契約を進めたいものである.契約書を見ない,見ても行動につながらない契約書・風土は早くやめなければならない.トラブルが起こってからでは遅いのである.

尚,契約は玉虫色で一般的にし,契約後,覚書あるいは会議録で仕事の進め方や問題対応の取り決めを行なう事があるが,金額が無関係になったり,受注後に大事な取り決めを行なう事は順番が逆である.本来,契約で一本化すべきである.従って,ベンダー側はプロジェクトごとに契約内容を決めることになる.これで生きた契約書になるのである.顧客側,ベンダー側ともに,契約ベースの文化に移らなければならない.

運用段階のトラブル

次に重要な事はシステム稼働中に起こる甚大なトラブル,被害発生の問題である.業務仕様やプログラム仕様あるいはプログラムそのものの不備,漏れ,ミス及び操作などで発生するいわゆるソフトの品質問題である.

これをどう防ぐか,すぐ影響が出る場合,長期に誤動作している場合があるが,判明したときの対応をどのようにするか,被害の賠償問題をどうするか,顧客の責任での処置になるが,きわめて難しい問題である.

この問題は契約における受託者の瑕疵責任,無償修正作業で処置できるものではない.社会や顧客へのダメージ,膨大な逸失利益や費用の発生など,企業の存亡にかかる事態になる可能性を持っているのである.

このトラブル防止には当然の事ながらリスク要因を少なくする機能設計,わかりやすい構造的設計,システムのセルフチェック機能の設定,仕様とプログラムの徹底的なチェック,テスト等が必要となる.もちろん実績のあるパッケージの活用や出来るだけ作らない発想の設計も必要である.

巨大なシステムのテスト・チェックは空前の作業となる.設計・開発作業と並行した体制と準備が必要になる.この費用は設計・開発とほぼ同等のコスト・期間が必要である.重点思考とデッドラインの確保の認識が必要となるが,リスク認識が顧客側に不足している事が多い.前述の通り,ベンダーに開発を一括発注している感覚があるからである.

特に安全の費用対効果で言えば,冗長性や機能の低下があっても,仕様の簡素化,テストのし易い設計を考える事が必要である.日本人は欧米人に比べ複雑にする傾向がある.例外処理も多い.コンセプトや目的意識が弱く,割り切りが出来ない性格が災いしていると思う.又,同一業務を複数部隊で開発し,完成度の高いシステムを選択する方法もある.余分な開発費がかかるが,出来の悪いシステムを深追いするより安全である.

現在はソフト化の時代である.企業情報システムだけではなく,あらゆる機器にソフトが入る.複雑で巨大なソフトも機器に組み込まれる.当然リスクも大きくなる.ソフト化の利便性の付加価値はほとんど安全対策に向かうはずである.しかし,いつの日か,ソフトの品質確保の限界がソフト化の限界になるかもしれない.

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2006.03.15

41 会社と社員の変貌

農耕民族の特徴である村社会の文化が日本の産業経済の発達とともに,その集団文化が会社に引き継がれ,それにともなって帰属意識が地域から会社に移って行った.同時に自分の職業意識より帰属する会社を第一義に考える会社人間が増えて行った.

仕事も会社の中で割り振られ,ジョブローテーションが行なわれる.組合もユニオンショップ(会社組合)の形態になって行ったのである.この会社人間の猛烈振りが戦後の復興を支え,まさに会社社会を作り出したのである.

一方,バブル崩壊後,肥大化した企業の脆弱性があぶりだされ,個性や優位性の競争,産業構造のフラット化が急速に起こり,企業や産業の再構築時代に突入した.年功重視の伝統的な人事制度にも成果・能力主義が導入され,社員は数値責任と専門性の発揮を求められるようになった.

当然,自己啓発は当たり前,教育に会社が面倒をみる時代ではなくなったのである.まさに企業も個人も経済の荒波に身をさらすレース的競争(皆が良い成績を出せる競争)からゲーム的競争(勝ち負けの競争)に変わって行ったのである.

