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2010.10.12

228 『平城遷都1300年祭』 への違和感

奈良盆地の北丘陵にある天皇稜の南,東大寺と西大寺の間に,広大な野原が広がっている.ここが74年間続いた平城宮の跡地である.長岡京,平安京への遷都以来,南都と呼ばれていたとは言え,平城宮は解体,移築され,跡地は千年以上,荒れ地や田畑になっていたのである.そんなわけで,宮跡には建造物の史跡はなく,地中に,建物の土台,木簡,陶器,等しか残っていないのである.

しかし,平城宮は消失したものの,多くの奈良時代の遺産が,春日の原生林とともに残り,天平の香りを,今に伝えているのである.

あをによし,奈良の都は咲く花の,薫ふがごとく,今盛りなり
いにしえの,奈良の都の八重桜,けふ九重に,にほひぬるかな

主な奈良時代の遺産は,春日大社,東大寺,正倉院の宝物,西大寺,興福寺(飛鳥より移築),元興寺(〃),薬師寺(〃),唐招提寺,秋篠寺,新薬師寺,法華寺,天皇陵,そして万葉集,等である.

この消失した平城宮跡の保存運動が明治後期から大正にかけて,持ちあがった.京都御苑,平安神宮,桃山御陵,神宮外苑等とともに,王政復古の機運が背景にあったのかも知れない.

戦争を挟んで,昭和27年,平城宮跡は国の特別史跡に指定され,本格的な調査が始まった.現在も続いている.このペースだと,発掘調査が完了するのに,あと100年かかると言う.確か40年前にも,100年かかると聞いた事があるが,調査が遅れているのだろうか,考古学者や関係者の常套句なのだろうか.

この調査活動を進める中で,平成10年,朱雀門が復元され,奈良時代の神社仏閣とともに,この平城宮跡も世界文化遺産に登録されたのである.さらに,平成22年,復元に9年かかった大極殿も完成し,遷都1300年祭に間に合わせたのである.

日ごろの平城宮跡は,発掘調査をする人,資料館に訪れる人,散歩している人,草むらでサッカーしている人,そして,飛び交う野鳥,が時々見受けられる静かな野原である.野原の北と南に,そそり立つ朱色の大極殿,朱雀門は,真新しいだけに歴史的風情もなく,人影も,まばらである.

この広大な原っぱに立って,華やかなりし平城宮へのタイムスリップを楽しむ人はいるのだろうか.広大な土地がもったいないと思う人の方が多いのではないかと思うのである.

この宮跡をメーン会場として,今年の春から,『平城遷都1300年祭』が,行われている.これまでに250万人が訪れたと言う.多分,広大な野原を歩くだけ,大極殿も朱雀門も建物だけで,失望した観光客も多かったと思う.お年寄りの団体も多く見受けられたが,猛暑の中で,観光どころではなかったはずである.来場者が多かった分,奈良のブランドを落としたのではないかと,心配するのである.

これとは裏腹に,来場者数が予想を超え,出店や各地の売り上げも伸びて,主催者側は,大成功だと喜んでいるようである.しかし,手放しでは喜べない感じがしている.今後の事もあり,この『平城遷都1300年祭』及び『平城宮跡の今後』について,問題を提起したい.

1)コンセプトが間違っている『平城遷都1300年祭』

歴史ブーム,仏像ブームと重なって,盛況のイベントになっているが,私見で言えば,当初より疑問視していた,『平城遷都1300年祭』のコンセプトの問題を引きずったままの,中途半端さを感じているのである.

100年前(明治43年)平城遷都1200年祭』が行われている.これは明らかに,1000年間余り,放置されて来た平城宮跡の歴史的意味を再認識し,保存・復活を祈念した祭りであったと思う.

これに先立って,京都では,明治28年,『平安遷都1100年祭』と『博覧会』が開催された.東京遷都後の京都の衰退を防ぐ事を目的として,民間主導で開催され,平安神宮や京都御苑,琵琶湖疏水,発電所,路面電車,等,現在に残る開発事業を展開したのである.京都の繁栄に断絶を起こさない,機敏な『平安遷都1100年祭』であったと言える.

平城宮もそうだったが,遷都は宮殿を消滅させ,都を衰退させる.これが,権力者の統治方法なのかも知れない.それだけに,京都で生まれ育った明治天皇は京都の衰退を心配していたと言う.

このように,京都の復興をコンセプトにした『平安遷都1100年祭』(明治28年)と平城宮跡の保存・復活をコンセプトにした『平城遷都1200年祭』(明治43年)とは随分,内容もスケールも違う事業になった.

