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2010.09.26

227 ナショナリズムとグローバリズムと中国

世界の政治・経済にはナショナリズムとグローバリズムが渦巻いている.
ナショナリズムは身びいきや守りの感情によって排他的になりやすい.その為に,事実や論理が一方的に組み立てられる事がある.総じて,ナショナリズムは国家間では相反関係になり,戦争になる事もある.

一方,グローバリズムは経済,文化,人の交流によって,,経済や科学技術の発展を促し,ナショナリズムや国の壁を低くする特性(ボーダレス化)を持つ.このグローバリズムは経済原理や制度,或いは価値観を共有する事によって成立し,相互信頼,相互依存の関係を深めて行くのである.

従って,成熟した国際社会を作っていく為には,グローバリズムを広めながら,ナショナリズムの壁を低くする必要がある,と言う事になる.

さて,日本だが,敗戦の後遺症かナショナリズムには極めて慎重である.政治,マスコミ,国民は,あからさまにナショナリズムを持ち出す事は少ない.

中国で言えば,事あれば,すぐ,ナショナリズムにスイッチが入り,反日デモや日本国旗を燃やしたりする.さらに,日本製の不買運動や輸出禁止,政府高官の会議や訪日をストップする.別件で在留邦人が拘束される事もある.日中戦争の反日感情にタイムスリップするのかもしれないが,現在では,考えられない理屈や行動が起こるのである.時として,このナショナリズムは政治不満のはけ口に利用される事もある.

中国の露骨なナショナリズムは,世界と国内とに,大きな価値観のギャップがある事,高度成長によって起こる内政問題が拡大している事,が根底にあると思う.従って,今後も,中国経済との相互関連が高まる程,グローバリズムがナショナリズムの人質になる危険性(チャイナリスク)は増大し,中国から見た交渉カードは増大するのである.

9月7日に発生した尖閣列島近辺での中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事故に際し,日本は日本の領海内の事件として,国内法で逮捕拘留した.これに対し,中国は中国の領海だと主張する絶好の機会とばかりに,政府も国民もナショナリズムにスイッチが入り,悪いのは日本だとして,無条件釈放要求と露骨な上記の様な,圧力,報復を仕掛けて来たのである.

しかも,今回の事件やその影響は全て日本に責任がある,と公言しながら,圧力,報復は,政府とは無関係だと装うのである.誰も無関係だとは思わないのだが,強硬な覇権主義を隠し,WTO違反を逃れ,広範囲な圧力を選択出来て,日本の中国政府への批判を,させない為である.

中国としては,具体的なダメージを与える以上に,日本に不気味さ,怖さ,不安感を与えれば十分なのである.こんな方法で,中国の『暗黙の交渉カード』を増やして行くのである.

結局,日本は圧力に屈した形で,釈放をしたのだが,中国としては,圧力をかけていないのだから,日本自身の判断で過ちを認めたとして,謝罪と賠償を迫るのである.もし,これに応えれば,次は,これを既成事実として,領土問題に譲歩を迫るはずである.

当然,日本は拒否するが『日本が過ちを認めて釈放した』との認識は固定される.もし,外交中断や圧力を打開する為に,日本が先に動けば,この認識で日本が懇願に来たとして,交渉の主導権を握ってくるはずである.全く立場が逆になるのである.かくて,領土・領海への権益拡大に着実に近づいて行くのである.

誰しもが想像する,見え見えの中国のシナリオである.まさに,絵にかいたような,やくざの脅迫である.しかも,そのシナリオが見え見えである事まで,そっくりである.悪さをやると言って,それを,やめる事を交渉カードにする.まさに北朝鮮の外交とよく似ている.こんな手法は中国への信頼感を失い,国際社会からの反発を招くと思うのだが.

こう言う場合,中国の言いなりにさせながら国際社会の反感を高める方法もあるが,正攻法をとるならば,まず,中国の言い分をじっくり聞く事である.

多分,中国は,尖閣列島問題は双方が棚上げにする事で了解していたはずだ.それなのに逮捕だとか,領土問題は存在していない,とは,どういう事だ,そこまで言うなら,もともと,中国の領土だと言うしかない,などと言うはずである.それでも,『アーそうですか』『それで』『だからどうするの』と,聞くのである.

