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2014.06.27

359 2014 W杯一次リーグを終わっての感想

2014年のW杯一次リーグC組の日本は,最終戦の対コロンビア戦に1-4で敗れ,C組の最下位が決まった.日本の成績は初戦のコートジュボワール戦で1-2で逆転負けをし,ギリシャとは0-0で引き分け、都合 0勝2敗1分けで終わった.大事な初戦で逆転負けした事で波に乗れなかったのか知れない.

しかし,全体的には『悔しい』,『残念』と言うより,『やっぱり』,が実感である.『本来のサッカーが出来なかった』ではなく,『日本の力を存分に出した結果だった』と思ったのである.

今回のW杯一次リーグでは,アジア勢が1勝もできず全て予選敗退、スペイン、ポルトガル、イギリス、イタリアも敗退.中南米、南米の活躍が目立った.これから激しい決勝トーナメンドが始まるが、どの試合も決勝戦のような激戦と,これぞサッカーと言う試合を見せてくれると思う.

そんなわけで、いよいよW杯は佳境にはいるのだが、これまでの感想を述べてみたい.

1.日本サッカーの感想

FIFAの公式記録にもあるように、日本の戦い方がデータにはっきり表れている.C組の国別比較でみると日本は,

①ボールの支配率が50%を超えている,
②ボールのパス回数が断トツに多い,
③シュート回数も多い
④しかし,シュートの7割が枠外であり、決定率は最低である

これが日本の『パスサッカー』の実態である.これに加えて,PKもなく,CKやFKによるセットプレーも点に結びつかず,これでは勝てるわけがなかったのである.

サッカーはもともと点が入らない難しいスポーツである.日本はそれに輪をかけて、パスサッカーと言う、針の穴を通すような難しいサッカーで時間を費やしてしまった感じがするのである.

肉体的な,或いは,個人技の差を補う為に,パスサッカーと言う組織力で戦う事を日本の戦い方にしたのだと思うが,はっきり言って,通用するところまで,力がついていなかったと思う.

また,5月に代表に入ってきた大久保の『俺が俺がの性格』によって,本田,香川,長友,岡崎の長年の微妙なコンビネーションを崩したとの批判もある.なぜ代表に,との疑問が5月時点であったことは確かである.ザック監督は決定力の弱さを強くしたいと考えたのかもしれない.しかし,土壇場の手は善手にらない事は勝負師なら知っているはずだが.

又,長友の攻撃力を抑える為に,攻めによって,押し下げられた事も,日本の組織力の分断につながったと思う.

その事もあって,パスサッカーが機能せず『インターセプトによるカウンター攻撃』の格好の餌食にされ,日本選手は上がったり,下がったり、振り回わされたのである.

パスサッカーが通用しなかった真の原因は,サッカーの基本である『キックの精度の悪さ』である.相手のプレッシャーを受けた時、無理な姿勢のまま、苦し紛れに、キックしている事が多かったように思う.これではパスにしろ、クロスボ-ルにしろ、シュートにしろ、キックの精度が落ちるのは当然なのである.

日本人の習性かも知れないが、プレッシャーを受けると、ボールを奪われないように、すぐボールを離したがるところが見える.シュートの7割が枠外だと言うのも、相手にボールを奪われない内に、シュートで攻撃を終わりにしたい、との『逃げの心理』が働いているように感じた.

日本戦を戦ったコロンビアを見ると、ボール支配率が低く,パス回数も,シュート回数も少なく,全く日本に劣っているように見えるが,枠内シュート率と決定率は断トツに高いのである.見事なシュートだけに,いとも簡単に決めているように見えるのである.

コロンビアが簡単にゴールを決めているように見えるのは、『打つ姿勢を作ってから,打っている』からだと思う.これに対し日本勢は,激しいプレッシャーの中で、苦し紛れに、やみくもに、ムリな姿勢で,打っていると感じたのである.これではシュートの精度が上がるわけがないのである.

『シュート力』とはボールを受けて,相手をかわして、打つ姿勢を作って,シュートするまでの一連の動作の事を言うのだと思う.決して、止まっているボールを正確に打つ能力ではないのである.従って、CK、FK、PK、の練習と、シュート、クロスボール、パスの練習とは全く違うと思うのである.

