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2014.10.25

375 妊婦の仕事変更による賃金減は是か否か

2008年,理学療法士として勤めていた広島市の病院で,妊娠した為に負担の軽い業務を希望したところ,新たな業務に就く際に病院側から副主任の肩書を外され,月9500円の副主任手当を失ったと言う.この事に対し,不当だとの訴えが起こされたのである.

一審、二審は原告の敗訴であったが,最高裁は23日,妊娠を理由にした職場での降格は原則として男女雇用機会均等法が禁じる不利益処分にあたり違法だ,とする初めての判断を示した.例外となるのは「自由な意思に基づいて本人が同意した場合」と「業務を円滑に進めるうえで特段の支障が生じる場合」との基準も明示した.

この判決に対してテレビの多くコメンティターのコメントは,画期的な判決だ、妊娠や出産による職場での嫌がらせ,『マタニティ・ハラスメント』への一定の抑止力になりそうだ,等と判決を歓迎しているようであった.

これに対し、ネットの反応は違った.この判決に対し,疑問や異論が多かったのである.その成否は別にして,通り一遍のコメンティターのコメントより,一般人の方が感性が鋭いと思った.コメンティーターは、これにどう答えるのだろうか.私の感想も含めて,いくつか紹介したい.

①妊娠しました.楽な仕事にしてください.でも給料は下げないでね、と言っているのだが、これを拒否したのは違法だ,と言う裁判官がくるっている.

②会社は妊婦に対して本人の実力・貢献に基づいて人事評価できないってことだよね. 

③女性の採用が減りそうだ。特に妊娠しそうな人のね. 

④訴状の事実はなんら変わっていないのに,一審、二審、最高裁と違う判決が出る理由は何んだ.結審前にWEBはじめ各種メディアで取り上げられたからか,裁判官への恐怖と絶望を感じざるをえない. 

⑤降格が違法なら,今後,若い女性の昇格のハードルは必ず上がるだろうね. 

⑥本人が『仕事を楽にしてくれ』と申し入れた事は,本人が『承諾』している事になるのではないのか.

⑦妊娠以前と同じ仕事が出来ないのだから、降格,減俸も仕方無いのでは.この訴えが通るのなら、普通に仕事をしている人との,新たな不平等が発生しますよね. 

⑧妊婦に負担を軽減して極力就業しやすい環境を作ってあげる事は会社の責務だが、処遇をどうするかは仕事上の判断だ.『妊娠を理由に降格した』と言う裁判官の判断に事実を曲げて男女雇用機会均等法違反判決を出したい意図を感じる.事実は『妊娠・仕事の変更・降格』のはずだ.

⑨権利を主張する人は,『同一労働,同一賃金』と言っているではないか. ならば,仕事が違えば処遇は違って当たり前だよね.

⑩不当判決だ.100人以上の規模の病院ならともかく,そこら辺の開業医にまで産休を取らせた上に育休まで取らせてあげるのは経営に影響必至です.その間に新規での採用もしないといけないとなると育休明けで戻って来た人を解雇せざる負えない.零細開業医で余剰職員を抱える余裕は無いですよ.ここまで労働者の権利を押し通されるのは国の経営者苛めとしか考えられない.

妊娠で仕事を変えた結果,収入が減る問題は仕事とは別に,企業が妊婦手当を出すかどうか,もしくは,福祉行政で支援するかどうか,の問題だ.

⑫はっきり言って経営不振で倒産したらマタハラとか男女雇用均等へったくれとか言ってる場合じゃないでしょ.労働者は雇用保険で守られ、経営者は寝室で首を吊れって事ですか.

ざっとこんな感じですが,裁判官,コメンティタ-はどうこれに答えるのだろうか.

ところで,労働基準法及び育児・介護・等の福祉に関する法律では使用人は『雇用の継続及び再就職の促進を図り,職業生活と家庭生活との両立に寄与する事に努め,これらの者の福祉の増進を図り,あわせて経済及び社会の発展に資する事』と記されている.

企業では,慈善事業ではないのだから,『賃金は働いた対価である』を基本にしている.だから仕事を通して人事評価をするのである.

一方で企業は雇用の責務として,労働者の福祉の充実,税金や社会保険料の負担,などの社会的役割を背負わされているのである.そして,企業の社会的負担をどうするかは常に問題になっているのである.

このように法律は職場生活と家庭生活の両立に寄与すべきとしているが、現実には、従業員の医療・介護・子育て等への企業の配慮や企業負担は企業の体力の関係もあって,法で定めた事以外は一律ではないのである.

現実に,各企業の賃金・賞与規定、資格規定、休暇規定、諸手当規定、等は当然の事ながら,労働者との合意に基づいて決められているが、企業によってまちまちなのである.

以上であるが、私見を整理すると、

判決は『妊娠した事を理由に降格させた』から違法だとしているが、事実は『妊娠したから本人の要望を受け入れて仕事を変えた.仕事が変わった結果、降格になった』である.

裁判官が事実を誤認しているなら判決は間違いである.それとも、事実を認識したうえで結果的に『妊娠した事で降格になった』と、とらえているなら、裁判官に男女雇用機会均等法違反判決を出したいとの意図が働いている、としか考えられないのである.

