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2014.12.30

384 葛藤する日本文化④

当ブログNO002葛藤する日本文化①, NO019葛藤する日本文化②、 NO262葛藤する日本文化③、に引き続き、NO384葛藤する日本文化④を掲載したい

①儒教の五常・五倫教えの葛藤

紀元前、孔子は五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより、五倫(父子,君臣,夫婦,長幼、朋友)関係を維持すると言う儒教を唱えた.

日本へは、513年頃、百済から,伝わったと言われているが、『古事記』によると、これ以前の5世紀頃だと言う.

日本では儒教は学問(儒学)として受容され,国家統治の経世在民思想や帝王学的な受容をされたため,神道、仏教に比べて,宗教として意識されることは少なかったようである.そこで、奈良時代の律令制で官吏養成および学問研究として取り入れられたのである.

しかしながら、日本において科挙制度が取り入れられなかったためか儒教の価値が定着せず、学問の主体は,実学的な文章道に移り,次第に衰退したと言われている.空海が道教とともに批判するなど、仏教の隆盛も律令儒教の衰退の原因のひとつとなったのである.

江戸時代になると,それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ,一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離).そして,幕府によって封建支配のための思想として採用された.江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し,やがて尊王攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなったのである.

明治維新後に,資本主義経済が入ってくると,実業家の渋沢栄一氏は、資本主義経済の発展の為に、経済活動のマナーとして儒教の教えを説いたのである.いわゆる、『道徳経済合一』,『道徳と利潤の一致』,『経済は最大の道徳』,『士魂商才』の教えである.

明治中期以降から太平洋戦争までの一連の戦争時代になると,忠義、孝行の教えは,戦争の心の支えになったり,教育勅語として,子供の教育にも使われたのである.

敗戦後、西洋思想の『人権・自由・平等』の思想の普及や、これによる本格的な民主政治が始まると、儒教の教えは,統治の手段として言われる事はなくなったが、『人間の行動規範』として心に深く残ったのである.

例えば,企業間の取引や会社と社員の関係にも、目に見えない信義が大事にされ、西洋の契約社会とは全く違う文化として,日本に残ったのである.単一民族国家と多民族国家の違いである.

しかし,家父長制度や年功序列、集団主義.等の秩序が人権・自由・平等の思想とぶつかる事になるのである.大きく言えば、東洋文化と西洋文化の衝突である.今でも続く葛藤である.

②人権・自由・平等の教えの葛藤

この教えは18世紀後半のフランス革命での宣言から始まり、日本での民権運動にも影響を与えたと思うが、国民にとっては、輸入された政治思想である.もちろん、儒教のような長い歴史もない.もちろん儒教のような体系化された教科書もない.ただ、封建政治から民主主義政治への移行の中で、議論や立法の中で形成されながら、この教えが認知されて行ったのである.

しかし、この人権・自由・平等はフランス革命の時の宣言だが、この時の意味は王朝政治からの脱却だったのだが、時代と共に、二つの範囲に広がって行ったのである.

一つは『人間の行動規範』と言う広義の範囲である.もう一つは『法律で具現化された強制力のある規範』と言う狭義の範囲である.そして、それぞれに、を持って理念に適うのか、適わないのか、と言う判断基準の難しさにぶつかる事になるのである.

又,それぞれの理念を徹底的に追及すると、それぞれの理念がぶつかり合って、逆に、その理念が実現できなくなる、と言う『合成の誤謬』と言う矛盾にも、ぶつかるのである.

人権を徹底すれば不自由になり、自由を徹底すれば無秩序や不平等になる.平等を徹底すれば均一になり、人権や自由が制限されるのである.結局、それぞれを徹底すると,それぞれが出来なくなると言う矛盾が起こるのである.

法律の世界でも、商法、社会保障制度、民法、刑法、税法、或は選挙制度、等、あらゆる法制度において、人権、自由、平等のそれぞれの理念の適用程度の問題や『合成の誤謬』の問題が内在しているのである.そして,時々,違憲、合憲で揉めるのである.

自然保護,公害防止,安全基準,等の法的規制(社会の成熟とともに拡大すると思うが)がある事を前提にしてだが、『自由の結果の不平等』(格差拡大)が問題だ、自由競争社会はけしからんと言う意見がある.一方では、『機会の平等の下での自由(フェアー・フリー)』が大事で、その為の機会作りや結果的に生まれる敗者・弱者の救済制度が必要だと言う意見もある.

前者はじゃ、どう言う社会にしたいのか、と問うても、答えがない.実際は後者の意見が現実的なのだが、一方の価値観に偏ると、社会の仕組みが作れなくなるのである.

このように,人間の行動規範としても、法制度化にしても、適用程度を考えながら、合成の誤謬にならないように、この理念の適用を考えねばならないのである.永遠の葛藤かもしれない.

③『五常・五倫の教え』VS『人権・自由・平等の教え』の葛藤

日本には①②のそれぞれの葛藤があるが、さらに『五常・五倫の思想』と『人権・自由・平等の思想』と言う二つの価値観がぶつかり合った時の葛藤もある.

文化は歴史的産物であるだけに急には変われないところがあり,五常・五倫には敏感だが、人権・自由・平等には鈍感だ、と言う温度差が生じたり、どちらを取るかと言う葛藤が起こるのである.

例えば,伝統芸能や伝統競技,あるいは宗教や祭事の等の伝統的な文化は人権・自由・平等,あるいは法制度となじまないところがある.

例えば,修行と称して、四六時中滅私奉公を強制したり、厳しい縦社会を守らせたり、厳しいシゴキが日常化していた時,それが人権、自由、平等、の理念や刑法、労働基準法、等の法制度に触れるとして、問題になる事がある.まさに、二つの文化がぶつかり合った問題である.

