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2007.03.30

90 インターネット上の著作物と複製権

デジタルコンテンツの私的複製権の問題を当ブログの80番で述べているが,もう一つの問題であるインターネットにおける複製権について考えて見たい.

日本の法律では著作物の複製権は著作権者の許諾によって行使可能となる(私的複製は除く).これによると,インターネットのホームページの内容をコピーして検索用データベースを作る事は無断複製で違法行為となる.

米国の法律では,検索用データベース作成の為の複製は著作物の検索を助ける為と考え,著作権侵害とはならない.

米国はこの法制度で世界のホームページ情報を米国のデータベースに集め,国内外の巨大な検索用データーベースを構築して行った.そして圧倒的な検索能力を保有したのである.

検索機能の重要性を早くから気付いていた米国は著作物の複製権に関して,新たな概念を作り,法制度を改訂して,検索機能の世界制覇を達成した事は見事としか言いようがない.

結局,我々の日常化した検索行為はほとんど米国で処理されている,又,日本のインターネットのサーバーが米国に多く設置されている事も合わせて考えれば,我々のインターネット利用は,ほとんど米国を折り返していると考えてもよい.

ネットワークの発達は法制度,機能,利便性,コスト,いかんで,国を超えて情報の流れが決まる.ネットの中に税関,通関があるわけではないので,自由に情報は行き来する.ネットの世界はまさにボーダレスなのである.

たとえ国内法制度が厳しかったり,時代に合っていなかったりしても,情報はその制度を簡単に避けて行く.ボーダレスである以上,全ての国が加盟する国際法が当然必要になるのである.

ところで,遅ればせながら,日本の著作権が改定されても,世界の情報が既に巨大なデータベースになっている限り,日本で検索用データーベースを改めて作る意味はあまりない.

しかし,情報が集中した結果,政治的に米国所有の検索用データベースが閉鎖されたら,たちどころに世界の検索やインターネットそのものが停止する事になる.このリスクをどう考えるか,大きな問題である.情報の安全保障問題である.

今頃,こんな事を言っている様では,我々の発想力,思考力の弱さに自虐的悲観論が漂う.

とは言うものの,憲法,商法,証券取引法,会社法,著作権法,放送法,通信法,あるいは医療関係など,あらゆる日本の法律が,技術的変化,国際的変化に反応していなかったり,後手に回ったり,泥縄対応であったりで,インターネットと同じ事が既に起こっているのではないか,と心配するのである.日本は島国であるが,人間の営みに島国と言う概念はもうないのである.

新しい変化が海外で発展し,我々は蚊帳の外にいるだけになるのだろうか.日本で起こる法制度の問題が米国では既に10年以上前に議論され,制度化されている事が多いように思う.これでは永久に後手,泥縄から脱出できない感じもする.米国の追随を批判する人もいるが,批判だけでは解決しないのである.

日本は物作り長け,ハードの輸出は得意であるが,制度,仕組みなどのアーキテクチャー(ソフト)作りには弱い.どうすれば,日本の洞察力,構想力,立論力,判断力,設計力を高められるのだろうか.

和を重んじる村社会的風土,謙虚,配慮,横並びの精神,単一民族の特性が新しい事への思考力を弱めたり,狭めたりしているのかも知れない.この日本のユニークさを大事にすべきか,変身すべきか,も揺れ動く.

この懸念の中に,デジタル・ネットワーク時代の著作権に係る多くの問題がある.日本は結論を出せるのだろうか.

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2007.03.27

89 百貨店の過去・現在・未来

百貨店業界の再編が話題になっているが,懸念される事について述べたい.

百貨店業界は長い歴史の中で,一定のステータスを築いて来た.同時に,百貨店商法も連綿と続けて来た.この百貨店商法は設備投資,催し,消化仕入,委託販売,派遣店員,テナント,外商,ギフト,中元・歳暮,返品,売り場毎の発注などが特徴である.総じて場作りに重点を置いて,その分,商品リスクを取らない経営手法と言える.