私見によれば、あまりにも人権意識が前面に出ているように思う.人権論者がよく間違う勇み足である.事実が『妊娠・仕事・降格』であるにも関わらず,『妊娠・降格』と言う我田引水的な構図にデフォルメするところは,人権論者がよくやる論法なのである.

今回の事案は,明らかに妊娠したから,妊婦保護を優先して仕事を変えたのであって,不利益処分を受けたのではないのである.

違法となる場合は、妊娠しただけで減捧になった場合,妊娠したにもかかわらず,仕事環境を変えなかった場合,仕事が軽くなって減俸されるのは女性だけの場合だと思う.

要するに、今回の最高裁の判決は『労働が変わっても,同一賃金を払え』と言っているようなもので、労働基準法、男女雇用機会均等法の精神である労働者の『同一労働、同一賃金』の理念を裁判官自ら破れと言っているようなものである.

妊婦保護の為に仕事を変え,その為に賃金が減る事が問題になるなら,感想にもある通り賃金とは別に妊娠手当を企業が考えるか、行政が支援策を考えるか、の問題であって、賃金を減らした企業を一方的に違法だと言うのはむちゃくちゃな論理である.

これらは私だけの感想だろうか.裁判官の公平な認識力と立論力が欠如していると思わざるを得ないのである.はっきり言って,裁判官失格だとも思うのである.

ところで、私の物の見方,司法への懸念について触れておきたい.

私は世の中の問題には究極的には三つの視点があると思っている.この三つの視点を定めた上で,それぞれの考え方を知り,物事を判断するようにしているのである.

たとえば坂道は見方によっては上り坂、下り坂、もう一つ、地球規模で見れば,平坦と言う三つの視点がある.そこで、一つの視点だけではなく、この三つの視点に立って論理性を判断するのである.裁判官にもっとも必要な物の見方だと思う.

今回の問題で言えば,妊婦の視点,経営の視点、もう一つ,公共福祉の視点,がある.勿論,裁判官が偏った視点に立てば、論理性が欠落するのである.

もう一つ、懸念している事がある.司法の裁量権の問題である.法律は抽象的な記述が多く、判決に裁判官の裁量が入り込む余地が大きいのだが,中には、法律では判断ができない事も,裁判官の裁量の内に含まれる場合がある.

そこまで司法の裁量権が広がると,法治国家は法律ではなく司法の裁量権によって運営される事になる.極めて危険な事態である.したがって、司法の判断が困難な事案は、国会(立法府)に判断できる法律を作るように要請すべきだと思うのである.無理に裁判官がその裁量権を振り回してジャッジをすると法治国家ではなく、裁量国家なってしまうのである.

これは裁判官を信用していないからではなく,主権在民を貫きたいからである.最近,度々当ブログでも発信しているが,裁量権の乱用,お代官様時代への回帰現象が見受けられるからである.

限られた裁判官の俗人的な裁量権で国家権力が行使されないように、裁判官の自覚と新たな法治国家の仕組みが必要だと思うのである.

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2014.10.24

374 公共の場での女性のトップレスは是か否か.

これまでの日本の常識で言えば,公共の場での女性のトップレスは軽犯罪ないしは公然ワイセツ罪に抵触する.しかし,所変われば,品変わるのである.ニューヨークなどは,トップレスが男性なら問題にならないが,女性だと罪になるのは,性的差別で,不平等だと言う理由で罪にはならないのである.

この判例には疑問を覚える.ある行為に対し、社会的妥当性から見た判断や自由,平等,人権と言う基本的権利から見た判断、そして、どちらを優先するかの判断、すべてを裁判官の裁量権で決めて良いのかと言う疑問である.

社会的妥当性とはその時代の,その場所の,社会の秩序,善良の風俗から見て許容される事である.勿論,時代の変化で社会的妥当性は変化するのである.

特に日本には社会的妥当性で決められたしきたりや法律が多い.伝統的文化で言えば、相撲,歌舞伎、落語、華道、茶道.、あげたらきりがないが、それぞれの世界には伝統的なしきたりがある.更に法律で言えば,国籍、結婚、相続,選挙制度累進税制,福祉,等,社会的妥当性のもとで作られた法律が多いのである.

一方,基本的権利は人間尊重の哲学であり,思想、表現、政治、等における各個人の権利として制定されたものである.しかし,何をもって,守られている,守られていない、と言うのか判断の物差しは極めて曖昧なのである.

そこで,社会的妥当性と基本的権利が衝突した時、裁判官の裁量権の中で判断されるのだが、それで良いのだろうか,と言う疑問を覚えるのである.

社会的妥当性と言う大衆の感覚が裁判官の基本的権利の拡大解釈で,法的な合否が決まる、言い換えると,社会の秩序、しきたり、制度を,裁判官の独善で決まるのである.こうなると法治国家ではなく、お代官様国家になるのである.

私見によれば、基本的権利を社会的妥当性が犯しているなら別だが、日常、許容されている社会的妥当性にまで、この基本的権利を拡大解釈して違法と言うのは基本的権利の乱用だと思うのである.何よりも,そのような判断を裁判官の裁量権に任せる事自体が問題だと思うのである.

このように,社会的妥当性に基づく法律と基本的権利の拡大解釈とが衝突する場合,裁判官の判断が優位にならない様に、立法と司法の間に,何らかの法的仕組みが必要だと思うのである.主権在民の判断は民主主義の基本として大事だからである.

