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2014.07.29

366 政策ではなく性格で安定した政党作りを

日本の政党はいつも安定しない.重要な政策になる都度、政党内で対立が起こり、政党の体をなさなくなるのである.その理由は、政党は小選挙区制度で政策本位と言いながら、党内不一致のまま政策を出したり、難題を党の政策から外していたりて、選挙に勝つための根拠のない政策を掲げたり、選挙資金や選挙区事情で党員になっていたり、しているからである.

中選挙区の人物重視から小選挙区の政策重視に変わると言われながら、言うほどに政策集団になっていないのが政党の実態だと思う.中には,『我が党には幅広い考えがある』などと中選挙区時代の事を言う政治もいる.

私見で言えば、どうやら,多くの難問を抱えている日本では、政策で党を作る事に無理があるように思う.そこで,個々の政策ではなく『性格』で党を再編すべきだと思うのである.

すでに、当ブログ『NO186 政治路線の行方(2009年8月31日発信)で述べているが,次の三つの性格で再編したらどうだろうか.これで安定した政党になると思う.

①和魂和才の国家観,洋才に抵抗感を持つ古風な日本人タイプ(保守派,演歌派)
②和魂洋才の国家観,国際的視点で洋魂も許容するタイプ(新保守派,ジャズ派)

③国家観はなく,ただ,やさしさで分配したくなるタイプ(リベラル派,フォーク派)

(ただし,クラッシック派は社会主義派であるが除外,極右・極左も除外)

政治家は,ガラガラポンの選択に迷った時,『好みの音楽』で選んでも,間違いはないと思う.これによると,必然的に主義主張は次のようになるはずである.根底に性格があるからである.

①は大きな政府,安全保障は普通の国並み,経済政策は複合経済(政・官・財の護送船団方式と公共事業),社会保障は手厚く,社会構成の基準は家族,皇国史観.憲法改定.

②は小さな政府,経済政策は金融政策・規制緩和・市場経済重視・減税・国際化,社会保障は抜本改革,これ以外は①と同じ.

③は大きな政府,社会保障は手厚く,経済対策は個人への給付,人権派,護憲派であるが安全保障は不明.

となり,性格で,政策がある程度,見えて来るのである.国民も性格で選ぶと思うし,支持政党が安定するのである.ちなみに,米国は『小さな政府vs大きな政府』で『共和党vs民主党』の2大政党に別れており,きわめてわかりやすいのである.

この三つが,時代の変化の中で,政権を取り合えば良いのである.是非、これで、日本の難問に向かう政治体制を作って欲しいと思うのである.

難題のつど、政党が離合集散したり、政界再編したり、する事から、いい加減に,早く,卒業してもらいたいのである.

余談だが,無責任な独断で言えば,私だけでなく,誰しもが,現国会議員をある程度,上記三つのグループに振り分けする事が出来ると思う.きっと本人も,しがらみから解放されて,すっきりするのではないかと思う.

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365 集団的自衛権行使容認に関する世論調査に一言

日経新聞の世論調査によると,今月,閣議決定した,『必要最低限の集団的自衛権』の行使容認を,評価しないが48%,評価するが38%,であったと言う.評価しない理由の多くは歯止めがかからなくなるが53%,歯止めがかかっているが23%だと言う.

この結果から見ると,『戦争に巻き込まれるから,集団的自衛権行使容認には反対だ』,言い方を変えると,『専守防衛以外は傍観する』が半数近くの人の意見である.

戦勝国による『日本の無力化』と,『戦争はもぅいやだ』と言う国民感情によって,戦争放棄の現行憲法を受け入れて来たのだが,今回の反応は,これとあまり変わらない結果になった.

しかし,これは,現憲法に関係なく,今後の日本の安全保障のあり方として考えた結果なのか,現憲法の許容範囲を超えていると考えた結果なのか,あるいは,憲法を変えれば評価できるのか,不明なのである.

いずれにせよ,国際情勢の変化,日本の世界における立場,を踏まえて,今後の日本の安全保障のあり方に関する世論調査ではないのである.

当ブログ『357 日本の安全保障問題と憲法の考察』(6月18日発信)で日本の安全保障と現憲法の問題を,自分なりに考察した上で,『日本の安全保障のあり方』が議論されていない事を懸念して,先ず,この議論が先だと提言したのである.これなくして,国民の意識も深まらず,日本の安全保障に関する憲法解釈も,憲法改定も,考えられないと思うのである.

