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2007.10.29

121 人事制度再設計ニーズに対しての所見

企業経営の基礎に人事制度がある.この人事制度は経営者の考え方,仕事の特性,社員数,業績,年齢構成,労使関係,歴史,等によって千差万別である.

一方、技術革新、国際化,産業構造変化,事業再編,競争激化,などの経営環境や価値観の変化の中で,人事制度の改革ニーズが高まっている.その中で,『成果主義か能力主義か』,『人材はストックかフローか』,等の基本的な議論も再燃しているのである.

ここで,再設計における一つの基本的考え方を述べてみたい.

人事制度は言うまでもなく,企業にとっても社員にとっても納得出来る制度である事が基本である.その上で,一本しかないキャリアパスを管理職と専門職の二つのキャリアパスにするとか,能力と業績を反映する制度にするとか、いかに会社全体の人材を活用し,会社としての活力を向上させて行くかが改革のポイントだと思うのである.

『能力・人間力ある者に地位を』,『業績ある者に禄を』という古典的な考えが,今問われていると思うのである.

そこで,一つのシンプルな人事制度を紹介したい.

月次給与=基準給与(本給+資格給)+職責給+(諸手当) 

・基準給与は残業,賞与などの基礎になる給与
・本給は年功順の賃金(幅を持つ事もある),退職金の基礎.
・資格給は勤続年数,能力主義にもとづく等級制度
・職責給は資格条件のもとで付与される役職・技能職制度

本給は年功序列の文化を残す部分である.給与全体の割合(例えば5割)を設定する.同時に退職金計算式の変更が発生する.次ぎに、新入社員から役職者までの資格体系と資格給を設定する.職責給は役職・専門職の職責体系と職責給を設定する事になる.

職責は肩書きになり、呼称も重要である.あまり再分化すると外部から分かりづらくなる.従って、課長職であっても、本給、資格給が違ってよい.

次に職責には職責毎の『権限と責任』が定義されるが,下記の定義も必要となる.
①組合員かどうか
②残業手当の支給対象者か
③個別原価の対象者か

次に,資格,職責の定義で裁量労働制の適用可否も決める必要がある.又,仕事によって,裁量労働制を外すルールも必要である.

この体系で毎年,年間の業績,能力に応じて,昇給(本給),昇格(資格,職責)が行われる.勿論、昇給、昇格モデルによって、社員も将来の給与が、会社も将来の人件費予測が可能になる.

一方,賞与は業績配分の考え方に立ち,半期毎の業績で賞与原資を決定(営業利益の%)し,配分は個人もしくはグループの業績で配分する,との考えが必要だと思う.但し,賞与は社員から見れば,生活費であり,一定の基準賞与を保障する原資確保が経営には求められる.

その配分ルールだが,資格グループ毎の基準給合計比率で賞与原資を按分し,そのグループ内の順位でその原資を個人に配分する,等のルールが考えられる.恣意的な配分をやると,個人に対しても,過去の支給実績についても,説明が出来なくなるので注意が必要である.

最後に、昇給(本給のアップ評価),昇格(資格,職責のアップ評価),賞与算定の業績評価,に関するルールの問題であるが,過度にルールに走る事は危険である.基本は管理職と社員のコミュニケーションに置く事である.

何らかの評価方法を取るにしても、社員の顔が見えるか見えないかにもよるが,相対的評価の難しさがあるからである.同一世代の人数も相対評価に影響を与える.又異質な仕事間の相対評価の問題もある.大企業ほど顔の見えない,仕事が見えない,社員同士の相対評価が問題になるのである.

能力開発や業績達成の為に作られた目標管理が昇給,昇格,賞与の評価の為に使われると,目標設定の公平性に問題がでる.現実は、それらを参考にしつつ,最後は管理職による調整機能が必要になるのである.

退職金制度のあり方も大きなテーマである.本給リンクをはずし,ポイント制にする議論もある.ベースアップと退職金を分離し,それぞれ独立して自由に検討できるメリットがある.賃金の後払いとの解釈のもと、賞与で払う考えもある.

さらに言えば、職種によっては、年棒制をとる企業も現われている.同一企業の中で、工場や営業で制度を複数持つ企業もある.

以上、人事制度の根幹に付いて述べたが、業績向上や専門家集団の形成を促進するシンプルな人事制度が今求められていると思う.