この『シュート力』はコロンビアの選手だけではなく、どの国の有力選手も、高い能力を持っている.当たりの強さもさることながら,身をかわすにしても,走りぬけるにしても,スピードが全く日本選手と違うのである.今後,日本がパスサッカーを続けるとしても、サッカーの基本である,この一連の動作による『シュート力』の向上を徹底的に鍛える必要があると思う.

その為には,『背があって,足が速く,骨太の人』が必要だと思うのだが,無いものねだりだろうか.以上,サッカーに素人ながら,勝手な感想を述べた.

2.高温多湿の場所、季節の問題

まず、どの試合も、高温多湿の中での激しい戦いであった.アジア勢が惨敗し、ヨーロッパ勢が苦戦し,中南米,南米の活躍が目立った事と関係しているかもしれない.

特に、こんな季節では、日本チームのように、一人何役もこなすサッカーは適していない.割分担をはっきりさせたサッカーの方が,いざと言う時,力が発揮されると思う.いづれにせよ、4年に一度の開催なのだから、涼しい場所、季節を選ぶべきだと思ったのである.

3.施設の遅れなど気にしない、ブラジルの精神

あれだけ施設が間に合わないと言われていた中で、なんとか開催にこぎつけた.いくつか未完成の施設はあるものの,大会に大きな支障は起こっていない.サッカーさえできれば何の問題もないと言うサッカー大国らしい感覚なのかもしれない.

日本的完璧主義から,ブラジルの国民性を軽蔑するような報道が多くあったが,おおざっぱなブラジル精神に、そんな完璧主義が拍子抜けになって,逆に,『これもありか』と感心したりするのである.

かといって,2年後のリオデジャネイロ・五輪の準備遅れに問題がないと言えるのだろうか.貧富の差が大きい中で,五輪投資にに反対す勢力もある.はたして,サッカーで国を統治できても,五輪で同じことができるか,きわめて心配になるのである.

4.一番の問題は日本のマスコミ

最後に日本のマスコミの問題である.日本のマスコミはW杯特需を狙ってか、人気を煽る側に立って騒ぎ、まともなサッカー論議も批判も出来ない空気を作っていたのである.

まるで戦争を煽っていた戦前のマスコミと同じような対応である.しかも、この人気の煽りは敗戦とともに,一過性で終わってしまうのである.それどころか,今まで伏せておいた主張が関を切ったように,手のひらを返したように,吹き出てくるのである.マスコミのいい加減さ,無責任さ,に唖然とするのである.

海外のマスコミはサッカーの興味を盛り上げる為に、徹底的に戦力分析や戦術論議や厳しい評価をしているのだが、これが、国民のサッカーの見る目を育て,サッカーへの興味を盛り上げているのだと思う.

そこで,日本の『人気を煽るテレビ番組』から『サッカーの興味を盛り上げるテレビ番組』になって欲しいと思った.こんな感じである.

人気を煽るテレビ番組の場合

『W杯がいよいよ始まりますが、日本に必要な事は何ですか』
『充分、決勝トーナメントに進出できる力があり、まずは初戦に勝つ事です』

サッカーの興味を盛り上げるテレビ番組の場合

『W杯がいよいよ始まりますが、日本に必要な事は何ですか』
『実力はどの相手も日本より上だと思います.そこで、パスサッカーで攻めまくるとしても、カウンター攻撃でやられる可能性が高くなります.そこで、逆に,守りを固めて,カウンターを狙う戦術も有効な選択だと思います.いずれにせよ、作戦の徹底とメンバーの人選がきわめて重要になると思います.監督がどんな作戦をとるのか注目したい』.

以上、一次リーグを通じての感想だが、一番の印象は『人気を煽るだけのテレビ番組』である.これでは日本のサッカーは世界に通用しないと思ったのである.

決勝トーナメントでは,人気を煽る日本チームがいないのだから,名誉挽回する為にも,サッカーの興味を盛り上げる番組を提供して欲しいと思う.戦術,選手,技量,日本との差,等,試合を通して,徹底的に分析し,日本の若者に伝えて欲しいのである.これこそ,W杯のもう一つの大きな意義だと思うのである.