そこで,議論を分かり易くする為に,現憲法の制約を外して,今後の『日本の安全保障のあり方』を次の選択肢で議論する事を提言していたのである.

①いかなる戦争も放棄し,交戦権も武力も持たない.(現憲法)
②限定的な個別的自衛行動(専守防衛)を行う.(自衛隊発足時の憲法解釈)
③国連憲章で認められた個別的自衛行動を行う.
④限定的な集団的自衛行動を行う(今回の憲法解釈)
⑤国連憲章で認められた集団的自衛行動を行う.
⑥国連決議に対し、限定的な集団安全保障活動を行う.
⑦国連決議に従って,集団安全保障活動を行う.

この分類で言えば,今回の閣議決定は②にプラスして,④を認める,としたのである.それに対し,今回の世論調査の結果は②に留まれと言う結果であったのである.

私見で言えば,政府は現行憲法に違反しない範囲で『針の穴を通すような事』を言い,国民は『戦争に巻き込まれるからいやだ』と言い,どちらも,『安全保障に対する考え方と覚悟』がないままの議論や世論調査でしかないと感じるのである.

率直に言えば、政府は将来の安全保障のあり方を言わずに、国民は一国平和主義に思考停止したままの中での世論調査だと思うのである.

本来なら,政府与党,野党とも,上記選択肢に対して,『日本の安全保障はこうあるべきだ』とビジョンを示したうえで,当面,現憲法下では,こうしたい,と言うべきだと思う.国民も,世界の安全保障,集団自衛行動に傍観し続けるのか,何らかの形で参加するのか,腹をくくる必要があると思うのである.

この問題は避けて通れない問題であり,何時までも,思考停止状態ではいられないと思う.是非,世論調査も,本質的な,たとえば,上記①~⑦の選択肢を示して,世論調査をお願いしたいのである.出来たら,議論の経緯を踏まえて,何回かこの世論調査を繰り返し,意味ある世論調査を続けて欲しいのである.さて、どんな結果が出るのか、安全保障に関するリトマス試験紙を見る思いである.

この『日本の安全保障のあり方』を議論せずに,国民の安全保障への認識は深まらないし,そんな状態での,いかなる政策も,憲法改定も,『戦争はイヤだ』の国民感情で,吹き飛ばされるのである.

そんなわけで、今後の憲法改定行動の前に、『安全保障のあり方』の世論調査をし、国民のある程度のコンセンサスを得て、憲法改定草案を作るべきだと思うのである.

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2014.07.26

364 退職者のメール削除と証拠保全義務との関係?

7月25日付日経に武田製薬工業が米国で販売した糖尿病治療薬を巡る製造物責任訴訟の攻防が報じられていた.この裁判で地裁の陪審は懲罰として武田に6200億円の賠償評決を下したと言うのである.米国の訴訟ビジネスの怖さを,又,感じさせられたのである.

正式な判決は先だが,この訴訟で,考えさせられた事がある.それを考察してみた.

自明な事だが,米国の損害賠償訴訟(民事訴訟)は成功報酬を狙った訴訟ビジネス化している.従って,原告としては真実の解明よりも,示談も含めて、賠償金を多くとる事が目的になる.その為に、相手企業への陪審員の印象を最初から悪くし、裁判を有利に進める事が原告側の常套手段になるのである.

今回の武田製薬訴訟で,原告側は,元会長や研究者等の関係者の電子メールが退職に合わせて削除されている事に着目して,これらのメール削除は『副作用のリスクを把握していたと言う重要な証拠を意図的に破棄している可能性があり、それが多くの退職者で行われているのだから企業ぐるみの証拠隠蔽体質があると言わざるを得ない』と糾弾したと言うのである.

原告は冒頭から陪審員に,武田製薬と言う会社は、そんな悪い事をする会社だと印象付けたのである.どこかの国の反日運動と同じ手法である.

想像していなかった原告側の攻撃に,武田製薬側は,『メール削除は提訴前で問題はない』,『武田製薬としては科学的データで訴訟を戦いたい』との姿勢をとったのだが、原告が洗脳した陪審員の印象を覆すことができず,上記の陪審員の評決に繋がったと思われるのである.これも、どこかの国の攻めの反日運動と受け身の日本の対応に似ている.

一般にどの会社でも、退職する時.社員や取引先、或は、知人のメールアドレを確保する事はあっても、残っているメールはすべて削除すると思う.その理由は、

・『飛ぶ鳥跡を濁さず』の美学が働いている.
・他の人に見られたくない心理が働いている.