尚、新制度への移行には、細心の注意が必要となる.特に移行に伴う不利益を出してはならない.新制度に個人を当てはめた時、給与額に不利益が出る事は予想されるが、何年間かの経過措置(補正支給)で対応する事になる.

米国の様な個人ごとの契約主義ではない日本は,会社と社員の約束で人事制度が存在する.従って,制度の不具合や不透明制を放置する事は社員の会社に対する信頼感を奪う事になる.人事制度はまさに経営の基礎であり戦略なのだから,いかなる人事制度も社員の信頼感を失ってはならないのである.

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2007.10.27

120 食品表示の功罪

身体に実害のない食品偽装問題が頻発している.増加しているのではなく、明るみに出ただけだと思う.そもそも食品は曖昧なことが多いし、身体に悪いものでなければ良いとの感覚があるからだと思う.

また,偽装は食品に限らず誇大広告,セールストーク,見せかけ,イメージアップ,化粧・ファッション・装飾・見栄,など人間の本能と隣接し,故意の欺きは詐欺罪とも隣接している.

さて,問題の食品表示について考えてみた.

食品表示制度(食品衛生法、JAS法、健康増進法、景品表示法、計量法)でアレルギー物資の有無や混在食品内容が分かる事は、それを必要としている消費者にとって,きわめて有効であるが、法定表示(産地、原材料、賞味期限、消費期限、容量、製造者、保存方法など)や任意表示(ブランド,特徴,製造日など)に問題もある.

いくつか食品にまつわる問題を列記してみた.

①賞味期限内で製造日調整・書き換え(鮮度競争)
②賞味期限の延長張り替え(もったいない廃棄回避)

③商品目利き力を落とす表示依存
④意味不明の回遊魚の漁獲水域、水揚げ港、国名、等の表示

⑤定義を知らないまま妄信する肉や魚の地域ブランド
⑥根拠が不明な消費・賞味期限(メーカーの自由設定)

⑦作り置き商品等、定義が不明な製造日(メーカーの自由設定)
⑧表示困難な業務用、惣菜、切り売り、弁当、料理
⑨国内外のOEM調達、半製品仕入れ等、製造方法の多様化
⑩輸入食材増大と規約の国際間摩擦
⑪グローバル化で加工食品検査が困難
⑫不明瞭な虚偽表示の罰則(衛生法、JAS法、不当競争防止法、等

⑬安全・安心で無用な潔癖性が蔓延(コスト増・食料廃却増加)


所詮、食品は食材、品質、うまさ,安全性、等、曖昧さが残る商品である.にもかかわらず、あえて表示する事で、消費者、行政、製造業者、間で見解の相違が発生したり、消費者に盲目的な安堵感を与えたり、偽装を誘発する側面を持っている.

例えば、

製造日表示を賞味期間表示に法制度を変えた経緯があるが,新しいものから売れる消費者心理から、依然と製造日を表示し最新製造日競争が続いている.賞味期間内で製造日を先付けしたり、最新の製造日に書き換えて表示する事が発生する.又、返品商品もリサイクルすれば新しい製造日になったりもする.

製造日の偽装が発覚し,大きなダメージを受けている企業が頻発しているが,製造日の定義いかんで、製造日偽装とは言えない面もある.そもそも数日間の賞味期限なら製造日の表示は不要である.これなら何の問題もないのである.なんとつまらない問題である.

元来,製造日がいつであろうと、品質が変わらなければ、消費者に不利益はないし、むしろ、ロス軽減で、安くなるかもしれない.ならば、製造日を法や業界約束で表示禁止にした方が、製造日競争がなくなり、食品の無駄がなくなると思う.

賞味期限も定義があいまいで,期限を超えても食べられなくなるわけでもなく,期限切れで廃却する抵抗感がある.当然,期限切れの商品に延長張り替えをするか,品質チェックで賞味期限を再設定する事も考えられる.

肉は価格に比例して旨さが決る工業製品に近い食品だと思うが,何々牛とブランドが横行している.同じブランドの中にも旨さ,価格はいろいろある.’神戸牛’だからすべて旨いわけがない.100グラム2000円の肉ならどのブランドもうまいと思う.100グラム400円の肉ならどのブランドもいっしょだと思う.