卑近な例としてチェーンストアーをあげてみる.チェーンストアー(GMS)は呉服屋,衣料屋,家具屋,雑貨屋,魚屋,八百屋,肉屋,菓子屋等の個々の商売を包含した小売企業組織であるが米国のチェーンストアー理論を輸入して企業化された.セントラルバイイング,セルフ販売,マニアル化,システム化による,購買力の向上,ローコストオペレーションの実現である.これによる多店舗化,大量販売を可能とし高度経済成長の波にのって拡大していった.物流も含めた流通革命を起こしたのである.

バブル崩壊で拡大路線の崩壊,消費の低迷,競争企業の台頭,消費者ニーズの変化などによって危機的経営状況に陥った.大量仕入大量販売の経済成長時代のビジネスモデルが大きく見直される事となったのである.又回転差資金(仕入と売上のサイト差)や出店・改装が止まった時の自転車操業的経営のもろさも露呈した.さらにデベロッパー等への拡大路線も巨大な負債を残す事になったのである.

小売業界では産業再編成やリストラを経て,生鮮3品(魚,肉,野菜)と惣菜に経営の重心を戻す動きが始まった.地産地消,店内加工,対面販売,地元密着,商品郡別縦割り組織の見直し,など元来の店主体の八百屋,魚屋,肉屋への回帰現象である.

この方針を突き詰めると,当然,職人的社員の育成,人事制度,組合制度,仕入と販売の権限と数値責任,店長の役割り,インショップ制度(企業内企業制度,惣菜屋カンパニーによる全店舗展開の発想)等,従来のチェーンオペレーション経営を根幹から揺るがすテーマに突き当たる.

まさに,物あまり,顧客ニーズの変化によるチェーンストアー理論の終焉である.又,専門性の追求は会社への帰属意識から,肉屋をやっているとの職業意識に変化する事になる.就職もアルバイトも会社選択から職業選択に移る事になるのである.

厳しいゲーム的競争社会では,どんな企業でも専門性の追求はきわめて重要である.しかし経営者が社員に'専門家になれ,成果・能力で評価する’と言っても'勉強しろ,数字をあげろ',といっているレベルであったり,単に年功賃金を抑制したいレベルであれば専門性の追求は難しい.

真に専門家集団を形成したいのなら,チェーンストアーの例と同じように会社の組織制度,人事制度,組合,社員の意識,採用制度などのテーマに行き着くはずである.優遇を伴う専門職制度や職種別組合のような改革が必要になる.

しかしながら大企業における職業意識の向上には大きな課題がある.例えば職業意識は下請けにあり,社員はゼネラリストばかりであったり,人事異動の問題もある.専門職制度も管理職制度の亜流に位置付けられるケースもある.

そこで専門分野の分社化で特化する事も一つの方策となる.この意味で総合から専門へ,大きな組織から小さな組織へ,が大企業の活力と人材育成を促す方向だと考えられる.終身雇用の弊害を少なくする為にも必要である.

一方,中小企業は職業意識や専門性発揮に組しやすいと思われる.中小企業はそれが企業存続の柱であり,機動力も発揮しやすいからである.この特性をいかにフラットな産業構造の中で発揮していくかが重要となる.

産業構造のフラット化は専門性,機能性,効率性を持った特徴ある企業が多く存在する構造である.この縦型産業構造から横型産業構造へのシフトは中小企業の専門性の発揮によって加速するはずである.

さらに,専門性の発揮を目指す企業の組織は業務遂行と同時に教育機関としての役割りを高める必要がある.事業計画も活動計画も人材育成と連動していなければならない.その組織に所属している事で人材育成の方向をはっきりさせたり,育成を加速させることになる.そのような組織を作らねばならない.

その意味で会社全体が事業推進組織ではあるが人材開発会社と見えるようになるのである.学び,考え,切磋琢磨する風土が企業進化のエネルギーとなり,そのような会社に結果が付いてくるのである.専門性が不要な企業など世の中に存在しないからである.

この改革と並行して,’量から質‘から’質から量’へ考え方を変える必要がある.質を高めるためにも量が必要だという考えが高度成長期にあった.現在はそんな余裕,リスクは取れない.質がなければ量展開をしてはならないし,なによりも量には繋がらないのである.それほど競争はシビアーなのである.商品やサービスを打ち出す時,その質を支える仕組み,技術をまず先行させるためにも専門性は当初から不可欠なのである.

