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2013.06.26

326 日経新聞コラム『秋春』(6月24日付)への感想

新聞のコラム欄を昔から興味を持って読んでいる.
2010年7月,当ブログ
NO219 『コラム・小説のタイトル,書き出しへの興味』でも,『タイトル』や『書き出し』の重要性を述べ,素晴らしいと思う,いくつかの例文を掲載した.

自分が目にしている範囲ではあるが,最近,感銘を受ける文章に出会っていない.特に『タイトルのないコラム』は読んだ後も『何を言いたいの分からない』事が多い.

多分,タイトルがない事で言いたい事を不鮮明にしていると思う.又,自分の『知識』を前に出したいと思う事も原因だと思う.『言いたい事』が2の次となって,無理に知識と繋げようとするのである.本来は言いたい事があって,必要な知識が関係つけられるべきなのだが,順番が逆になるのである.

その例として,6月24日の日経新聞『春秋』のコラムをあげてみたい.

まず,このコラムにタイトルがないから,案の定,何を言いたいのかが分からない.読者が勝手に考えればよいと言う事か,しかし,新聞のコラムである以上,伝える事が出来なければ意味がないと思うのである.

具体的に記述内容を追ってみたい.その概要はこうである.( )内は私のコメント.

ステップ1:評論家粕谷一希氏の言う旧友を持つ重要性の話

『栄耀栄華をえようが,若き日の旧友の眼に耐えられない人生は空しい』
『蹉跌な人生であろうと,耳を傾ける旧友が存在する者は幸福である』

(若き日の旧友の眼,耳を傾ける旧友の存在,が人生の物差しになるのか)

(その旧友の物差しが社会の物差しより大事だと言えるのか)
(結局,旧友の物差しは自己満足の物差しではなのか)


ステップ2:古い旧友で思い描くのは,例えば旧制高校だ

背伸びして読書量を競い,劣等感も悩みも共有する.泥臭く築いた信頼が時を経ることで熟成し,人としての財産になるわけだ.

(著者の旧友が旧制高校で生まれたのかも知れないが,余りにも回顧的すぎる

ステップ3:『旧制高校』が『フェースブック』に移れるか

旧制高校に代わる舞台が近年ではフェースブックのようだ.実名で,日記を共有し,日常をさらし合う中から,いづれ心を許す関係が芽吹き,老いて人生を語る旧友に育つかもしれないが,理解し理解される丁寧な努力を重ねてこそ永く強い繋がりがはぐくまれる.

(誰もフェースブックで旧制高校のような旧友作りが出来るとは思っていない)
(このステップは次への繫ぎとしても,無意味)

ステップ4:ネット時代の政治活動への願い

7月から参院選のネット利用が解禁される.当落は,ついネット上の『友達』や『フォローワー』の数だけを追う候補者が現れないか心配である.耳目を集める過激な発言よりも,深い理解と永い関係を築く,丁寧な言葉で,考えを説明する手段にすべきだ.

(ネットの多様性,ネットの利害,など自明の事,敢えて言う著者の認識レベルに疑問

以上,若干,私の理解で記述概要を書いたが,執筆者の言いたい事を勝手に,無理に推測すると,『ネット時代の軽薄さが心配だ』,旧友づくりにも,政治活動にも,『丁寧な説明と相互の信頼作りが必要だ』,と言いたい様である.

しかし,どう見ても,『旧友の話』(ステップ1、2)と『ネット時代の懸念の話』(ステップ3、4)の関係性が弱い上に,言っている事に余り『含蓄が感じられない』のである.

最初の書き出しからすると,てっきり,粕谷氏の『旧友の重要性』の話が『政治家の生き方』にも相通じるものがある,と言うのかと思ったら,上述のように,『ネット時代の懸念の話』になっているのである.

ハッキリ言って『言いたい事が不鮮明』,『言っている事にも含蓄を欠く』のである.大変失礼ながら,言いたい事をしっかり推敲した上で,文章を起こして欲しいものである.

もしかすると,ネットで孤軍奮闘している橋下氏を『旧友の面』,『ネットの面』で批判したい意図があって,遠まわしに,このコラムを書いたのかも知れない.だから,無理に二つの話を繋げたのかもしれない.

しかし,どんな意図があったにせよ,言いたい事が分らぬコラムでは意味がないのである.本当に橋下批判の意図があったなら,一度,橋下批判の文章をしっかり起こしてから,遠まわしの文章に焼き直す必要があったと思う.言うまでもないが『遠まわしとは』『いい加減に言う』事ではない.しっかりした土台が必要なのである.