極論すると,百貨店商法は売り場を多くのテナントに提供し,その売上を自社売上に計上し,その売上から一定の利益を得るビジネスモデルである(勿論,直営売り場はあるが,その比率は会社の政策で異なっている).この意味で,百貨店の売上高は'取り扱高’なのかもしれない.(過去に売上の定義で議論を呼んだことがある)

この百貨店業界の売上は長い間,減少傾向が続いている.言うまでもなく,チェーンストアー,専門店,巨大ショッピングセンターの台頭もあるが,大きい要因は取り扱い商品が昔から固定的である点である.

家計支出の内容がデジタル家電,IT商品,レジャー,趣味,エクササイズ,車,などに移っていても百貨店の取り扱い商品は変わっていない.そればかりか,得意とする伝統的な家具,呉服等は減少傾向である.紳士服は品揃えが少なくなっている.ファッションは世界的有名ブランドが根強い人気である.社会の消費動向と売り場が遊離しては,売上減は避けられない.決して景気が原因ではないと思う.

百貨店経営の特質は設備投資(豪華な店舗,一等地,増床)や運営経費をまかなえる利幅がある商品しか扱えない事である.従って,ステータス等の付加価値をつけて,顧客に満足を提供する事が大事になる.必然的に客層も限定される.売上の拡大より,安定的な売上とステータスの維持が基本となる..

又,テナント依存から新商品開発や新分野への人材育成が行われていない事も原因であるように思う.時代の変化に取り残され,じりじりと'百貨店’が’百貨店'ではなくなって来た感じがする.

このような状況の中で,従来の百貨店商法を今後,どのように考えていくのか,が業界再編以上に重要なテーマだと思う.

アメリカでは昔から,小売業の業態は客層別,商品群別,に業態分化している.百貨店では,高額所得者と高級商品に特化している.

日本の百貨店は,顧客,商品,サービスのターゲットを鮮明にした方向で考えるのか,従来の商法を続けながら,高所得者層への更なる特化を進めるのか,の選択が求められていると思う.しかし,テナント依存の大きい百貨店は業態改革論議すら出来ないのかもしれない.

従来の百貨店商法のままでは,百貨店の売り場からどんどん商品がなくなって行くのか,テナントや納入業者が逃げて行くのか,あるいは,多くの世界のブランドショップが百貨店に結集されていく事になるのか、あるいは場を提供する不動産業に傾斜していくのか,など気にかかるところである.

百貨店業界の再編に際し,どのような事業コンセプトで展開されるのか興味が沸く.

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2007.03.24

88 ロングテール現象

リアルの世界ではパレートの法則(2割の商品が8割の売上を占める)が働いているが,バーチャル(ネット)の世界ではロングテール部(長い尻尾,上位2割以外の商品群)の売上が大きくなる現象が起こっている(ロングテール現象,下図クリックで拡大).

Photo

物販で言えば,店頭販売では陳列面積の制限,効率,リスク対策で売れ筋の商品を中心に陳列する.一方,ネット販売での取り扱い商品は商品を絞る必要がない.しかも,販売高はパレートの法則が崩れる.売れ筋商品の売上より,それ以外の商品群の売上が多くなる.リアルでは売れなかった商品がネットでは,ちりも積もる事になるのである.

何十万曲,何百万冊の音楽や本のネットビジネスではヒット曲や人気本より,めったに売れないコンテンツ群の売上が大きくなるのである.又,これらの商品は競争も少なく利幅も取れる事になる.

このロングテール現象は商品だけではなく,企業にも言える.特徴があったり専門特化の小さな企業でも,田舎の企業でも,大企業とネットの世界ではチャンスは同等になる.情報社会は産業のフラット化を加速させるのである.

ネット・情報によるロングテール現象の意味する所は,リアルの世界では企業はパレートの法則によって顧客や商品を選ぶが,ネットの世界では,顧客が企業や商品を選ぶのである.まさにオンデマンドの世界が出現した事である.