ただ、法治国家の名の下では,伝統的な文化,価値観より、人権、自由,平等、或は、法的な判断が優先される事で,伝統文化(日本的なもの)が衰退していく事は避けられないのである.これも又、古典的文化の存続にかかわる葛藤なのである.

④今後の行動規範や倫理、道徳教育の葛藤

戦前にあった国家神道、教育勅語が敗戦と伴に解体され,『人としての在り方』を公的に教育する事がなくなった.戦前教育のトラウマがあるからだが、宗教や政治思想を超越した倫理,道徳の教育までも、放置されてきたのである.学校も,家庭も,この教育に希薄で,せいぜい,スポーツを通じて,体力,精神力,マナー,等の育成をしているのが実態だと思うのである.

その結果、上述のように,①儒教に関する葛藤,②人権・自由・平等に関する葛藤、③それらがぶつかる葛藤、があり、加えて、神道、仏教、或はキリスト教などの宗教が入り混じって,④人間としての行動規範も葛藤を続けているのである.

最近,文部省が宗教や政治思想と関係しない部分の『人の在り方』の教育を進めようとしているが,まだまだ,議論が多く、前進していないのが実態のようである.

正解のない,精神文化の教育は,国の教育になじまない,国が介入してはならない,何を誰が教えるのか,習得の評価をどうするのか,学問の自由,宗教の自由,政教分離との折り合い,等々,入口の論争が依然と多いのである.諸外国と比べる,腫れ物に触るような異常さである.

ところで,日本の宗教である神道は.子孫繁栄・自然崇拝を唱えている.神道には確定した教祖,創始者がおらず,仏経の経典やキリスト教の聖書にあたる明確な聖典がなく、神典と称される古典を規範としているのである.

古典の規範とは自然と神とは一体的に認識され,神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀(神事)であり,祭祀を行う場所が神社だとしているのである.

皇室の氏神である伊勢神宮では毎日の神への食べ物のお供えに始まって,年間延べ1000回の神事が行われていると言う.又、20年毎に行われる『式年遷宮』では遷宮までの10年間で準備がされるが,工程の節目で30数回の神事が行われている.1万本と言われる樹齢200年~300年の檜の伐採、伊勢への運搬、新殿用の調度品等の政策、植林、等々、壮大なプロイジェクトが全国規模で10年間に渡って行われているのである.

この『式年遷宮』は藤原京時代の持統天皇(天智天皇の子、女帝)の発案であるが,意味するところは『降臨の儀式』(神が舞い降りる儀式)である.これを20年毎に行う事によって,技術,文化が継承されるだけではなく,神,天皇の神秘性を維持する事が目的であったのである.

これらの多くの神事は上記の伊勢神宮のみならず、皇室はもとより、全国の神社、或は,家庭の神棚で毎年,行われているのである.そして,1300年続いている歴史の前では,神がいるとか,いないとか、と言うレベルを超越して,神事が時の節目として、広く国民の生活の中に定着しているのである.

例えば,お正月の年賀、初詣、初日の出、しめ縄、門松、おせち料理、鏡餅、御供え物、或は、縁結び,結婚,安産,七五三,勉学,家内安全,五穀豊穣,お祭り,御神輿,等々,神事がもとになっているのである.

この神道の歴史は,奈良時代以降の長い間、信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合).しかし薩長が中心となり成立した明治政府は天皇を中心とした国民統合をはかるため、神仏分離(廃仏毀釈)を進めるとともに『国家神道』をつくった.さらに全国各地の氏神を祀ってきた神社に記紀の皇統神を合祀し,国による組織化が進めれれたのである.奈良時代、東大寺と全国の60余の国分寺による仏教による統治とよく似ている.

しかし『国家神道』は太平洋戦争の敗戦と伴に、GHQにより解体されたのだが、神道本来の神事は伝統に従って,今日も,粛々と続けられているのである.

このように神道は世界に類を見ない日本独特の自然信仰の教えである.日本人の創造力の大きさに今更ながら感心するのである.古代は宗教を作り、中世は芸術を作り、現代は科学を作っていると言われている.そして,現代は宗教や芸術が衰退していると感じるのだが,神道の自然信仰は逆に重要度を増していると思うのである.大切にしたい日本の文化,民族を超越した文化,異文化と共存できる文化,だと思うのである.

こんな分析もある.反物に例えて、反物の強さを支える縦糸が神道、模様を作る横糸は伝来した宗教や文化だと言う.そして,この強い縦糸があるから、いろんな文化が横糸として編み込まれ、日本と言う反物が出来ていると.

一方、仏教は個人の安心立命や魂の救済,国家鎮護を求める目的で信仰され,人間の苦しさや死への恐怖を和らげてきたように思うのである.このように,神道とは大きくコンセプトが相違しているのである.

さて、日本は,儒教,人権・自由・平等、神道、仏教、キリスト教、等々渾然と『人間の行動規範』が存在しているわけだが『価値観の多様化の時代だ、個人が考えろ』、と言う事なら、それも一考なのだが,少なくとも、社会教科の中で、歴史や文化・理念の勉強は避けてはならないと思うのである.

韓国人に日本人の有名な人は誰か、との問いに、多くの人は,伊藤博文と答えると言う.日本人に韓国人の有名な人は誰か,との問いに、冬のそなたのペ・ヨンジュとか、何人かの韓国人芸能人を挙げると言う.韓国のナショナリズムにゆがめられた教育より、日本人の方が健全かも知れないのである.

以上,結論のない事を述べてきたが、まさに、葛藤している証である.少なくとも,文化は歴史の産物であり,一体であるが、ここは、思想や歴史を知識として教える教育と行動規範を教える教育とに分けて考え、その上で、この二つの教育が併存すればよいと思うのである.どちらもない、片方しかない、は避けなければならないと思うのである.