この様な文章は有識者に多い.大体,まず,自分の知識の披露が最初に来る.これと言いたい事を連動させるのだが,言いたい事と連動していなかったり,言いたい事が定まらなかったりするのである.本来なら『言いたい事』が先にあって,それを補足する為に知識が使われると思うのだが,順番が逆なのである.

このコラムでも,頭に残ったのは,著者の『言いたい事』ではなく,初めに紹介された『粕谷氏の言葉』である.まさに,有識者の文章は知識を伝える役割は発揮できているのである.

この際,敢えて言えば,有識者や専門家の文章はやたら引用が多い.その割に,自分の主張が乏しい.引用が多いほど優秀だと勘違いしているように感じる.いわゆる『引用・講釈ばかりで主張がない』のである.明治以来の翻訳文化が生きている感じである.

もうひとつ思う事がある.日本文化の特徴として『行間でものを言う』,『遠まわしに物を言う』文化がある.しかし,そう簡単な文化ではない.その表現の背景には相当の見識と,事実と,主張が必要になるからである.従って,送り手も,受けても,凡人では難しい文化なのである.加えて,国際化,価値観の多様化,情報量の膨大化,の中で,ますます日本的表現は難しくなっているばかりか,下手をすると誤解や矛盾を産む危険性もあるのである.

当コラムの執筆者は見識も文筆も優れた人だと思うが,今回のコラムは『典型的な有識者の文章例』として発信した次第である.

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2013.06.09

325 増税,借金の目的と公金の使途との乖離問題

2012年9月当ブログNO296 現・民主主義の限界『限りなく続く歳出拡大』で金を使う事が仕事の政治家や役人を厳しく監視する制度が必要だと発信した.

最近又,復興予算の乱用がクローズアップされている.

役人は今回も,法律と予算に従って執行しているだけと言うのである.かくて,後述する何でもアリの復興基本法とそれにもとづく復興予算に,この役人の精神が加わって,巨額の公金が何のチェックもなく右から左に流れて行くのである.

被災地の復興が思わしくない中で,復興と言う大義で税金がどこかに消え,借金残高も右肩上がりを続けているのである.いつか見た日本の風景である.

そんなさなか,『金を使いたい人』は『復興予算』と言う,おいしいご馳走を,たらふく食べたのである.さらに今後,『社会保障改革』や『国土強靭化』と,続々とおいしいご馳走も予定されているのである.借金依存症を治そう,とする決意は,又,遥かに遠のいたのである.1,000兆の借金に対する評価は諸説あるが,巨大なメタボ国家に向かって驀進している事だけは確かである.

政府は,今回の復興予算について,不適切使用分については,他の予算の減額で復興予算を補填する.今後の執行についたは、厳密にチェックする,と言うのだが,法律で厳しく定めない限り,同じことが繰り返されるのは目に見えているのである.それどころか,この復興予算が既に枯渇し,さらに拡大が予定されているのである.

この復興予算で起こっている問題は,国民の理解している『納税や借金の目的』と『公金の使途』に乖離が生じている事である.民主主義の根幹の問題である.

この復興予算は平成23年成立した『復興基本法』に基づいて『復興財源確保法(特別措置法)』が制定され,10.5兆の増税,赤字国債や復興公債の発行,政府資産の売却,等で19兆円の確保が決まっているのである.

問題は復興基本法にある.この『基本理念(第2条)』によれば,復興の定義を『被災地の復興』だけではなく『日本の再生』も含めたのである.

従って,この『復興予算』に景気対策,雇用対策,あるいは一般予算から外れた事業などが,なだれ込んでも,目的外使用にならない事になったのである.

この基本理念を実現する為に『財源確保法』で財源が確保されるのだから,国民の『被災地の復興』を思う気持ちとは随分違う目的で,増税,借金が行われる事になっているのである.

既に多くの復興予算が執行されていると言うが,国民としては,せめて,被災地の復興が進んでいればともかく,それすらも満足に進んでいない現実を見れば,国民の怒りは増すばかりである.国民の『納税の義務』は重いが,それに見合った『公金の使途』の厳格な管理が求められるのである.

このように,『復興』と言う大義を掲げながら,何でもアリの『復興予算』としている事は,分かりやすく言えば,『多年度用の補正予算』を作った様なものである.『金を使いたい人』にとって,こんな『使い勝手の良い財布』はないのである.