この変化は社員についても言える.2割程度の社員が事業をひっぱる従来の姿から,情報共有によって,全社員の活躍が期待できるようになる事である.相対評価による人事評価の仕方が問われる事になる.

さらに,選挙においても,無党派が多くなっているが,これも情報社会におけるロングテール現象だと思う.従来の組織票だけでは戦えない時代になったのである.決して無党派は無関心派ではないと思う.政治家が組織票を選んだり固めたりする事以上に,国民が政治家を選ぶ事が大きい時代になった証拠である.

このように,情報社会はロングテール現象を起こし,個性化,多様化,フラット化を加速させていくのである.

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2007.03.23

87 政策選択の視点

今年は地方選挙,参議院選挙など猪年に起こる選挙ラッシュの年である.東京都知事選も公示された.選挙民にお願いする選挙からマニフェストを約束する選挙に少しづつ変わりつつあるが,政党や人物も依然として選択肢である.

私見によれば,衆議院は政党で,知事,市長はマニフェストで参議院,地方議員は人物で考えてみたい.人物を選択肢とする理由は政党に属さず,政策毎に党議拘束を受けず,チェック機能を発揮して欲しいからである.

マニフェストでは,医療・介護・年金・福祉が常に掲げられるテーマである.社会の鏡だからである.'何をやっても,福祉'ではあるが,おおよそ三つの考え方がある.

①パイの拡大に軸足を置いた政策(自民系,財界系)
②パイの分配に軸足を置いた政策(市民系)
③財政難対策,効率に軸足を置いた政策(改革推進系)

である.財政難の中で③は必須政策となるが,守旧派,利権者との対立が常に発生する,'改革なくして成長無し’を旗印に無党派、若者の支持を受ける.①②は思想色,政党色が見え隠れした議論となる.

①は社会全体の底上げが福祉などの持続的向上につながるという考え方である(成長なくして財政難・福祉対策なし).景気対策の名のもと,工事が欲しいだけの,ばら撒き公共事業を徹底排除し,効果の上がる政策が求められる.

②は福祉等への分配を多くしようとする考え方である.賛同を得やすい政策であるが,財源問題や,持続できるかの問題を検証する必要がある.医療・介護・年金・福祉への分配増が続くと,逆に福祉をやれなくする危険性もある.

特に地方は実状に合わせて,①②③の建設的な政策の組み立てが求められる.しかし現実は,財政難の中で可能な政策領域がきわめて,狭くなっている.先ず財政問題を優先すべきだと思う.'財源なき政策は意味がない'からである.マニフェストに全体の予算計画書が欲しいくらいである.

いずれにせよ,自ら招いた財政難の中で,どんな政策をやるべきか,自らが決断しなければならない年である.

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2007.03.17

86 堀江判決

ライブドア事件で堀江元社長への判決が出た.

事件の全容は省略するが,浅学ではあるが,遠目でみた感じでは,ライブドアはネット事業とファンド事業をやりながら,株で資産を築いた.近鉄球団買収を思い立ち,球団保有の審査を通る為にも,楽天との競合で決算を良くしなければならなかった.当たり前のように,社長は売上と利益の上積みを指示した.結果,良い決算が上がってきた.こんな方法もあるのかと喜んだりもした.

そこに,自分としては違法性も犯意もなかったと主張しているのである.創造的,積極的人物によくある言動であり,会計制度に疎いのも事実のようである.しかし,有罪であれば経営者としての結果責任は逃れられない.

一方,経営者を支える経理責任者や会計監査法人が違法性や犯意をどのように認識していたかは定かではない.(特に問題との意識はなかったようだが)

この判決に対し.

虚偽記載の事例からして重すぎる,儲け方が気に入らない,反省・謝罪がない,莫大な財産を持っている,等で軽すぎる,米国の例から,きわめて軽すぎる,などの感想があると思われる.裁判の争点以外の日本的な,感情的な感想が多いように思われる.

ライブドア事案で国民は証券取引やファンドやM&Aの学習をした,引き続き裁判についても,学習の機会を得ていると思う.そこで,この裁判を通じて,素人ながら,経済裁判を考えてみた.

