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2011.11.28

265 大阪の知事選・市長選に『大阪維新の会』が圧勝

大阪の『既成勢力,既得権勢力』と『反既成勢力,改革勢力』との一騎打ちは『改革勢力・大坂維新の会』の橋下大阪市長候補,松井大阪府知事候補の圧勝に終わった.両候補とも,開票率0.5%で゙当確がでる程の圧勝だったのである.

徳川家康に大坂を滅ぼされて以来,祭りごとから目をそらし,商都・笑都に徹してきた大阪人が,沈黙を破って,改革勢力に軍配を上げた.閉塞間が強まる中で,人気投票でなく,政策に未来を託した歴史的選挙だったと思う.

『大阪維新の会』の主張は,『おかしいものはおかしい』との精神で,大阪都構想,行財政改革,公務員改革,教育改革,による,『統治の仕組みの改革』を断行し,活力ある大阪に変貌させる事である.又,異常と言われる教職員組合の体質を市民感覚に戻す事も掲げている.

この実現を通じて,日本の政令市の改革にも波及させ,活力ある大都市による日本の再生と明治以来の日本の統治の仕組みの改革につなげたいとしているのである.大阪が変われば,政令市も,日本も変わらざるを得なくなる,と考えているのである.

大阪府民,市民も,引き続き,大阪維新の会を応援し続ければ,大阪の変貌は可能だと思う.明日から,この大きな夢に向かって,『ワクワクする明るい大阪』のムードを盛り上げたいものである.数年先の政策の結果より,今は,このムードが大事だと思うのである.

ところで,今回の歴史的選挙は『既成勢力』VS『改革勢力』の構図であったが,もうひとつ,『魅魍魎勢力』VS『政策主体勢力』の構図でもあった.魑魅魍魎が働いたのは民主党,自民党である.政策で決断せず,地元議員団は大阪維新の会と対抗する立場を取り,党本部は勝ち馬に乗る姿勢を取ったのである.

みんなの党以外の既成政党は『政策以外の力学』で動く事を露呈し,政党の存在価値を自ら放棄してしまったのである.地元議員も党本部も,今後,どう動くのか,迷走が続きそうである.

また,新聞で見る世の有識者の論評は素直に改革に賛同するものではなかった.よくわからない事が多すぎるとか,実現するにはハードルが多すぎるとか,具体性が見えていないとか,まだまだ絵空事の構想だとか,言った論調で,肯定もせず,否定もしない,有識者独特の言い方である.

この論調を見ていると,この構想の中身(相当綿密に整理されていると聞いているが)を見ているのか,どうか知らないが,圧勝に対するやっかみがあるのか,民意は無知な判断をしたと言いたいのか,文句をつけて自己顕示したいのか,有識者の悪い習性が露骨に出ているのである.

又,情報番組のテレビキャスターが『大阪都構想はよく分からないが・・・』と前置きしている場面を何回か見た.勉強した上で言っているのか,単に無知で言っているのか,そもそも何が分からないのか,聞いている方はさっぱり分からないのである.

どうやら,上から目線で,『庶民は理解していない構想だ』或いは,『いい加減な構想だ』と言いたいのかも知れない.キャスターも有識者の悪い習性を持っているのである.この前置きはキャスターとして全く不要である.むしろ資質が疑われる事になる.もし,分からないと言うなら,分かってから言うか,分からないと言うなら,言葉の専門家として,その内容を正確に言うべきなのである.

そもそも,反論や悲観論,あるいは否定的な言い方は,言いやすく,しかも,リスクがないのである.うまくいかなければ,やっぱりと言い,うまくいけば,問題を指摘していたからだ,と言う.この保身と自己顕示を兼ねた言い方なのである.

有識者,インテリ,専門家,キャッスターが問題指摘型論調になるのは,責任が伴う肯定,賛成の発言と比べれば,責任が伴わないからである.この事を指摘すると,必ず,権力者に問題点を指摘するのが役割だ,と答えるのである.その役割を外した時,賛成か反対かを問うてみたい.きっと自論等持っていないと思う.とにかく,いい加減な論調で,世論が動いたら大問題なのである.要注意である.

そんな論評の中で,『現代ビジネスのニュースの深層』での高橋洋一氏の論評はさすがである.いつも有識者の中では突出した論評をしている高橋氏であるが,今回も,『都構想と言う方針稟議』を賛成とした上で,今後の実現方法について,経験,見識,知識,に基づく,助言,提言,をしているのである.『大坂維新の会』,『大阪市民』,あるいは,全国の『中核都市』にとって,大きな助言,提言になると思う.

以上,今回のダブル選挙で,『改革の方針稟議』が許可された.この賢明な判断に支えられた『大阪維新の会』は今後,反対勢力に対しても,丁寧に,熱っぽく,勢力的に行動し,この方針の実現に驀進して欲しいものである.

特に,大阪市民には,暴れん坊『橋下市長』を思い切って活躍させる,そんな大きな度量も期待したいのである.そして,明日から,この大きな夢に向かって,『ワクワクする明るい大阪』のムードを盛り上げる事が極めて大事だと思うのである.

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2011.11.24

264 提言型政策仕分けより民主党の政策仕分けを

政府の行政刷新会議は4日間の『提言型政策仕分け』を終えた.前回の無駄削減に向けた『事業仕分け』の反省から,政策に視点を移したのだろうが,依然として,意味不明な会議である.