さて,冒頭の女性の公共の場でのトップレスを公然ワイセツ罪にするのか,しないのか,の問題に戻るが,日本では、どう考えるべきなのだろうか.

日本の場合は公共の場でトップレスをしたいと言う女性はいないと思うし、もし、訴訟が起こっても、この種の問題に公序良俗を優先する裁判官が多いと思う.

法的に言っても、女性と男性の違いをなくし、好きにやれば良い、と言う事が基本的権利だとは思わないと思う.女性の公共の場でのトップレスを禁止しても、その女性の自由,平等,人権と言う基本的な権利が奪われるわけではないからである.どうしてもトップレスになりたいなら公共の場以外でやれる自由は確保されているのである.

他にも同じような判例がある.米国で同性愛者が法的な夫婦になる事が許されたようだが、これにも異論を覚える.多分、これを主張している人は,子供の養子縁組,社会保障制度、税制,相続,など広範にわたる性的差別を訴えたと思うが,日本では社会的妥当性から大きくかけ離れている事から国民も裁判官も認めないと思う.

しかし,人権派の主張が強くなったり、社会的妥当性が変われば,基本的権利の拡大解釈の方が勝ることになるかもしれないのである.たとえば、公然ワイセツと写真や映像の表現の自由の問題のように徐々に変化しているように.

そこで、大事なことは、上述しているように、その行為が社会的妥当性に反するのかどうか,社会的妥当性より基本的人権の拡大解釈の方が勝るのかどうか、の判断を裁判官の裁量にゆだねない事である.立法と司法の間に,何らかの判断機関が必要だと思うのである.

最後に、何故、裁判官の裁量権の大きさを危惧するのか、を整理して置きたい.

・裁判官の裁量権が世の中の制度仕組みを作る事になってしまう.
・社会的妥当性と基本的権利の衝突を裁判官の裁量に任せるのはおかしい.
・人権運動の圧力で基本的権利の拡大解釈、拡大適用,が多くなる傾向にある.
・政治的意図で裁判官の判断が行われる可能性がある.
・弱少政党が国会ではなく司法の場を主戦場にする傾向がある.

以上、トップレス裁判に社会的妥当性(現実)と基本的権利(哲学)の衝突があり、本来どうあるべきか、思いをはせて見たのである.

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373 日本経済の凋落原因と打開策

日本は資産バブル崩壊(1991年)から23年が経過したが,それ以来、日本経済の凋落は続いているように思う.

幸か不幸か,資産バブルの崩壊で,『水が引いたら湖底はヘドロだらけだった』と揶揄出来るほどに、高度経済成長期には隠れていた脆弱な産業構造や企業活動が露呈したのである.これをきっかけに、不良債権の処理,業界や企業の事業再編,日本的経営の見直し,等が始まったのである.

しかし,残念ながら,産業界はリストラに走るだけで,当時の米国の次世代を担うIT産業の,台頭のような,新たな産業の芽が出ないまま,中國,台湾,韓国の進出をゆるし,今日に至っているのである.

振り返ってみれば、日本の産業は明治維新後と先の敗戦後に出現した、たぐいまれな挑戦的な事業家によって発展してきたと思う.日本の秩序重視の農耕民族DNAからすれば、むしろ排除されるべき人材が、日本の経済を引っ張って来たのである.

ところが,バブル崩壊後、世界の経済情勢や技術が激変しているにもかかわらず,かつてような、挑戦的な事業家があまり出現していないのである.日本の凋落はどうやら、これが原因だと思えるのである.

産業界全体が、『創業経営者』から『サラリーマン経営者』に移っている事、保守・保身の精神が時代の変化に応じた『産業の新人代謝』(新たな産業の形成)を拒んでいる事,からすれば、日本の凋落は当然の帰結かもしれないのである.

この現在の日本で欠けている、『挑戦的な事業家の出現』、『産業の新人代謝の活発化』が海外で行われている事を思えば、国際的に新人代謝が行われている事になるのだが,日本としては,これを黙って見ているわけに,いかないのである.

『サラリーマン経営者』(企業内部の昇格人事で就任)の問題は,改めて言うまでもなく,ほぼ,株価や時価総額には無関心である.株価や時価総額を高めて、企業買収や資金調達をし、事業を拡大しようとする意欲、さらには、ストックオプションを使った人材の確保や社員の意識改革、等の考えは,ないのである.全く,思考が保守的,保身的なのである.言うまでもなく,経営者の役割りは企業の存続と発展であるが,サラリーマン経営者には,この社会的責任に向かって必死の努力をしている姿が見えないのである.

ただし,サラリーマン経営者でも、やれる事がある.競争力のある部品の製造である.一つの事に閉じこもって深堀する事は日本人は得意だからである.現に,世界に通用するキラー部品を多く作っているのである.然し,この美学だけでは日本経済を支えられないのである.

そんなサラリーマン経営者はリストラと言う首切りに手を染めるしか経営できないのである.現在でも、事業戦略と銘打って、リストラを掲げる大会社のサラリーマン経営者がいる.手段が目的になっている経営者にあきれるのである.そんな経営者に,事業戦略など語れるわけがないのである.