①反省の度合いと量刑の問題

量刑は〔動機・犯罪内容・反省度合い〕で決まるようだが,この中で動機に対しては裁量があっても良いと思うが反省度合いに対しては違和感がある.

今回,反省がない事が実刑になった理由だと言う.無罪を主張し,否認しているから反省する訳もないのだが,反省のない者を世に出してはいけない.じっくり反省と厚生をさせる必要がある.と言う考えが裁判にあるようだ.

日本における実刑は罪の償い(罰)以外に厚生(指導)をさせる目的があるようだ.裁判所と刑務所は罪人の厚生機関と捉えているようだ.償い(罰)の機関でよいのではないかと思う.

反省したら罪が軽くなるとしたらグレーの問題や有罪になる可能性のある問題に無罪の主張が出来づらくなる.真っ向対立で裁判を戦う事で真実をあぶりだす事が難しくなる.妥協で罪を認めれば冤罪の温床になる.

反省の証として謝罪,私財の放棄,弁償等が行われ,減刑されるとしたら法の下の平等が崩れる.

捜査や逮捕と言う国家権力の行使には間違いがない,と言う前提で,反省したら許そう,反省しなかったら許さない,と言う文化が根底にあるように思う.

量刑は〔動機,犯罪の内容〕で決めるべきだと思う.’罪を憎んで人を憎まず'の考えにあるように,犯罪を裁くべきだと思う.反省度合いを量刑に影響させる事は'人を裁く'事になる.人の反省や厚生は少なくとも,経済裁判では裁判所の仕事ではない気がする.

②真実を明かす事と量刑の問題

事実の証拠の提出などは反省に基づくものとされ減刑の要素になるようであるが,それでは黙秘権行使が心象を悪くする事になる.

刑を軽くしてでも真実追求や犯罪防止につながるなら司法取引の制度を考えるべきである.重要証拠を出す,出さないが反省している,していない,と置き換える事は黙秘権や①と同じ問題になる.

③分離裁判の問題

今回,同一事案に対し被告人毎の分離裁判でが行われているが他の裁判の被告人が当裁判の検察側証人になっている.もし,求刑を軽くするから他の裁判の検察側証人になれと言う事があれば,金をやるから証人になれと似た事になる.弁護側は分離された裁判に参加していないのであれば検察側と多勢に無勢になる

そもそも同一事件を分離裁判し,整合性が取れるのだろうか.

④裁判官と検事の関係の問題

検察の求刑が裁判官の重要な判断材料になるようだが,はたして,国家権力を持つ裁判官と警察・検察が独立しているのだろうか.求刑が量刑の上限を裁判官に示唆し,裁判官は求刑の掛け率で判決を出す,と言う事になっていたら大問題である.冤罪のリスクに係る問題である.

⑤社会的,経済的制裁と量刑の問題

罪が確定する前(事情聴取,家宅捜査,逮捕など)に本人の意思とは無関係に起こる社会的経済的制裁の度合いが情状酌量に影響を与える事がある.

制裁が自業自得と見るか,裁量に反映すべきか,法の元の平等の観点で議論すべき難問である.識者の見解を聞きたい.

又,大きな制裁が発生した時,いまさら無罪に出来ないと国家権力側は考えるかもしれない.何が何でも有罪に持ち込もうとした挙句,冤罪になりはしないか心配である.

勿論,無罪が確定した時の社会的,経済的制裁の国家弁済の問題もある.

事情聴取だけで白眼で見る国民性,お上意識が根本的問題なのかもしれない.判決が確定するまでは無罪という教科書のような考え方は国民意識や司法制度に反映しているとは思えない.これも識者の見解を聞きたい.

⑥国家権力の行使の問題

確実な事は⑤の事を考えれば,警察・検察・裁判所の国家権力の行使は慎重でなければならない.個人的な思想や恣意的な判断あるいは世直し奉行の自負で国家権力を行使してはならない.