魚の産地表示もたいした意味がない.漁獲海域もしくは水揚げ港もしくは水揚げ国の表示だからである.ノルウエー産と表示する事に何か意味があるだろうか.ノルウエーから輸入しただけで,どこで捕れたか不明である.なんとなくノルウエー近海で取れた魚と錯覚させるだけである.回遊魚ならますます産地表示に無理がある.

肉,魚,野菜,果物などは食品衛生上の問題がなければ,消費者の目利き力が基本だと思う.ブランド,表示に頼ってしまう弊害に気がつかなければならないと思う.

定義が曖昧な項目を表示すると、形骸化したり,偽装を誘発したり、消費者の妄信を高めたり,論理性欠如で海外からの批判が出たり,するのである.

食品衛生上の表示以外、法定表示項目は不要なのかも知れない.自由に表示したものと、中身が違えばもちろん偽装の罪になるだけで良いのかもしれない.

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2007.10.17

119 亀田騒動の根幹

世界タイトルマッチでの亀田選手のラフプレーに対し、非難が吹き荒れた.JBCも制裁に動いた.亀田ファミリーの日頃の威圧的な言動も、非難に拍車をかけた.以前より亀田ファミリーを題材にし、興行主化したテレビ局が、亀田サイドを煽って来た感じがする.亀田サイドもテレビの前で演技をしていたのだろうか.テレビ局と亀田サイドはどんな契約をしていたのだろうか.

既に当ブログで指摘しているが、視聴率至上主義のもとで、スポーツを伝える立場から、スポーツを題材にした番組を作る立場、興行主の立場、に踏み出したテレビ局の危うさが亀田興毅戦に引き続き、今回も露呈した.

ところで、ボクシングはショーなのかスポーツ競技なのか、もう一度はっきりする必要がある.ラフプレーはプロレスならこんな騒動にならない.プロレスなどは力道山以来、悪役を仕立てて、喧嘩のような演出と試合中の反則は、当たり前である.試合展開もテレビ放送時間に合わせて、シナリオがある感じである.それを知った上で、ファンは楽しんでいる.

テレビ局も亀田サイドもボクシングをプロレスの様なショーと認識し、前人気をあおり、振る舞いも演出し、タイトルマッチをしたのかもしれない.ファイトマネーより格段の出演料が出ていたかもしれない.

一方、日本人のプロボクシングに対する心情は特別なものがある.ボクシングを厳しいトレーニングをやった者が、ルールに基づいて、正々堂々と戦う、厳しくて崇高なスポーツだと思っている.ボクシングの歴史を見ても、多くの人生ドラマを生み、歴代の強者には品格もある.ファンは修行僧のように選手を見ている.ボクシングはプロレスと一線を画しているのである.

騒動の中で、マスコミは手のひらを返したように、亀田批判を繰り返している.亀田サイドからすれば、さんざん持ち上げておいて何だ、と思っているかもしれない.ファンも同じ感じだと思う.

テレビ局は批判をする前に、自らを検証し、自らの行動に対する所見を述べるべきである.他人に厳しく、自分に甘いテレビ局の体質は信頼失墜である.

いや、高視聴率を確保して大成功と思っているのだろうか.騒動はそれで又視聴率を稼げると、何度もおいしいと、大喜びなのだろうか.

いづれにしても、今回の騒動を通じて、ボクシングが厳格なスポーツ競技として再認識され、さらに発展して欲しいのである.又、興行収入以外にもスポーツ産業として開かれた事業にも取り組んで欲しいのである.テレビ局と組んで人気と収入を確保するにしても、ファンのボクシングに対する羨望を裏切ってはならない.厳しいさ、厳格さ、品格を売りにして欲しいと思う.この方が興行的にも持続する.

ボクシングがダーティなショーの方向に向かえば、ボクシング競技や選手の品格が失われて行く.今のテレビ局なら、この方が視聴率を稼げると思うかも知れない.ならば、批判などせず、自ら興行主になって、ラフエキサイテングな番組を作り続けたらよい.かくして崇高なスポーツが消滅して行く.

今後の推移に注目したい.

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2007.10.11

118 J-SOX法の懸念

投資家の保護を目的とした金融商品取引法(証券取引法から改編)が08年会計年度から適用される,

その中で.
①業務の有効性,効率化②財務報告の信憑性③コンプライアンス④資産の保全,を目的として,経営者による財務情報に関する内部統制状況の報告,それに対する会計監査人による内部統制監査が義務付けられた.(JーSOX法)

しかし,この内部統制(INSIDE CONTROL)と言う言葉は漠然としてわかりずらい.事業目標に向けた運営の仕組み,信頼性確保に向けた業務処理・事務処理の仕組み,想定されるリスク回避の仕組み,がどのように日常の活動で作動しているか,又,それらをどう改善していくか,等は言うまでもない事であり,会社法でもガバナンスのあり方を決めているのである.