今回のこの様な復興予算(多年度用の補正予算)によって従来の一般予算,補正予算,と区別がつかなくなり,『金を使いたい人』にとっては都合が良いかもしれないが,国民からすれば,『税と借金の目的』と『公金の使途』の関係がさらに分からなくなるのである.

たとえ,予算や課税が民主主義の手続きで法制化され,何をやっても法律に違反しないと胸を張れても,それは『金を使いたい人』の理屈であって,国家として,政治家としての『政治のモラル』が欠落しているように思うのである.

ちなみに,国民が理解する『増税や借金の目的』と実際の『公金の使途』が乖離している例は『復興予算以外』にも多くある.

まず,古典的な例は

①『景気対策』『雇用対策』と言う大義で『借金をし,公共事業を実施する』

がある.公共事業を将来への投資として,或いは需要喚起の刺激剤として,この大義が掲げられるが,実際の中身は,地元選挙対策が目的の『公金の食い逃げ事業』が多かったと思う.そして,これを繰り返すうちに,地方は公共事業なしには経済が成り立たない経済構造になって行ったのである.

最近では,次の②③がある.

共通している事は,国民が賛同する大義をかかげて,増税や借金を行い,一方では,大きな大義である故に,
何でもアリの金の使い方をする事である.『金を使いたい人』にとっては,やりたい放題である.油断も隙もあったものではないが,大きな大義には下心が必ず潜んでいると感じるのである.

さらに,この種の大義の掲げ方に都合の良い事がある.大義が大きいだけに,成果が計りにくくなる事である.作文して事業予算を確保する人にとっては,大いに助かる大義なのである.かくして,責任が曖昧のまま,借金だけが積み上がるのである

②『社会保障改革』と言う大義で『増税や借金をし,他に使える金を増やす』.

『社会保障改革による消費税増税』に関して言えば,国民が思う『増税,借金の目的』と実際の『公金の使途』との間の乖離について,私見を述べてみたい.

国民の理解を得る為に,消費税増税は改革を前提にしているのだが,実際は改革とは無関係に,増税分が増大する社会保障費の補填に使われるだけである.これだけなら,赤字国債発行額が減るのだが,そうはならない.赤字国債減額分が一般予算の他の事業に回される事になり,依然,赤字国債発行額は減らないのである.言いかえれば,増税分だけ『他で使える金が増える』事になるのである.

この様に,国民から見れば,大増税の大義であった『改革』と『赤字国債軽減』がどこかに行ってしまうのである.ここ数年で,この事がはっきり数字に表れると思う.

③『国土強靭化』言う大義で『増税や借金をし,他に使える金を増やす』

『国土強靭化計画』にも唖然とする.巨大災害発生の可能性を学者に言わせて,暗に,これへの対策が必要だと匂わせながら,復興予算に引き続いて,長期に渡る災害対策事業と称する公共事業の予算を確保しようとしているのである.伝統的な公共事業ばら撒きの匂いがプンプンするのである.

この『国土強靭化計画』も,大義からすれば,なんでもアリになりやすい予算である.延々と公共事業をやり続ける中で,財政が破たんするのではないか,何処で大災害が発生するのか,いつ発生するのかも不明の中で強靭化計画の効果はあるのか,他にやる事があるのではないか,等,『金を使いたい人』とは違った心配をするのである.

ところで『国力』の一つに『財政力』がある.

言うまでもなく,『財政力』は災害対策,安全保障対策,社会保障対策,経済対策,などのエンジンである.この観点で1000兆の借金を見ると,評価は色々あるにせよ,国力が落ちている事だけは確かである.

そこで,『金を使いたい人』は,『金を使う大義』を考える前に,『パイの拡大と財政力の強靭化』をまず考えるべきだと思うのである.

『金を使いたい人』は『無駄な公共事業も経済にとっては効果がある』と言う人がいる.ケインズ経済学を誤解している人である.公共事業を『経費』とケインズの言う『投資』に分けて考える必要がある.投資回収の無い経費支出を,投資と偽って金を使ってはならないのである.そんな事業は『偽装罪』,『詐欺罪』にあたると思う.国会を通ったからと言って,合法化されたと思う事は間違いである.

地元の選挙対策,雇用対策なのに,この道路建設によって,経済効果が期待できるとして執行した事業は,この罪状の視点で精査すべきなのである.未来の国民への最低の責務として必要だと思う.