前回の『業仕分け』が意味不明であった事は,当ブログ『NO190 整合しない政策・予算編成・事業仕訳』で述べているが,案の定,民主党マニフェストのアリバイ作り,パフォーマンス,『行政府内の学級委員会』で終わったのである.

今回の『提案型政策仕分け』も,その位置づけが意味不明である.そもそも,政策提言なら,立法府の仕事である.政党や国会,とりわけ,政権与党の民主党政調の本業の仕事である.今回も又『行政府内の学級委員会』なのだろうか.

4日間の行政刷新会議(学級委員会)で何ができるのだろうか.とても政策提言が出来るとは思えないのである.会議の報告によると,物価下落分の年金減額,地方交付税の総額抑制,高速増殖炉(もんじゅ)の抜本見直し,法科大学見直し,農家への直接支援強化,公共事業の抑制,など,歳出見直しに向けての論点整理をしたと言うのである.

国民からすれば,先に自公と合意された『民主党マニフェストの見直しをどうするのか』,それを踏まえた,『民主党の政策をどうするのか』,と言う『民主党政策の仕分け』が先ではないのか,と思うのである.デフレ,円高,不景気,財政赤字,税収不足,社会保障崩壊,震災復旧,等,山ほどある課題は待ってくれないのである.この対策なしに,来期の予算も組めないのである.

『提案型政策仕訳』に多分,与野党の政策通は,何を『ままごとみたいな会議』をやっているのか,と感じたと思う.事前の勉強,調査も含めて,せめて『御勉強会』と見れば,ないより増しかと言った程度の扱いだと思う.

わけのわからない仕事に,無理な意味づけをしながら,いかにも有益な仕事だと言わんばかりに,張り切っている蓮舫行政刷新担当相がむなしく見える.本人が疑問も持たず張り切っているのなら,一層ふびんになる.

何回も当ブログで,民主党を『ごった煮政党』,『合成の誤謬政党』,『ごった煮内閣』『政権運営の稚拙さ』を批判してきたが,日本の難局を前に,依然と『政治危機』が横たわっているのである.この状態では,とても日本の難局を突破できるとは思えないのである.

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2011.11.21

263 政策論議に使われる『要注意の言葉』

最近の政治を見ていると,『言葉遊び』が目に付く.言葉の使い方で,その場を言い逃れる,リスクを避ける,後の責任を回避する,曖昧にして先送りする,などの意図が見え隠れするのである.特に野田総理の当たり障りのない言い方には,イライラする.

例えば,消費税増税策に対して,素案とか大綱とか法案とか,段取りを言うが,肝心の民主党党首として,マニフェストとの関係とか,社会保障と税制の変更方針とか,行政改革の方針とか,自分の考えを言わない.

自分の主張をはっきり言う小泉総理や大阪維新の会の橋下氏とは大違いである.今,主張型のリーダーの出現を望んでいるところに,調整型のリーダーでは場違いな感じがするのである.

この様な調整型の政治家は,自身の保身本能から,当たり障りのない言い方を好むタイプである.自分の主張がない事がそうさせている事もある.その人達は言葉の意味を曖昧にして議論をする傾向がある事も特徴である.

しかし,国民からすれば,意味をきっちり確認しないと,『こんなはずでは』となりかねないのである.いくつか要注意の言葉を例示したい.

『国家財政危機』

財政破綻を心配する人は,借金がGDPの2倍,1000兆もあるし,毎年,40兆の借金が発生するし,借金返済の為に借金をするし,このままでは,いつか破綻すると思うのは当然である.

一方,日本は世界最大の借金王国でもなければ,財政破綻も心配ない,と言う人がいる.いくつかの理由がある.

まず,債務者は日本国政府,債権者は日本国民である.日本全体としては借金していないと見えるのである.しかも,日本国政府には資産が650兆,対外純資産が260兆ある.従って,借金大国ではないと言うのである.

世界からも,日本は,財政危機だとは思われていない.クレジット・デファルト・スワップ(CDS)のレート(保険料)で評価するそうだが,G7の中では,米国,英国,ドイツ,に次いで低いリスクだと言う.また日本の国債の金利が安定している事も,財政危機とは程遠い証拠である.財政危機の気配があれば,国債の買い手が付かず,金利が上昇するからである.

このように,現状の財政の見方は両極端あるが,最大の問題は,あと,どれくらい借金しても大丈夫なのか,いつ,買い手がいなくなって,金利が上がるのか,など,財政の危機的状態がいつ来るのか,誰もわからない事である.財務省が常に増税を言うのも,財政危機の芽を市場から摘んでおこうとする狙いかもしれない.

この問題で注意すべき事は,国内金融資産が国債を買い支え続け,財政破綻を防いだとしても,金融資産の運用効率が低下し,かつ国内経済に資金が回らなくなって,経済が先に疲弊する事である.これがデフレであるが,このデフレから脱却しない限り,経済が疲弊し,財政も破綻に向かうのである.

こう見てくると,デフレ脱却,規制緩和による成長分野の活性化しか財政問題は救えないのである.単純に言えば,『返済出来る経済力』を持つ事に尽きるのである.債務者の政府から見れば『返済出来る税収が入る』事,『返済できる国債が発行できる』事である.

以上,国家財政危機とか財政破綻という言葉を使う時,何を持って危機,破綻と言うのか,確認する必要がある.この認識を誤ると,政策によっては,国家の命取りになりかねないのである.