ところで、プロスポーツは言うまでもなく、選手も、チームも、用具業界も、マスコミも、ビジネスとして行われているのだが、今回のサッカーーと同じように、前人気を煽る事に走りすぎて、結果がついてこない事が多い.サッカーだけでなく、人気があるゴルフ等も、人気を煽る割に、世界ノレベルにほど遠い状態が続いている.

これではテレビ放映もスポンサーも減って行くと思う.色んなスポーツがビジネスとして発展する為には世界レベルの選手を育成する事である.そこに向けた施策が乏しい様に思うのである.繰り返すが、実力を無視して人気を煽る事はビジネスの衰退に繋がるのである.

5.もう一つ気になる事(刺青の事)

日本や韓国以外,どの国のチームも多民族人種の混成である.それだけで,日本は劣勢を感じたり,日本の異質さを感じてしまうのだが,今回、改めて感じた事がある.それは,刺青をした選手の多さである.極限にいる人にとって刺青は心の支えなのだろうか.単なるファッションなのだろうか.

とにかく,日本の『刺青を良しとしない文化』が異質であるかのような多さである.日本文化など吹っ飛びそうである.『刺青した人はお断り』などと言えなくなるのである.

日本人は刺青への抵抗感を持ちつつも、『表向きには』,入学も、学生も、スポーツ選手も、就職も、社員も、公務員も、教師も,政治家も、温泉・旅館も、公序良俗の感覚も、『刺青は自由』と言う事になるのだろうか.それとも『日本人だけ刺青はダメ』と言う事にするのだろうか.

更に,『刺青はダメ』と言う日本文化を世界に広めて行くべきなのだろうか.それとも,『刺青は自由』と日本人の文化を変えて行くべきなのだろうか.サッカーを見ながら,そんな余計なことが頭をかすめ,ゴールの瞬間を見逃してしまったのである.

又,米国大リーグで、現在も、試合中、唾を吐く選手が多い.日本人としては、生理的に気分が悪くなる.だらしない人間に見えて来る.こちらの方は,個人の自由や文化の問題ではなく、自信を持って,マナーの問題として,世界的に禁止を訴えるべきだと思う.放映権を買う時,これを条件にしたらどうだろうか.

プロスポーツは貧困者のドリームとして形成されて来た側面があり,文化度,マナーは,もともと低い所がある.文化度,マナーを上げる為にも,『刺青をしない国』,『試合中,唾を吐かない国』は,世界から支持されるのではないか,と思ったりもする.それとも,多勢に押されて,異質な国として孤立するのだろうか.

国際化とは文化を認め合う事,個性を発揮する事,だと,きれいごとを言うが,はっきり言って文化の衝突であり,葛藤であり,淘汰である.今,世界は日本文化ブームだと言う.日本は文化を受け入れて来た歴史が長かった事を思えば,今度は,熟成された文化を世界に出す時代に入ったのかもしれない.日本文化に自信を持つ時代なのかもしれないのである.

当ブログで度々,文化論を述べて来たが,その中で,洋風化が蔓延している中で,日本文化の最後の砦は『靴を脱いで家にはいる文化』だと言った.これは,『内と外を分ける日本文化の象徴』なのだが,現在,世界各国で,『靴を脱いで家に入る文化』が増えていると言う.近いうちに,靴を履いたまま,リビングや寝室に入る事が異常なことになると思う.日本文化に自信を持ってもよい決定的な例である.

サッカーに負けたが,『なぜ日本選手は刺青をしないのか』をアピールしたらどうだろうか.自然と刺青をしない日本文化が世界に浸透しないだろうか.

追記(7月10日)

本日決勝進出チームが決まった.ブラジルを大差で破ったドイツとPK戦でオランダを破ったアルゼンチンである.

ところで、決勝戦の前日にブラジルとオランダの3位決定戦があると言う.優勝を狙って全力で戦ってきたチームに、3位,4位を決める試合をさせる事に大きな違和感を感じるのである.

興行的意図があるのかも知れないが、世界の頂点であるワールドカップの品格としては、『優勝』以外は順位を付けず、『ベスト4』、『ベスト8』、『ベスト16』で良いのではないかと思う.