・本人がいなくなるのだから、メールを
残す意味がない.

だと思う.決して、起こるかどうかわからない訴訟を意識して、証拠隠滅の為に削除しているわけではないのだが,隠蔽の疑念を晴らすことは極めて難しいのである.そのことを承知の上で,原告側は痛いところを突いているのである.

さて,日本で、同じような損害賠償訴訟が起こり得るのだが、その時、証拠隠滅等と言いがかりをつけられない為に,どうすべきなのだろうか.

全ての管理職のメール(或は、議事録、資料も)を『会社の公文書』として長期に保存すべきなのだろうか.だとしたら、公文書と私文書の区分けをどうすべきか、等と議論が広がるのである.

根本的には、製造物責任訴訟が起こされない為には、不具合が発生した時、速やかな公表が必要である.公表なき事故発生は、公表しなかった事が事故の発生につながったとして,企業に大きな賠償責任が発生するのである.当然、訴訟では、意図的に隠蔽していたかどうかが過去のメールや資料で調べられるのである.

そんなわけで、企業ガバナンスにおいては、透明性が担保されている事が組織運営上,不可欠であり、それを実現する為に、秘密情報、不具合情報、の厳しい管理も、経営に求められるのである.

それでも、訴訟が起これば、退職者のメールや資料を削除する行為は、その内容を示さない限り、証拠隠蔽の疑いを,かけられる可能性は残る.残念ながら,この疑念を晴らす方法はない.退職者に、『一気に、大量に、メールや資料を削除するな』、『日頃から、用が済んだら削除しておけ』、と、陽に言うのも、何かおかしいな感じはする.

この問題、企業はどうするのだろうか.

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2014.07.24

363 個人情報・個人関連情報とプライバシーの課題

子供向け教育事業者のベネッセコーポレーションで2千万件に及ぶ個人情報が犯罪行為で漏えいし,実際,その情報が他の事業者のDMに使われたのである.そこで,個人情報,個人関連情報に関する課題を整理してみた.

・課題1・・・個人情報

個人情報とは個人を特定できて,しかも,個人の属性も分かる情報を指す.当然,その取扱いについては.本人の了解が必要になる.自分にとって有益なDMを得る為に自分の個人情報の流用を了解する人もいるが,多くの人は他に流用されることを禁じているのである.

その事を見込んで,事業者も目的外使用しない事をプライバシーポリシーで宣言している事が多いのである.勿論,この個人情報が漏えいすれば,いろんな企業からDMが来るだけでなく,詐欺や押し売りなどのターゲットにされてしまう危険性もある.

歴史的に見れば,米国の例で言えば,国土が広い事もあって,通販は昔から発展していた.特定少数顧客へのスペシャルカタログによる通販ビジネスでは,販売効率を上げる為に,ターゲット顧客名簿をリストブローカーから購入し、ダイレクトマーケテング(DM)が行われていた.

たとえば,肥満,ハンデキャップ,趣味,高収入,等の顧客名簿をリストブローカーに求めるのである.ブローカーは其のリストを自身の足で収集するか,他から購入し,通販業者に提供するのである.顧客からすると,自分に役立つ情報が得られると,歓迎する向きもあって、個人情報については,寛容なところがあったと思われる.但し、肌の色、目の色は個人情報としてとってはならないとの法律があったように記憶している.

この様に米国では顧客情報の流通に関しては自由であったが,今日では,個人の意思に反した個人情報の利用,漏えい,個人情報の悪用,については,厳しい監視制度と罰則が設けられているのである.

日本における通販ビジネス(無店舗販売)はテレビ通販、インターネット通販が出てくるまでは、大手小売業や限られた通販専門会社によって行われていたが、総小売高に占める割合は1%にも満たない状態であった.総じて通販に対する信頼感が低かった事が大きな要因だったと思う.

その時の顧客への遡及の仕方は新聞、チラシ、総合カタログ配布、スペシャルな商品は専門誌、で行っていた.したがって、米国のようにリストブローカーの存在は、はきわめて少なかったと思う.

今日においては米国も同じだと思うが,インターネットによるロングティールマーケテングによって、顧客から情報を求めることが可能になったり、囲い込み作戦で会員制などをとったり、或は、インターネット検索履歴やインターネッとによる買い物履歴を参考に個別のCMを画面に出したり,最近では消費者の居場所を察知したタイムリーなモバイル広告の配信等,で,リストブローカーを利用したダイレクトマーケテングは少なくなったと思われる.