『増税による財政健全化』

よく,財政健全化とは『基礎的財政収支の均衡』を取る事であるとしている.その意味は下記の通りだが,これは,借金を増やさない状態にするだけであり,借金を減らすところまで行く話ではない.

『基礎的財政収支(プライマリーバランス)の均衡とは,毎年の政策的な経費が税収などの毎年の収入でまかなわれている状態を言う.国債償還の為の国債発行は,利払い分だけ債務が増加するが,利子率と経済成長率が同じであれば,公債の対GDP比は一定となる.』

ところが現実は,毎年,40兆から50兆の赤字国債発行をしている現状からすると,基礎的財政収支を均衡(赤字国債を発行しない)の為には,消費税換算で20%から30%の増税が必要になる.明らかに,増税だけで均衡させる事は絶対不可能である.こんな事をしたら,経済が疲弊し,極貧の社会主義国家に陥るのである.

従って,『増税による財政健全化』はウソである.財政健全化には『経済成長』と『金融緩和(通貨増発)が必要なのである.

ちなみに,GDP,借金残高の推移は,昭和45年(1970年)はGDP75兆,借金残7兆(10%),39年後の平成21年(2009年)はGDP480兆,借金残816兆(169%)である.

今さらではあるが,小泉政権での『小さな政府論』に元ずく,『行財政改革』『歳出削減』『社会保障費増加分の抑制』『官から民への事業移転』『規制緩和』『減税』『不良債権処理』『金融緩和』などは全く正しかったのである.

小泉改革路線に反対した政治家,政党,学者,有識者,マスコミ,は,どの様な意見を持っていたのだろうか.その人達は現在も,小泉路線は間違っていたと言うが,未だ対案が聞こえて来ない.

多分『大きな政府論者』なのだろうが,莫大な借金で,そんな選択肢は,もう日本にはあり得ないのである.所見がないのなら,世間に無責任な主張をした事をお詫びし,肩書を返上すべきである.専門家なら最低のマナーである.

そんな情勢の中で,財務省は何が何でも消費税増税をしたいようである.私の察するところ,財政再建の為でも,社会保障の為でもなく,日本の国債の格付けが下る事を何としても回避したい為だと思うのである.

いつ起こるかわからない財政危機の芽を摘んでおきたいのだと思う.財務省の守備範囲からすれば,半ば当然の主張だと思う.又,海外からの増税圧力も,円高と企業力の減衰を意図していたとしても不思議ではない.

以上,この財政問題の本質的な解決策には,小泉路線のような方策が正攻法だと思うのである.日本を筋肉質の体質,構造にしない限り,財政問題は解決しないと思うのである.

『社会保障の為の増税』

団塊の世代230万人と言う,突出した人口が社会保障費(年金,医療,介護,等)を圧迫する事は自明の事である.この事もあって,2015年には,社会保障費が4兆円増加すると言う.社会保障費の削減(1.2兆)をするとして,消費税増税5%のうち1%(2.7兆)をこの増加費用に充てたいと政府は考えているようである.

厚労省への不信から,本当のところ,社会保障資金がどうなっているのか,何か,とんでもない事を隠していないか,心配するのだが,もともと社会保障制度が崩壊すると言われ,その対策も見えていない中で,この『社会保障の為の増税』は『予算主義』の餌食になりそうで心配なのである.

『社会保障の為の増税』は『新しい社会保障制度の為の増税』ではない.新しい社会保障制度の姿も無ければ,やるとしても長期に及ぶ制度であり,その為の増税などと言える分けが無いのである.

単に,『社会保障費用の財源不足』を,とりあえず増税で,手当てしたいと言う意味である.加えて,増税に相当する予算を他の予算に回したいと言う思惑が見える.社会保障で増税と言うと,国民は納得すると思うが,その陰で,間違いなく,社会保障以外の事業の予算が組みやすくなるのである.

全体の歳出削減が前提でなければ,増税は『ゆるさ』を温存させ,歳出削減努力を減衰させるのである.多分,『増税しても国債発行は減らない』現象が起こる.今までがそうだったからである.

この事は,後述で指摘する『無駄の削減による財源確保』と同じ現象である.決して『歳出削減』にはならないのである.同じように,増税によって賄なわれる予算枠も他の事業に使われるのである.折角確保されていた予算枠を,みすみす手放さないのである.

これは予算主義の習性であり弊害である.かくて,無駄をいくら撲滅しても,国家予算は減らず,いくら増税しても,国債発行は減らないのである.

この『予算主義の弊害』を防ぐ為に,現税収を優先的に社会保障に回し,他の事業の財源不足を増税でやるのか,事業を辞めるのか,と議論した方が良いと思うのである.全体の事業計画が格段と引き締まると思うのである.

『持続可能な社会保障制度』

この言葉も,財政健全化と同じように,よく言われる言葉の割に,姿が見えない,持続可能な費用とサービスの内容を誰も言わずに,この耳触りのよい言葉だけが飛び交っているのである.

我が国は,いまさら言う話ではないが,医療の発達,経済の発達,国民健康皆保険制度が貢献して,世界最大の長寿国になった事は素晴らしいのだが,

・歳出の面では,人口の多い団塊世代の高齢化もあって,医療費,介護費,年金給付額が増加し,
・歳入の面では,少子化,現役世代の減少化もあって,社会保障財源が大きく不足する事態に陥っているのである.