この問題から脱出できるとすれば,経営手腕のある人材を外部から入れる事である.上場企業だから,元来,純潔主義(井の中の蛙)から卒業しなければならないのである.

次に,『産業の新人代謝』の問題は、日本のDNAからして不得手なテーマであるが、明治や戦後の時代に挑戦的事業家が多く世に出たのだから、今の世でも、そういう人たちがいると思うのである.

勿論、その為の環境作りも必要だと思う.企業で言えば、企業風土の改革や持ち株制度、或はストックオプション制度は必須である.又、若者の起業しやすくなるベンチャーキャピタルの充実も不可欠である.

ベンーキャピタルは言うまでもなく,10の投資案件のうち、1件でも上場できれば、キャピタルゲインが得られて、全体の投資回収ができると言う投資ビジネスである.一方,融資を受け研究者や創業事業者は,ハイリスク・ハイリターンを覚悟した融資だから,投資者を気にすることなく、研究や事業に没頭できるのである.

少なくとも、このような事で、産業の新人代謝を促進する必要があると思う.更に,人材育成の為の大学の在り方にも改革が必要である.

極端な言い方をすれば,無意味な大学の淘汰と、意味ある大学の入学試験の廃止である.学生を人生に役立たない受験勉強から解放させ、学びたい大学に自由に入学させればよいのである.ただし、入学後、厳しいふるいにかけられる.ふるいにかけられた学生は、やりたい事、やれる事を再確認して、進路を考え事になるのである.

大学改革を整理すると,①受験勉強から学生を開放する事.②大学4年間を無駄な遊びの時間にしない事.③学生が好きな事、やれそうな事に自然と仕訳され、それに応じた人材を育成する事である.

この考え方は入口を厳しくする制度から出口を厳しくする制度に変える事を意味している.行政の規制を緩和して、日常の管理を厳しくする事と同じである.日本は大学も、行政も、入口重視で、その後は、ほったらかし、なのである.管理者側からすると、この方が責任を問われないし、楽なのである.

今、アベノミックスで経済や地方の再生を掲げているが、公金を使って、何をやるにしても、資本主義の原則、経済の原則、にかなわない政策は必ず頓挫するのである.過去の景気対策、産業政策、地域活性化政策,が成功していれば、今更、アベノミックスなどいらないはずなのである.いかに、これまでの政策が、この原則に従わず、ほかの思惑で行われていたかが分るのである.

以上、日本の凋落から脱出する為には、既企業のサラリーマン経営者は退任し,内外の手腕のある経営者や野望を持つ経営者を就任させる事、ベンチャーキャピタルを拡充して、若者の研究や起業を活発化させる事、大学の淘汰を進め、入学試験を廃止する事.等を述べた.暴論だろうか.

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2014.10.10

372 グローバル化(ボーダーレス化)と日本文化・制度の行方

世界各地の文化が他国に広がるのは、人の移動もあるが、国力の影響もある.極東に位置する島国日本は、世界勢力の変化とともに、その影響を受けてきのである.

日本の文化を反物に例えると,古来の文化(単一民族,神教,天皇,稲作民族)を縦糸に,飛鳥・奈良時代、平安・鎌倉・室町時代、江戸時代、明治時代、戦後の時代、それぞれに、中国、欧州、米国の文化を横糸として受け入れ,日本独特の和魂漢才,和魂洋才,和洋折衷の文化を編んで来たのである.

分かり易いのは料理である.日本ほど世界の料理を日本風にアレンジして食べている国はない.しかも、稲作文化の日本料理は小麦文化の西洋料理に凌駕されているのである.一方、その日本料理が小麦文化圏で人気を得ていると言うのだから、西洋は洋魂和才になるかも知れないのである.

現在、日本は和魂洋才,和洋折衷,であるが、和の部分が少なくなる傾向にある.料理に見られるように、将来、和が古典になって、洋魂洋才になってしまうかも知れないのである.一方、海外では,洋魂和才、洋和折衷になって行くかも知れないのである.きわめて興味の湧くところである.

ところで、このような、融合文化の流れに、新たな動きがある.『ボーダーレスと言う意味のグローバル化』の動きである.人・物・金・情報が頻繁に国家間を行きかう時代で起こる必然的な動きである.情報ネット社会では、すでに、ボーダレスになっているのである.

この『ボーダレスと言うグローバル化』は,従来の『国の差を認め合う事』『文化・制度を融合する事』ではなく,『国の差をなくす事』『文化・制度を統一する事』を意味しているのである.勿論,従来以上に文化・制度,或いは,国益との激しい葛藤が伴うのである.

そんな時代に,各国はボーダーとボーダーレスの切り分けが求められる.日本も同じだが簡単ではない.日本独特の文化を縦糸に、他国の文化を横糸にして来た日本にとって、ボーダレス化は縦糸をどうするかと言う問題になるからである.

そこで、他国から異質と見られるであろう日本の文化の縦糸を,いくつかピックアップしてみた.いずれも、グローバル化、ボーダレス化の大きなテーマになる事ばかりである.

① 言葉の障壁

どの国でも母国語はその国の文化の象徴である.しかし、母国語人口が少なく、その言葉しか知らなければ、グ゙ローバル化の大きな障壁になる.日本語も少数派であり、当然、日本人は英語を身に着けざるを得ないのである.