そして,100年後,京都では1994年,『平安遷都1200年祭』が行われたわけだが,迎賓館建設,地下鉄東西線建設と言う公共事業の枕言葉になったものの,歴史的祭りとしての盛り上がりはなかったと記憶している.100年前と同じ様に,公共事業誘致の為の遷都祭になっている事に,批判が出ているのである.

さて,今回の『平城遷都1300年祭』であるが,いつ開催を決定したのか承知していないが,昭和27年,国の特別史跡認定,発掘調査の開始,平成10年,朱雀門復元,世界文化遺産登録,平成22年,大極殿復元,阪奈道路の整備,と,着々と,『平城遷都1300年祭』に向かって,準備されて来た感じである.

しかし,『平城遷都1300年祭』を冠にして,各地各所で,イベントが開催され,時には,日常の観光と同じであったり,肝心の平城宮跡に感動するものがなかったりで,はたして,奈良県の事業なのか,奈良市の事業なのか,あるいは平城宮の事業なのか,主旨が中途半端になっていると感じを受けるのである.

記念事業と関係なく,東大寺や奈良公園に観光客が多いだけに,記念事業が曖昧に見えるのかも知れない.この点は京都と同じ課題である.

一般的に,歴史的祭りは政治,宗教,価値観,等と関係する為,歴史のどの部分に焦点を当て,どんなコンセプトを掲げ,それに合致した内容をどうするのか,が当然,慎重に検討される.特に,公が関わる場合は,多面的角度に配慮する必要がある.博覧会等の非定期な催しも同じである.今回,どこまで検討されたのか疑問が残るのである.

そこで,今回の祭りのコンセプトを改めて考えてみた.私なら,当時の歴史・文化を紹介し,それに触れる機会を作る事を目的とし,こんな風に考えてみた.

・奈良時代の祭りなら,『古都奈良祭』,平城京祭』『平城京誕生1300年祭
・平城宮の祭りなら『平城宮祭
・奈良県全域の祭りなら,
飛鳥・藤腹・奈良歴史博』,『大和祭』,『万葉祭

『遷都』と言う言葉をはずしているが,その理由は後述しているように,飛鳥,藤原,奈良時代を一つの時代と捉えているからである.それだけではなく,この方が,分かりやすく,創造力も発揮しやすく,魅力的になると思うのである.どうだろうか.

これなら,100年に一度ではなく,京都の『時代祭り』(平安遷都1100年祭以降毎年開催)のように,定期的なイベントにしやすく,歴史の啓蒙,奈良の活性化に役立つと思うのである.

それとも,主旨が曖昧のまま,『平城遷都1400年』,『平城遷都1500年祭』と継続する事を予定して,今回のタイトルを決めたのだろうか.先に行われた京都の『平安遷都1200年祭』の問題を踏まえて,タイトルやコンセプトを考え直す必要があったと思うのである.

どうも歴史的意味を余り考えずに,『平安遷都1100年祭』に引きずられて『平城遷都1200年祭』と名付け,今回も,改めて考える事なく,『平城遷都1300年祭』としたのではないかと思うのである.

このコンセプト,タイトルの違和感が公式キャラクターにも,表れている.

実は,この決定に論争があった.単に決定プロセスの問題や,作者にそっくりだとか,気持ちが悪いとか,宗教に失礼だ,とかの問題もあったと思うが,根本は,コンセプトの問題だと思うのである.

残念ながら,コンセプトの議論に至らぬまま,『鹿の角を持った小坊主』が公式’ゆるキャラ’となり,せんとくん』と命名された.タイトルに『遷都』があったからだと思うが,『せんとくん』では固有名詞になりづらいし,名前とキャラクターがピタッと来ないし,国内,海外から見てイメージが定まらないのである.

そもそも,『せんとくん』は平城宮あるいは平城京のマスコットなのだろうか,今回の祭りのマスコットなのだろうか.公式の期限はいつまでなのだろうか,キャラクターの使用許諾はどうなっているのだろうか.

もし,今回のタイトルに『遷都』がなく,上記のようなタイトルになっていたら,『やまとくん』とか『まんようくん』とか『てんぴょうくん』とか『なんとくん』,等,奈良ではの名前が付けられ,それにふさわしいキャラクターになっていたと思う.そして,奈良県が著作権,使用権を持てば,いつでも,どこでも,なんにでも,使える,飛鳥,奈良の'ゆるキャラ’になれたと思うのである.

例えば,色々なイベントはもとより,古代の食事や天平ファッションあるいは万葉ファッションを商品化し,それにも使われて,流行したら,面白いと思うのである.そんな広がりにも使える『ゆるキャラ』をイメージするのである.

こんなところにも,センスやコンセプトの問題が潜んでいるのである.私なら万葉人,天平人の装束を身に付けた,男女の子供をイメージし,奈良ではの愛称を考えたと思うが.