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2014.12.23

383 朝日新聞第三者委員会報告書への疑義

朝日新聞の従軍慰安婦記事の取り消し報道に際し、当ブログでは、『何故、間違った記事を書き、30数年間も、それを放置して来たのか』を徹底的に調査し,其の報道姿勢・体質を明らかにすべきだ、と主張していた.NO367 嘘の従軍慰安婦報道を続けた朝日新聞の報道姿勢を問う

これを主張した理由は、朝日新聞が記事の取り消しを発表した時、ミスは大した事ではない,広義の強制連行があったのだから朝日新聞の報道は間違っていない、等と,とれる態度であった為に,逆に『重大な事』を隠しているのではないか,との『疑念』を感じたからである.

その『重大な事』とは、『朝日新聞の主張に沿った政策や世論を誘導する為に記事をでっち上げたのではないか』と言う疑いである.もし,そうであれば,『朝日新聞の存亡どころか,報道の自由を汚す重罪』になるのである.

この疑いを朝日新聞が自ら認める事はないと思うだけに,この疑念を第三者委員会で調査して欲しいと思っていた.これなくして、朝日新聞の大事件にに決着を付けられないからである.

さて,その第三者委員会が,2014年12月22日、報告書を発表した.はたして,上記の『疑念』がどうだったのだろうか.

さっそく,100ページに及ぶ報告書に目を通そうとしたら、『はじめに』のところに、朝日新聞からの依頼による,慰安婦報道についての『調査と提言をする』、と記しているだけで、委員会として、どんな視点で、どんな問題意識で調査をするのかと言う『委員会の目的』が記載されていないのである.いくらなんでも、目的が記載されていない報告書等、見たこともない.これでは、何の為の報告書か,わからないのである.

目的が定められない程の,いい加減な委員会だったのだろうか.それは,朝日新聞のアリバイ作りの儀式だったからだろうか.所詮、朝日新聞内部の委員会でしかないからだろうか.

有識者の委員に報道の自由を汚したり、朝日新聞の存続にかかわる事が無かったか、どうか、を調査し、裁断を下すと言う使命感はなかったのだろうか.

あるなら、その使命感に基づく目的を明示した上で、どうであったかの報告をすべきなのである.ざっと見た結果、案の定、そんな報告書ではなかったと思う.何の先入観も持たず実態を調べてみよう、と言う事なのだろうか.

釈迦に説法だが、目的を定めて,調査をし、結果を出す、これが、世間の常識である.こんな基本的な事が欠落している報告書は中身を見る前に,ごみ箱入りになるのである

そんなわけで、私が抱いた『疑念』が,うやむやになっているのではないか,との不安が,読む前から早くも、頭をよぎったのだが、案の定、ざっと見た範囲では、前後左右の状況や記事の内容の羅列が多く、結論が見えないのである.

期待した私が甘かったのだろうか.本来なら、朝日新聞の依頼ではなく、新聞業界の自浄作用として検証委員会を設置すべきだったと思うのである.

そこで、本来なら委員会がやるべき事だが、私が知りたかった『何故、間違った記事を書き、32年間も放置していたのか』、『政策や世論操作の為に,記事のでっち上げがなかったか』を、私なりに、この委員会報告書の中から読み説く事にしたのである.(前回のブログでは朝日新聞の発表を基にに書いたが、今回は委員会報告が元になる)

その調査は『吉田証言による強制連行記事』、『挺身隊を従軍慰安婦と誤認した記事』を中心に読み解く事にした.その結果を次に記したい.(本来、報告書の骨子はこうあるべきだとの思いも込めて)

1.何故、吉田証言(従軍慰安婦の強制連行)を報道し続けたのか.

①吉田証言記事の概要

朝日新聞は太平洋戦争中、済州島において、吉田清治氏が、山口県労務報国会下関支部動員部長として、いわゆる慰安婦とする目的の下に多数の朝鮮人女性を強制連行したとする証言を取り上げ、1982年から1997年までの合計16本の記事を書いた.

その間、歴史学者の秦郁彦氏は,1992年4月30日付産経新聞及び同年5月1日発行の「正論」において、吉田氏に対する取材及び慰安婦の強制連行があったとさ れる済州島での現地調査等を踏まえ、吉田証言は疑わしいと指摘した.

秦氏の上記指摘があった後も,上記のとおり、朝日新聞は吉田証言記事の掲載を続 けた. 朝日新聞は1997年3月31日付朝刊における特集紙面において、吉田証言について、「真偽は確認できない」旨記載したものの吉田証言記事について訂正または取り消しを行わなかった.その2014年検証に至る まで,吉田証言記事について訂正又は取消しを行わなかったのである.

事の発端は1982年9月2日,朝刊(大阪本社版)社会面(22面)に「朝鮮の女性 私も連行」、「元動員指導者が証言」、「暴行加え無理やり」、「37年ぶり 危機感で沈黙破る」などの見出しのもとに、吉田氏が講演したことが掲載された事である.

同記事は、吉田氏が、昭和17年から20年にかけて山口兼労務報告会下関支部の動員部長として,10数回にわたり朝鮮半島において朝鮮人約6千人(うち慰安婦950人)を強制連行したこと,朝鮮人慰安婦は皇軍慰問女子挺(てい)身隊という名で戦線に送り出したこと、昭和18年の初夏の1週間に済州島で200人の若い朝鮮人女性を完全武装の日本兵10人を伴って、狩り出したことを述べたとする内容であった.

同記事には壇上で講演する吉田氏の写真が「『日本軍が戦争中、犯したもっとも大きな罪は朝鮮人の慰安婦狩りだった』と話す吉田清治さんとの 説明が付けられて掲載されたのである.

その後、朝日新聞は1997年までの15年間、慰安婦の強制連行の調査記事として、吉田氏の言動、講演、出版物、或は慰安婦証言を記事にしたのである.