この内部統制の論議は米国で公認会計士の’内部統制が有効でない場合,監査ができない’との意見(監査論)から出たと言う.会計監査人からすれば監査の範囲,責任を狭めたいのだと思う.

そこで,今回の金融商品取引法は,財務情報の信憑性確保に向けた経営者による内部統制報告書の作成と,これに対する会計監査人による内部統制監査報告書の作成が義務化されたのである.経営品質の向上を建前として,監査人の責任を軽くし,会社側の責任を重くする事がJ-SOX法の狙いなのである.しかし,いくつか戸惑う事がある.

①会社法で言う内部統制機能の見直し,補強をどこまでやるか
②金融取引法で言う内部統制機能の見直し,補強をどこまでやるか
③上記①②をどう計画し実施するか
④経営者,監査役,内部監査人,監査人の視点,独立性をどう保つのか
⑤経営者,監査役,監査人の監査計画の差異はどうするのか(④の結果)
⑥経営者の財務に係わる内部統制報告書はどこまで開示するのか
⑦経営者の内部統制報告範囲・評価と監査人
評価の差異はどうするか
⑧監査人の監査報告(会社法)と金取法の内部統制監査報告との関係は
監査人の内部統制評価と決算数値の信憑性との関係は
⑩監査人の内部統制調査・評価の標準化と企業特性をどう調整するか
⑪上場基準,経営品質の各種ISO基準,システム監査基準,等との関係は
⑫情報システム仕様のドキュメント問題をどうするか
⑬整備に必要な工数,経費,が事業を圧迫すると判断した時の処置
⑭監査人の監査費用,監査責任がどう変わるのか
⑮そもそも企業の信頼性,信憑性,透明性にJ=SOXが役立つのか

等々,J-SOX法は必ずしも歓迎されていない風潮がある.米国の初期の論議のように,監査人の合理的保証の為だと見る人も多い.内部統制コンサル等監査ビジネスを拡大する為だとの,うがった見方もある.

金融庁では上記懸念を解消する為に,実施基準を出したようである,さらに,公認会計士協会でも監査・評価の標準的実施基準を出すはずである.数条項でしかないJ-SOX条項が,膨大な実施基準を必要とする所に,どこかに無理がある感じがする.果たして実施基準が上記懸念をクリアーしてくれるか注目したい所である.

もっと大きな懸念は,内部統制は前述の如く,経営の視点より,監査人の視点に合わされるのではないかと言う懸念である.会計監査の合理的保証の為に監査人が考える評価方法に合わせた内部統制になったりしないかと言う事である.その結果,公認会計士協会の標準が全上場企業に適用され,法の目的が浮いてしまう懸念である.

もうひとつ,JーSOX法は米国と同じように,大粉飾事件によって、出番とばかりに、識者が理想に走って、企業の箸の上げ下げまで介入し,挙句,収拾できなくなった感じがする事である.経営者の方も,経営姿勢として,形だけでも取り組まざるを得ないと思っている節がある.不正が発生した時の経営者の責任回避のアリバイ作りにもなるからである.

私見によれば,内部統制はどうあるべきか、評価をどうするか、は教科書や企業に任せればよいと思う.企業運営の問題だからである.株主は取締役にそれを委任し,監査役が監視しているからである.監査人は会計処理が会計原則に従って行われているか,専門家として検証すれば良いと思う.

何よりも,内部統制は会計原則の様なルールがあるわけではなく,又,千差万別の企業を監査人が評価する事に無理があると思う.無理を裁くために,監査人の手間を省くために,標準と称して画一的な物差しがまかり通り,企業が振り回される危険性がある.

又,財務に関する内部統制の評価と会計監査の評価を関係づける事は困難である.内部統制の有効性と決算数値の合理的保証,信憑性とはマクロ的には連動するにしても,直接結びつかないと思う.