一方,専門家の増強は企業を超えて業界にも通用する人材が多くなる.当然,従来の’人材はストック’の考えから’人材はフロー’の傾向に変わる.またM&Aも多くなる.従って,これに対する対策も必要になる.かくて,会社村社会,会社人間の風土が変貌していく事になる.しばらくは生え抜きだけの会社,転出転入の多い会社,など会社の風土は多様化していくと考えられる.

最後に専門性の追求は事業の方針と連動しなければ意味がない.事業の方針が定まっていないところに専門家は育たないのは当然である.経営者の最大の仕事である.企業の存在価値を改めて見定め,企業に存在するナレッジを再認識するところから方向性をきめることになる.又,方針いかんにかかわらず,総務,人事,経理,の仕事は資格取得や専門性がきわめて高く,事業経営の重要な役割りを持っている事は言うまでもない.

専門家集団の企業になる事は生き続けるためには不可欠である.しかし掛け声だけではなく会社を根底から改革していかなければ実現できないテーマである.その事に気が付いていない経営者が多いように感じられる.従来,専門家より会社人間集団で経営をやってきた歴史が気付きにくくしているのかもしれない.

フレッシュマンが社会に出る季節だが,将来,職業意識(プロ意識と実力)を持てるようになって欲しいし,会社もそれを実現する改革を進めて欲しいのである.ヨーロッパのギルド社会の歴史や風土を少しは取り入れたいものである.会社帰属人間から自分のスペシャルティを会社で生かす関係になって欲しいのである.そんな社会がもう始まっているのである.’自分ー会社=0’の人生は個人にとっても会社にとっても望まないはずである.

今後は,より専門性があり,それを実現する風土・仕組みがあり,社員の職業意識がある企業が確実に生き残っていくと思うのである.

従来の会社人間に代表される社員と会社の距離感が産業のフラット化や社員や企業の専門性追及とともに,確実に変わって行くと思う.

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2006.03.12

40 マイナーとメジャーにみる文化論

音楽の和音(コード)にマイナー系とメジャー系がある.不思議な事に日本の演歌,スペインのフラメンコ,中南米のラテンはマイナーコードである.コード展開もほぼ決まっている.どの曲も情緒的で哀愁がある.調子のとり方も前打ちである.

カントリー,ブルース,JAZZなどはメジャーコードである.リズムは後ろ打ちで,スイングしやすいリズムである.テンポ,和音,コード展開も豊富で喜怒哀楽の感情表現も発揮し易い.勿論,クラッシックも加えれば,洋楽には国境がない.

マイナーコードを好む国民に小柄な体つき,黒い髪,黒い眼,黄色の肌,ウエットな情緒的な音楽が好き,と言う共通点がある.多分,すぐ気持が通じあえる国民同士なのかも知れない.

日本では洋楽でもJ-POPでも,マイナーコードが混ざっている歌は間違いなく人気がある.日本の洋楽の草分けであった大橋節夫さんは多くの名曲を残した音楽家であるが,マイナーコードを混ぜた名曲を多く世に出していた.ビートルズの曲でも,日本で人気がある曲にマイナーコードが必ず入っている.

民族性と音楽の関係を調べたり,分析した事はないが,きっと密接な関係があるに違いない.

一方,今,日本では演歌から洋楽(J-POP,JAZZ,ロック)に人気が急速にシフトしている.洋楽の方が表現力やリズム感,あるいはエンターテイメント性に勝っているからである.なんと言ってもかっこ良いからである.

ソーラン節が洋楽に編曲されて’よさこいソ-ラン踊り’になったり,紅白歌合戦でポップスが増えているように,音楽もエンターテイネントの世界もアメリカ文化が日本文化を席巻しているのである.

又,演歌とJAZZの中にいた団塊の世代も60歳になり,その子供,孫は洋楽の中にいる.年寄りは民謡や演歌が好きだと,昔のように,もはや言えなくなっているのである.

音楽は他の文化より先にアメリカの影響を受けているが,もうすぐ浪曲,民謡,の次に演歌も大衆芸能から消えていく運命にあるのかもしれない.

ところで,反物は縦糸が強さ,横糸が模様を作る役割りがある.文化を反物に例えると,日本古来の文化が縦糸で,横糸が仏教,中国文化,明治時代のヨーロッパ文化,戦後のアメリカ文化などである.それで和洋折衷,和魂洋才の反物,文化を作ってきたのである.