そんな出鱈目はもう通用しないと考えた『金を使いたい人』は『国土強靭化』と言う『嘘が証明できない大義』,『偽装罪,詐欺罪が問われない大義』を考えたのかもしれない.

この様に,『復興予算』も,『社会保障改革と消費税大増税』も『国土強靭化計画』も,反論できない大義に隠れて何でもアリの予算を拡大し,国民が思う『増税や借金の目的』と実際の『公金の使途』とが乖離して行く危険性を問題視したが,『一般予算』や『補正予算』の場合も深刻である.

『納税や借金の目的』と『公金の使途』が全くリンクしていないからである.国民からすると,『何の為に納税しているのか』『何のために借金しているのか』『何のために増税するのか』『何のために事業をやるのか』『事業の成果はどうなっているのか』『借金残高の事業内訳はどうなっているのか』等々,全く分からなくなるのである.

又,個々の事業に財源内訳(税収,借金)がリンクしていない為,『金を使いたい人』は財政事情や増税など気にしないのである.極端な言い方をすれば,予算を拡大する事しか考えないのである.歳入と歳出はトータルでしかリンクしていないからである.

この構図が『税や借金の目的』と『公金の使途』との乖離を生むのである.そこに国民を騙す政治が入り込むのである.

そこで,次の三つを提言したい.

①国民を騙す政治は間違いなく,民主主義や国家を崩壊させる.このリスクを防ぐ為にも,『予算制度の抜本改革』が必要だと思う.特に『事業と財源のリンク』によるシビアな事業監視が不可欠だと思う.

②上記予算制度の抜本改革とともに,『使途監視機能の強化』が必要だと思う.納税は『国民の義務』であり,『脱税は重罪』である.当然,『税金の使途』についても脱税監視と同じくらい厳密なる監視が必要だと思う.

霞が関文学では政治家や役人が,自由に金を使えるように,公金の目的外使用等の罪に問われるように,条文を作るが,国民の脱税や交付金の目的外使用には重罪を課すのである.『お上意識』が残る『霞が関文学』にも厳重な監視が必要だと思う.

③政治の結果としての1000兆の借金を『良い借金』と『悪い借金』に分ける事である.その上で,『悪い借金』を減らす事,増やさない事に取り組むべきである.これが真の『財政健全化』だと思う.ちなみに,『良い借金』とは未来の人が恩恵を受けながら返済する借金である.『悪い借金』とは,効果の出ていない公共事業や赤字国債の借金返済である.先代の食い逃げした飯代の返済の様なものである.

1000兆円の借金の内,『良い借金』と『悪い借金』が,どんな比率になるのだろうか.恐ろしくて公表できない値だろうか.しかし,比率如何に関わらず,この比率は政治の結果であり,現在,未来の納税者に公表する義務があると思うのである.

バブル期,『経済は一流,政治は三流』と言われた.最近では,どちらも数段落ちている感じがする.『借金の大きさに比例』して『政治の品格が落ちる』と言う事か.これでは未来はない.

『金を使いたい人』にそんな危機感があるのだろうか.それとも,そうならない為に,もっと金を使うと言うのだろうか.いや,未来の事など知った事か,と言うのだろうか.

そんな事より,日本の現実が,巨大な財政出動なくして国民生活や企業経営が出来ない程の社会主義国家になっているのかも知れない.ならば,日本は『小さな政府』に舵を切らない限り,再生できないのである.それしか選択脂は残っていないと思う.

不良債務(悪い借金)を多く含む1000兆円の借金そのものが生産性を悪くしている元凶であるが,更なる巨額の財政出動を続ける事は,パイの拡大どころか,さらに生産性を落とし,社会主義経済に突き進み,行く末は,貧しい社会主義国家,財政破綻した社会主義国家への道を歩む事になる.

同時に,『金を使いたい人』は『民主主義の弱点』を認識すべきだと思う.

①『民主主義が引き起こしやすい重病』は『借金』と『ゆで蛙』である.
『優しい政治』,『大きな政府』は国民を『ゆで蛙』にし,財政破綻に向かう.

『公金を使いたい人』の思惑で上記①②の『民主主義の弱点』に陥ってはならない.その為にも,『納税・借金の目的』と『公金の使途』に厳しい監視が必要だと思う.同時に『小さな政府』への方向付けも,これを回避できる政策になる思うのである.

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