一方,プライバシー保護の観点で,2003年,個人情報保護法が制定され,多くの個人情報保有事業者は漏えい防止に努め,同時にプライバシーマークの取得に走ったのだが、個人情報の流通については規制する方法が無かったのである.

そんな中,詐欺などの犯罪に個人情報が使われ始めたり、ベネッセ事件のように、子供情報が漏洩すると、にわかに国民は、個人情報の流通に恐怖を覚えることになったのである.

さて,ベネッセ,漏えい者,リストブローカー,リスト利用者,にどのような法的責任が及ぶのか,或いは,今後,及ぼすべきなのか,注目されているのである.いずれにせよ、個人情報の漏えい防止策の見直しや漏えいした時の為の情報のスクランブル化(暗号化)が議論されると思う.

・課題2・・・漏えいした個人情報の消去

保護する方法は技術面,法制度面,等で進歩すると思うが,万が一,漏えいしてしまうと,消去できなくなる大問題がある.個人情報の流通によって,自分の個人情報を誰が保有しているか,わからなくなるからである.まさに,ベネッセの個人情報がこの状態にある.

従って,自分の個人情報を知るはずもない所から,自分にDMやメールや電話があった時,公的機関を使って,情報の流れを追跡調査するしかないのである.気の遠くなる調査であり,しかも,これで,全て消えたかどうかも分からないのである.

又,法的責任を問わない前提で,高額で個人情報を買い取る方法も考えられるが,名乗り出てくれるかの問題,コピー情報は買い取りしてもきりがなくなる問題、等があり、妙案はない.

さらに言えば、インターネット検索サービス事業者が持つデーターベースにある情報を消去する方法が難しいことである.プライバシーにかかわる情報や誤情報がひとたびネットに乗ると、その元情報を発信者が消去しない限り、生き続けることになるのである.インターネット検索で古い情報が検索されることは誰しも経験することである.又、ブログやホームページを作りっぱなしで放置しておくと、データーベースはごみで満タンになり、検索精度が落ちて行く大問題があるのである.

・課題3・・・個人関連情報

本人をズバリ特定できないが,本人の行動履歴,購買履歴,或いは,ネット検索履歴,等を指す.成功報酬型のネット広告などでは,購買履歴や検索履歴で,本人の興味や好みを類推して,本人の検索画面に効果的なCMを出すのである.これで広告のクリック数が上がれば,それに応じた広告料金が得られる事になるのである.

個人情報の代わりに,ネットアドレスがダイレクトマーケテングのキーになっているのである.又,携帯電話の位置情報などを利用したタイムリーナモバイル広告,等,本人の了解なしに,自分の関連情報が使われる事の不気味さに,この新しいダイレクトマーケテング手法を問題視している人もいる.

もう一つ個人関連情報の使い方がある.ビッグデータとしての活用である.個人の車にセンサーを付けて,走行エリアやブレーキ場所・回数,或いは気候データを収集して交通量予測や気象予測を行う場合、駅などの自動改札の情報や携帯の位置情報を使った人の動線分析を行う場合、等である.

この『個人関連情報』は一見,プライバシーと無関係に思われるが,本人の了解なしに情報を収集される事の不気味さやネット使用履歴や行動履歴と個人情報が何らかの方法で関係付けられた時の不安が残る.

この個人関連情報がすでに,いろんなところで使われていたり、今後もニーズがあるだけに,この情報の取り扱いについて,早急に法制度を作るべきだと思うのである.

・課題4・・・個人情報,個人関連情報の国際ルール

個人情報や個人関連情報について,その扱いに難問が多いが,少なくとも,そのルールは国際的に共通にしておく必要がある.情報技術や情報ネットは,すでに,国境がないからである.

・課題5・・・国家安保障に基づく,個人情報,個人関連情報の収集

陽に議論出来ない課題であるが,国内外に渡って,政治家,テロリスト,思想家,スパイ,等のプライバシーがほぼ完全に捕捉されていると言う,噂さもある.現に米国の海外要人の盗聴事件が問題になった.法治国家と言えども,国家安全保障の為に,超法規的行為が許されるのか,と言う課題である.

以上、情報化社会とプライバシーの課題を述べたが、個人情報の漏洩防止策、漏洩後の流通防止策、個人関連情報の利用基準、など、改めて議論が起こりそうである.これに注目していきたいと思う.

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2014.07.19

362 司法裁量権乱用による民主主義の空洞化

現憲法では理念的、抽象的、な表現が多く、憲法内に,論理矛盾もあり、合憲・違憲の判断に,司法の解釈が不可欠になる.その為に,司法としては,合憲・違憲の判断基準を持たないと,判断が出来ない事になる.