あくまでも違法性と証拠での行使が求められる.国家権力が正義の覇者を振りかざしたら法治国家ではなくなるのである.

又,経済事案は会計監査法人,行政・証券取引の監視機関などで未然防止や修正申告指導などが行われ,経済的混乱を避ける意味合いがあるが,今回はどうであったのかの検証が必要である.特に今回は証券取引監視委員会を飛び越えて,いきなりの虚偽記載の逮捕であり,他の虚偽記載事案と比べて議論を呼ぶ所である.

年寄りが若者を懲らしめているように,法の眼を盗んで錬金をしている事は許せない,哲学・言動も許せない,Tシャツが無礼だ,と時代のヒーローに祭られた人物を見せしめの為に国策捜査をしたとの印象が拭えない.他の経済事案と比較しても違和感がある.

⑦世論,マスコミの反応

司法の判断の尊重からか,一時はヒーロー扱いしたマスコミや世論が手のひらを返すように,司法判断に迎合しているのも気がかりで危険である.マスコミなど見識を問いたい.検察が怖いのだろうか.コメンテーターの薄ぺらさもいい加減だ.

いくつか上げた問題のように,堀江哲学・言動・錬金方法の賛否より,風説の流布や粉飾決算が意図されたのか,他の類似経済事案と何処が違うのか,量刑に恣意的な要素が入っていないか,そもそも検察が介入する前に,会計監査法人,行政,証券取引のチェック機関は何をしていたのか,どのような役割りになっているのか,国策捜査ではなかったか,等の議論を深めて欲しいのである.

経済事案は影響が大きいだけに,国家権力行使によって善意の被害者が発生する.何らかの保護策が必要だと思う.経済裁判が増えてくる中で,伝統的な考え方,制度,仕組み,慣習,用語,形容詞の多い判決文など,改革すべき課題は多い.

さて,堀江被告の法廷闘争は,2審では一転,罪状を認め,反省し,日本的減刑作戦にでるのだろうか,あくまでも無罪でつっぱるのだろうか.世論やマスコミから,この問題は風化してしまうのだろうか.

法治国家である以上,感情,倫理,正義感ではなく,起訴に係る法律と証拠のみで合法・違法の法廷闘争を進めて欲しいものである.それが裁判の使命であり,それ以上の使命や期待は警察国家につながる.この為にも,ここで上げたいくつかの問題の論争も期待したい.国民も論理的な物の見方を鍛えなければ,'お代官様文化'を改革できないし,陪審員制度や国際社会に伍していけないと思う.

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2007.03.11

85 田舎の火事騒ぎ

けたたましいサイレンを鳴らしながら消防車が次々と走ってくる.消防車の走る方向を見ると,黙々と上がる黒煙が見える.そんなに遠くない.何が燃えているのか心配で見に行った.

煙は近くの町営体育館の南側に広がっている広い野原の真ん中から出ていた.どうやら,うず高く積まれた枯れ草が燃えているようだ.すでに,四方を取り囲むように,一勢に放水が始まっている.火柱を上げていた枯れ草はあっという間に静かになって行った.

思わぬ大きな黒煙で,久しぶりの出番が来たと,消防士は張り切って,はせ参じんたが,気勢を削がれた感じである.キャンプファイヤーのように取り囲んだ野次馬も期待はずれの顔で帰り始めた.

その時,感高いサイレンを鳴らしながら,おもちゃの様なピカピカの軽消防車が息を切るように到着した.村の消防団のようだ.だいぶ,あわてている.

若者は,車から飛び降りると,給水ホースを持って,近くの小川まで走った.しかしホースが届かない.急いで車に引き返し,丸められた予備のホースを取り出して,もどかしそうにホースをつなぎ始めた.一方,放水口を持って火元に走っていたリーダーらしい若者は大きな声で叫んだ.

「早く水を出せ,火が消えてしまうぞ」.

火が消えてから到着した事になれば,消防士としては面目丸つぶれである,なんとしても火が消える前に水をかけたかったようだ.見ている野次馬からすると,火が消えたら困ると言う意外な言い方に,思わず吹き出してしまった.