その内に,自分で窮するか,窮する様子がなければ,『それを事実だ言えるのか』,『どうしてそんな認識になるのか』と質問し,言い分を掘り下げるのである.そして,徹底的に聞いた上で,今度は間違いを指摘しながら,事実にもとづいた,反論に転ずるのである.

中国の野望が背景にあるだけに,野望を遂げる為の独善的なこじ付け必ずあり,論理矛盾や論理の飛躍がある.これを攻撃するのである.これが言いがかりを付ける人への冷静な喧嘩の仕方である.

『これは俺のものだ』と言い合うだけの衝突は,大きな政治課題に発展し,理不尽なパワーゲームになるだけである.この手に乗ってはならないのである.

中国は理不尽さは国際政治では当たり前だ,とか,中国の野望の為(軍事領海の拡大,海洋資源や漁業資源の確保,米国の極東,東南アジア海域からの撤退,台湾の併合)とは,さすがに言わないはずである.だから正論で決着すべきなのである.領土問題は存在しないと言うだけでは,相手をパワーゲームに走しらせてしまうのである.

残念ながら,今の状態では,中国のペースになり,今回の釈放を踏み台に,今後も,尖閣諸島付近での既成事実の積み上げは続くと思う.どうやら,中国の野望を実現する事が,中国の言う日本との戦略的互恵関なのかもしれない.

日本は,やくざもどきの恫喝外交をやれる国ではない.理論武装と情報公開・発信で対抗するしかない.同時に,実効支配を顕在化さたり,日本の安全保障体制の強化,米国や東南アジアとの連携も必要である.勿論,日本国民も,尖閣列島だけではなく,北方4島,竹島も含めて,改めて,事実の認識と領土・領海を守る覚悟が必要である.

一方,既に,この中国の野望が,東南アジア諸国にもチキンレースを強いていると言う.米国も中国の覇権主義を牽制する為に,東南アジアへの影響力を強めると思われる.従って尖閣列島事件はシナ海全体の領海問題と連動している認識も必要である.

そもそも中国への違和感は,一党独裁の政治体制(ナショナリズム)巨大化した市場経済(グローバリズム)が同居している事が,根本的な問題だと感じる.今回の事件でも明らかなように,一党独裁のナショナリズムがいとも簡単に,グローバリズムを乱し,折角のグローバリズムがナショナリズムの人質になってしまうのである.今までも,中国の人権問題,言論・報道の自由問題,著作権問題,食品品質問題なども,中国のナショナリズムの論理が常に優先しているのである.

一方,中国側から見れば,中国の強硬姿勢があっても,日本の観光業や小売業が中国人を熱烈歓迎する態度を見て,領土や国家の主権より,経済が優先する国民だ,経済を人質に取れば,どうにでもなる国民だ,さらに,中国の主張を認めた結果だ,と思っているかも知れないのである.

そんな中国では世界の大国になる為に最強の制度だと思っているようである.今後も,更に発展する為に,又,内在する,少子高齢化問題,食料問題,経済的格差問題,官製バブル経済問題,自然環境問題,などに対峙する為に,この組み合わせが必要だと考えているようである.それに伴う,自由・平等・人権・情報の制約,国際ルールの軽視,等は,大した問題ではないとしている感じである.

さらに言えば,民主主義等は脆弱で,不効率で,情報が氾濫して,国が守れない制度だ,又,人も育たない,信念のない,目標もない,衆愚政治になり易い,制度だ,と,民主主義国家を卑下しているのかも知れない.だとすれば,現体制の方が,民主主義国家より優れており,民主主義国家を攻撃し易い,と思っているのかも知れないのである.

民主化運動が勃発して,もう一度革命が起こると,予想する向きもあるが,あくまでも自由主義陣営側の思いである.中国国民は,まったく政治に無関心な人と政治には不満があっても,ナショナリズムをエンジンに,超大国になる大儀を共有している人,に2分されている感じがする.この大儀が優先して,政治体制や基本的人権まで,議論が及んでいないのではないかと思う.そのような議論は反政府活動になってしまうからである.