財務情報に関する内部統制で監査人の判断で,重要な欠陥や不備があると認識した時,会計監査に手間がかかるかもしれないが,数値は正しい事もあるし,間違っている事もあり得る.逆に内部統制に問題がなくても,決算数値が間違っている事もあり得る.内部統制に問題がないからといって,会計監査が簡単になるとは限らないのである.

そんなわけで,会計監査人による財務に関する内部統制の監査は不要だと思うが,投資家保護の視点や内部統制の強化の視点で,企業経営における内部統制の状況を開示する必要があるなら,事業報告にその部分を加えれば良いと思う.勿論,財務情報に関わる内部統制ではなく,企業全体のリスクにどう取り組んでいるかと言う会社法に乗っかった視点での報告となる.この方がJ-SOX法の目的に合っていると思う.どうやら会社法と金融庁扱いの金取法が整合していない感じがする.

しかしながら,良くも悪くも,08年の会計年度よりこの法律が施行される.表向きは経営の視点,株主の視点で内部統制を言っているが,企業側の未整備もあって,現実には,監査人の視点で内部統制が推し進められる懸念がある.

繰り返すが,結局,監査人の監査の為に,監査証明をもらう為に,法律の意図や各企業の思いとは別に,監査人の標準基準が世の中にまかり通り,これに合わせる事が目的と化すのではないか,と懸念するのである.その分,本来の企業の存続・発展を目的とした内部統制が後退したり,内部統制が形骸化する事が一番,懸念するのである.

’こういう体制・規約・記録が無いと内部統制が出来ていないと評価せざるを得ない’と言う監査人の強い主張で,商人がひれ伏す町奉行所の風景が目に浮かぶのである.

元来,投資家にとって,企業にとって,商売がどうなるか,トラブルが起こるのではないか,が一番の心配事である.せめて内部でやれる内部統制をしっかりやって,病気に掛からない元気な体を自主的に作るべきだと思うし,それを推し進める法であって欲しいのである.

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2007.10.09

117 相撲リンチ事件の本質的問題

伝統を重んじる相撲の世界が揺れている.精神修行に名を借りた,しごき、リンチ、いじめ事件である.過去から死亡者も、脱落者もたびたび出ているようである.相撲の伝統維持にまぎれて悪しき伝統も引き継がれている感じがする.世間も相撲界を特殊の世界として見過ごして来た問題でもある.

伝統を重んじる分野ほど封建的な人の育成が残存しているのではないか.日本的な文化の中に、これらの問題が内在し、スポーツに限らず、どこでも起こりうる事ではないか.学校教育の問題にも連動した現象ではないか.

このような人間関係、人の育成に係る問題が国技として最も日本的な伝統社会で起こった事は,いかにも象徴的であり、日本の精神文化に潜む問題として考えるべきだと思う.

それだけに、責任論で蓋をしてはならないし、伝統的なものをどう時代に合わせながら改革し行くか、に議論を発展させるべきである.文科省も日本の教育問題として、この問題と対峙する事が本筋だと思う.

ところで,日本の人間育成の伝統の特徴は、武道、柔道、剣道、武士道、相撲道、茶道、華道、と言った'道'を掲げる事である.技能、能力以前に、礼節、忍耐力、精神力、服従心などの精神の育成が重視される.ルーツは、出家僧侶の修行にあると思われる.掃除・洗濯・食事・就眠など全て修行とされる.この文化が、変形して世に広まった様に思う.

その精神修行の文化が強い縦社会の中で,本人の為以上に、秩序維持の為に行われたたり,その道の大義のもとで、封建時代のような精神修行が強調されたり,人権に対しても治外法権になりやすかったりする.
スポーツに限らず、丁稚奉公のような封建的精神修行は伝統を重んじる世界に多く現存していると感じる.

この封建的精神修行はこんな形で現われる.先輩が後輩をこき使う、後輩の絶対服従を強いる、気に入らない事があれば、いじめ、しごき、気合を入れる.スポーツの世界で言えば、通常の育成過程においても、玉拾い、掃除、用具の手入れ、洗濯、食事準備、後始末、などから始まる.スポーツの練習など、させてもらえない.相撲のように住み込みの集団では24時間、この精神修行が行われる.やくざやかつての軍隊を彷彿させる.

これらの掃除、洗濯、小間使い、しごき、いじめが精神修行に必要かどうかの疑問も無く育成方法の検討も無く、単に先輩の征服欲の表れであっても、手足であっても、伝統・習慣として繰り返されている感じもする.

