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2014.05.25

356 大飯原発再稼働差し止め判決にみる司法の問題

大飯原発の再稼働差し止め訴訟で福井地裁は『具体的な危険性があれば、運転が差し止められるのは当然』として,再稼働差し止めの判決を出した.毎日新聞は2024年5月22日の社説で、『なし崩し再稼働に警告』と題して、次のように報じた.

『福井県にある大飯原発の3,4号機の運転差し止めを住民が求めた訴訟で,福井地裁は、関西電力に対し再稼働を認めない判決を出した.判決の考え方に沿えば、国内の大半の原発再稼働は困難になる.判決は,再稼働に前のめりな安倍政権の方針への重い警告である.
 

2011年3月の東京電力福島第1原発事故後,差し止め訴訟で初めての判決だ.住民の生命や生活を守る人格権が憲法上最高の価値を持つと述べ,「大災害や戦争以外で人格権を広範に奪う可能性は原発事故のほか想定しがたい.原発の存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても,具体的危険性が万が一でもあれば,差し止めが認められるのは当然」と結論付けた.  

住民の安全を最優先した司法判断として画期的だ.福島第1原発事故で,250キロ圏内の住民に対する避難勧告が検討されたことから,大飯原発でもその圏内の住民に人格権侵害の恐れがあり,原告になれるという判断も示した.  

関電側は控訴する方針で、上級審が改めて判断する.この地裁判決が確定しない限り、原子力規制委員会の安全審査に適合すれば運転再開は可能だ.だが,司法判断を無視し、政府が再稼働を認めれば世論の反発を招くだろう.  

東日本大震災は,地震大国・日本に想定外の地震はあるという現実を突きつけた.判決はそれを踏まえて,大飯原発3,4号機について、地震の際の冷却機能と放射性物質を閉じ込める構造に欠陥があると認めた。原発の持つ本質的な危険性に楽観的すぎ、安全技術や設備は脆弱(ぜいじゃく)だという判断だ.  

訴訟で関電側は、再稼働が電力供給を安定させ、コスト低減につながると主張した。これに対し判決は「運転停止で多額の貿易赤字が出たとしても国富の流出や喪失というべきではない。豊かな国土とそこに根を下ろした国民の生活を取り戻せなくなることが国富の喪失だ」と退けた.  

いったん原発事故が起これば、多数の住民の生命を脅かす。判決が「万が一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置を取らなければならない」と電力事業者側に強く求めたことも納得できる.  

判決は「福島第1原発事故は最大の公害、環境汚染。環境問題を運転継続の根拠とすることは筋違いだ」とも断じ、原発の稼働を温暖化対策に結びつける主張を一蹴した.共感する被災者も多いのではないか. 

安倍政権は、安全審査に適合した原発の再稼働を進める方針を示している.だが、震災を忘れたかのように、なし崩し的に運転再開しないよう慎重な判断をすべきだ.』  

どうやら毎日新聞は我が意を得たりと『画期的な判決だ』としている.しかし私には違和感がある.いくつか列記したい.  

1)観念的・思想的であり、論理が短絡的である.  

地裁判決の根底に『住民の生命や生活を守る人格権は最高の価値であり、いかに、原発が利便性や経済的効果があるとしても、この価値を脅かしてはならない』とする考え方に立っているようである.

もっと端的に言えば、この判決に,『多くの人格権を奪う危険性のあるものはダメだ』と言うイチ・ゼロの人権主義者の思考を感じるのである.一方でエネルギーの確保は戦争になるくらい深刻な問題になるのだが,エネルギーが確保が出来ない事で人格権が奪われる事には無関心なのである.

このように、観念的、思想的な思考は論理が飛躍していたり、短絡的で独善的になりやすいのである.しかも、抽象化している為,現実を無視したり、現実から遊離したりするのである.

今回の判決で、観念的,思考的だと思う点を整理しておきたい.

まず最初に、『利便性や経済性より安全性が優先する』と言うのは一つの観念,思想である.この観念で判決を出し、原子力規制委や民主主義のプロセス等を無視しているのだから、いかにも観念的、思想的、判決だと思えるのである.

元来、司法の判決は,法律に基づいて行われる.今回でいえば、『この法律や行政プロセスが間違っているからダメ』と言うべきである.その間違いがないなら,司法が判断出来る根拠がなくなるのである.それでも判決を出しているのだから観念的と言わざるを得ないのである.

裁判官は自分が思う『正義』に従って裁いても良いと勘違いしていないだろうか.お代官であるまいし、法治社会では,正義の覇者ぶりを発揮するような権限は裁判官に与えられていないのである.

