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2008.05.20

140 行財政の集権と分権

統治機構のあり方として地方分権論がよく話題にあがる.しかし,機能分担,税財政,選挙制度,地域間格差調整,など体系的な議論は聞こえてこない.

単に中央集権の権力や無駄はけしからん,自由に使える金を地方に渡せ,と言う,相変わらずの中央官庁と地方行政の金の分取り合戦や利権の綱引き,に終始している感じもする.

その中で,分権派の多くは地域の事情で税金を使いたいとの主張である.国の予算で美術館や図書館を作る金があるなら地方の介護施設や病院あるいは従事者の手当に回したいと言った願である.縦割り行政の弊害に対する分権論である.

一方,国や地方は借金まみれの中で,そんなに分権というなら,自己責任で地方で好きにやってくれ,と中央官庁の開き直りも見え隠れする.従って,安易に分権されたら,地方はやっていけない,と困惑する地方の気配もある.

ここで,冷静に国家統治の仕組みとしての集権と分権の問題を考えるべきである.

明治維新以来,日本の近代化を急ぐ為に,中央集権国家を作り上げた.戦後の復興を加速する為に田中角栄は道路や住宅の公団を作り,中央集権で列島改造,日本経済,国民生活を牽引した.このように,それぞれ明確な考えがあったと思う.

資産バブル崩壊で,日本を支えてきた政治・行政・経済・産業構造の脆弱性,既得権が露呈した.資産バブル崩壊対策で莫大な公共投資(600兆ほど)をするも'失われた10年'となった.結局その後,合理性,効率性を軸に構造改革,不良資産処理,低金利政策を取り,なんとか経済をた立て直したのである.

しかしながら,900兆に膨らんだ借金財政はさらに,少子高齢化,年金・介護・医療対策,自然環境対策,防災対策などで,ますます逼迫度を増しているのである.

そもそも,国家の統治機構は,平和で好景気なら,小さな政府,自主自立,自己責任,自由主義,地方分権,等が起こる.一方,国家の危機,大不況期なら,大きな政府,集団主義,中央集権,混合経済と考えるのが自然である.

現実は,経済復興,高度成長の経験のまま,資産価値がバブル状態になっても,途上国の発展とグローバル化が進んでいても,右肩上がり前提の感覚と制度仕組み,巨大な官業,政官財の護送船団,産業構造,等を温存したまま,資産価値の暴落,巨大な借金残高に直面し,国の根底を揺るがす事になったのである.

結局,破綻するまで,構造改革に着手しなかったのである.まさに,ゆで蛙のたとえ通りの事が政治・行政・産業・企業で起こったのである.

80年代の米国不況期にBPR(ビジネスプロセス・リエンジニアリング)旋風が起こったが日本では,バブル崩壊の90年代初頭,このBPRが叫ばれたが,この着手に10年以上の年月を要したのである.

国家の状況や課題によって,集権と分権,規制と緩和,官と民のバランスを取るべきところであるが,上述のように,,ひとたび取得した権力は,固定化し,保守的な政策が破綻するまで引きずるのである.

そこで,改めて,ゆで蛙にならない為に,’パイの拡大とパイの分配’について,しっかりとした論議と方針作りが必要だと思う.

・財政危機であればこそ,集権が必要ではないか.
・集権の無駄,利権問題は集権の中で解決出来ないのか
・分権で国力は低下しないか
・分権で財政問題が解決に向かうのか

・分権で無駄,不効率がなくなるのか
・地域間で有効性と平等性を調整できるのか
・パイの分配方法は国家の状況によって集権・分権の調整が必要では

など根本的な議論が必要である.

情報システムは国の統治方式と同じ様に,開発と処理の仕方について,集中・分散の議論をする.その時の思考方法は,まず徹底した集中方式を考える.集中が効率的だからである.そこで,集中で説明ができない事が出てきた時,初めて分散を考える.この思考手順によって,全体の開発方式,処理方式を決めるのである.

私見によれば,この思考手順と同じように,パイの拡大と分配について,中央集権の在り方を徹底して詰める必要があると思う.もちろん不要な機構,制度は廃止である.この上で,分権論を議論した方が良いと思う.

実はパイの分配については,集権であっても分権であっても,国全体として,社会福祉・文教財源は平等性を,経済対策や研究開発財源は有効性を,災害対策は想定被害規模でといった予算配分の考え方が必要である.分権で交付金を拡大するにしても,交付金一本ではなく,分野毎に,地域毎に査定し,分野毎の地域間調整が必要だと感じる.

又,経済対策など有効性が他地域と比べて低ければ,交付されない事(地域の切り捨て論)も許容する覚悟が必要である.単純に割り算するような平等主義の無駄を許容するほど財源はないし,経済環境の良い所に人口や社会資本を集積し,国全体の効率・活力・税収を上げなければならないのである.せめて,政令市に人口や社会資本を集積して行く国家100年の計が必要だと思う.

こんな壮大な行政の改革が本当にできるのか,はなはだ悲観的になるが,単なる財源と利権の取り合い,道州制の線引き,が集権・分権の議論ではないのである.

行財政改革は明治維新の廃藩置県に匹敵する改革であるが,高度情報社会にふさわしい行政システムと新たな国家の仕組み作り,都市国家作りを目指したいものである.

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