新興国の急速な進展は、各人が生きる為に英語を必死に身に着けて来た事と関係している.日本では、生きる為と言ったひっ迫感がない.従って、いくら学校で英語教育をやっても、身に付くわけがないのである.

そんなわけで、日本のグローバル化にとって、言葉の障壁はきわめて大きいのである.日本は英語力の弱さで、政治、経済、技術、芸術、等すべての分野で、英語圏や新興国から取り残されるかの知れないのである.和の文化に浸ってばかりで、いられないのである.

更に重要な問題がある.こんな例がある.娘が英語で話すと、しっかりしている娘に見えるのだが.日本語で話すと、何を言いたいのか,どうしたいのか,よくわからない、頼りのない娘に見えるのだと言う.日本語は曖昧表現が得意だが,英語では,はっきり言わざるを得ない言語だからである.

日本語は、経験知識が共有された同一民族同士が使う言葉である.言わなくても分かり合える文化の中の言葉である.特に問題は、いろんな事を言う割に、結局、結論を最後に言う時、相手の顔色を見て、色んな言い回しで、曖昧にする事が簡単に出来る事である.聞いている方も、それで納得したりするのである.

英語は,経験知識が共有されない多民族同士が使う言葉である.はっきり、自分の主張を言わないと通じないのである.勿論、グローバル時代では、自分の立論力、自己主張力、と英語が必要になるのである.

大事な事は,同一民族社会では,この立論力,自己主張力,はそれほど要求されないどころか、抑制されがちになるが、多民族社会では,それでは生きていけない事である.

ところで、英文に翻訳する前提で日本文を書く時、言いたい事がいかに曖昧であるかに気づかされる.多分、英語を使う時も、自己主張である動詞を何にするか、とっさに出てこない事と同じである.

日本語でも、立論力を鍛え、言いたい事をはっきり持ちたいと思うが、英語を身に着けると言う事は,これが無条件に鍛えられるのである.言語知識以上に英語が必要になる理由である.

② 日本人の宗教心・信仰心の曖昧さ

この問題も、良し悪しは別にして、他国から奇妙に見られているのである.

・最大の疑念は世界の半数が信仰するキリスト教やイスラム教の信者が1%もいない.
・仏教や神教の形式に従って,区別なく宗教的催事をしている.
・仏教や神教の経典など理解しないまま,祈念している.
・神社・仏閣を,歴史,建築,芸術,植物,等のテーマパークとして訪れている.

・キリスト教の催事は本来の意味を無視して商業目的に行われるいる.

こうなった理由は多くあると思うが,一神教の人から見ると,日本人は本当に宗教心があるのか,ないのか,不気味に思われるのである.

『あなたの信仰はなに』と聞かれて,思わず言葉が出て来ないのだが,わけのわからぬまま,家の墓があるお寺を思い出して仏教の真言宗などと答えたりする.一方,『結婚式は何式で』と聞かれると,誇らしげに,『教会』などと答えたりするのである.

宗教とは,先祖や子孫を人質にとって,生きてる者の行動規範を教えたり,祈る事で精神的苦痛を軽くするものだと思うが.日本人はこの事を特定の宗教に求めていないのである.宗教儀式なども,それぞれの様式に抵抗がないのである.

日本人はバイブルを持つでもなく各宗教の経典を深く知らない事も含めて,日本人は『一神教』でもなく『多神教』でもなく,『無神教』かもしれないのである.日本人の宗教心・信仰心,或いは精神文化を一神教の人達に,どう伝えるのか,大きな課題である.

③ 単一民族,血統主義が持つ異質性

これも,多国から見ると異質な国に見える.

・国籍の血統主義の異質性(多くの国は出生地主義)
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・日本人は村社会で,閉鎖的で,横並び志向で,個人の主張が見えない.
・小柄,黒髪の人ばかりで,多国から見ると,閉鎖的,排他的,にみえる.
・類似した民族同士(血統主義の中国,韓国)は生理的に仲が悪い.
・海外で地元と同化せず,単一民族で群れる(チャイナタウン,コリアンタウン,日本人街)

・多民族国家になる事を嫌い,多民族の受け入れ準備もない.

果たして今後,純潔を守る国になるのか,混血,多民族国家になるのか,大きな問題である.中国や韓国のように世界に中国系,韓国系の人口を増やして,本国の異質性を低くみせる戦力も必要かもしれない.日本には,明示された戦略はない.

ただ現在,世界では民族・宗教を同じくする国の独立が叫ばれ,境線の引き直し紛争が起こっている.戦争で政治的に引かれた国境を基に戻そうとする動きである.グローバル化の動きが民族・宗教の独立運動に点火した感じである.

それを見ると,単一民族,血統主義は国内に争いが起こらいと言う意味では安定的だが,それを守るとしても,国際間の交流の壁にならないような文化・制度が必要だと思うのである. 

④ 曖昧な日本人の和と競争の考え方

日本人は『和』が必要とする場合と,『競争』が必要とする場合の切り分けが曖昧である.海外から見ると,談合,根回しも,景気対策と称する予算のばらまきも,人間関係を重んじる商取引も,年功序列の賃金体系も,企業間の株の持ち合いも,別途協議ばかりが多い契約書も,和の精神に見えたりする.『和』とは『秩序を重んじる精神』に見えるのである.