強い縦糸があったから和洋折衷の模様を作り出せたと考えられるが,縦糸が弱くなると,横糸で模様が画けないどころか反物自身が弱くなる.今の趨勢で言えば,音楽の様に,縦糸がアメリカ文化で横糸が日本文化になる可能性もある.

日本文化が衰退するのは西洋文化の影響だけではない.文化(ソフト)を世界に広げようとする発想がない事である.たとえば,フラメンコ,ラテン,は演歌と違って国際的である.どの国でも楽しまれている.日本人も大好きである.一方,演歌は世界に広がっているわけではないのである.

日本食ブームも同じである.日本料理は輸出できても,日本食文化,稲作文化,農耕文化,自然保護文化等のソフトまで広げているわけではないのである.

日本はハードは輸出できてもソフト(文化)まで輸出できない民族だという事が日本文化の衰退の原因になっていると思う.国際的に広がっていかなければ,国内でも一枚一枚はがれて行くのである.残そうとすると,古典文化になってしまうのである.

根本的な事だが民族性もこれに関係している.国籍の血統主義と生誕主義の問題である.日本の様な血統主義の国は文化には寛容だが人間には排他的だと言われている.

和洋折衷に違和感を抱かないし,料理や宗教にも寛容である.反面,国際結婚はまれであったり,他国でチャイナタウン,コリアンタウン,日本人街を作ったり,人間関係には排他的な側面もある.これが,文化の輸入を許容して来たと思うのである.このような性格から,日本は文化の輸入国であっても,何ら不思議ではないのである.

反面,生誕主義の国は,人間には寛容だが,文化には排他的な面がある.多民族国家の反面,宗教対立がある,などその代表である.折衷文化もない.

そう考えると,日本はシルクロード以来,到来する文化の終着駅であり続けることになる.今後も,縦糸の日本文化が弱くなっても多様な考えや文化が入り混じった国,文化を輸入し加工するの国,これが日本の姿かもしれない.

どうせなら,日本としては良いものを取り合わせた折衷文化国家を陽に表明し,あたかも加工貿易と同じように折衷文化の輸出国になったらどうだろうか.これなら日本文化の良さも残る.音楽も食文化も,産業製品も,日本らしさが生き残れると思う.

折衷の重要性,メジャーとマイナーが,かもしだす深み,味わい,は哲学的にも,価値観的にも,国際的にも,成立する感じがする.

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39 芸術の将来

俗に,古代は宗教・哲学を生み,中世は芸術を生み,近代は科学を生んだと言われている.

芸術は,洋の東西を問わず,現存する宮殿,神社仏閣,彫刻,絵画等に見られるように,権力者の力が後世に芸術と言う遺産を残したと言える.大きな権力が存在したところに芸術作品が多く残っている事がその証拠である.

ヨーロッパ芸術でいえば,教会,貴族がパトロンとなって,イタリアを中心としたロマネスク,ゴシック,ルネッサンス,オランダ,スペインのバロック,フランスのロココ,そして実業家にパトロンが移り,印象派が芸術の流れを作った.

その後,嗜好や表現方法が多様化するが,社会の近代化とともに,時代を風靡するような芸術は出ていない.むしろ,中世の芸術が科学技術にはないアーテフィッシャルな特徴が好まれれて,現在でも生きているのである.

過去の芸術に感動するのは,表現力以前にそれを作ったことの偉大さにまず唖然とする.ヨーロッパの宮殿にしろ教会にしろ,あるいは大理石の彫刻にしろ,あるいは絵画を見るに付け,どうやって作ったのかと,その難行に思いをはせ,労作に強く感銘するのである.その上で,作品の迫力,美しさ,存在感,に感動するのである.

芸術作品には,巧みな技・想像を絶する労力・目を釘付けにする表現力がある.労力や技の感じられない作品は表現に長けていても,軽薄に感じる.あえてもう一つ付け加えるならば,芸術作品は手作業(ARTIFICIAL)が絶対条件なのである.CGで作られた映像や高層ビルに芸術性を感じないのはこの為である.