②第三者委員会の所見

吉田氏が当時講演やインタビューにおいて報道されたような内容の発言をしたこ とは否定できない.したがって、当時吉田氏が講演やインタビューで証言したこ と及びその内容を報道したこと自体を非難することはできない.

しかしながら.,正確な事実を報道する責務を負う報道機関としては,事実を証 言する発言については,その事実に関する発言の真偽を確認して報道を行うべき ことは当然であるとして、次の見解を述べている.

吉田証言に関する各記事の前提となる取材経過を見ると、その取材方法は吉田氏の発言の聴取(講演傍聴、その記録確認、インタビューによる直接取材)にとどまっており,吉田氏の発言の裏付けとなる客観的資料の確認がされた事はなかったと.

又、慰安婦としての強制連行にかかわる吉田氏の証言内容が生々しく、詳細であり,朝鮮人男性については強制連行の事実が確認されてもいるので、女性についても同様 のことがあったであろうと考え、これを事実であると判断して、記事を書いた、とした.

一方、過去の朝日新聞における吉田証言の記事や、戦場に慰安婦が「連行」されていたという内容の記事等と相まって,韓国や日本国内において,慰安婦の強制連行に軍が関与していたのではないかというイメージを世論に植え付けたという趣旨の批判に対し次の判断をした.

記事には誤った事実が記載されておらず、記事自体に強制連行の事実が含まれているわけではないから、朝日新聞が本記事によって慰安婦の強制連行に軍が関与 していたという報道をしたかのように評価するのは適切でないと.

しかし,本件記事の「従軍慰安婦」の用語説明メモに「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した.その人数は八万とも二十万ともいわれる」と記載されており、あたかも「挺身隊として『強制連行』された朝鮮人慰安婦の人数が8万人から20万人」であるかのように不正確な説明をしている点は、読者の誤解を招く ものであったとしたのである.

1997年朝日新聞の特集については、その時点での慰安婦問題を総括して,その後の議論の土台とする、という意図のもとに作成されたのであれば、吉田証言に依拠して,徴募の場面において日本軍などが物理的な強制力により直接強制連行をしたといういわゆる「狭義の強制性」があったことを前提に作成された記事について,訂正又は取消しをすべきであった.さらに,必要な謝罪もされるべきであった.1997年特集において、訂正・取消しをせず、謝罪もしなかったことは、致命的な誤りで あったとした.

この訂正、取り消しをしなかった朝日新聞の言い分が報告書に記載されている.

「97年の特集で御紙は吉田氏の証言について『疑問視する声があがった』と述べているが、氏の証言をかつて前面に押し出して報道した御紙 の誤りについては、言及していませんでした,それはなぜですか?」 との問いに出ている.

「私どもは、歴史の証言が批判と反批判の中で鍛えられ、事実の解明に至るこ とを歓迎するものです」 「誤りについて,言及していませんでした』というご質問が「なぜ、訂正記事を出さないのか」という意味でしたら,そのような性格のものではないとお 答えするしかありません」 「従軍慰安婦問題は政府の調査や学術研究,ジャーナリストの取材などによって徐々に全体像が明らかになってきたテーマです.発掘された資料や証言がさまざまな批判にさらされ、新たな通説や定説が形成されて,その過程の話なのだと考えております」 と.

回答書には,他にも吉田氏との接触の内容や、週刊新潮も訂正していないこと,などが記載されているが、いずれも、この質問に対して,真摯に正面から回答したも のとは言い難いと委員会は指摘した.

③私の感想

驚きの委員会の所見である.根本にある考えは、朝日新聞の記事は間違っていない.間違っているのは嘘を言った吉田氏である.ただ、嘘が発覚した段階で、嘘を見抜けなかった事に対し謝罪をすべきだった、とした論調である.

これで済むなら、裏をとっていない誰かの発現を記事にしても、たいした問題にならない事になる.これは真実を伝えると言う使命を放棄し、別の目的で記事を書くなら『報道の自由の自殺行為』に当たると思うのである.

これを朝日新聞に当てはめると,私の疑念にあるように、朝日新聞の思想、主張に都合の良い発言は裏を取らず、記事にする、その記事で政策や世論を朝日新聞の主張に誘導する、後で発言内容に嘘があったと判明しても、その責任は発言者にあり、朝日新聞は騙されたと言ってお詫びすればよい.しかも、後で嘘が発覚しても、すでに流布した強制連行のイメージは消す事が出来ない、と言う事ではなかったのか.

その証拠に、嘘がある事を他から指摘された時点の朝日新聞内部の議論で、自ら裏をとりにいかず、しかも、発言者が訂正しないのに、朝日新聞が先に訂正するのはおかしい、勝手に嘘だったと言えない、等と言う理屈がまかり取っていたようである.

釈明文では真実の追及はいろんな議論の中で行われるものであって、記事を取り消したり、訂正する性格のものではない、という言い方で訂正や取り消しをしない理由を言っているが、いずれにしても、自分の記事に対して全く無責任なのである.

委員会は,この釈明に不満を述べるだけで、それ以上の追及はしていないのである.私見によれば、朝日新聞の記事は、真実を報道する為に記事にしたのではなく、朝日新聞の思想、主張を正しいものとする為に記事にした、言い換えると、世論操作の為に記事にしたと、とれるのである.とんでもない重罪である事を委員会も指摘すべきだったと思う.

そんなわけで、委員会報告は何故、裏をとらない事を平気で何年も続けたのか、徹底した掘り下げが出来ていないと感じた.これは、朝日新聞の依頼であった事、委員会の目的がはっきりしていない事にも起因していると思うのである.

2.何故、挺身隊を従軍慰安婦と誤認した記事を書いたのか.