憲法解釈で難しいのは重要な安全保障に関する事である. 当ブログNO357 日本の安全保障問題と憲法でも触れているが、現在もいろんな解釈論があって、物差しが定まっていない.これでは立憲主義の憲法にならないのである.それでも司法が合憲・違憲の判断するのであれば、立憲主義の乱用になってしまうのである.

そんな状態で司法の解釈にゆだねて良いのか、国民や政治の意思で決めるべきではないか、と言う素朴な疑問が湧く.憲法が完ぺきではないだけに、立憲主義より民意が大事だと思う局面が多いのである.その為に、主権在民と言う民主主義があると思うのである.民意を信頼しない人ほど、司法権や立憲主義を唱えている感じがするのである.

安全保障問題だけではなく、平等、人権、生存権、公共性、等、理念はあっても、その合憲・違憲の判断基準は定かでないのだが、そんな状態で、合憲・違憲の判断が、司法の解釈にゆだねられれば,国民や議会の解釈より,司法の解釈が優先される事になるのである

最近の判決でいえば、一票の格差問題による選挙無効訴訟で、行政区を無視して人口比で議席を作るべきだとかと、選挙制度に口を出ししたり、原発再稼働差し止め訴訟では、『憲法で保障された生存権を脅かすからダメだ』と言って、規制庁や政府、自治体のプロセスを無視した判決を出したり、目に余る横暴ぶりなのである.

上記の例で言えば、選挙無効とする格差とはどの程度の格差を言うのか、そもそも格差とは人口比だけで良いのか、原発再稼働差し止め判決で言えば科学技術の高度化が持つリスクがどの程度あれば生存権を脅かすと判断するのか等、はっきりしないのである.

さらに、国民や政治の憲法解釈より、司法の解釈を優先する事に抵抗感がない国民性にも心配がある.その国民性は、お上意識やお代官様意識から来ていると思ったりもするからである.そんな意識が、憲法は作るものではなく、与えられるもの、との意識を生み、憲法を国民の手の届かない所に祭っておくものと,なっていれば,これも又,問題なのである.

そんな問題意識から、『司法の裁量権が立憲主義の乱用に繋がるのではないか』と気になるのである.そこで、その気になる事を整理してみた.

①立憲主義を勘違いしていないか.

立憲主義とは、憲法の役割を国家権力の暴走を防ぐ事だとしている.この役割を果たすために、憲法の条文と,その条文の解釈による合憲・違憲の判断基準だと思う.

ところが、この国家権力を縛る役割りが司法権にあると勘違いしている可能性がある.もしそうだとすると、司法権の裁量で国家権力を縛れる事になる.まさに『司法独裁政治』になるのである.この勘違いはないだろうか.学説は知らなしが,素朴に思うことである.

従って、憲法条文に対し、何をもって、合憲、違憲とするのかを、あらかじめ決まっていない場合は立憲主義の役割りを果たせないことになり、其の場合は,議会の判断にゆだねざるを得ないと思うのである.

②司法の裁量権が大きくなると、政治闘争の手段になり,民主主義が空洞化する.

政策の判断は選挙や議会で決まるのだが、司法の裁量権(司法の憲法解釈次第)で立憲主義の役割りが発揮されたら、民意を無視して、政策を無効にすることも可能になるのである(民主主義の空洞化)

この司法の裁量権を利用して、政治勢力が弱い(国民の支持が低い)政治集団が、憲法違反の訴訟を起こすケースが出てくる.思想的に同じくする裁判官を狙って、政策無効の訴訟を起こせば、無効になる確率が上がるからである.(勿論、最高裁の判断まで行くが)

この戦法は少数勢力にとって,民主主義で負けても、司法では勝つ可能性が出てくるのである.又、議会で自己主張する時間がなくても、司法の場ではタップリその時間は与えられるのである.この司法での政治闘争を通じて、支持者も増やせるかも知れないのである.こんなことがまかり通れば,民主主義が空洞化するのである.

さて、このような懸念をどう防ぐか、浅額の私には難しい問題だが、こんな風に考えてみた.

単純に言えば、差し止め訴訟当は政治や行政に訴えるべきであって、司法としては門前払いにしたり、又、司法として憲法合否の物差しを示せないものは、立憲主義が機能しなくなるのだから、立法府(国民の)の判断にゆだねたりすべきだと思うのである.