又、3位決定戦にサポーターも選手もモチベーションが上がらないと思うのである.世界の観衆も、ブラジルとオランダのどちらが3位、4位になるか、興味があるだろうか.『ベスト4』のままで良いと思うのである.

最後に備忘録として『ベスト4』の決勝トーナメントの戦歴を記しておきたい.ブラジルの7失点を異常値とすれば、どのチームも失点が極めて少ない事が特徴である.まさに強いチームの証である.

ドイツ     :アルジェリア(2-1)、フランス(1-0)、ブラジル(7-1)
アルゼンチン  
:スイス(1-0)、ベルギー(1-0)、オランダ(0-0)PK

オランダ   :メキシコ(2-1)、コスタリカ(0-0)PK、アルゼンチン(0-0)PK負け
ブラジル   :チリ(1-1)PK、コロンビア(2-1)、ドイツ(1-7)

上記ベスト4は ドイツ、オランダの『組織力サッカー』 対 アルゼンチン、ブラジルの『個人力サッカー』の対決であったが、はたして決勝はどちらに軍配が上がるだろうか.

 

 

 

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2014.06.20

358  東京ブラックホール現象からの脱却

日本創生会議(座長;増田寛也氏)は人口データをもとに、2040年までに消滅する可能性のある896の自治体を発表した.示唆している内容は次の通りである.

長い間、地元に仕事がなく,交通の便が良い事もあって,長男も含めて,若者が東京に集まった.地元では若者が減り,子供もいなくなって,高齢者ばかりになる.そのうち高齢者の死亡とともに,住民がいなくなると言うのである.これが自治体の消滅である.

一方,人口が集中する東京では,人口は増えるが,結婚年齢も高くなり,出生率が低くなる.子供が増えず,結果的に国全体の人口減の原因になる.又、一極集中の東京では高齢者も集中している.介護施設も、介護士の数も、社会福祉財源も、対応できなくなるのである.

この東京一極集中が引き起こす一連の現象を『東京ブラックホール現象』と言うのである.

従来より、東京一極集中の問題は議論されて来たが,東京集中の経済的メリットが大きく,一極集中が止まる事はなかった.そんな中で、『東京ブラックホール現象』が『新たな一極集中の問題』として提起されたのである.

この『東京ブラックホール現象』から脱出するには,地方の中核都市を中心に、東京の負荷分散をし、東京の限界をカバーしなければならないのである.これによって、国全体の経済、医療、介護,人口増加,を確保しなければならないのである.

ところで、この『東京ブラックホール現象』は,これまで巨額の国家予算を使って進めて来た地域振興策が失敗だったことを意味している.その理由は簡単である.経済性や必然性をでっちあげて予国家算を取ってきただけだからである.いわゆる,『ばらまきの景気対策』でしかなかったのである.

一時しのぎの金が欲しいだけの公共事業の残骸が全国にどれほど多くあるだろうか.しかも,借金だけが残っているのである.この轍を踏まずに,どう地方を活性化すべきかが今、問われているのである.いくつか施策を考えてみたい.

一番目は国の統治機構の改革である.維新の会が主張している央集権体制から地方分散体制への転換である.これによって,地方の」責任,自立,都市間競争を進めるのである.勿論,国家の統治機構の再設計が必要になる.

二番目は地域拠点作りである.その為に,特定地域に,インフラ,産業,人口を集中させて行く事である.この地域拠点が栄えなければ,その地域は衰退するだけである.人口流出は問題だと言っても,流入する方からすれば,歓迎なのである.まさに人口流出,自治体消滅は理にかなった現象だとも言えるのである.

三番目は従来とは違った地方経済の振興である.ネット社会を前提に,自然立地,産業立地,経済立地,等の競争優位性,あるいは独自性の発揮が期待できる事業の振興である.又、市場として、地域、国内,世界,のどこに視点を置くかも大事である.この軸を外すと確実に失敗する.

四番目はそれぞれの地方都市が世界に認知された国際都市になる事である.海外からの受け入れ体制も,海外企業の誘致も大事である.海外都市へのマーケテングも必要である.今までの様に,日本の地方都市が世界に知られていない事から解消しなければならないのである.