もう一つ,『危ないから再稼働を差し止める』とした事である.地裁が想定する天変地異が起これば,間違いなく,原発を差し止めていても,人格権は守れないのである.正しくは,『危ないから核燃料を撤去せよ』である.ここにも,観念的であるがゆえに、思考の浅さ,短絡さ,を感じるのである. 

さらにリスクの問題で言えば、『危ないからダメだ』と言う人は、都会、高層ビル、新幹線、飛行機、あるいは、サイバー社会、等の多くの安全性のリスクに対して,『使用差し止め』を言うのだろうか.そう言わないとすると、原発では人格権を優先し,それ以外は優先しないのだろうか. 簡単に答えられない問題にも関わらず,断言する所も、観念的である.

この判決の結果、『再稼働しなれば安全だ』と言う風説が流布し、『再稼働反対論者』『原発反対論者』を後押しする.間違いなく、再稼働反対で選挙の票を得ようと,全国で再稼働差し止め訴訟が越る.こうして,司法が政治活動に利用されていくのである.観念.思想に基づく判決の危険性も指摘しておきたい.  

当たり前のことだが、観念とか思想は諸説ある.そんなもので強制力のある重たい判決を出してはならないのである.司法が物差しにすべきは民主主義で決めた法律なのである. 

ついでに,観念的,思想的,思考の特徴を,二つあげておきたい.

『平和や人格権を侵害する,戦争,軍備,基地に反対』と言う人は,『平和や人格権を守る為に、どうするか』と問うと、言葉に詰まるのである.いかにも、主張が軽く、幼稚なのである.  

又、『日本国憲法第9条をもって平和憲法だ』と言う人に,『平和の為に命を懸けている国や人に,そんな事が言えるのか,』と問うと、これにも、言葉に詰まるのである.これも、思考がバランスを欠いている証拠である.

(2)司法権を越脱(乱用)している.  

前項で触れたが,観念的,思想的,思考は現実を無視する.今回の判決で言えば,福井地裁は『大飯原発3,4号機に冷却機能と放射性物資を閉じ込める構造に欠陥がある』として、運転を差し止めるのは当然としているが,地裁が想定している天変地異がどれほどの確率があるのか不明である.

何よりも,安全審査をしている原子力規制委員会を無視しているのである.さらに言えば,世界的にも厳しい審査の結果が出る前に,司法が再稼働は危険だと判断する事に司法の独断性を感じるのである. これなどは,まさに,司法権の乱用である.

又,合法的に事業をしている企業に再稼働差し止めを命ずる事も司法権の乱用だと思う.もし,再稼働に重大な問題があると考えるなら,どの法律や行政の裁量,あるいは危険度の判断や対策に問題があるのかを認可している管理監督機関に指摘すべきなのである. 

企業に法律違反があるなら別だが,企業からすれば『俺に言うな』,『再稼働の判断は規制委,政府,自治体の判断だ』と言う気分だと思う.原発毎に差し止め訴訟が起これば,企業は規制委,政府,自治体に加えて司法対応が必要になり,大変なオーバーヘッドになるはずである.

そもそも原発再稼働には自治体の許可が必要になっている.従って,住民は差し止め訴訟を起こす必要がないのだが,それでも差し止め要求をしたいなら,自治体にすべきである.司法が門前払いをせず、この要求を受けたこと自体が、司法の乱用に繋がったと思うのである.

今回の司法権の乱用で,今後,全国の原発で再稼働差し止めの訴訟が政治的意図を持って、起こると思う.ますます,民主主義の機能や規制委の位置づけがおかしくなるのである.訴えられた企業の負荷も,規制委,政府,自治体との対応に加えて,司法対応が加わって,極めて重くなるのである. 

司法権の乱用は時々感じていた.二つ例を挙げたい.

一つは,『諫早湾干拓を巡る裁判』である.現在,二つの裁判所が違う判決を出して,長期間もめているが,元来,法律に照らして問題がなければ,開聞すべきか,否かの判断を裁判所がしてはならないのである.政治で決着すべき問題を司法が判断すれば民主主義が成り立たなくなるのである.

原告は政治決定に不満があれば,政治ではなく司法に訴える事が多く見られるが,原発差し止め要求と同じように,法律違反がなければ,司法は門前払いすべきなのである.

『一票の格差の判決』もそうであった.許容できる格差の程度とは何か、格差を生んでいる原因は何か、格差を生まない選挙制度とは何か,等,立法権を縛る判決を出したのである.どの国も政治が決定したルールを司法が自らの格差の判断基準で違憲だ,等とは言わないのである.