このように、全人格を支配しながら、心・技・体を鍛える事を良しとした日本の風土が日本のメンタリティに残っていると思う.そのメンタリティが誘発する悪癖の部分をどう乗り越えて行くかが、改めて日本人に突きつけられていると思う.

宮大工の育成は自分で考える、先輩の技術を盗む、師匠・先輩は後輩に、めったにアドバイスしない・見ているだけ、補助はしても、教え込む指導はしない、日常生活はローテーションを組んだ分担だという.全人格を支配した徒弟制度ではないと言う.

宮大工は困難に向き合った時の対応力が最も大事だと言う.その為に自立心、探究心、向上心を育てる指導方を取っているのだと言う.あくまでも自主性を重んじる教育である.技術習得に時間がかかるかもしれないが、この方が一人前の、しっかりした宮大工になると言う.勿論、傷害、人権侵害、労働基準法違反、などに抵触する行為はないと言う.

又、そのように育った師匠、親方は名実ともに立派な技能者・人格者であり、スパルタ教育を強いる人達ではない.良き職人気質の伝統がそこにある.

今回の事件を契機に、相撲に代表される日本の伝統・風土・文化を守る事と現在の社会と、どう融合させていくのか、に議論を発展させる必要がある.

家制度、家父長制度に根ざした相撲部屋制度の問題、伝統芸能界も同じかもしれない.相撲部屋を家族の象徴として、あるべき姿を目指す方向に行くのか、公私分離のボクシングジムやクラブの様な方向に行くのか,子供を相撲部屋に預ける昔の風潮・文化が今風と合っているのか,相撲協会のあり方,など大相撲の存亡にかかわる根本的なテーマがある.

これらの検討は日本の風土・しきたりの改革に繋がる重要な意味を持っていると思う.

事件の責任論だけで終わって欲しくないのは、伝統と人の育成と言う大事なテーマがあるからである.国技であればこそ、この問題に方向性を出さなければならない.相撲協会が文科省配下にある理由もそこにある.

マスコミ、識者が、こんな視点の取り上げ方をしていない.伝統も含めて、教育問題の根本が問われているとの感受性が乏しい.これでは教育の指針など出るわけがない.

今回も、伝統を重んじながら、義理人情浪花節の決着で済む事になるのだろうか.だとしたら、相撲界も入門者がいなくなり、学校・社会のいじめ問題も改善しない.

かくて伝統を重んじる事が伝統を消滅させる事になる.伝統は法律・社会の価値観を超えて存在できないからである.それとも伝統を治外法権で隔離するのだろうか.

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2007.10.05

116 保守VS改革の政党再編の予感

自民党政治は日本の復興、高度成長を牽引してきた.成長後も肥大化した政官財の社会構造にブレーキをかける事もなく、バブル崩壊が起こった.許容してきた構造、仕組みの冗長性がヘドロのように露呈する事になった.その後、デフレ経済、債権の不良化が長期化し、社会全体が失われた10年と言われるほどに、漂流し続けた.一方、麻薬的に財政出動を繰り返し、この間に、600兆ほどの借金を作って行った.

その後、小泉政権が登場し、「改革なくして成長なし」「小さな政府」「古い自民党をぶっ壊す」を旗印に不良債権処理、構造改革に着手した.国民も熱狂的に、これを支持し、衆議院選挙に大勝した.

小泉政権を引き継いだ安倍政権は、この勢いを得て、憲法問題、安全保障問題、教育問題などの国家理念の再構築と言う長年の根本問題に軸足を移した.同時に、小泉政権での改革抵抗派、守旧派の復権も進めた.結果、改革路線と戦後レジューム脱却路線と言う大きな政治課題を抱える事になる.

この大きなテーマに取り組む一方で、政治資金問題、社会保険庁問題、弱者救済問題、改革による自民党支持層の減少などで、安倍内閣は足元をすくわれ、先の参院戦に大敗した.

この参院戦敗戦によって、1年たらづで安倍政権は退陣し福田政権が誕生した.自民党は一気に小泉政権前の守旧的自民党に戻る事になる.その結果、ねじれ国会の勢力図は、「古手の自民、若手の民主」と言った様相になる.間違いなく、自民にとって「守勢一方」の構図になった.自民の世代交代のチャンスも失った.