五番目は,就労人口の拡大である.その為、大学の数を抜本的に見直すべきである.大学は,遊びの機関,フリーターを作る機関であってはならないのである.具体的には大学の数を県の数くらいに縮小し,専問学校にシフトする事である.その生徒の就職先も地方で可能にする事である.同時に教育を生涯学習に切り替える事である.

六番目は地方分散もよいが,その中で,『関東平野の拡充』の方が効果的だとする意見もある.広い関東平野に産業,人口を分散させる事で,集中の限界を弱め,出生率を改善し,人口を増やそうとする案である.

この様に東京ブラックホール現象の抜本対策は地方への産業・就労人口の分散をどう図るかである.分散が出来なければ地方は栄えないのである.これなくして,東京一極集中による晩婚化や出生率低下の問題は解決しないのである.現在の東京で,いくら子供を育てやすい環境を作っても,この問題は解決しないのである.

最後に覚悟すべき事もある.経済が発達し,社会が成熟に向かうと人口が減ると言う現象である.『貧乏人の子だくさん』が自然の摂理だとすると,日本の人口は減少方向にあると言えるのである.

経済が発達し,社会が成熟して行くと,高学歴化,価値観の多様化,晩婚化,女性の社会進出化,個人消費の増加,生活費用の増加,核家族化,共稼ぎ所帯の増加,専業主婦の減少,高齢化,等,が起こり,明らかに,少子化要因になるからである.

そう考えると,出生率を2.0以上にする事は難しい事になる.だとすると地方の活性化で,たとえ人口が地方に移っても少子化が止まらない事になるのである.

かと言って,古来の専業主婦文化を持ち出して,女性に出産,育児,家事,介護,をお願いする事で少子化を防ぎ,公助の費用も削減できると考えても,政策として打ち出せば,今日では人権問題になってしまうのである.ましてや妾文化,や一夫多妻文化も持ち出せないのである.

そう考えると,少子化を前提にした社会の考え方も必要になる.勿論,国家運営のあり方も,個人の考え方も,変える必要がある.それを,国民一人一人が考え始めると,少子化が止まるかもしれないのである.これが一番重要な事かもしれない.

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2014.06.18

357 日本の安全保障問題と憲法の考察

安倍総理は安全保障の強化の為に,現憲法下で取りえる強化策について議論を始めた.特に個別的自衛権に加えて,従来,行使出来ないとして来た集団的自衛権を限定的に(第9条に違反しない範囲で)行使出来るように検討すると言う.(ちなみにドイツは国連およびNATOの加盟国として,集団的自衛権の行使を決意している)

又,国連決議に基づく,集団安全保障活動で日本がどこまで参加できるのかも議論される.さらに言えば,個別的自衛権の分野になるが,他国の武装漁民が島に上陸し,実効支配しようとした時の対応についても検討すると言う.

この議論の前に,改めて,現行憲法の成り立ちについて整理しておきたい.

この第9条は『もう戦争は絶対嫌だ』と言う国民の声、悪い日本を無力化したい連合軍、反共の砦として日本に米国軍を駐留させたい米国、経済復興一本に集中したい日本政府,の思惑が一致して制定されたのだと思う.

1946年公布された当時,米国の統治下にあった事もあって,当時の吉田茂総理は、自衛権も放棄していると憲法を解釈していたのである.まさに日本は米国に統治された『非武装国家』から戦後の歴史が始まったのである.

1952年サンフランシスコ講和条約の発効で日本の独立が認められると、吉田総理は憲法解釈を変更して、独立国に専守防衛の自然権がある事は当然だとして,1954年自衛隊を編成したのである.そして,1960年日米安全保障条約を締結し,今日の米国軍の駐留による安全保障体制を作ったのである.

吉田総理は自衛隊発足時、憲法解釈ではなく,憲法を改定すべきだったと思うが,当時としては,憲法改定の方法もなく、実際、改定の法律を作り、国会で成立させ、憲法改定内容を作り、国会発議をして、国民投票にかける、と言う膨大な作業をする時間はなかったと思われる.それより、経済復興に専念する事が最優先で、国民の信を得た新憲法を作ることは後世の宿題にしたのである.