①第三者委員会の所見

1980年代当時の韓国においては、「挺身隊」がほぼそのまま「慰安婦」を指す言葉として用いられていた.日本においては、挺身隊と慰安婦が別のものではあるが、韓国においては,一部又は多くが重なるのかどうかについては、定説があったとはいえない状態であった.

朝日新聞の記事だけをみても,1991年5月22日付記事においては「『従軍慰安婦』は、太平洋戦争の戦線が拡大するにつれて連行が本格化し、『慰安婦』にされた朝鮮女性は8万人説から20万人説まである.」と説明されているが、同年8月11日付記事には「朝鮮人慰安婦は5万人とも8万人ともいわれるが、実態は明らかでない」と記載されている.

1992年1月11日付記事の「従軍慰安婦」と題する用語説明メモにおいては, 「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した.その人数は八万とも二十万ともいわれる. 」と説明されており、ほぼ同時期の記事においても、執筆者が何を参照し たかによって内容が異なっていると指摘した.

そな中で朝日新聞は誤用していた事を認めたのだが、言い訳をするだけではなく,誤用を避けるべき努力が十分にされていたのか、誤用があった後、訂正等が行われてきたのか、という経緯や、今後、こうした混同・誤用が生じないようにする為,どのような態度で臨んでいくのか、等について、踏み込んだ姿勢を示すべきであった、とした.

②私の感想

どう見ても朝日新聞の知識や調査不足で誤用したのではなく、吉田証言を事実と思ったり、韓国が挺身隊と慰安婦を同一視している事から、誤用ではなく、事実だと思って記事にしていたのではないか、と類推するのである.その方が強制連行のイメージが強くなるし、朝日新聞の意思に合致するからである.

第三者委員会が朝日新聞の言い訳を認めたように報告しているが、本当に知識不足の誤用だったのか、もっと掘り下げた調査が必要だと思ったのである.

又、米国に慰安婦像が何体かあるが、そこに記載された『数十万人の韓国女性が性奴隷にされ』と言う文面をどう見ているのか,朝日新聞の見解も聞くべきだったと思う.

『あの文面は嘘と言うのか、正しいと言うのか』
『あの文面は朝日新聞の記事と関係していると思うか、どうか』
『あの文面の取り消しを主張するのか、しないのか』

3.32年後に記事を取り消した『2014年検証』の問題点

朝日新聞においては、2012~2013年にも吉田証言に対する 調査を行っていたが、特段、紙面化する具体的な予定もないまま2014年を迎えた.しかし、同年2月中旬ころから,政府による河野談話の見直しが実際に行われることになった場合には、改めて朝日新聞の過去の報道姿勢も問われることになるとの危機感が高まり、慰安婦問題についての本格的な検証を行わざるを得ないとの考えが経営幹部を含む社内において強まってきたのだと言う.

そこで改めて本格的な検証作業に入る(いわゆる2014年検証)のだが、既に吉田証言については,1997年特集の際、「真偽は確認できない」と結論づけたことから、朝日新聞としては、これで事実上、訂正をしたと総括してきた.

しかしこれでは訂正したものとは到底見ることができず、吉田証言を「訂正していない」との強い非難を受け続けてきた.このような経緯から14年の検証では、97年の特集の内容を超える、より徹底し た検証が行われなければならなかったのである.

その結果、記事の取り消しに決まったのだが、謝罪する事は慰安婦問題全体の存在を否定したものと読者に受け取られるのではないか、かえって読者の信頼を失うのではないか等の意見があった一方、謝罪もなく慰安婦問題をこれまで通り報じていくのは開き直り
に見えてしまうのではないかという懸念も表明された.

最終的には,8月1日の経営会議懇談会を経て,吉田証言については、虚偽と判断して取り消す事とするが、謝罪はしない,1面の編集担当の論文で「反省」の意を表明するという方針が決定 した、と言う事だった.

そして,新聞発表になったのだが、記事の一部に事実関係の誤りがあったこと、問題の全体像がわからない段階で起きた誤りであり、裏付け取材が不十分だった点は反省するが,「慰安婦問題は捏造」との主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できない.戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性が、慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられた事が問題の本質であると、 訴える事としたのだと言う事だった.

①第三者委員会の見解

これに対し、委員会の見解は朝日新 聞の意気込みがうかがえるものである.それだけに、この発表は読者に対し何を訴えるかは、朝日新聞にとって極めて重要な意味を持つものだとしたのである.

しかし、論文は吉田証言を記事にするに際して、裏付け調査が不十分であったことを「反省します」と述べるにとどまって、「慰安婦問題の本質は女性が自由を奪われ、尊厳を踏みにじられた事である」との主張を展開し,他メディアにも同様の誤りがあったこ事を指摘するという論調であった.このような構成であった事が、読者に対し朝日新聞の真摯さを伝えられず、かえ って大きな批判を浴びる事となった、としたのである.

加えて、記事を取り消すに当たっては、取り消すか否かといった結論のみでなく、記事掲載に至った経緯や取消しの判断が2014年にまで遅れることとなった経緯も含めて検証すべきであった.これなくして、問題を真摯に受け止め、再発を防止しようとする朝日新聞としての覚悟を読者に示せるはずがないと指摘した.

この2014年検証では、そもそも、1982年9月2日付記事を掲載した後、吉田氏の証言内容について何らかの裏付け調査を行っていたかどうか、朝日新聞はそれをどう評価するのかについては書かれていないと指摘した.

又,1992年4月の秦氏や産経新聞の吉田証言について疑問が提起されたが,1997年3月の特集記事までの間、朝日新聞として検証を行わないまま、吉田証言を記事にとり上げ続けたことについて,今回の検証でも、説明もされていないと、朝日新聞の対応を批判した.

最後に、2014年の検証において,ようやく多方面にわたる調査を行い、吉田証言を虚偽と判断し、取り消すことにしたのだが,そもそも、この段階でなければならないと言う理由はないと,『対応の遅さ』の指摘と、『その理由』の説明がない、と批判したのである.