これは世界に先駆けて『長寿国日本』が突破して行く問題であるが,残念ながら,今後,社会保障制度をどうするのか,その時,健康保険料,介護保険料,年金保険料,医療料金,介護料金,年金支給額,そして税金(増税)をどうするのか,トータルの姿が描けていないのである.簡単に『持続可能』などと言えないのである.

どう見ても,年間100兆円を超え,毎年1兆円の増加がある社会保障費用は国家を破綻させる規模である.制度運営の効率化,無駄の削減,或いは経済成長,増税,保険料増,等では,とても対応できるとは思えないのである.

日本の社会保障の問題は『長寿化に社会が追いついていない』証拠であり,『長寿国に見合った社会全体の再デザイン』が求められていると思うのである.そんなわけで,『持続可能な社会保障の為に消費税の増税を行う』は全くデタラメである.

『無駄の削減による財源確保』

本当に無駄,不効率なら予算から削除すべきである.その予算額を既得権のように,他の予算に回そうとするのは間違いである.予算主義の習性,弊害である.もし予算枠を他に回すなら,これは無駄ではなく,優先度の高い予算に回すと言う,『予算の組み替え』と言うべきである.この優先度を事業間で戦わせる事が予算編成の基本行動なのである.

従って『無駄の削減による財源確保』は間違いであって,『無駄の削減で歳出削減』が正しいのである.『財源確保は予算の組み換え,もしくは借金』しかないのである.

『無駄の削減による財源確保』は,いかにも国民の喝采を狙った言い方である.国民を騙してはいけない.国民は騙されてはいけない.

『消費税率,国民負担率』

日本は先進諸外国に比べて消費税率が低い,増税する余地がある,とよく言われている.本当にそうだろうか.

まず,消費税率だけで比較できない例をあげると,英国は20%だが,税収全体の比率は25%程度だと言う.実は日本の比率と同じである.英国に軽減税率を施しているからである.だから英国20%,日本5%,と比較してはダメなのである.

同じ様な主旨で国民負担率がある.これは税と社会保険料の所得に対する比率であるが,これも欧米に比べて,日本は低い(08年40.6%)と,負担増の余地があるとよく言われる.これは行政サービスとの関係で言う話で,数字だけ比較しても意味がないのである.

もうひとつ,国民負担率に電気・ガス・水道などの公共料金や各種手数料,あるいは学費などを加えた,もうひとつの国民負担率も必要である.ただし,この数字は調査されていない.多分,この負担率を調べれば,日本国民は世界的にも高い負担をしていると思うのである.

そんなわけで,広い視野で数字を捉えないと,判断を間違うのである.大方の場合,数字を言っている場合は我田引水の数字だと思って間違いない.

『自衛権』

これほど曖昧な言葉はない.過去の戦争もそうだったが,自衛権は交戦する理由になっても,客観的に自衛権を文章で定義する事は不可能に近い.何を持って自衛と言うのか,何を持って自衛権の発動をするのか,自衛権の時効をどう考えるか,自衛権行使とは何か,例え専守防衛と言っても,事象や認識を挙げれば切りがないのである.

従って,『自衛の為の軍備』『自衛の為の交戦』との言い方は自衛が定義できない以上,いかにも文学的であり,法律や論理には使えない言葉になる.

そこで,武力を保有するとした時,法律の要旨は『戦争の抑止と交戦の為に武力を保持する,武力の機能,規模,及び,その行使はシビリアンコントロールで行う』としか言いようがないのである.

現在,日本の憲法では,交戦権と武力を放棄しているが,これは戦前の日本の侵略や軍国主義を放棄させる連合国の意図で作られた条文である.しかし,日本の自衛権まで放棄させるものではない,との解釈(自然権)で自衛隊が存在し,連合国も認めているのである.

しかし,この解釈は,憲法の外で,自然権として,武力保持と自衛と言う大儀の交戦権がある事になり,この自然権の内容も曖昧な上に,憲法との境目も問題になる.結局,日本の防衛問題,安全保障問題が曖昧になるのは,この自然権と憲法とが整理されていないからなのである.

そろそろ日本も,普通の国のように,『国家の意思で動く武力を持つのか,持たないのか』,はっきりすべきだと思う.

『所得の再分配』

世の中はパイの拡大と,パイの再分配によって運営されている.この再分配は,経済活動と経済原理に従って,行われる再分配と『税金及び借金による再分配』がある.

この『税金及び借金よる再分配』の考え方は,『大きな政府論』と『小さな政府論』に分かれる.現実には『パイの拡大にとって』,或いは,『パイの分配にとって』,どちらが良いか,まさに適当な接点を求める事になる.一方では,財政赤字によって『小さな政府』を,所得格差によって『大きな政府』を,余儀なくされる現実もある..

日本の1000兆の借金,GDPの2倍の借金,で文句なしに世界最大の『大きな政府』である.残念ながら,あれも,これもと,新たな歳出を要求できる余地など,全く無いのである.今も尚,『大きな政府論』を論じる政治家がいるが,無意味なだけではなく,国家を破綻させるのである.

日本は先ず『小さな政府』に向けて資産,債務を小さくする事,デフレからの脱却をする事,経済成長をする事,歳出を削減する事,がまず必要なのである.

当然,あれもやる,これをやると,再分配を言う国会議員,増税しか言わない国会議員は不要である.これからは,歳出削減と経済成長を両立させる議員と政策が必要なのである.日本には,そんな針の穴に糸を通すような選択脂しか残っていないのである.