結局,その後,今日に至るまで,驚くことに,憲法改定手続きも作らず,勿論,憲法改定もされず占領下の憲法がそのまま、国民の手が届かない所に祭られているのである.米国の現憲法草案者すらも憲法が改定されていない事に驚いていると言うのである.

上記の経緯でも明らかなように、現憲法には多くの問題点(ここでは省略するが)を抱えたまま、放置されているのである.

その問題点の中で、安全保障に関する事を洗い出しておきたい.

1.先ず、第9条の『戦争の定義』の問題である.

第9条の放棄した『戦争の定義』がない事が,いつも,憲法解釈の議論を呼ぶのである.今回の安全保障強化の議論も,第9条の戦争の定義をはっきりしていない事で,複雑になる.そこで『放棄したとする戦争の定義』だが,次の二つの考え方がある.

① 自衛権行使に『専守防衛』と言う制約を付ける事で,第9条に抵触しないとの考え方.と言うことは,第9条で言う『戦争放棄』とは,『自衛戦争』も含まれると解釈した上で,例外的に,専守防衛行動は許されるとした.

② 『戦争放棄』とは,先の『侵略戦争』を指しており,自衛戦争は,これに含まれない,と言う考え方.論理としては,はっきりする.しかし,そう解釈すると,『何をやっても自衛の為』と言う大義で戦争が勃発し,第9条が空洞化してしまう可能性がある.そこで,暴走を防ぐ為に,自衛権行使に『専守防衛』と言う制約を付けているとした.

さて、『第9条の戦争放棄』と『自衛権行使』の関係をどう考えるべきか、今更ながら、曖昧なのである.合憲とした司法も、どちらの解釈をしたのか定かではない.この問題は、次の事態になった時、窮地に立たされるのである.

2.自衛権行使が戦争状態になった時の問題

自衛権は攻撃を抑止する意味が大きいが,もし、自衛権行使(専守防衛行動)によって戦争状態になった時,第9条に従って戦争を放棄するのか,自衛戦争の大義で戦争を続けるのかの問題にぶち当たるのである

3.日本の安全保障全般にわたる問題

①専守防衛だけで個別的自衛権が機能するのか,国際法,国連決議,集団安全保障,国際的テロ,サイバーテロ,毒物テロ,武器の技術革新・無人化,等への対応をどうするのか、日本はこれまで、これらの問題に思考停止していたが,今後もこのままで良いのか.

②自衛隊が憲法に記述されていない事で、国内では軍隊ではなく、国内法が適用される.有事の時の自衛隊の行動の法的根拠(有事法制)も作れない.武装漁民(相手国の軍隊ではない)が島に上陸した時の武力による対抗方法がない.などの問題がある.

そんな訳で,日本国憲法は,『理念は高いが、非現実的』、『理念は高いが、安全保障は隙だらけ』、国際的には『理念は高いが、何もせず』、さらに、『理念は高いが世界から孤立』になっているのである.

4.第9条は実質無効になっているとする説もある.

①第9条の前提が崩れているのだから、第9条は無効だという説もある.前提とは憲法の前文である.

前文では、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した』とあり、その結果、『第9条の戦争放棄と非武装を宣言した』のである.従って、諸国民が信頼できない状態であれば、第9条は無効だと言うのである.筋は通っている説である.

来、『平和を愛する諸国民を信頼して戦争放棄、非武装を憲法に書く事』、自体が独立国として不思議なのだが,『米国占領下の憲法』と捉えれば不思議ではない.

すなわち,『諸国民(連合国)の言う通りにするから、武力も交戦権も戦争も放棄する』(無条件降伏)となるからである.護憲論者は独立後も,それで良いと言うのだろうか.

しかし,独立国の憲法として,戦勝国に日本は『服従するから非武装にする』はないのである.こんな憲法を今日まで改定しなかった日本は本当に憲法改定できるのか不安になるのである.それとも,日本は未だ米国の配下にあるのだから第9条のままで良いと言うのだろうか.

自衛隊を合憲と司法が判断した事によって,第9条第2項(交戦権放棄)は意味がなくなったという説もある.自衛と言う交戦権の行使を認めたからである.