その結果、今日まで積み上げられた報道による社会的な影響の有無に関しても、朝日新聞の見解が示されていない、との指摘もした.

②私の感想内容

朝日新聞の2014年検証時、世間が朝日新聞側は、世間の指摘する内容は承知していっと思う.にもかかわらず、それに答えず、逃げている感じがした.又、委員会の指摘も、すでに、朝日新聞の記事取り消しを発表した時の世間の指摘とほぼ同じであって,これでは,委員会の意義がないと思ったのである.

私としては、すでに、疑問、問題、重大な疑念、が挙がっているのだから、その事に対して、徹底的に解明すべきだったと思うのである.この事が委員会の意義であり、目的だと思うのである.

そこで、改めて、うやむやにならない為に解明すべき、『朝日新聞事件の本質的問題』を挙げておきたい.

・裏も取らず、訂正もせず、結果的に嘘の記事を出し続けた事、
・広義の強制性があり、誤報は大きな問題ではないと言う論調がある事、
・慰安婦問題の消滅を恐れて謝罪しなかった事、
・軍による従軍慰安婦の強制の問題を慰安婦の人権問題にすり替えている事、

以上の事から、次の『重大な疑念』が生まれているのである.

朝日新聞の思想、主張に沿って、意図的に世論を操作しようとする報道姿勢があるのではないか、言い換えると、真実の報道より、自己主張を優先する報道姿勢があるのではないか.

・その報道姿勢が、『軍による従軍慰安婦の強制』を企画報道にし、裏も取らないキャンペーン記事を出しつづけた事に繋がったのではないか.

これが『朝日新聞事件の本質的問題』であり、この問題を第三者委員会が徹底的に解明すべきなだったのである.

もし、そんな事があったなら、朝日新聞の記事全体への信用が失墜するだけではなく、朝日新聞の存亡どころか『報道の自由を汚す重大な事件』になるのである.これを外した今回の委員会報告では、朝日新聞事件は終わらないのである.

繰り返すが、朝日新聞事件は従軍慰安婦の問題や慰安婦の人権問題ではなく、朝日新聞の報道姿勢が問われている問題なのである.朝日新聞が歴史認識を言う以前の問題なのである.

この問題意識が第三者委員会に欠けていた.冒頭に書いた第三者委員会の目的が定まっていない事とも関係していると思う.

4.朝日新聞の誤報道の影響

報道の影響を調べることは、元来無理があり、調べたとしても、主観的になったり、意図的になったり、断片的になったり、するのである.その事を承知の上で,第三者委員会のメンバーが各国の報道振りを定量的に調べ、所見を述べていた.

私の感じでは、国内外は、朝日新聞の報道を『やっぱり』と受け止めたと思う.戦時下で、あり得ると思われやすいからである.『まさか』と思った人は極めて少ないと思う.吉田氏、朝日新聞は、その心理を利用したと思うのである.

定量的調査の母集団を広げれば、影響は低い方向に出やすい事もあるが、折角調べるならば、朝日の報道を見た人に対し、事実と思ったか否かを調べるべきなのである.世論の心理からすれば、誤報であっても、ほぼ100%事実だと認識したと思う.それほど、政策や世論に影響があった事になるのである.

加えて、私が知りたかったのは、上記2.項で上げたが、米国の慰安婦像の文言が吉田証言、朝日新聞記事、と一致しているだけに、この文言への影響を調べて欲しかったのである.

5.朝日新聞および新聞業界がやるべき事.

総じて、第三者委員会の報告に新の発見はなく、すでに言われている指摘ばかりである.折角の委員会なのだから,すでに指摘されている問題に集中して解明して欲しかったと思う.

いづれにしても、朝日新聞事件の解明及び今後の対応は、朝日新聞及び業界の自浄作用を働かせて取り組むべきである.勿論、読者の反応も報道の健全化には不可欠である.

私見で言えば、朝日新聞においては、政治報道部門の分社化、休刊、あるいは廃刊もありだと思う.記事の問題を超えて朝日新聞の報道姿勢が問われているからである.

又、マスメデアに共通する事だが、各社は慰安婦報道に関する総括を行うべきである.なんだか、だんまりを決めている感じである.

特に大事だと思う事は、報道の姿勢である.客観報道の振りして主観報道をしないでもらいたいのである.新聞社なのだから、自分の考え方をベースに報道してもよいが、それならそうと、はっきり考え方を述べた上で、署名入りの主観報道をすべきなのである.勿論、嘘はダメである.

ところで、客観、主観の話だが、『坂道』に対し、坂の上に立ば、『下り坂』、坂の下に立てば.『上り坂』、真上の上空から見れば、『平坦な道』に見えるように、立位置によって、三つの真実がある.だから真実を言う時、立位置を言う事が大事になるのである.これが主観報道の基本である.ちなみに客観報道とは、この三つの立ち位置での事実を併記して言う事である.

6.私の最後の感想

釈迦に説法だが、記事には時として間違いがある.真実の報道に忠実なら、間違いに気づいた時は即時に訂正するはずである.

ところが,記事の裏を取らなかったり、間違いに気づいても、取り消さなかったり、32年後になって、取り消さざるをえなくなっても.全体の問題がなかった事になりかねないとして、謝罪はしない事にしたり、あげくに、本質的問題は女性の人権問題だ、と強制性の問題から論点をすり替えたり、全く、真実を伝えようとする姿勢が見えないのである.

このように、朝日新聞事件の本質的問題は,従軍慰安婦や人権の問題ではなく、朝日新聞の報道姿勢の問題なのである.この事を朝日新聞も調査をした第三者委員会も,認識しなければ,朝日新聞事件は解決しないのである.