このような中世の芸術のように,民主主義,効率社会,科学社会で,はたして後世に残るような芸術が作られるだろうか.絵画を例に取れば芸術性の追求で飯は食えないし,画家を抱えるパトロンもいない.ましてや,中世の宮殿の様な建築物など,作ろうとする人はいないと思うのである.

従って,現代がやれる事は過去の芸術作品をしっかり保存し,将来に残していく事である.また,芸術作品をつくれない社会であっても,せめて大衆による創作活動が華やかな時代になればと思うのである.趣味で絵を描くなど中世になかったはずである.

最近のアマチュアや画家の絵画展を見ると音楽もそうであるが,特徴,や独自性を追求するあまり,わけのわからぬ心象表現のような作品が増えてきた.人物,静物,風景などが評価される事はほとんど無い.特徴,独自性の発揮が難しいからである.

なにを画いても構図,色彩,インパクトが優劣の物差しだ,と思うが,趣味を中心とした大衆創作時代を築く為にも,大衆の好みから離れてはならないと思う.

このように,芸術の将来は傑出した芸術家や作品や潮流が出ないと思われる.せめて,大衆創作の時代になる事を期待したい.それにしても,少し,さみしい感じがするが.

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2006.03.05

38 私のゴルフ川柳

ゴルフシーズンが始まりますが,私がしたためた川柳を紹介します.

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37 人間の頭脳と行動(俗に言う頭の良し悪しの違い)

人間の頭脳はメモリーベースアーキテクチャーと言って,記憶に従って行動を起こす仕掛けになっている.赤ん坊のときから行動と記憶を繰り返しながら,生きるための能力を蓄えて行くのである.

多分このアーキテクチャーは地球上のどこに生まれても,環境に即して生きていけるように考えられた方式である.人間が環境に順応できるように,脳も大きく作られているのである.動物や植物は生き方を固定している分,脳機能は小さく,生き方の数だけ動植物の種類があるのだと思う.

一方,コンピュータはストアードプログラム方式である.与えられたプログラムによって処理をするのである.経験,記憶によって次の行動を起こすような学習機能は今の所,持ち合わせていないのである.

人間とコンピュータに共通しているものがある.内部メモリー管理方法である.もっとも使われない記憶から消滅させるのである.人間はある記憶を忘れないようにするには時々思い出せばよいのである

思い出す方法も共通している.連想記憶方式でリンクをたどる方法である.人間もコンピュータもこれを可能とする記憶の格納方法を持っているのである.忘れない方法としては,芋ずる式に連想できる結合子を記憶する事である.

情報ネットやITの発達によって,情報共有によるナレッジマネージメントが威力を発揮している.これは個人の行動・記憶を組織の行動・記憶としてとらえ,組織の脳を作る事を意味している.これによって個人の脳だけではなく,組織の脳を使って,自分の脳にはない記憶を活用して,行動するのである.その結果が自分と組織の脳にフィードバックされるのである.

人間の行動に’玄人ははにかみ,素人は断言する’がある.これは明らかに記憶の量に関係している.玄人は博識さが断言を躊躇させる.ただし,多くの点在する記憶が線で結ばれたとき,これが気付き,推測となる.素人とはこの点が違うのである.ナレッジマネージメントはこのばらつきをなくし,個人の適格な行動や気付きを支えるのである.

ところで俗に言う頭の良し悪しは合理的か情緒的かの差だと思う.合理的に,効率的に物事を見たり,考える人は,マージャンも競馬も試験も,強く,頭が良いとされる.

これに比べて情緒的な人は余計な事を思ったり,考えたりする分,合理性や効率性が落ちるように見える.マージャンでも上がって何ぼ,で打つ人と,手作りの楽しみで゙打つ人の差である.どちらも確率を気にするが,情緒的な人は,低い確率でも,それを選択してしまうのである.

本当は頭の良し悪しはなくて,思考の内容,範囲が違うだけだと思うのである.誰にも,適材適所がある由縁である.想像したり,違った考えに気付くのは,いわゆる頭の悪い人かも知れない.頭の良い人はそんな不効率な事をやるはずがないからである.これは証明できない仮説である.

この仮説からすると,記憶が同じとした時,試験に強い人は合理性や小さな論理を追求する仕事,試験に弱い人は想像的な,大きな論理を追求する仕事が向いている気もする.

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