リーダーは野次馬を掻き分けて,かろうじて,ちょろちょろ燃え残っている枯れ草にホースの先を向けた.放水に備えて,中腰で踏ん張って構えた.しかし,なかなか水が出てこない.

「早く水を出せ」またリーダーは叫んだ.

じっと構えているホースの先に野次馬の目が集まった.野次馬も息を殺し,一瞬,静寂が野原を覆った.突然,不意を付くように,すさまじい勢いで水が噴出した.

あまりの水圧でホースが手から離れ,大蛇のように暴れ始めた.取り囲んだ野次馬に容赦なく水が飛んだ.大蛇の首にリーダーはタックルしたが,のた打ち回る大蛇を抑えられない.暴れる水を逃れて,野次馬は声を上げながら逃げ回った.野次馬の輪は一瞬で乱れた.輪の向こう側の野次馬にも機関銃の乱射のように,ストレートな水が横に走った.

ピッカピカの軽消防車でも,すさまじい水圧がでる.その強さに驚いた若者は,あわてて車に駆け寄って水圧のダイヤルを回した.暴れまわったホースは死んだように静まった.水圧がウソだったように,ホースの口からはちょろちょろ水が出ている.どうやら始めての出動だったようだ.

リーダーは泣きそうな顔でホースを持つと,くすぶっている枯れ草に,しずくのような水をかけた.若者達の消火活動は終わった.ずぶ濡れの野原の火事場に嵐の後の静けさが漂った.

枯れ草まみれで,ずぶ濡れの若者達はうなだれて肩を落とした.その肩に悔しさが漂っていた.若者達はそれぞれ仕事を持った村の消防団である.

真面目な青年達の真剣な消火活動を思い出すたびに,今でも,おかしさと,のどかさがこみ上げて来るのである.

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2007.03.07

84 「華麗なる一族」

たしか,昭和48年(1973年)頃だと思うが,山崎豊子さんの力作「華麗なる一族」を引き込まれるように読んだ.34年前である.今,テレビ放映をきっかけに,ほとんど忘れていた物語を,もう一度読み返してみた.

物語は当時としては珍しい銀行の合併をテーマに,同族銀行の生き残りをかけた政,官,財の魑魅魍魎の世界に父と子,家族内の確執を絡めながら,経済ドラマと人間ドラマを鋭く描き出した作品である.どちらを中心にとらえるかは,読者にゆだねられていると思うが,タイトルの通り人間ドラマが軸になっている気もする.

ここでは経済ドラマに視点を置いて述べてみたい.

小説の舞台は新幹線,高速道路,東京オリンピックを経た昭和40年代,神戸で現実にあった鉄鋼会社倒産劇,銀行合併劇と当時既に水面下で胎動していた金融再編計画,鉄鋼再編政策を下敷きにしている.ドキュメンタリーとフィックションの間にあるような臨場感ある小説である.

小説の発表後,80年代のバブル経済の謳歌,バブルの崩壊,による90年代の金融破綻,金融再編,金融自由化,不良債権処理等の激変があったが,その震源地を34年前に描いていたと言える.同時に財閥・コンツエルの終焉も示唆していた様に思う.

年月とともに,臨場感は失われるどころか,激変の歴史が積み重なった分,何倍にも臨場感が増しているように感じた.自分の経験知識も34年前とは全く違う事も原因だと思う.

物語の内容で改めて実感した事は,金融業界は’お上’の手の中で動かされている点である.明治から現在に至るまで,この文化は引き継がれている.

官主導のもと,他人資本中心の日本的資本主義経済とメインバンク制による銀行の産業支配,公共事業への資金供給,預金による資金の収集,を銀行が担ってきたのである.数多くある銀行は金を吸い上げる為に必要だったのである.