私見を整理すれば,『税金による所得再分配の増加(大きな政府論)』は,いづれ財政破綻,経済破綻を招く道であり,財源的にも,その道はあり得ないと思う.唯一『経済発展によるパイの増加(小さな政府論)』と言う細い道しか日本には残っていないと思うのである.

『行政の裁量権』

行政の裁量権は経済事件での金融庁の裁量,裁判官,検事の訴訟,裁判における裁量,厚労省の薬剤などの認可の裁量,など,極めて大きな影響力を持っているのである.

この行政の裁量権で国が実質的に運営されていると言っても過言ではない.まさに官僚国家の根源は官僚の裁量権にあるのである.しかし,脱官僚国家,行政改革,公務員削減,と言っても,この裁量権が議論される事はない.いくつか列記してみたい.

まず検事の裁量であるが,かつて,ライブドア事件の時,マネーゲームによる不労所得は許せない,見せしめだ,と言った検事がいた.そんな法律外の個人的正義感で裁量権が行使されては国家の法秩序は崩壊する.実際,罪の有無に関係なく,検事の強制捜査,起訴,逮捕で巨大な経済的ダメージが発生するのである.しかも,その賠償方法はないのである.その事の処置を考える必要があると思う.

裁判官の判決もまさに裁量権行使である.どうも量刑の判決には無罪を主張していると不利のようである.改心していないとして情状酌量がない判断になるからである.これは量刑に厚生の目的があるからのようである.これでは無実を主張する事が一層不利になりかねないのある.これは明らかに間違った裁量だと思う.

裁判員制度が始まったが,聖域と言われている量刑の決め方について,もう一度見直す必要があると感じるのである.

経済事件に関する監督庁の金融庁の裁量も,よくわからないところがある.粉飾決済で言えば,修正申告で済む場合,罰金で済む場合,あるいは,刑事告発まで,さまざまである.その基準がよくわからない.しかし,これも検事の裁量と同じ様に,裁量によって,大きな経済ダメージが発生するのである.

又,証券取引所の上場廃止か否かの判断も裁量である.上場に値しない企業だと判断しても,廃止によって善意の第三者である株主に大きな不利益をもたらしてもよいのか,が衝突する.これなども,裁量の物指しが曖昧なのである.

この様に,行政の裁量権は,巨大な権利であり,大きな影響を与えるわけだが,裁量の根拠がよく見えないだけに,恣意的に,俗人的に,行使されているのではないか,心配するのである.行政訴訟もあるが,国民から見れば,極めて大きな壁なのである.

立法府は法律,予算の執行監視に加え,実質,国を運営している行政の裁量権についても,常時,監視すべきである.又,行政改革の中でも,この裁量権のあるべき姿を論じるべきである.

巨大な行政の裁量権は有史以来『お上意識』を国民に抱かせて来た.官僚国家,役人の身分,特権意識,等の根幹がこの裁量権にある.これにメスを入れない限り,行政改革とか規制緩和は出来ないのである.

『国益』

外交論議で,いつも『国益』と言う言葉が出てくる.ところが,『国益』とは何か,が必ずしも共有されているわけではない.個別の利益を国益と言ったり,既得権益が侵されるから,国益に反すると言ったり,さまざまである.

従って,TPP問題で,『国益を損なう協定はしない』等と総理が言っても,言語明瞭意味不明である.意味があるとすれば『国益を損なうが協定をする』との案に反対する時である.果たして,そう言う案が既にあるのだろうか.

実は,この『国益とは何か』は外交問題に関わらず,国内政治においても,大きなテーマである.いろんな立場の主張は勿論大事だが,その中から,『国にとって有益な事』を選ぶ事が政治なのである.この『国益とは何か』と言う命題を政治家は是非,自問して欲しいものである.特に,選挙対策で,この事がゆがめられている感じがするのである.

国家財政がひっ迫している現在,真の国益をフィルターにした政治が極めて大事になっていると思うのである.

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2011.11.17

262 葛藤する日本文化③

当ブログ NO002葛藤する日本文化①, NO019葛藤する日本文化②に引き続いて,久しぶりに,NO262葛藤する日本文化③を発信したい.

11月17日の日本経済新聞の春秋コラムに,演出家の久世光彦氏の文化に対するこだわりが紹介されていた.それによると,氏は『言葉に対する羞恥心が無くなったら,その国の文化は滅びる』との思いから,自から言葉使いに,こだわっていたと言う.羞恥心が,いかに日本文化にとって大事であるか,と,久世氏は言っていたのである.

たしか,太宰治も,『羞恥心のある女性は美しい』『羞恥心は教養で生まれる』従って,『教養ある女性は美しい』と言っていたように記憶している.もちろん教養とは『生きるすべ』の事だと理解している.

又,日本画の余白は『謙虚さの美学』である.『余白にものを言わせる美学』である.この美学は侘び寂びにも,行間で物を言う短歌,俳句にも,合い通じる美学である.全てを塗りつぶす洋画とは全く違う美学,感性なのである.

この謙虚さ,控えめさは羞恥心と同じように,自己抑制,相手への配慮,から来ている心理のように思うのである.全て言わなくても分かりあえる民族同志ならではの価値観,表現方法,行為,なのかもしれない.あからさまに,白黒はっきりさせる文化とは違う文化なのである.