古手主体の自民党では、膨大な借金問題、行政の不手際問題、政治資金問題などの張本人であり、その対策は天に唾をする事になり、攻撃のターゲットになりやすい.政策面では、過去のしがらみで思い切った手が打てない.政治家のイメージも一気に古臭くなる.これでは民主の政権担当能力を問う前に、歯切れの悪い守勢が続き、支持率の向上も期待できないと予想される.

こんな情勢の中にあって、次の政権選択の衆院戦に対し、選対委員に自民党守旧派の就任もあり、自民分裂の兆しが出てきたと感じる.支持率が低下すれば一気に古手と若手の分裂に発展する.

同時に、寄せ集め集団の民主党も憲法問題、安保問題で古手と若手の分裂も必至である.

かくて、「守旧派対改革派(新保守)」「古手対若手」の政党再編が起こると予感する.政界の世代交代も加速する.出来たら、新体制で立候補者を決め、衆院選で国民の審判を受けて欲しいものである.

この乱世を収める新たな政治勢力に期待したいが、国会議員は自分の為ではなく、国の為に、この際、所属政党の明確化を願いたいものである.

魑魅魍魎が横行する政治の世界ではあるが、大きな潮流には逆らえない.この予感が実際起こるかどうか、1年後に、このブログを再読してみたい.

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2007.10.02

115 どう考える900兆借金

国・地方の借金は2005年で912兆だと言う.1990年は289兆であったが,バブル崩壊後の財政出動で15年間で623兆増加した.一方、金融危機対策で低金利政策を取った為、90年の利払い16兆(GDP比3.5%)に対し、05年は12兆(GDP比2.5%)だと言う.

ところで,07年の国家予算85兆のうち返済は25兆(34%)である.企業や家計なら借金地獄の状態であるが,どう考えれば良いのだろうか.まず特質を上げてみた.

①GDPの約1.5倍を超えている(他国はGDP以下)
②海外から借金はしていない(郵貯,金融機関がほとんど)
③返済額を新たな国債発行でまかなっている
④低金利政策を取らざるを得ない
⑤将来も返済額が予算を硬直化させ,民意を圧迫し,重税を強いる

⑥日本経済は900兆の上げ底(先食い)の上で営まれている
 

これに対し,

・残高の危険水域はGDPが上限とする説,
返済は国家予算の20%が上限とする説,
・債権者が国内だから,どうにでもなるとする説,
・国民資産が1500兆あるからどうにかなるとする
説,
・債権を差し引きすると純債務は400兆程度であり問題ないとする説
・インフレを起こせば軽減できるとする説(紙幣が紙屑になるが)

など評価はさまざまである.

いずれにせよ,世界に類のない膨大な借金残高は,公共投資によってGDP,税収が増えるから問題ない,背に腹は変えられない,子孫への負担など,わしゃ知らん,と国債を発行し続けた結果である.真剣な返済計画など聞いた事はない.

特に90年から資産バブル崩壊対策で,15年間,空前の財政出動(623兆の残高増加)をした.しかし,真に効果のあった政策は15年後の構造改革であった事からすれば,まさに,改革なくして成長なし,であり,現在の経済規模では,いくら財政出動をしても効果がでない事を証明したのである.

しかし,失われた10年当時の政治家は誰一人として,この失政,借金残高を認め,反省する者はいない.今でも口を拭って,偉らそうなことを言うばかりか,構造改革はけしからんと,相変わらず財政出動論で復権しようとしている.この人達の考える返済計画を是非聞きたいと思うのだが.

私なりに,借金の対策を考えてみた.

①財政再建(額)より財政健全化(質)を進めるべきである

財政健全化とは,効果のない事業(食い逃げ事業)の借金返済を後世に残さない事である.効果に見合う借金返済なら説明がつく.後世の国民も納得する.したがって900兆の借金の内、どれくらい不良債務(国民から見ると不良債権)があるのかが真の問題である.

これが、財政を圧迫し、未来の国民の富を奪う.この不良債務の返済を優先し、激減する事が真の財政健全化である.この視点で国債残高を評価し直すべきである.プライマリーバランスを取る事が財政改革ではないし、これでは不良債務を隠し、後世に負担を強いる事になる.

②借金による景気対策事業(食い逃げ事業)は禁止すべきである

財投の抑制と郵貯の民営化は,食い逃げ公共事業に流れる資金を止め,資金の有効活用を促す意味で評価できる.官の間で回っていた資金を民の市場に回し、経済の活性化を図って欲しいのである.