たとえば,どんな小さな県でも,最低一人の国会議員を割り当てる,と言う制度があっても,平等に違反していると司法は言わないのである.少数意見をくみ取るとの政治判断を優先しているからである.

司法権の乱用は,そのことの問題にとどまらず、間違いなく、乱用を増やし、政治活動の手段として利用される事につながると思う.そうなったら,裁判官が民主主義にとってかわり、お代官様時代に戻るのである.  

そんな事で,『差し止め判決』の上級審では,司法の乱用があるとして,地裁判決を破棄すべきなのである.もし,差し止めが司法で確定し.規制委,自治体,政府の考えと対立したら,我が国の政治はどうなるのだろうか.間違いなく,民主政治ではない,お代官様政治になるのである.繰り返すが法治国家の司法は『法律で裁く』事に徹するべきなのである.

3)政治に利用された,政治が利用した判決である.  

観念的、思想的な判決で、しかも、司法権の乱用が懸念される判決は、政治に利用されるか、政治が利用するか、につながる.どちらにしても,司法の場を使って政治活動をする事になるのである.

今回の原発再稼働の差し止め要求も,上記の通り,自治体に要求せよと門前払いすべきだったと思うのだが,そうしなかった為に、本来、政治の場で議論すべき事が司法の場に移ったのである.裁判所が議会になった感じである.

このような政治的意図を持った訴訟や裁判は多数決では負ける政治集団がよく使う手である.国会では戦えないので,司法を利用するのである.そこで、同じ思考をする裁判官に、訴訟を持ち込むのだが,その結果,民主主義で決めた法律やプロセス,それによる決定が無視される事態になるのである.そうなれば,民主主義ではなく,司法が政治を決める事になる.  

繰り返すが、司法は観念や思想で,あるいは,司法権を乱用して,判決を出してはならないのである.あくまでも法律にもとずく判断をすべきなのである.政治が及ばない分,有識者,マスコミは厳しい目が必要だと思う.弾劾裁判も有効に機能させるべきだと思う.

(4)この判決で日本の原発の根本的問題は何一つ解決しない.  

観念的に,思想的に,『再稼働差し止め』とか『原発反対』と叫んでいても、選挙の票を得る事が出来ても,原発問題はなにも解決しないのである.その人たちに、それでどうするの,と問うても答えがないのである.  

『徐々に脱原発』『即脱原発』『再稼働反対』のどの主張であっても,現実的に,具体的に,次の根本的な問題を解決しない限り,日本の原発問題は何も前進しないのである.(勿論、危機感をもって必死に取り組んでいる、科学者、事業者、政治家、はいると思うが)  

その『原発の根本的問題』を改めて10項目列記しておきたい.

①原発被害者対策の改善
②福島第一原発の安全確保と廃炉対策(未知なる長期にわたる挑戦)
③代替エネルギーの確保
④全国の停止中の原発の安全確保
核燃料(使用済含む)の安全保管と永久処分対策
⑥廃炉(核燃料撤去)原発の決定と実施(⑤と関係)
⑦存続原発の安全審査と再稼働(③と連動)
⑧原発技術者、現場作業者の確保と育成
⑨次世代原発や放射能汚染に関する研究開発
⑩上記①から⑨に関する財源問題

この解決には、科学的技術的要素が大きく、政治が判断できる部分は少ないかもしれないが,単に『原発反対』,『原発再稼働反対』と騒いでいるだけでは、本当に何も解決しない事を国民も知る必要があると思う. 

以上、『再稼働差し止め』判決は観念的・思想的であり,司法権が乱用され,政治に利用される,との懸念を挙げた.同時に,日本が取り組むべき原発の根本問題を挙げ,今回の判決では何も解決しない事も指摘した.

ここで得た私なりの所見は,政治問題は政治で解決すべきである.司法が法律や手続きの間違いを指摘する事はあっても、合法的なプロセスで決定した内容を『観念や思想』で否定する事は司法権の乱用、民主主義の崩壊になると思うのである.  

冒頭掲げた新聞の社説は『我が意を得たり』とばかりに喜ぶあまり,客観的な視点が抜け落ちているように感じた.これでは,素人の発言と同じである.あるいは政治的意図があって,あえて客観性を排除したのだろうか.いづれにせよ,この社説に違和感を感じたのである.

そんな違和感から,専門的に間違いがあるかもしれないが,私なりの視点で,率直な感想を述べてみた.少しは,ものの見方が客観的で本質をとらえていると思うのだが.

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