このように,改めて日本文化を考えると,確かに,日本人は『羞恥心』を価値観,美学,行為の根底にしていると実感できるのである.だから,この羞恥心を失ってはならないと言うのが久世氏や太宰氏,あるいは日本文化を大事に思う人達の思いなのである.

こんな日本の文化を,米国の文化人類学者のルーズベネテック(1887年~1948年)は日本文は西洋文化の対局にあって,社会規範への適用行動として,外的な批判を意識する『恥の文化』(SHAME CULTURE)だと定義したのである.ちなみに,欧米文化は内的な良心を意識する『罪の文化』(GUILTY  CULTURE)だとした.

この説に異論反論はあると思うが,米国人が『恥』を日本文化の中心にあげた事に,びっくりする.よほど,『はにかみ屋』の日本人の印象が強かったのかもしれないが,外からの方が文化の特徴が見えやすいのは確かである.このそれぞれの文化の背景を私流に整理すると,次の様になる.

『恥の文化』は単一民族,農耕民族,村社会,帰属意識,血統,道教,仏教,の影響で生まれる集団主義(個人より集団の規範,評価を優先)の縦文化.官僚国家・複合経済国家を形成.

『罪の文化』は多民族,狩猟民族,キリスト教の影響で生まれる個人主義(集団の評価より個人の人格,権利を優先)の横文化.自由な資本主義社会を形成.

以上のように,日本文化は『恥の文化』だと言われると,確かに納得できる感じはする.私見では,ずっと日本文化は,『曖昧の合理性』だと言っていた.『白黒はっきりするより,曖昧にした方が合理的だ』,言い換えると,玉虫色にして,相手を配慮したり,曖昧だが阿吽の呼吸で理解しあったり,の文化であって,人間の歴史的英知であるとしたのである.

事実,歴史のある国ほど,この『曖昧の合理性』が通用するのである.勿論,上記『恥の文化』と同じ背景で形成される文化である.一方,米国流の『罪の文化』の背景からすれば,『曖昧さこそ不合理だ』となる.

米国人とのデベートで,論理に負けそうになると,

『曖昧な方がうまく行く,少なくとも喧嘩や戦争をしない人間の英知だ』と.又,こんな事も言う.『日本の会社では仕事の内容をいちいち契約しないが,事務所のごみは誰もが拾う,米国ではジョブデスクリプションにごみ拾いは入っていないから,誰も拾わない』と.掃除する人が別に契約されている事を知りつつ,どちらが合理的か,と啖呵をきるのである.

又,苦し紛れに,こんな事も言う.当ブログNO0291頁と100頁の契約書にみる日米文化でも触れているが,日本は1ページの注文書で仕事を始めるが,米国人は100ページの契約書を作らないと仕事をしない.日本はトラブルが起こった時,どうするか相談するが,米国はトラブルが起こる前に処置を決める.等,どちらが合理的だ,と啖呵を切るが,この時は声が小さくなっている.若干やけくそである.

さて日本の『恥の文化』が,現在でも生きているのだろうか.

極端に言えば,日本は戦前,戦中の日本文化と結びついた軍国主義から,戦後,『米国文化の大量流入』,『民主主義の導入』,『文明の発達』,『国際化』,『和魂洋才』等によって,『和洋折衷文化』に移り,さらに,現在も,『米国文化』の影響を強く受け続けていると思う.まさに日本は文化の変化期,葛藤期の真っただ中にいると思うのである.(当ブログNO002,NO019葛藤する日本文化①②で詳細に言及)

どうやら,『恥の文化』『曖昧の合理性』の日本文化は国内でしか通用せず,国際社会では,必然的に他民族になり,西洋文化,米国文化が当たり前になるのである.

従って,日本文化の中にある羞恥心も随分失われていると思うし,恥じる内容も変わっていると思う.本能的な羞恥心はあると思うが,もはや日本の『恥の文化』は古典になっていると思うのである.

久世氏のこだわりについて言えば,日本語で言うと恥ずかしい言葉や言い方が,どんどん横文字や別な言い方になっていると思うのである.その分,日本人から羞恥心が薄まって来ていると思うのである.

又,謙虚さや羞恥心の文化は,多様化,国際化の中で,積極性,自己主張,自己責任,独自性,自立,などが要求され,現代では,むしろ邪魔な心理だと言われる時代に入ったと思うのである.

太宰氏の『女性の教養による羞恥心は美しい』との美意識は,男性だけかもしれないが,今でも,あると思う.しかし,昔と違って,教養ある女性が増えている現在,必ずしも羞恥心の美と結び付かなくなっている感じもする.『教養による羞恥心の美』は今や,『希少価値の美学』,『古典の美学』になって行くのかもしれない.

宗教について言えば,日本文化に影響を与えていた仏教の教えや文化は現代社会とますます遊離しつつあり,今や仏事のみならず神事も古典文化に近いと思う.一方,キリスト教文化は洋画や洋楽,あるいは,洋物のイベントの中に存在し,現在も無意識の内に,日常の中で存在しているのである.

卑近な例で言えば,『愛』は仏教では煩悩であり,この言葉に羞恥心も働く事から,余り日本人は口にして来なかった言葉である.しかし,良し悪しは別だが,洋画や洋楽の影響で,無意識のうちに,キリスト教の中心的精神文化である『愛』を口にするようになったのである.