この様なドメステックな金融業界の構造が資産バブル崩壊にる膨大な不良債権によって崩壊し,合併再編を余儀なくされた.同時に資本主義本来の姿である投資(資本投入)で動く国際経済からの立ち遅れが露呈し,世界から取り残されかねない事態を招いたのである.

これらの視点で見ると,小説の中の野心家も,魑魅魍魎の人間ドラマも,吸収合併も,むなしく,小さく見えてくる.作者も世界の動きの中で,日本の金融行政・業界の後進的村社会を指摘していた様に思う.

「白い巨塔」でも,あぶりだした医学界の舞台裏が,現在でも臨場感を増しているが,山崎豊子さんの鋭い着眼点,徹底した取材,テーマの展開,そこに人間ドラマを織り交ぜて行く力量には圧倒されるのである.他にも,不毛地帯,二つの祖国,大地の子,沈まぬ太陽など社会の暗部を実話を下敷きに鋭く抉り出している.歴史小説や推理,恋愛小説とは全く違う社会派作家の苦労を想像すると頭が下がる.

今後とも,現実を鋭く描く小説に出会いたいと思うし,それを後年にも読み返してみたい気もする.

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2007.03.03

83 ナレッジシステム

ナレッジ(次の仕事に役立つ知識,知恵)はネットワークやデジタル技術の発達によって,タイムリーに蓄積・共有・活用が可能になり,企業力格差の大きなファクターになって来た.

元来,企業活動の成果は①顧客の利益,②自社の利益,③ナレッジである.これらを次の仕事に反映させ,次の成果につなげて行く.この繰り返しが企業の存続・成長である.ナレッジがこのサイクルの牽引力になるのである.

ナレッジは「継承なくして創造なし,創造なくして継承なし」の考えの中で培われ,常に企業進化を推し進めるのである.

このナレッジは意義・課題を自覚してやる仕事に多く産出される.又,ナレッジが「ある,ない」の評価より,持続的に増殖させ,活用する意識・仕組みが重要となる.そこで,ナレッジシステムの概要を整理してみた.

蓄積,共有ツールとしてはグループウエアーもしくは社内ホームページサイト,その内容は通知情報,部門別計画・活動情報,製品情報,設計情報,障害情報,技術情報,商談情報,提案情報,顧客情報,事例情報,プロジェクト情報,クレーム情報,改善情報,業績情報,議事録情報,セミナー・講演資料などである.これらが日々の活動によって蓄積・共有される事になる.

このように,ナレッジの蓄積は知識や知恵を書く事を意識するのではなく,企業活動の記録を取る事である.これがナレッジのベースとなる.ナレッジは百科事典や図書館を作る事ではなく,実務で発生した記録,資料の中に大事な宝物があると考えるのである.

トヨタの改善運動は,現場で起こった問題や改善がたちどころに全世界のトヨタで共有され改善が実施されると言う.問題に気付いたり,失敗したり,改善を行った事がきわめて重要なナレッジなのである.これを日常的に行われ,企業は時間とともに進化・成長して行くのである.改善運動はまさに生存のメカニズムになっていると思う.

ナレッジには,もう一つの分野がある.経験知識を集約した静的な知識情報である.ソフト開発事業で言えば,業種別システム設計ガイド,業務概論,論文,技術解説書,標準化マニュアルなどである.一般には教育テキスト的情報である.これらも重要な教育ナレッジであり,企業の人材育成力を左右するのである.新人はもとより,社員への教育は年々悩ましいテーマになる.ナレッジシステムはこの問題への強力な武器になる.

かくて,企業経営情報は.業務システムとナッレジシステムで構成される事になる.業務システムは業務を正確に迅速に処理することであるが,ナレッジシステムは人間と企業の能力を最大にする事が目的となる.

従って,業務システム以上に,ナレッジシステムが競争力格差になって行くと思われる.現場で培ったナレッジが人材の育成,生産性や品質の向上,販売力の向上等に影響を与えるからである.

情報の共有が叫ばれて久しいが,是非ともナレッジシステムの進化を進めたいものである.この取り組み如何で5年後の人材や企業力に大きな格差が現れると思う.

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