そして,この認識に立てば、すでに私見を述べているように、朝日新聞の報道姿勢は,『自分の思想にそって、世論や政策を誘導したい』と言う事としか思えないのである.

この報道姿勢は,かっての戦争報道の反省からきているのか,韓国の反日運動との連動からきているのか、あるいは,思い込みの正義感からきているのか、不明であるが、いづれにしても、報道姿勢の根本的な見直しなしで,朝日新聞事件は終わらないと思うのである.

以前、橋下大阪市長が自分の事に関す記事について、その報道姿勢が問題だと指摘した時、『謝罪の仕方を知らない』と朝日新聞を強く叱責していた事があったが、ほかにも同じような問題があるのかもしれないだけに、うやむやにしてはならないと思うのである.

日本の報道の健全化の為にも、誤報道の影響を少しでも修復する為にも、朝日新聞の責任感と覚悟を見せて欲しいと思うのである.

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2014.12.11

382 日銀の大胆な金融緩和に賛同する論説の紹介

かねてから,日本の円は実力以上に円高だと思うっていた.その結果,海外の物(特に中国産)が安く国内に蔓延し、国内産業を駆逐して行ったり、海外にモノやサービスが売れなくなって、企業が海外に流出して行ったり、したのである.円高による産業の空洞化である.資源のない我が国経済は加工貿易を旨としていたのだが、それが崩れてしまったのである.

自国通貨が高くても問題にならない国は米国くらいである.米国は農業はじめ世界を席巻する産業が多く,ドル高でも、輸出に影響が出ないのである.一方、消費財は高いドルで海外から調達するのである.米国産の消費財は,ほとんどない事でもそのことがわかる.

米国としては、付加価値の低い消費財を輸入して、輸出国の経済を成長させ,付加価値の高い先進技術製品を買ってもらう,と言う図式を昔から描いて実行してきたのである.したがってドル高は特に問題にならないのである.

一方、日本は古来より、円安による国内産業の育成が主流であり、加工貿易国家だったのである.中国,韓国はじめ、多くの国も、日本と同じ方法で経済を成長させてきたのである.

この加工貿易の体質を変えないまま、日本は円高に突入し,後発国に席巻されて産業が疲弊したり,長期のデフレスパイラルに落ち込んで行ったのである.

そして、2年前、第2次安倍政権が発足するや、アベノミックスと言う経済政策の一環として、日銀はデフレからの脱却に向けた金融緩和政策を実行したのである.そして、円安、株高が進み、経済に成長の兆しが見え始めてきたのである.

しかし、円安は多くの輸入製品の価格を引き上げ、国民やドメステックな中小企業を苦しめている、産業は空洞化しており,輸出も伸びていない、等と非難が多くあがっている.中には、政府を非難する為の非難も少なくないのである.同時に,今回の金融緩和策に賛成する論評はあまり聞こえて来ないのである.

一般的に、有識者にとって『批判』は,対案が無くても、インテリ風に見えるし,自己顕示欲を満足させられるし、批判してもリスクがない、事から『批判』を言いたがる傾向がある.事実,そんな人を多く見て来た.

逆に,『賛同』は迎合しているように見えて,インテリ風に見られないし,当事者と同じリスクを背負う事から,積極的に『賛同』を表明したがらないのも事実である.結構,この隠れ賛同者は批判者より多いのではないかと思うのである.

そんな中で,12月10日の日経新聞の経済教室で『日銀の異次元の金融緩和』は正しいと言う論説が掲載された.そこで,この勇気ある執筆者に敬意を表して、自分の勉強も兼ねて,当ブログで紹介したい.

執筆者は嶋中雄二氏(三菱UFJモルガンスタンレー証券景気循環研究所長)、その論説の概要は次の通りである.

論説のポイントは次の3つ.

・異次元緩和は円安や需要刺激になる.
・マネー供給は1年半後に名目成長に寄与する.
・中身のない奇策ではなく理論的に裏付がある.

この日銀による昨年4月以降の大胆な金融緩和はノーベル賞経済学者、故,ミルトン・フリードマンのマネタリズムによって説明できる.このマネタリズムとは名目国内総生産(GDP)決定理論である.その内容はマネーの増加が一定のタイムラグ(6~9か月)を置き、名目経済成長率の変動をもたらす,と言う理論である.

中央銀行がマネーの供給を増やすと現金残高が過剰になって,人々は中銀の最初に予想収益率が高まる債権から順に株式,住宅,並びに他の物的資本へと予想収益率の変化に応じて資産構成を変えつつ,保有現金残高を調整しようとする.

この過程で利子率が低下し,諸々の資産価格が上昇して,設備投資や個人消費を拡大させ,景気を押し上げるのである.

異次元緩和の波及経路をフリードマン流に説明するとこうなる.日銀が長期国債、コマーシャルペーパー,社債,株式指数連動型上場投資信託、不動産投資信託,を購入して行けば,その分だけ日銀の当座預金が増え、景気状況に応じて、変化する日銀券と合計したマネタリーベース(資金供給量)が増加するのである.

一方,日銀の買いオペによって長期金利が低下すれば、特に米国の金利が一定の下では円安、ドル高が発生するのである.外貨を含むトル資産の予想収益率も日本国内で高まる.

円安は輸出メーカーの採算を改善し,輸出量を増やして生産活動を活発化させる.この期待から株価を大きく上昇させた.外人観光客も激増し、内需にも貢献した.海外現地生産から国内へのシフトも促している.債券価格の上昇はCPや社債に波及し,やがて株式や不動産投資信託、不動産の予想収益率を上昇させ、資産価格全体を押し上げる.この資産効果や長期金利低下による資金調達の有利性の下で、住宅投資や耐久財消費、企業の生産活動が刺激されるのである.

これは,先行きへの革新を強めた企業の設備投資につながり,雇用や賃金にも影響が及び,最終的には消費者物価が上昇するのである.