以上,安全保障については問題だらけの憲法なのである.この憲法の上で、これ以上議論することのむなしさを感じるのである.言葉遊びになるからである.

そこで、新憲法の制定が急がれるのだが、なんと言っても、日本の安全保障に関する考え方を政治家も国民も、しっかり持っている必要がある.しかし、現憲法に思考まで縛られて、覚悟をもって、真剣に議論してこなかったように思う.その結果、米国占領下の一国平和主義に止まっている感じがするのである.

そこで、本来,どうあるべきか、を考える時の選択肢を挙げてみた.

①いかなる戦争も放棄し,交戦権も武力も持たない.
②限定的な個別的自衛行動(専守防衛)を行う.
③国連憲章で認められた個別的自衛行動を行う.
④限定的な集団的自衛行動を行う
⑤国連憲章で認められた集団的自衛行動を行う.
⑥限定的な集団安全保障活動を行う.
⑦国連決議に従って,集団安全保障活動を行う.

さて、どう考えるべきなのだろうか.各政党は、しっかりした考え方と覚悟をもって、『安全保障のあり方』を作り、これを争点に選挙をすべきだと思うのである.それを踏まえて、憲法改定案の作成、国会発議、国民投票に進むべきだと思う.

とは言うものの、憲法改定案の作成にしても、国会や国民から憲法改定案に対する賛否の取り方にしても、国民投票の仕方や期間にしても、関連法律の改定にしても、課題は山済みである.

私見では10年くらいかかりそうである.ひょっとすると、改定すら出来ないかもしれないのである.3分の1の反対で国会発議が出来ないからである.だとすると、世界情勢への対応で憲法解釈変更を繰り返すしかなくなるのである.そうなれば,第9条の空洞化まで解釈が進むかもしれないのである.

そんな中,政府与党は現憲法の解釈変更で出来る範囲の検討を始めた.

政府,与党は,現実の国際情勢に対応する為、憲法解釈で実現できる範囲で,冒頭の議論を始めたのである.具体的には、従来の限定的個別的自衛権に加えて,集団的自衛権への対応の問題、集団的安全保障への対応の問題,武装漁民の不法上陸への対応の問題(有事対応)を政策課題にあげたのである.

いづれも、第9条に抵触しない内容の検討をせざるを得ないのだが,個別的自衛権と同じように、限定的とか制約付とかの修飾語がついて回る議論になりそうである.しかし,いくら修飾語をつけても、第9条との関係は増々わかりづらくなると思う.

このような政府,自民党の動きに対し、『日本の右傾化』、『戦前への回帰』だと非難する国がある.日本が自国の発展にとって邪魔で、日本を無力化のままにしておきたいと思っている国である.又,最も軍事に力を入れている国でもある.自己中の分かり易い反応である.

国内にも,『戦争が出来る国になる』、『殺したり、殺される国になる』,『徴兵制が復活する』などと、これらの検討に反対している党や人がいる.もともと,護憲論者で、戦争放棄、非武装論者である.しかし,それで日本の安全保障をどうすべきなのかビジョンが見えないのである.危機を煽って,自分達の支持を増やせば良いと考えている様に見えるのである.

この人達は平和を守る為に、命を懸けて戦っている人に、口をつぐむのである.又,『安全保障は話し合いで行うべきだ』と良く言うが、その人達に、頼むから、『相手国に言ってくれ』と言いたくなるのである.

以上が『現憲法下』の安全保障の難しさを述べた.各政党は持論を掲げ議論すべきだと思う.対案もなく,政府与党の批判だけでは、議論にならないからである.

最期に将来の『憲法改定に向けての基本的な問題』を挙げておきたい.

従来のように、憲法改定手続のない中での無責任な議論ではなく,憲法を改定する前提で、建設的な議論をして欲しいと思う.そこで,是非、議論して欲しいテーマがある.

①一つ目は『憲法の在り方』の問題である.

・まず、憲法で『武器や軍隊は戦争の抑止,交渉の圧力と言う意味と,いざと言う時の実力行使の為に保持する.その行使内容は文民統制で行う』と極めてシンプルな憲法の定めにする考え方ある.