ところで,『平城遷都』とか『せんとくん』が,いかに,間違っているかを飛鳥,奈良時代の歴史認識の側面から述べてみたい.

後付けの歴史認識だと思うが,日本の統治機構作りは,豪族,物部氏と蘇我氏の天下分け目の激しい戦いから始まったと思う.神教と仏教(道教)の宗教戦争(一説)の様相もあったと思う.

皇族の聖徳太子は勝利した蘇我馬子と協力して,天皇による中央集権国家,仏教による戦いのない国作りに取り組んだ.17条憲法の制定,遣隋使による大陸との交流,百済人の応援を得て,日本最古の四天王寺,法隆寺,飛鳥寺の建立,仏教の普及,等を実施したのである.

飛鳥,明日香,の地名も,百済の安住(アンスク)になぞらえて,付けたと言われるように、百済の影響を強く受けながら,この飛鳥時代が国作りの始まりであったと思うのである.

その後,『大化の改新』で大勢力を誇った蘇我氏が滅び,中大兄皇子(天智天皇),中臣鎌足(藤原氏)の時代になる.蘇我氏に代わって,実質的な天皇国家を進める事になる.その後,大陸では隋に変わって,唐が勢力を拡大し,百済も制覇したのである.

この唐の脅威に対峙し,国として,堂々と唐と交流すべく,日本の国威をかけて,元明天皇,藤原不比等は日本初で最大の中国風都城である藤原京をもとに,奈良に新しい都(平城京)を作ったのである(710年).

又,この平城京は,政治体制の面でも,初代,神武天皇(倭国と大和を統合して誕生)以来,初めて,飛鳥,藤原で取り組んで来た天皇による中央集権・律令国家(大宝律令)を誕生させたのである.

この平城京は,シルクロードの終着地として,天平文化(貴族・仏教文化)が華開いたが,長屋王の乱,藤原広嗣の乱,疫病の蔓延などで国情は不安に包まれる.聖武天皇は国の安泰を願って,東大寺創建の決意や遷都を繰り返す事になる.聖武天皇没後,藤原仲麻呂の乱等で政局が不安定になり,桓武天皇によって,長岡京,平安京に遷都されるのである.これが奈良時代の74年間である.

黒船に始まった幕末から明治維新における,外圧,尊王,法制度,近代化,の歴史と良く似た現象が,飛鳥時代から奈良時代に起っていたのである.

飛鳥時代,藤原時代,奈良時代の歴史的意味は,まさに『天皇による中央集権・律令国家の誕生』(今で言う立憲君主国家の誕生)である.したがって,飛鳥,から藤原京,平城京あるいは恭仁京,紫香楽京,難波京へと都が移っていても,歴史的意味で言えば,『飛鳥,藤原,奈良は一つの時代として捉えるべきである.

従って,飛鳥・藤原・奈良に『誕生』はあっても『遷都』はないのである.日本の遷都は『奈良~京都~東京』だと思う.『平安遷都』はあっても,『平城遷都』はないのである.せんとくん』も意味不明なのである.

『平城遷都1300年祭』の遷都は藤原京からの遷都となり,飛鳥,藤原との歴史的意味の分断をイメージさせるだけではなく,飛鳥,藤原はこの祭りとは無関係になる.せめて『平城宮祭』あるいは『平城京祭』,『平城京誕生1300年祭』とすれば,その分断を回避できるのである.

本来なら,飛鳥・藤原・奈良を一時代と捉えて,『飛鳥・藤原・奈良歴史博』もしくは『大和祭』とする方が,ふさわしいと思う.この場合,『平城宮祭』は,その中の催しに位置づけても良い,と思うのである.

この方が歴史的意味としても,事業的にも,分かりやすく,コンセプトとイベントが整合しやすくなる.勿論,これによって,事業が活性化しやすくなる.観光事業振興にとっても効果的である.このような発想力,企画力の中に,奈良の活性化があると思うのである.

このように歴史認識からしても,記念事業としても,奈良の活性化としても,『平城遷都』と言う言い方はおかしいのである.繰り返して強調すが,『奈良の都は遷都ではなく誕生』なのである.

(2)もっと大事な問題は『平城宮跡の今後』

もうひとつ,気になる大きな問題がある.『平城宮跡の広大な野原を今後どうするのだろうか』,と言う素朴な問題である.方針はどうなっているのか,知らないが,この祭りでも明らかにしていない.平城遷都後1300年ならばこそ,今後,平城宮跡をどうするのか,の計画や議論があっても良いと思うのである.

そこで,議論を活発化する為に,代表的案を上げてみた.(例え方針が決まっているとしても,奈良県あるいは大阪府,京都府も含めた議論が再度必要だと思う.現状ではあまりに,もったいないと思う)

A..奈良時代の歴史的意義から,文化庁管轄で,復元,保存をする考え.