洋楽をかじっている観点で言えば,カントリー,デキシー,ブルース,R&B,ジャズ,等の米国音楽のルーツはゴスベル(黒人霊歌)である.現在でも,これらの楽曲や歌詞にキリスト教文化がびっしり埋まっている.多分,その事は米国人は当然知って,楽しんでいるわけだが,日本人は全く意識する事なく,楽曲として,受け入れているのである.

特に,人気のある楽曲は,多くの歌手にカバーされ,日本でも人気がある.実はそんな楽曲ほど,ゴスベルをルーツにしていたり,歌詞がキリスト教の文化なのである.だから米国では人気がある,とも取れるのである.そんなわけで,日本人は楽曲と共にキリスト教文化のエキスを浴びている事になるのである.文化とはこんな形で,浸透するのかもしれない.

話しは別だが,米国政治家の演説は,ほとんど,このゴスベルを基調にしている.オバマ大統領はその典型である.日本人にとっては,抽象的,情緒的,気障,に聞こえる『WE CAN』の連呼でも,米国人の心を打つのである.プレスリーはロックンローラーとして心を浮き浮きさせるが,もう一方では,ゴスベラーとしての洗礼された顔を覗かせるのである.この振幅の幅が大衆の心を掴んだのである.

次に,こんなに文化が変化している事の問題点について考えてみたい.

文化の変化は思想とか政治とかで強制的に動かせるものではない.多くの人が良かれと思う方に変化して行くのである.そういう意味で,文化の変化は良い事だと思うのだが,日本文化から米国文化への変化は対局の文化への移動であるだけに,個人,集団,国,の中で葛藤が激しく起こるのである.その結果,価値観が定まらず,どちら付かずで,考えが漂流する危険性もあるのである.

しかも,この文化は個人,集団の考え方,価値観,表現力,行動様式,制度,政策を串刺ししているだけに,文化の衝突,葛藤,受け入れは長期を要する事になる.その間,国の活力や人の育成が停滞し,精神的に落ち着きのない社会になるかもしれないのである.

今,日本はそんな中にいるのである.日本の閉塞感の根幹の問題かもしれない.私見であるが,当ブログNO152で『日本の三大閉塞感』で①憲法改定の手段を持たない日本②返済不可能な借金残高③日本文化の葛藤,を上げた.それほど文化問題は深刻だと思うのであるこの状態では,一つの文化に一途な国に憧れる国民が増えるかもしれない.

今後日本は,どんな答えを出して行くのか,大いに気になる所だが,まだまだ文化の葛藤は続きそうである.政治理念の新保守,保守,リベラル,等の葛藤も,まさに,この文化の葛藤そのものなのである.

日本は,このまま,多様な文化が渾然と入り混じったままの国,掴まえ所のない国,になるかもしれない.あるいは,日本の閉塞感に耐えきれず,何か『軸になる精神』が出てくるかも知れない.ただ,はっきりしている事は『日本文化の古典化』が止まらない事である.

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2011.11.14

261 玉虫色政治の危険性(難問の根底にあるもの)

今,話題になっているTPP問題について,昨年11月,既に,民主党管政権はTPP参加の方針を閣議決定している.その内容は次の通りである.

『我が国を取り巻く国際的・地域的環境を踏まえ,我が国として主要な貿易相手国・地域との包括的経済連携強化の為に以下のような具体的取組を行う.特に,政治的・経済的に重要で,我が国に特に大きな利益をもたらすEPAや広域経済連携については,センシティブ品目について配慮を行いつつ,全ての品目を自由化交渉対象とし,交渉を通じて,高いレベルの経済連携を目指す』

しかし,民主党は不思議と言うか,でたらめな政党である.明らかにTPP参加の閣議決定をし,政権与党としても了承されているはずだが,ここにきて,参加するかどうかで激しい対立が起こっているのである.

APECでの表明を予定している総理はAPEC出発直前に『交渉に参加する』との玉虫色の表現で,民主党内の対立に,ひとまず区切りを付けたのである.

玉虫色とは,反対派からすれば,交渉の結果,反対できる余地があるように見えるし,賛成派から見れば,TPPに参加する前提での交渉参加だと,とれるからである.これ以上,対立すると,抜き差しならなくなる事から,この表現で,ひとまず双方が鉾をおさめたのである.

そして,総理は12日のAPECで,『閣議決定している基本方針に従って,交渉に参加する』と表明したのである.賛成派からすれば特に異論はないと思うが,反対派からすれば,不満であるが,センシテブ品目についての配慮や非参加の余地がまだ残っていると信じつつ,これからが正念場だと,改めて思った筈である. 

さて,海外諸国はどう受け取ったのだろうか.昨年の基本方針が変わっていないとして,TPPへの参加が宣言されたと受け取ったと思う.勿論,各国は総理が日本国内を玉虫色にしてAPECに来た事は承知している筈であるが,そんな玉虫色は,当然,都合の良い方で受け取ったと思う.そして,各国は大歓迎をして,辞退の道を閉ざしたと思うのである.

結果,今後,日本政府は内外から厳しく追及される事になる.

まず各国との交渉であるが,各国は,日本が昨年閣議決定した基本方針を見ながら,辞退できないと見て,グイグイと要求を押し込んでくると思う.日本は辞退すれば,日本の国際信用が著しく落ちると言うリスクを背負っての不利な交渉となる.

又,交渉過程で,日本が余りにも国益一辺倒だと,『日本の基本方針は嘘か』,『実現に向けて,何も考えていない,自分の事しか言わない』となり,挙句に,『多国間で了解済みのルールを,呑むのか,呑まないのか』,二者択一を迫られる事態になるかもしれない.ここでも,反対派への配慮や準備不足で個々の交渉力が弱くなりそうなのである.