一方では,自由・競争・自己責任・社会を認めながら,『過度な競争はダメだ』,『競争原理主義はダメだ』,とよく言うが,『じゃどうすれば良いのか』が聞えて来ないのである.

社会全体が機能体(競争の精神)と共同体(和の精神)の区別がなく,文化的にも制度的にも,『足して2で割る中途半端な精神と仕組』になっているのである.日本人の『金儲け』『自己主張』は秩序を乱す事だとして,陽に表に出さない精神文化が根底にあるのかも知れない.

そんな日本には,ラクビーで言う『正々堂々と激しく戦う精神』と『試合後のノーサイドの精神』を持つ必要があると思う.試合中にノーサイドの精神を出せば,弱くなるし,真剣にやる相手にも失礼なのである.

国の制度においても,企業内においても,公務員においても,個人においても,この二つの精神を分ける必要があると思う.足して2で割る精神では,冗長度や曖昧さを生み,グローバルな競争には勝てないと思うのである.

国全体でみると,北欧などは徹底した競争世界と、徹底した社会福祉世界を持っている.企業の役割りと国の役割りがはっきりしているのである.日本のように企業に社会福祉などの負担を強いることはないのである.

米国などは自由,個人主義,自己責任を根底に持ち,競争の世界と勝者による寄付の世界を併せ持つ国柄である.伝統的には国に依存する精神が少ないのである.

たとえば研究開発で言えば,日本は大学,専門の研究機関,もしくは,企業で行われるが,予算の制約や失敗のリスクから,研究開発費や積極性に抑制がかかる.結果,研究開発が中途半端になるのである.

一方,米国は,研究開発のリスクをベンチャーキャピタルや寄付が受け持つのである.キャピタルからすれば,たとえば10件の投資の内,1件の成功があれば,投資回収できると考えるのである.この環境によって,研究者は思い切った研究に没頭できるのである.まさに研究開発に自由・競争の精神が取り入れられているのである.

ヨーロッパ諸国は長い戦争の歴史を経て,社会主義的政策が多い.秩序重視の精神もあって,足して2で割る様な,『なんとなく緩んだ世界』になっていると感じる.日本も似たところがあるが.特に日本的経営は、まさに足して2で割る文化、はっきりしない文化になっているのである.

⑤ 羞恥,謙虚,滅私,横並び、曖昧の合理性,等の異質性

これらは仏教の教えであるが,そもそも,農耕民族の持つ国民性でもある.その教えは,争いを起こさず,村社会の秩序を乱さないように,煩悩(欲)を捨てる事を人の行動基準にしているのである.しかし,煩悩は動物も含めて,生きる為に備わった本能だけに,捨てる事は不可能なのだが,仏教はそれを目標にかかげて,存続しているのである.

世界中が農耕民族の仏教信者なら,この教えで良いのだが,残念ながら,世界は狩猟民族,砂漠の遊牧民族の宗教である.極端に言えば,煩悩を前提に理性を説き,行動規範にしているのである.従って,羞恥,謙虚,滅私,曖昧の合理性,ではとてもグローバルな文化の中では通用しないのである.それどころか,相手を重んじる精神文化は相手に付け込まれる危険性があると思うのである.

ここで言う『曖昧な合理性』とは,単一民族,,農耕民族,村社会,の日本文化を象徴する言葉である.『具体的に詰めるより,曖昧にしておいた方が,合理的だ』と言う精神文化を指している.ここには,二つの精神がある.

一つは,決めなくても,当たり前の事があって,誰でもが,それを共有し,臨機応変に実行する,と言う精神である.

二つ目は,この時点で,細かく決めるより,決めない方がうまく行く,との精神である.詰めるべき内容は知っているが,それをぶつけると争いになる事を懸念して,別途協議事項にするのである.いわゆる先送り精神である.

この精神は,『面倒な事は先送り』の精神になったり,『論理を追求しない』精神になったりすると,『曖昧の不合理性』になってしまうのである.こうなると,単一民族は立論力や自己主張に弱くなるのである.その傾向が強くなっていると思う.

そもそも,この曖昧の合理性は多民族国家,狩猟民族,欧米社会,では認められない合理性である.曖昧さは不合理に見えると思う.多民族で経験知識が共有される事派あまりなく,義理人情も生まれにくいのである.

必然的に細かい事を確認し合う契約社会になる.当然,企業の契約では,全てのリスクについて,どう対処するかが決められる.当然,分厚い契約書になる.

日本では,想定できるリスクの対応を決めようとすると,やる気があるのか,と疑いをもたれる.結果,未来のリスク対応はその検討もせず,別途協議事項になってしまうのである.当然,日本の契約書は数ページである.

欧米の場合は,未来のリスクの対応を協議している段階で破談になる事もあるが,契約をかわしておけば、リスクの心配はなくなる.一方,日本流の契約では,これで,ほとんどの仕事が無事終るのだから,日本流の曖昧な契約書の方が合理的かもしれない.只,一たびリスクが発生すれば大問題になるのである.

海外の人に対し,日本には曖昧の合理と言う知恵があると自慢するが,内心,『曖昧の合理性』の精神が『先送りの精神』に変質して,思考力をそいでいる感じを危惧しているのである.