最近どうも、司法権が立憲主義の機能を持っていると勘違いして、基準も示さず、感情的、俗人的な、思想的、解釈で、違憲を言う傾向がある.その裏に、政治闘争の影が見え隠れしているのである.

又、裁判官に『正義を守る』と言う志があるようだが、憲法や法律に正義などと言う条文はない.裁判官の仕事は恣意的な正義ではなく、憲法条文、合否の基準で裁くことである.

この司法権の勘違いをなくす事が、司法独裁、司法の政治利用、議会や選挙の空洞化、を防ぐことにつながると思うのである.

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2014.07.08

361 政務活動費問題に厳正なる処分を

兵庫県議が,政務活動費として、日帰り出張名目で,5万円以下の電車賃を年間200回近く使ったと報告した.もし、領収書が不要の金額を積み上げて、架空の費用を報告し、政務活動費をポケットに入れていたら、公金横領の詐欺罪と言う大罪の確信犯になる.過去に遡って、徹底した調査が必要である.

兵庫県議会では、梶谷忠修(ただお)議長が「説明責任を果たさず、疑惑を抱かせているのは極めて遺憾」と述べ、野々村県議に勧告文を手渡した。

勧告文には、議会として野々村県議の政務活動費を調査し,不正支出があれば返還を求める事,野々村県議が説明責任を果たさない場合は速やかに辞職を求める事などを盛り込んだ,と言うのである.

何かおかしい.勧告がほんわかしている.『嘘の支出』を届けている事が判明したら,『公金横領の詐欺罪』である.不正が有れば告訴し、司直の手で徹底的に調べ、刑事罰を負わせるべきなのである.

どうやら県議会は氷山の一角だとして、問題を大きくせず、本人の辞職で幕引きをしたいようである.過去にも、国会議員や地方議員への調査費や活動費の問題が取り上げられるが、某大臣が自殺した事はあったが、刑罰を受けた例はない.その都度、修正申告をしたり、議会審議に迷惑をかけたと、党籍を離れたり、新しい制度の検討に入ったりして、幕引きになるのである.

そもそも、議員の政務活動費は『第二の給料』ではなく、『議員活動への補助金』である.一般の補助金で言えば、

①報告された支出の中に、補助金の使い方として認められない支出がある場合、
②報告された支出の中に、架空の支出がある場合、

が発覚すれば、確実に、補助金の目的外使用、公金横領、詐欺,などで告訴されるのである.政治活動費も同じである.毎年、適当にごまかしている政治家は確信犯であり、議員失格はもとより社会人失格である.

この問題を『制度の問題』だと言う人がいるが,『議員の資質の問題』であり、制度問題にすり替えてはならないと思うのである.

制度として、報告内容を厳しくとか、チェックを厳しくとか、言う有識者が多いが、性悪説に立った制度であり、本末転倒だと思う.議員はあくまでも性善説に立った,信頼のおける人達だと考えるべきだと思う.したがって,制度としては、『政務活動費として○○円支給する』、とだけ決めておけば良いと思う.

制度になくても、政務活動費と言う税金を使うわけだから、一定期間ごとに、活動内容、支出内容、支出額を議会や県民に報告して当たり前なのである.

その報告内容は公表され、その議員の評価が決まる事になるのである.勿論、その内容に虚偽があれば、調査の対象になり、処罰される事になるのである.この当り前のことをわざわざ制度にする必要はないのである.

この方が、議員活動や報告をいい加減に出来なくなると思う.その方が政治家の資質が見えてくる.一度、やってみる価値はあると思う.細かいルールが必要だと言う政治家はきっと政治家に向いていない人だと思う.

以上、兵庫県議会は全国に率先して、制度以前に『公金をごまかす人』は、『議員の資格なし』と宣言をすべきである.この物差しで、実態を明らかにし、刑事告発もすべきだと思う.これなくして、政治の信頼回復や政治改革など出来るわけがないのである.初代兵庫県知事 伊藤博文の名誉にかけても、兵庫県議会は、この問題に取り組んで欲しいと思う.

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2014.07.03

360 男女共同参画社会基本法は,何か,ずれていないか

少し古い話だが,平成11年6月,『男女共同参画社会基本法』が制定された.

骨子は,固定的性別役割分担(男は仕事,女は家庭)意識からくる仕事や法制度の仕組みを改革し,女性の人権を守り,雇用の機会均等を図り、仕事や法制度における男女差別をなくし、女性の社会進出や指導的立場への女性登用を増加し,性犯罪・セクシャルハラスメント・家庭内暴力等を撲滅し,国際的な女性人権向上運動とも連動して、これら進める,と言うものである.