①今後も発掘調査が終わるまで(100年間)土地利用は凍結する
②平城宮全体の復元と歴史公園化を進める
(京都御苑風か)

B.史跡の復元,保存は限定的にし,土地の有効利用を進める考え

③森林公園や文化施設,スポーツ施設に使う
④民間に売却し,住宅,学校,企業,農地,等に開放する

に分かれると思う.それぞれに考えがあると思うが,専門家,国民を巻き込んだ議論が必要な気がする.現在は何となく,Aの考え(発掘調査と歴史公園化)の様であるが,はっきりした計画や費用が決まっているわけでもない.

そこで,A案について,注意すべき事を上げてみた.

・元来,飛鳥,藤原,奈良時代に関する歴史的資料は極めて乏しい.たとえ地下史跡が発見されたとしても,古代史ファンが喜ぶ古代ロマンの話に終わるのである.その物語を書く為に,土地利用を凍結して調査を100年も続けて良いのだろうか.それとも,歴史的大発見を期待して,掘り続けるのだろうか.最悪は関係者の仕事の為に,調べ続ける事である.

・史跡は文化庁,公園は国土交通省,隣接の天皇陵は宮内庁,と縦割りの状態である.計画が決まらないままに,放置され,結果,手付かずのままになる可能性もある.一等地だけに,これもまた,大変な無作為の無駄を生む事になる.

・建物の復元によって,観光資源にし,町おこしにつなげたいとの期待もあると思うが,建物を新築しても,史跡にはならないし,風情もない.観光資源にもならないと思う.新築された大極殿や朱雀門を見ると,つくづく,そう思うのである.1000年後に価値が出るかもしれないが,バーチャル空間でCGで描く事で十分な気がするのである.現存する歴史的建物の修理・修復とは全く価値が違うのである.

こんな風に思うと,Aの史跡調査やその後,歴史公園(京都御苑風)を作る事に疑問を抱く.奈良公園や多くの神社仏閣が既にある事も,その理由の一つである.

史跡を軽んじるわけではないが,後世の為に,土地の有効活用を考える事は重要である.その意味で,B案の検討が是非必要だと思う.将来に禍根を残すだろうか.もっと良いアイデアがあるかもしれないし,史跡を聖域と決め付けずに,議論する価値はあると思うのである.

いずれの案にせよ,1000年以上続いた,田畑の方がましだった,とならないようにしなければならない.

以上,歴史や文化の変遷に興味がある私の感想である.

ところで,私の史跡巡りを紹介したい.一枚の奈良,京都エリアの地図を広げ,神社仏閣に建立年代毎の色をつける.そうすると,歴史や文化,或いは仏教宗派の広がり,などが立体的に見えてくる.その地図を持って,年代順に,自分なりの着眼点を持って回るのも面白いし,意外な発見もある.

例えば,神社仏閣が同年代に地域を超えて,建立されている事に気づいたり,韓国,中国の人が京都より飛鳥,奈良にふるさとを感じる理由が確認出来たり,飛鳥寺の釣鐘は小ぶりだがすばらしい音がする.聖徳太子も聞いた音だと感激していたが,実は,飛鳥時代の鐘は先の戦時中に供出し,今の鐘は戦後,作った鐘だと聞いて落胆したりもする.復元された真新しい建造物に,がっかりするのと同じである.

このように建立時代別に神社仏閣を回ると,新たな発見があるが,行く先々でスケッチしたり,写真を撮ったり,訪れた場所に印をつけ,悦に入るのも楽しいものである.京都,奈良の散策は知る楽しさ,運動する楽しさ,があり,飽きる事はない.リタイアー組の特権であり,是非,お勧めしたい.

話がそれたが,当記事で,『平城遷都1300年祭』のコンセプトの問題平城宮跡の今後の扱いの問題を述べた.

問題意識の根底に,奈良の大仏に甘えて(大仏商法),発想力や企画力がおろそかになっているとしたら,確実に奈良は衰退して行く,との思いがある.まさに,『創造なくして継承なし』『継承なくして創造なし』だと思うのである.

奈良時代から1300年,歴史的建造物の宿命であるが,当然,建て替えが続いて来た.しかし,建て替えによる継承だけでは,歴史的価値や遺産の恩恵は確実に落ちて行くのである.それを補う『創造』が必要なのである.そんな問題意識を踏まえて,奈良県の将来ビジョンが必要だと思うのである.

今回の『平城遷都1300年祭』は,短期的経済効果はあるのかも知れないが,今後の奈良県の活性化に,どう繋がるのか,見えていないのである.それだけに,今回の反動で,悪化の方向に向かう可能性もあると思う.余計な心配なのだろうか.

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