もうひとつ,友好か敵対か,に関わる根本的問題がある.’血統主義の国同志は文化には寛容だが,人には排他的である’'生誕主義の国同志は文化には排他的であるが,人には寛容である’との説がある.言うまでもなく,血統主義は日本,韓国,中国であり,生誕主義はアメリカ初め他民族国家に多いのである.

確かに,血統主義は身内は結束するが,他人には排他的な感情がある.農耕民族のDNAかも知れない.国レベルで言えば,国民が身内となり,他の血統主義国とは排他的感情を持つ事になる.

この説に従えば,血統主義同志の日本,韓国,中国は貿易は出来ても,友好な人間関係までは無理だと言う事なる.かつての戦争の背景に,この感情があったのかもしれない.率直に言って,これを積極的に否定する自信はない.

この説が間違っているのか,いないのか,今のところ判断できる体験や見識を持ち合わせていない.交流を深めれば,この説が間違いだと言う事になるのだろうか.只,ナショナリズムむき出しでは,この説は真実と言う事になる.

願わくば,アジア地域でグローバリズムに満ちた国際社会を作って行く為に,北朝鮮もそうだが,中国も,開かれた民主主義国家になって,諸外国と価値観を共有できる国になって欲しいと思う.勿論,日本は率先して,更なるグローバル国家になる必要がある.(当ブログNO220第五期グローバル時代それが出来た時,この説を否定出来るかも知れないのである.

以上のように,日本とのギャップが大きい中国であるが,この中国と,日本が,どう付き合って行くのかと言う問題が残る.日中関係の2000年の歴史で常に発生している問題でもあるが,ナショナリズムとグローバリズムの分離とバランスを日中両政府が意識し合う事である.過度なナショナリズム偏重に走らない事である.その上で,結局の所,日本がどんな国になって行くのか,の問題になると思う.

だとしたら,上述の様に,日本が人的にも,科学技術的にも,経済的にも,安全保障的にも,政治的にも,グローバル国家にふさわしい価値のある国になる事が大事になる.日本が,ちっぽけな島国に凋落すれば,付き合い方など議論にもならないのである.日本が目標を失っているだけに,この方が心配である.

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2010.09.08

226 中央集権か地方分権か

明治以来の中央集権国家から地方分権国家(地域主権国家)に移行しよう,との掛け声がかかって久しいが,遅々として進んでいない.民主党政策でも地方分権を掲げているが,政権奪取後1年,何も進んでいない.

今回の代表選立候補者の発言も,地方分権で財源確保を,と本質とずれた事を言うし,補助金を一括交付金にすれば良いとも言うが,根拠も,時間軸も,地方分権の全体像も,見えないのである.介護問題を失業対策ととらえる感覚に似ている.本質をわざと逃げているのか,分かっていないのか,政治家への信頼感はどんどん失われる.

一方,分権論の検討が進まないのは官僚の抵抗があるからだと伝えられているが,違うと思う.政治家が整合のとれた分権国家のグランドデザインが描けていないからだと思う.集中の不具合を分権で解決すると言っても,詰めていくと,説明が出来なくなる事が多いからである.
結局,分権論は,人気取りの道具になっているだけなのかもしれない.

このように,議論の進まない集中・分散の論議に対し,2年ほど前に,本質的な議論の必要性を当ブログで発信した.『NO140行財政の集権と分権』

そこで,余りにも検討されていないこの問題に対し,極当たり前の事になるが,再度,行政の在り方の基本的検討課題を整理してみた.ここでは,行政の役割(官と民の役割),行政の人事制度,公益法人の在り方,等に触れず,集権と分権に限って述べたい.

1.中央集権国家を論じる場合

一般的に,集中.分散の問題は,まず集中を徹底的に考えて,集中では説明できない問題に対しては分散を考える.と言う思考過程をとる.社会のシステムに酷使している情報処理システムも同じである.

中央集権国家の仕組みも,これと同じ思考過程が必要である.まず集中のメリット(公平性,効率性,戦略性など)が発揮されているか総点検する必要がある.特に中央集権だから無駄が多い,と良く言われるが,そうであれば中央集権の狙いに反する事になる.この無駄はやむを得ない事なのか,排除出来る事なのか,論じる必要がある.