また,大義をでっちあげて,実はばらまきの景気対策の公共事業をやるとしても,借金は禁止すべきである.将来の返済計画とそれに見合う効果が怪しい公共事業は,必ず,借金だけが残る.

③低金利政策は長期に続けられないと考えるべきである

最大の問題は国債残高や金融機関を支えている低金利政策である.これは国民の預貯金や年金資産の目減りという大きな犠牲で成り立っている.金利より投資と言われるが,金利のつかない経済は資本主義とは言えない異常事態である.①の財政健全化を早期に進め,ノーマルな状態に戻す取り組みがきわめて重要である.

④財政,税制,予算を最大の争点にすべきである

日本の閉塞感の大部分はこの借金残高問題である.政治がやるべきことは増える一方であるが,この問題に道筋をつけなければ,政策に手も足も出ない.希望も湧いてこない.各政党は,このテーマへの考え方,政策を発表し,総選挙の争点にすべきである.

⑤増税論議は社会保障以外でやるべきである

医療・年金・介護の為に増税する発想ではなく、これらの財源を先に、割り当てた上で、防衛,国土,文教,産業,等の事業で増税もしくは借金の適否を議論すべきである.不良債務の発生を防止し,過去の悪しき事業を覆い隠せなくする為である.

⑥事業ごとの債務残高を開示すべきである

事業毎に債務残高を管理し,毎年公開すべきである.後世の国民は,なんの事業の借金残高か,何の事業への返済か,を知る権利がある.又,先人の作った①の不良債務は教訓として,後世に伝えなければならない.

これくらいやらないと,国民は気が治まらないし,閉塞感も軽くならない,いづれにせよ,この膨大な借金の評価,処方箋,返済計画を,専門家から聞きたいと思う.

今のままでは,返済計画のない借金は,ヤミ金から借金する事態と同じ,と言わざるを得ないのである.これも含めて,日本の国民性,政治・経済の特徴は’900兆の借金’で全て言いつくせるのである.自慢出来る話ではないのである.

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2007.10.01

114 放送と通信の融合

インターネットの発達,伝送技術の発達によって放送法,通信法が形骸化してきた.その本質を整理したい.

現在の放送法は電波の公共性を担保した許認可制度である.(実際は商業放送であるが)認可を受けた放送事業者(不特定者に情報を流す事業者)は放送の影響力、電波の公共性から、コンテンツ(放送内容)の公平性が求められる事になる.

一方,放送は放送目的の電波網以外に携帯電話網,インターネット網,等の通信網でも行われている.インターネットテレビ、オンデマンド映像配信、インターネットラジオもある.ここに放送法と通信法の融合問題が発生する.

伝送路の融合だけではなく,放送とは何か、報道とは何か、マスコミとは何か、報道・言論の自由と放送の公共性・公平性をどのように考えるか、ボーダーレスな通信網で国内法が成立するのか、など,の問題が発生してくる..

又,放送のデジタル化によって,放送内容の私的複製権も議論され始めた.複製しても画質や音声が劣化しない事から,著作権保護優先の規制問題である.インターネットのコンテンツ(画像・映像・音楽)の私的複製権の問題もある.

このような事態に対し、法的な整備はまだ出来ていない.私見であるが、縦割り(垂直統合の考え方)から横割り(水平統合の考え方)に法体系を作りかえるべきだと思う.横割りの考え方は次の通りである.

①プロバイダー
プロバイダーはコンテンツの発信機能を有している企業・団体・個人(従来の放送局、通信事業者を含む)を指し、認可もしくは届出制度で運営

②キャリアー
キャリアーは伝送路(有線、無線)を有している者を指し、認可制度による割り当てで運営、プロバイダーに伝送路を貸し出す事業となる.

③コンテンツ
コンテンツは不特定多数へのブロードキャスト・配信内容を指し、自主規制と刑法で規制、私的複製権はここで議論.(海外からのコンテンツをどのように規制するかの検討は残る)コンテンツ事業者はプロバイダーにコンテンツを提供する事になる.テレビで言えば番組作成と放送局を分離した考え方.

この考え方によれば、各事業者は分離しても良いし、併せ持っても良い事になる.事業の参入も活発になる.

現在、総務省で検討中だと思うが、どうするのか、その推移を見たい.

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