最近では『男女雇用機会均等法』の立場から、女性に対し、『女は家庭』と言う通念を言うと、セクハラになると言う指針が出された.女性への侮辱、嫌がらせ,になる事だとして追加されたのである.

この調子で行けば,『嫁さん・奥さん・上さん・家内・正室・側室・主婦・主人』なども問題になりそうである.もっと言えば、女偏の漢字はすべて禁句になるかもしれない.

この女性の社会進出を推し進め、『女性の就業率の向上』、『就業人口の増加』,が起こると、『所得税収の増加』、『配偶者控除がなくなる分の所得税増税』,『厚生年金や健康険料収入の増加』,『厚生年金の第3号被保険者の減少と国の年金負担の軽減』,等が起こるのである.

又、企業から見ると,配偶者手当を支給していれば,それが軽減される事になる.逆に女性就業者が増加すれば,厚生年金加入者が増え,年金保険料の企業負担分は増える事になる.

これらは女性の就業人口が増えると,必然的に起こる事であるが,これが本音の目的になるかも知れないのである.又,女性の社会進出で起こる『少子化』を防ぐ為に『女性が働きやすい,子育てしやすい,環境作り』が必要になるが,その財源としても,女性の就業人口の増大は必要になるのである.

この運動を主導しているフランスでは,地位ある立場に女性を現在の30%から40%に引き上げる事を法律で定めたり,選挙の立候補者数を男女均等にする事も決めているのである.又,教科書では従来の固定的な家族観の強調は禁じているのである.

一方,少子化対策として,出産手当,人数に応じた子供手当,教育無料化,育児休暇期間の設定とその間の育児手当の支給,子供医療補助,子供のいるシングル親への補助,等,手厚い制度を作り,出生率を2.0以上にしているのである.

この制度を狙って,貧困者の移民が増えていると言う現象もあると言う.フランスの個人主義(個人の尊重・他人の尊重)の表れかもしれない.

総括すると、人類の歴史でもある『男は仕事、女は家庭』と言う家族観の固定化が,男尊女卑、男女差別の土壌になっているとして,この家族観を変えようと言うのである.

その為に,固定的な家族観を前提とした制度を見直し,女性の就業率を向上させ,女性の指導的立場への登用を増やそうと言うのである.同時に,この女性の社会進出による少子化を止める為に,出産・育児・就業への支援を充実しようと言うのである.

家族の在り方は,あくまでも、個人の自由が大前提であるが、あまり、古来の家族観の打破を主張すると,かつての『ウーマンリブ運動』や,どこかの全体主義国家で,子供を施設に集め,女性はすべて労働に付かせた事を連想するのである.

現実は、『男女共同参画社会』,『女性の家からの解放』などと言わなくても,高学歴化、核家族化、価値観の多様化、,個人消費の増大化、ローンの利用、等で、専業主婦が急速に減っているのである.それが少子化の要因にもなっているのである.

又,専業主婦を単純に男尊女卑の温床だと決めつけるのも抵抗がある.そもそも,家庭か仕事かの,どちらが理想かは一意に決まらないのである.出来たら,専業主婦になって,出産・育児・家事・介護,等をした方が,働いたり,指導的立場になるより,立派な仕事だと思っている人もいると思うからである.

それを思うと,『男女共同参画社会』『女性の就業人口増加』『女性に指導的立場を』を声高に叫んでいる事が,少し時代感覚とずれている感じがするのである.

ここで考えなければならない事は、人権を御旗にした『男女共同参画社会』,『女性の家からの解放』の運動が,晩婚化や出生率の低下、その結果、少子化を生み、挙句に、離婚,シングルマザー,夫婦別姓、等を生み、親子関係も、家族関係も希薄になり、育児・医療・介護の公助が増える社会になるのではないか,と言う心配である.

はたして、人類の有史以来,男女の役割分担としての『男は仕事,女性は家庭』の文化を人権の御旗で変えようとする事が正しいのだろうか、もう一度、立ち止まって、考えてみたいのである.

改めて思う事だが,女性が家庭にいて、家事、出産,子育て,医療・介護をする事が、そんなに悪い事か、それが男尊女卑、男女差別の温床になっているのか,むしろ,女性が家庭にいる事の大切さをもっと啓発する必要があるのではないか,従って,『女性が家庭』の文化が『諸悪の根源』だと断定するのは間違っているのではないか,あえて言えば『男は仕事,女性は家庭』はと,生物的に適材適所ではないのか,共稼ぎが当たり前の時代に,出来たら『女性は家庭』が理想だと,思ったりもするのである.