特徴は安全保障の行動内容を,憲法で明文化していない事である.明文化しようとしても安全保障の行為を定義出来ない事も理由である.例えば、自衛と言う言葉は過去の戦争を全て自衛戦争だとも言える位、概念の幅が広く,かつ、一国が独善的、恣意的に使う言葉である.それゆえ、憲法で『自衛の為の・・・』と言えば青天井になるのである.

もっと基本的な考えは、『安全保障の行為』を,その時々の,文民が考えるべきだとしている事である.まさに主権在民の民主主義を地で行く考え方である.当然の事ながら、安全保障政策が常に選挙の争点になる.

・一方、現日本憲法のように安全保障の考え方,行為を憲法に記す方法もある.その時々の文民の意思より,憲法で規定しようとする考え方である.その時々の文民の意思に左右させないとの考え方である.

言うなれば,憲法はバイブルであって,政治の手段ではないとの考え方である.従って、憲法改定はしない方がよいと考えるのである.憲法は国民が作るものではなく、与えられるものだ、と言う律令制度のDNAを引きずっているのかもしれない.

この考え方は、情勢によって憲法が足かせになる事も考えられる.文民統制や民主主義が信頼出来ないとの思いも背景にあるかもしれない.又、この考え方の憲法の下では、いろんな出来事に対応する為に、まず、憲法解釈から議論が始まる.この憲法解釈論争は最終的には司法の判断となり、民主主義より司法が優先される事になるのである.

司法の憲法解釈なしに対策が打てないことになると、これは『立憲主義』ではなく、実態は『お代官様主義』になる.まさに、現在の日本と同じ状態が続くことになる.

これは、安全保障問題だけではなく、日本国憲法は理念的な記述が多く、どの条文も解釈の幅がある.従って、司法権はその分、大きくなっているのが特徴である.民意より司法の解釈が優先する社会に民主主義の危機を感じるのである.

さて『文民統制を重視するか』,『憲法を重視するか』,次の憲法をつくる時、是非検討すべき大きなテーマだと思う.

私見によれば,憲法で理念や抽象的なことを書かない方が良いと思う.言葉を定義することが困難だからである.従って,憲法では軍と武器の保有を宣言し,その行使は文民で決断すると言う文民重視の考え方が適切だと思うのである.

②二つ目は『憲法改定内容の賛否の取り方』の問題である.

68年間も凍結状態になっている憲法改正は大掛かりな改正になる.そこで、国会発議もそうだが、国民投票で賛否を得る方法が極めて難しくなる.

あの条文は賛成だが、この条文は反対だ、が起こるからである.多くの条文変更に対して、一票で意思表示できるわけがないのである.かと言って、条文ごとに国会発議と国民投票を行うことになるのだろうか.

人や政党を選ぶ選挙のように,アバウトでは済まないし,頻繁に改正出来ないのである.何か良い方法を考える必要がありそうである.さらに言えば投票期間や投票方法なども具体的に検討すべきだと思う.今のところ、心配するだけで、対案は持ち合わせていない.

さらに言えば,憲法改定内容にもよるが,改定によって,膨大な既存の法律を見直し,国会の審議も必要になる.そこで,もめる事も考えられる.そんなわけで.憲法改定には10年くらいかかるかもしれないのである.

その期間中で、世界の情勢も変わる可能性もある.とにかく、68年間、改正手続きも持たず、憲法を改正して来なかったツケが大きく、改定内容も、投票の仕方も、関連法案の改定も、本当に日本人が出来るのか、きわめて不安になるのである.

以上、現憲法下の安全保障の問題と今後の憲法改定について、本質的な問題を述べて来た.是非、これで議論を展開して欲しいと思うのである.

特に、安全保障問題に関しては、政府の説明不足だとか,よくわからないとか、と言って批判する事こそ問題である.わからなかったら学び、そのうえで、自ら考え、判断する事が絶対必要である.それくらい個人と直結している問題なのである.

最近,『知らない』と言う事を自慢げに言う人がいる.知らないのは自分のせいではないと言わんばかりである. 

『知る権利』とは黙っていても『教えてもらえる権利』ではない.『知ろうとする事を阻害されない権利』である.知らない事は知る努力をしていない,恥ずかしい事だ言うことを自覚すべきだと思うのである.

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