多分,中央集権国家論は,中央集権のメリットをさらに発揮させつつ,分散可能な政策決定や施行は地域で行う,と言う,『集中的分権国家』のグランドデザインになると思う.

それでも無理だという結論が出て,だから連邦国家に近い地方分権(地域主権)だ,と言う事になっても,次に述べる様に簡単ではないのである.

2.地方分権国家を論じる場合

そもそも,地方行政の単位にもよるが,分権は同じ機能,要員が各地域に分散する事になり,不効率になる側面を持っているが,この事を別にしても,多くの課題がある.

地方とはどういう行政単位を言うのか,権利とはどう言う権利を言うのか,司法,行政,立法の権利も含めて考えるのか.既にある国や地方の借金をどうするのか,国会議員と地方議員をどうするのか,税制をどうするのか,予算配分をどうするのか,地域間格差をどうするのか,等,課題山積みである.たとえ,『役割と財源の移動』に限って分権論を検討しても,この様な問題が発生するのである.

地方分権論者はこのような問題に答える必要があるが,今のところ,まとまった話は聞こえてこない.’もっと自由になる金をくれ’’地方でやれば無駄が出ない’等,表面的で個別の話しばかりで,トータルの話しはない.

結局の所,地方分権論は詰めていくと,上記1.の中央集権国家の改善版の『集中的分権論』になるのではないかと思うが,是非とも分権論者は具体的なグランドデザインを書い上で発言すべきである.

私見を言えば,今後の日本は大きな危機に直面して行く.ならば,上記1.の中央集権で,効率性,公平性,戦略性をいかんなく発揮する必要がある.国際競争時代や少子高齢化時代,財政難時代,を考えれば,資源を分散する余裕など無い思う.ただし,中央集権で発生する不具合が分権化で解決するのであれば,その部分の分散を進める事は当然である.

一方,2.の地域主権論は課題が多い割に,地域が発展する見通しや,国や地域の予算がどうなるのか定かではない.国家全体に公平性と言う不効率が出そうである.

長期的には,地方は国家戦略のもとで,政令市を中心とした都市機能・産業基盤・防災対策の集積(コンパクトシティ化)と経済発展に取り組む事が大事だと思うのである.

又,集中・分散論議に共通する事だが,不要な規制を排除し,シンプルな制度にする事も行政改革の大きなテーマだと思う.

以上,国家運営の仕組み論議は国と地方のどちらが主役か,と言った禅問答ではなく(地方分権論者に観念的主張が多いように思うが),政策の決定権及び執行主体を国と地方でどちらにするか,具体的に仕訳する事から始める必要がある.過去に行革委員会等で,この作業が行われた記憶があるが,中途半端になっている感じである.

是非,集中・分散の仕訳においては,国家の戦略性,公平性,効率性,制度的整合性の観点で仕訳して欲しいのである.これなくして,地域行政単位,議員制度,税制,予算配分,借金問題,公務員人事制度,公益法人などの『国家運営の仕組み議論』は進まないのである.

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2010.09.04

225 音楽の好みと政治思想

一般に,各人が主張する,政治思想(価値観,考え方,政策,等)は客観的論理性や実現性,以前にその人の性格に大きく依存していると考えられる.

その性格を分類し,その分類に従って主張する政治思想が類型化できれば,『政治思想は人の性格に依存す』と言う仮説は証明される事になる.今のところ検証されているわけけではないが,だれしもが,経験則で納得できる事でもある.

問題はその性格の分類である.心理学で分類する事は可能だと思うが,独断的自論で言えば,『政治を左右する性格は音楽の好みに表れ,政治思想はこれに依存すると感じている.

当ブログで,この仮説に度々触れているがNO186自民崩壊と政治路線の行方),再度,言及してみたい.

そもそも『音楽の好み』は’歌は世につれ’ではないが,自然環境,政治・経済環境,歴史・風土などによって変遷している.まさに社会の鏡なのである.

例えば,伝統的な,ラテン,フラメンコ,演歌などは,マイナー系である.哀愁・ウイットを好み,その表現様式(コード,リズム等)は一定である.それを好む民族は小柄で黒髪で,黒い目だという共通項がある.日本でラテンやフラメンコが好まれる事もうなずける.多分,マイナーを好む人たちの共通項を探せば,もっと多く出てくる気がする.この様に,音楽は国民性を反映しているのである.