私事で言えば,私が仕事で頑張れたのも,子供がなんとか育ったのも,双方の親の面倒を見れたのも,全て家内のおかげだと感謝している.家内は,それが当たり前のことではあるが,自慢であり,達成感もあると言う.私からすると,家内に感謝の気持ちでいっぱいである.そんな姿を子供が見ているのである.そこに,尊敬,感謝はあっても,女性を蔑視したり,差別したりする思考はないのである.

余りにも保守的な考え方かもしれないが,決して,この価値観を他人に押し付ける事はない.又,仕事をしている人に対しては,専業主婦になれとも言わない.あくまでも個人の判断だと思っている.更に言えば,出産や育児や介護で離職しないで済むような支援策には賛成である.

その意味で言うと、『男女共同参画社会基本法』は一つの価値観を押し付けるものであり、行き過ぎだと思うのである.ましてや、それが幸な人生につながるなどと言えば、これはもう宗教である.

現在においては,専業主婦であろうと,仕事をしていようと,人権問題とは無関係だと言う事である.ましてや,どちらが人権軽視だ,などと言えるわけがないのである.『女性の家庭からの解放が女性の人権向上になる』との思考は,何か時代錯誤をしている感じである.

この事と無関係に,男女差別や人権問題があれば勿論,是正しなければならないし,働く女性の支援策が必要なら哲学など論じなくても,実行すれば良いのである.

更に,人権問題で喚起しておきたい事がある.人権は人間の尊厳にかかわる事から,誰も人権運動に反論はできない.それだけに.人権問題を政治的プロパガンダに利用されやすい事である.

大小いろんな事象をとらえて,人権が守られていない国だ,女性蔑視の国だ,昔の封建社会が残っている国だ、等とレッテルを張る事が時として見受けられる.そうではないとは証明できない事を承知でレッテルを張るのである.これは『悪意のある人権運動』である.人権専門家はそれに寛容なばかりか,人権意識が高まると歓迎している節すら感じられるのである.

以前より、日本の女性の就業率が低いとか、指導的地位(管理職、役員、政治家、官僚、各種専門家、等)についていないとの批判が内外からある.この事実を持って,日本の女性が差別されていると言わんばかりのレッテルを日本に張るのである.

女性の就業率が高く,女性の指導的地位への登用が多ければ,女性の人権が守られていると言えるのだろうか.『女性は家庭』の文化が『人権なし』だと言う人が『女性の就業』は『人権あり』と言っているようなものである.いかにも短絡的である.人権とは何かを改めて問いたくなる.

逆に、専業主婦で子育て、医療・介護をしている事が理想だと考える人は,日本の女性の就業率の低さや,指導的立場に立つ人の少なさは,仕事より,もっと,大事な家庭の事をしている人が多いと考えるかもしれないのである.

要するに、一つの価値観を押し付けたり,自説に都合の良いデータで物事を評価してはならないのである.

人権運動は啓蒙と助言はあっても、政治的プロパガンダに利用したり、固有の文化の排除を後押ししてはならないと思う.それぞれの文化に、長い間,培われた,道理があるからである.あくまでも、当事国が考えるべき問題だと思うのである.

特に多民族の西洋文化は自分の文化を押し付けたがる.これには要注意である.人権は豊かさと比例しているところもあるし,他の価値観との比較もある.歴史の違いもある、人権向上運動は郷に入りて郷に従うべ所もある.国民の納得次第と言うところもある.人権向上運動は単純ではないのである.机上で短絡的に考えてはならないのである.

さて男女共同参画社会であるが、以上のように、価値観を一つにして運動する事に違和感を感じるのである.どんな家族を目指すのかは、夫婦の役割分担をどうするか,女性の生き方をどう考えるのか,等は個人が考える問題なのである.その上で,個人の考えを支援する方策を考える事になる.一つの価値観を強要すれば,新たな、固定的性別役割分担を進める事になるのである.

ところで,最近,『世界○○ランキング』が流行っている.大体,ランキンクを付けるルール作りは競争を重んじるアングロサクソン人が得意なのだが,ゲルマン人はそのルールには乗らない事が多い.日本人はそのランキングの付け方より,いきなり,何番かに興味が行き,一喜一憂するのである.もう少し,本質を見て判断する国民でありたいものである.

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