法律などを比べると,日本で起こる問題の殆どが,すでに米国で法制度化されている事が多いのである.日本のフィードバック型の法律ではなく,フィードホワード型の法律で,未来のリスクに対しても曖昧にしていないのである.日本で言えば、安全保障や有事法制が、或は、医療やネット社会の法制度、等、フィードフォワードができていないのである.

そんな事を考えると,日本文化にある羞恥,謙虚,滅私,曖昧の合理性,等の相手を重んじる文化は,国際社会では通用しない感じがするのである.

⑥ 憲法第9条と国際協調

日本独特の文化ではないが、日本独特の憲法第9条の一国平和主義が世界に受け入れられるのか、と言う問題である.特に、グローバル化時代の集団安全保障体制,集団的自衛体制,に参加しなくてもよいのか、と言う問題である.戦勝国が決めた憲法だとしても、独立して70年、日本の意思が問われる事になるのである.

そもそも憲法第9条の戦争放棄、武力非保持,は憲法前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我々の安全と生存を保持しようと決意した.』からきている.言い換えると、『諸国(連合国?)を信頼して、丸腰になる』と言っているわけで、完全に米国の占領下ならではの憲法なのである.

独立後には,日本国の意思で、新しい憲法が制定されると,米国も吉田首相も考えていたのである.従って、たとえ、占領下と同じ憲法でも、独立後に、改めて制定すべきだったと思うのである.日本は『70年間も、憲法を変えなかった国』と言われて、問題が随所にあるだけに、『りっぱな憲法だから』とも言えず、ただ、はにかむばかりなのである.

⑦ 在日外国人対応(就学,雇用,税,健康保険,年金保険,公的資格、法律、等).

日本の制度は当然のことながら日本人を対象にしている.グローバル化が進むと,旅行者を含めて、日本国籍を持たない外国人が多く日本に滞在する事が予想される.

永住者,非永住者,居住者,非居住者,等の区分で,しかも,日本の家族単位と言う考え方で,税,健康保険,年金保険,或いは,公共料金,NHK受信料,等の各制度がきわめて複雑になる.又,子供の就学や各国の文化や言葉への対応も進んでいない.先ず,特区を設けて,外国人対応を積極的に進める必要あると思う.この外国人対応が地域活性化のインフラになる可能性もある.

外国人の増加で,日本の制度の複雑さや,未対応さが露呈するのは,もともと,外国人のいない前提の日本の制度の上に,外国人の制度を乗せているからである.ひょっとすると,これがボーダーになる可能性もある.

制度は公平にするほど複雑になると思うが,日本国民にとっても,グローバル化の前に,もっと制度の簡素を行うべきだと思うのである.

尚,外国人永住者の選挙権,公務員採用,あるいは地方議員へ秘被選挙権は従来通り,国籍条項を適用して,禁じるべきだと思う.在日の人から納税義務を負っているのだから,国籍条項を外すよう要望が出ているが,帰化の道がある以上,認めるべきではないと思う.

グローバル化で揺れる会社法、金融取締法、関税、税法

冒頭に述べた通り,グローバル化とは『融合』ではなく『統一』である事を述べた.いくつか、議論が起こるであろう法制度を挙げてみた.

企業の株主が世界に広がると、会社法や金融取締法、勿論、会計基準などが国際統一に向かうのである.日本の歴史を色濃く残している司法制度や量刑、或は民法なども,人権的視点で、議論になると思う.

現在協議がされているTPPも関税とか国による産業政策にも、フリー・フェアー・グローバルなルールが要求されているのである.又、国の統治の根幹になる税制も国家間のTaxヘブンの問題もあって,将来、協議の対象になるかもしれないのである.

現実に課題になっている例を一つ上げておきたい.海外株主が役員に社外(独立)を入れる事を強く要請しているのである.仲間内で行う企業経営は信用出来ない、役員は株主に目を向けていない、との主張である.その内,日本人同士は信用できない,役員に外人を入れろと言うかもしれないのである.

このようグローバル化(にボーダーレス化)はあらゆる国内制度に影響を与えるのである.

⑨ 印鑑文化の異質性

契約には印鑑証明されている印鑑が必要であったり,本人確認に,免許証や健康保険証が使われたりする.本人である事を証明する背番号もなければ,本人のサインも通用しないのである.海外から見れば異質な制度である.

日本人の擬装されない印鑑を作る技術を誇っても,印鑑文化は世界に共有されないのである.自動機等では個人番号と暗証番号,或いは生体認証などで行われているが,ペ-パー上の本人確認は欧米のようにサインで良しとするのか,母印で行うのか,或いは,何か違う方法で行うのか,検討が必要である.

⑩ 『政治と宗教』『政治と教育』『教育と宗教』の再整理

日本では,戦前の軍国主義が『政治・神教・教育』が相互に連動していた事から,これを反省し,戦後は,相互に分離する形をとった.

『政治と宗教』の関係は政治が宗教に介入したり,宗教が政治に介入する事がないように『政教分離』制度がとられた.『政治と教育』の関係も,教育の独立を重視し,行政は教育予算を出すが,教育内容については,相互に介入できない制度とした.