一方,ゴスベル(黒人霊歌)に端を発しているアメリカ音楽(ブルース,カントリー,デキシー,R&B,ロック,ジャズ等)はメジャー系である.哀愁を表現する場合でも,明るく表現する事を好み,乗りを良くする為に,アフタービートのリズムである.又,即興音楽(音楽理論を基礎にした自由演奏)と言う特徴もある.自己表現を尊重しつつ,調和をかもしだす音楽なのである.又,創造力,音楽的探究心で個性を求める音楽でもある.まさに,アメリカ音楽も又,国民性を反映しているのである.

日本の大衆音楽は大まかに言って,伝統的な演歌文化(マイナー文化),アメリカ音楽をベースとしたジャズ文化(メジャー文化,J-POP含む),そして,シンガーソングライターによるフォーク文化(メジャー・マイナー混在文化)の3つがある.

その変遷は,戦後のジャズ,カントリー,ロックンロール,経済成長期の演歌,ムード歌謡,フォークソング,昨今のJ-POPと人気が変化して来た.仮説に従えば,音楽だけの話ではなく,国民性,政治思想も大きく変化していると言う事になる.

極めて短絡的であるが,この音楽と政治思想の関係を表すと,次の様な仮説になる.

演歌派・・・ 和魂和才の保守派(政官業主導,大きな政府でパイ拡大)
ジャズ派・・・和魂洋才の新保守派(民間主導,小さな政府でパイ拡大)
フォーク派・・・無国籍のリベラル派(政主導,大きな政府で分配拡大)

かなり強引で,議論が分かれる所であるが,妙に合っていると感じるのである.詳細の説明は省くが,政界再編が必要な現在,全国会議員にアンケートを取って,政界再編をしたい位である.

そこで,政治思想のリトマス試験紙である事を隠して,次のアンケートをしたら,興味ある結果が出ると思う.

『自分は何派ですか,該当する番号に○を付けてください』
①演歌派②ジャズ派③フォーク派④どちらとも言えない

このアンケートで

①の演歌派を選んだ人は,義理・人情・浪花節を重んじ,地盤,看板,カバンで政治家をやっている保守派の人である.地元に予算をつける事が主たる仕事になる.秩序,事なかれを尊重するタイプである.又,理論武装が弱く,国際化にも低抗感が強い.このタイプに皇国史観,ナショナリズムの強い人も多い.演歌の衰退とともに,保守も衰退している事に対し,保守回帰を願っている人たちである.

②のジャズ派を選んだ人は,日本の文化を大事にする事は保守派と同じだが,個人の自立,自由を重んじ,政府より民の力こそ大事だと考える新保守派の人である.保守派が守旧派に見える改革派である.このタイプにはエコノミストタイプが多く,市場原理や国際化にも抵抗感がない.米国共和党と相通じる強硬派でもある.


③のフォーク派を選んだ人は正義感による批判は得意であるが,穏健で行動力は弱いリベラル派である.みんなで歌って酔いしれて,満足するタイプである.やるとしても,あれもこれもと,結局,実行できない事が多くなる.米国民主党と相通じる所もある.

④を選んだ人は,知り過ぎているのか,知っていないのか,はっきりと主張しないタイプ.究極の選択を迫ると,どちらとも言えないとか,条件を付けたがり,総じて,八方美人で決断力が弱い人である.③のフォーク派(リベラル派)に近い性格である.多分,知識人を気取る人は④を選ぶはずである.

このアンケートの結果が音楽の人気と同じになるだろうか.音楽の人気で言えばジャズ派,フォーク派,演歌の順になると思うが,はたして政党の人気は新保守,リベラル,保守の順になるだろうか.

もし音楽の人気とアンケート結果がずれていれば,国民と政治家にギャップがあるという事になる.是非一度,アンケートをとってみたいものである.

私の仮説が正しければ,演歌党,ジャズ党,フォーク党,に再編すれば,今の政党より,ずっと色分けが明確になり,相互に噛み合った議論が出来る様になると思うのである.どうだろうか.

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