次に国内であるが,日本が出すネガテブリストの内容や交渉経過で,すさまじい反対運動が強まると思う.政府は国内と海外の板挟みに苦しむ事になる.その時,政権は変わっているかもしれないが,対外的には継続され,苦しみは引き継がれる.

どうして,はっきりと『TPPに参加できるよう,交渉させて頂きたい』と言わなかったのだろうか.これなら,TPPに積極性を表明しつつ,参加できない余地も残せる.基本方針ともずれない,のである.

こう言えないのは,総理が基本方針に反して,苦しまぎれに,参加したいのか,参加したくないのか,よくわからない玉虫色にしたからである.

基本方針を認めているなら,『TPPに参加できるよう,交渉に入る』,もしくは,『自由貿易圏の形成には賛成だが,交渉によって参加,非参加を決めたい』と言うべきなのである.

根本的には,民主党内の分裂騒ぎに,ノーサイドで総理になった野田総理が組閣と同じように,TPPでも,党内対立を嫌った『玉虫色の政権運営』をしているから,こんな問題が起こるのである.

挙げくに,その玉虫色の姿勢が早速,日本の外交リスクになって現れてしまったのである.玉虫色がいかに外交交渉に危険か,と言う事を総理は知らないのだろうか.

政権を取って2年,民主党内のゴタゴタでどれほど日本の政治がおかしくなった事か,と嘆きたくなるのである.

今後も,普天間基地移設問題,原発事故対応問題,東日本大震災対応問題,震災復興増税問題,消費税増税問題,社会保障問題,原子力問題,等が,民主党の内部のゴタゴタや政権保身で,暗礁に乗り上げる事になりはしないか,心配されるのである.

これらの日本の難問に,玉虫色とか,建前とか,ノーサイドとか,分裂を恐れた先送りの保身本能とか,が入り込む余地は全くないのである.実質どうなっているのか,どうしたいのか,と正面から真剣勝負で問題に取り組むしかないのである.

ちなみに,国民も,政治家も,総理も,『ノーサイド』は『和の精神』だと勘違いしていないだろうか.

『和をもって尊しとする』との聖徳太子の教えからすれば,玉虫色とか,ノーサイドとかは,和ではなく,『和のごまかし』『和の先送り』『混乱の先送り』である.『何の解決も産まない』ばかりではなく,『問題を大きくする』だけの『責任回避』である.

私見によれば,大聖徳太子の『和の精神』とは『議論や決断から逃げるな』と言う事であって,『そこから生まれた和こそが尊い』としたのである.物部氏と蘇我氏の残酷な激しい戦いから滲み出た重い教えである.『ノーサイドの和』など『尊い』と言うわけが無いのである.

残念ながら,保身優先で,サイドに立とうとしない,『ノーサイド総理』では真の和の追及は無理だと思う.既に総理の『安全運転』とか,『主張が見えない』,と言う批判があるが,『ノーサイド病』の当然の症状なのである.

そもそも政治には,ノーサイドと言う『空白の時間』『穏やかな時間』も,ノーサイドと言う『ノンポリ』も,『野合』も許されないのである.もしノーサイドが許されるなら,政治も,政治家も,政党も,いらない事になる.政治とは常に問題に対しサイドを決める,厳しい仕事なのである.

別の言い方をする人がいた.最近発刊された,ケビン・メア氏(元米国国務省日本部長)の『決断できない日本』である.責任者・決定者が見えない,たらい回しの『コンセンサス社会』では,外交問題をはじめ,日本の難問は解決できないと心配しているのである.

私の問題意識で言えば,日本がGDPの2倍の1000兆円も借金をこしらえたのも,上げ底の経済大国になったのも,難問が山積に吹き溜まったのも,全て日本の国民と政治のなせる技であるが,この結果から判断すると,日本は『問題発生予知能力』も『問題解決能力』も,極めて弱いまま,今日を迎えていると言わざるを得ないのである.

この弱さは,玉虫色文化,先送り文化,ノーサイドの精神,コンセンサス社会,と関係しているかもしれない.オリンパスや大王製紙の不祥事にも,更に言えば,読売巨人軍の内紛にみる,オーナー,会長,オーナー代行,社長,球団代表,GM,の意味不明の組織人事や意思決定の仕方にも,この性格が垣間見えて背筋が凍るのである.

日本文化の特徴に『曖昧の合理性』(白・黒をハッキリさせない方がうまく行く事がある,との考え)がある.その場の争いを避け,相手を配慮する,人間の知恵でもある.長い歴史のある国に多い文化である.当ブログ 『NO029 1頁と100頁の契約書に見る日米の文化』で,この功罪に触れている.

そこでも述べているが,この『曖昧の合理性』を前面に出してばかりはいられない.この文化を続けると『立論力,実行力の弱い社会』になり,『曖昧な社会,不合理な社会』になり,『理のない気ばかりの国』になってしまうからである.

日本の『問題発生予知能力』『問題解決能力』が弱いのは,島国,単民族,農耕民族,村社会,などに起因する『曖昧の合理性を持った日本文化』とも関係しているのだろうか.残念ながら,これに自信を持って反論できる材料は持ち合わせていない.

TPP問題から,文化論まで話しが及んだが,『一事が万事ではない』事を願いたいものである.

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