『宗教と教育』の関係については,信仰の自由から公教育で特定宗教を強要したり,特定の儀式に参加する事は禁じているが,各宗教の知識教育などは許されているようである又戦前の道徳教育が廃止されたことから,宗教色のない形で道徳教育が始まっている.

各国では,『政治と教育』は,先進国では,どの国も分離の方向であるが,ナショナリズム国家は一体である.『政治と宗教』,『宗教と教育』の関係は国情によって違うが,信仰の自由からそれぞれ分離している国が多い.

日本では戦前の反省から,政治・宗教・教育が,すべて分離されているが,それで,良いのか,背骨のない国や国民にならないか,いや,それでも良いのか,今後,世界各国でも議論を呼びそうである.

以上,グローバル化(ボーダーレス化)の課題は文化の縦糸になって来た日本独特の文化をどうするかである.ボーダレス化を進めるなら、日本が島国ではなく、海外との交流が活発で、しかも、多くの外国人が住む、との前提で、文化・制度を見直す必要がある.

従来、日本では、グローバル化と言うと、輸出や海外進出の事をイメージして来たが、今や、これまで以上に、人や企業や物や文化が入ってくる事をイメージしなければならないのである.勿論、国家であるから,限りなくボーダーを低くする事は出来ないが、島国日本のハードルをどう低くするか,国民は大きな課題を背負っているのである.

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2014.10.01

371 民放テレビは新聞社からの独立を

新聞や雑誌は、虚偽や違法がなければ、表現の自由,報道の自由が認められている.昨今の朝日新聞問題は国家のイメージを損ねる程の虚偽記事を長期にわたって報道した事である.

この虚偽報道事件を通じて,朝日新聞は、政治的意図を持って真実を曲げて報道したのではないかと,その報道姿勢が問われているのである.朝日新聞が、自社の歴史認識は間違っていないから、誤報は大した問題ではない、と言う話ではないのである.

そんなわけで、朝日新聞は、第三者による過去の記事の総点検,虚偽記事を書いた経緯、それを踏まえた報道姿勢の検証,虚偽記事の影響調査,誠心誠意の記事取り消し活動,が求められているのである.

このように新聞には、記事のねつ造は論外だが、自社の主義主張の視点で記事が書かれる事いが多いのである.

一方,テレビ・ラジオだが、NHK,民放ともに,公共の電波を国の認可を受けて使っている事から,『政治的公平性』が放送法で義務づけられているのである.新聞のように、持論に傾斜した報道は許されず、常に、公平性が要求されているのである.ここが新聞報道と大きく違う点である.

そこで問題は、その新聞社が系列のテレビ局を持っている事である.朝日新聞はテレビ朝日、毎日新聞はTBSテレビ,読売新聞は日テレ、産経新聞はフジサンケイ、等である.報道番組やバライティ番組には系列の新聞社の論説委員等が.コメンテーターとして参加しているのである.

当然,テレビの報道内容もコメント内容も,新聞社の主張に沿って報道しているのである.例えば、朝日新聞事件をテレ朝では一切報道しなかったり、コメンティターが自分の新聞社の主張に沿った解説をするのである.かと言って、意見の違う複数のコメンティターを在席させているわけでもないのである.どう見ても,その報道内容に政治的公平性はないのである.

新聞社社長の誤報記事の取り消し会見に対し、国民や他のマスコミから、大きな批判が起こったが,新聞社も,系列のテレビ番組も社長会見の内容を流しただけで、いろんな反応は報道せずに終わっているのである.いつも正義の味方のような事を言う報道機関の真の姿が垣間見えた瞬間である.

議決権の規制でマスメデア集中排除原則が守られているのかもしれないが,報道番組の中では集中排除がされていないのである.新聞社がテレビ局に電波の認可を取らせ新聞社の思い通りの報道をしている,と見えるのである.

そんなテレビ局に、電波の使用許可を出しても、放送法が守られるわけがないのだが,そもそも公平性などと言う曖昧な言い方は建前で,どうせ誰からも,何も言われないと新聞やテレビは思っているのだろうか.

私見だが,本来なら,テレビ局は,放送法と言う法律が適用されるだけに、新聞社から独立した報道機関であるべきだと思う.テレビと新聞は根本的に報道の使命や役割が違うからである.

国民としては、全てのマスメデアを見比べる事はできない為、客観的、公平な報道はテレビにしか期待出来ないのである.この事を意識し,放送法云々以前に、報道の客観性を常に配慮した報道番組がある事を付け加えておきたい.

国民の知識や判断力を高める為にも、影響度の大きいテレビがその役割を持つ事は民主主義の発展のためにも、極めて重要な事だと思うのである.

また、信頼感のあるテレビ局になる事は、視聴率の面でも、CM事業の面でも、好都合だと思うのである.その為にも、是非、新聞社から独立すべきだと思うのである.その為の人材体制強化も必要なのである.それとも、テレビ゙マンは報道機関ではなく、番組を流すだけの放送機関に甘んじるのだろうか.

放送法を前提に電波を借りているテレビ局の客観報道の在り方、特に、新聞社やCMスポンサーとの関係、について、マスコミ論を得意とするテレビ業界の論客は、どう考えているのだろうか.たまには、他人の事ではなく,自分の足場の事を考えてみたらどうだろうか.

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