名目成長率をインフレやデフレの行き過ぎない安定的な成長率の近傍に保つためには,政策手段としてのマネーをどのくらいの伸び率で供給すれなよいか.この課題を解決する金融政策上の基準が米カーネギーメロン大学のベネット・マッカラム教授が考案した『マッカラムルール』である.伸び率で表示した貨幣数量方程式に名目成長率目標と現実の名目成長率とのギャップを加味したものである.

著者らが試算した2015年1月~3月期に名目3%成長を達成する為の資金供給量の平残は250兆円であった.昨年4月の異次元緩和で東井署想定された2年で2倍と称された14年末の残高270兆円とほぼ同額である.緩和後の名目成長率は13年度は1.8%になった.当研究所の予想は14年度下期には前年同期比で2.6%,15年度上期では同3.3%に達する見込みであり,2年で名目3%と言う当初目標はほぼ達成されつつある.

勿論,名目3%を達成しても、14年度内は消費税増税で吸収されてしまう.又、日銀が掲げる消費者物価指数(生鮮食品除く)でみた2%の上昇目標の達成は不確実で,4月の消費税を除くと前年比1.5%まで上昇したが,夏以降の原油価格の急落で鈍化傾向が明確になったのである.

こうした事態に対応した10月末の追加緩和はタイミングだけでなく,その規模においても適切であったと考えている.

以上のようにアベノミックスの第一の矢である異次元緩和は巷で言われるようなサプライズだけを狙った中身のない奇策ではなかったのである.むしろ、マネタリズムの政策思想の流れを汲み,マッカラム・ルールに沿って説明できる理論的・実証的な根拠を十分に持った金融政策運用であり、かつ,すでに確実に結果を出しつつあると思うのである.

以上が論評の概要である.この金融政策で名目成長が押し上げられ、需要を刺戟し,実体経済が回り始めるとの論であり、断片的な現象に対する評価ではなく、経済全体の動きを巻き込んだ理論になっていると感じたのである.

勿論この理論だけで経済が活性化するわけではない.この金融政策が刺激になって,全国民、全企業が,世界を視野に、新技術の開発、新商品の開発、需要の開拓、に取り組まなければならないと思うのである.政府にいつ賃金が上がるのかと問うような根性では経済の活性化は望めないのである.

総選挙も終盤になった.日増しに、『パイの分配合戦』になっている事に大きな危機感、失望感を感じているのである.『分配を増やせば国は亡び、パイを増やせば国が栄える』『パイの拡大なくしてパイの分配はなし』を声高に叫びたい感じがするのである.

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381 少子化対策を問う

『普通出生率』とは人口1000人当たりの1年間の出生数の割合を言う.一方,『合計特殊出生率』と言う捉え方もある.これは,一人の女性が一生で生む子供の平均数を言う.一般には,年齢構成や性別構成に左右されない、この合計特特殊出生率を出生率として使っているのである.

Wikipediaによると出生率、出生数の推移はこのようになっている.

日本の合計特殊出生率は,第1次ベビーブーム期には4.3を超えていたが,1950(昭和25)年以降急激に低下した.その後,第2次ベビーブーム期を含め,ほぼ2.1台で推移していたが,1975年に2.0を下回ってから再び低下傾向となった.1989(平成元)年にはそれまで最低であった1966(昭和41)年(丙午:ひのえうま)の数値を下回る1.57を記録.さらに,2005(平成17)年には過去最低である1.26まで落ち込んだ.

又,我が国の年間の出生数は,第1次ベビーブーム期には約270万人,第2次ベビーブーム期には約200万人であったが,1975(昭和50)年に200万人を割り込み、それ以降、毎年減少し続けた.1984(昭和59)年には150万人を割り込み、1991(平成3)年以降は増加と減少を繰り返しながら、緩やかな減少傾向となっている.なお,2011(平成23)年の出生数は,105万806人と前年の107万1,304人より2万498人減少した.

更に初婚年齢で見ると昭和50年〈1975年)は夫27.0才、妻24.7才、平成24年(2012年)は夫30.8才、妻29.2才と晩婚化が進んでいるのである.

このような少子化、晩婚化の傾向に対し,これを食い止めるべく,託児所,幼稚園,児童保育の充実、出産,育児への休暇制度の充実,子ども手当,児童手当等の支給,教育費の軽減,等が論じられている.

はたしてこれらが少子化を食い止める事になるのか、上記の少子化の原因と今、議論している施策とが一致しているのか,との疑問を感じるのである.

これらの少子化対策の効果が曖昧な為に,育児と仕事の両立を図る制度は女性就業者の増加とそれによる税収増、扶養控除の減が目的のように見る.又,子ども手当の発想に至っては,子供のいる家庭への現金給付である.どこに使われるかわからないバラマキであり,当然、少子化対策と言うより,選挙目当ての政策に見える.しかも、その恒久財源を借金で賄う事にでもなれば,まったく無責任な政策に見えるのである.

善意に、これらの政策を解釈すれば、子育てと仕事を両立させなければ、或は、教育費用を安くしなければ、経済的に苦しくなる人の為の支援策だと言えるのである.この善意の解釈は少子化対策と言うより、救済対策と言うべきだと思うのである.

そこで、当然の事ながら,まず、

・少子化が起こった原因を解明し、
・このまま推移した時の将来の姿を予測し、
・これに対する問題を明らかにし、
・その改善策と目標値を設定し,
・その上で,将来の姿を展望し,国家の運営を考える.

と,長期に係わる問題だけに、しっかりした分析と検討と覚悟が必要だと思うのである.

人口統計によると人口が将来8000万人台になり、4人から3人に一人の高齢者になると言う.はたして、この事実に対し、どうしたいのか、その為の施策は何か、を議論すべきだと思うのである.

東京ブラックホール現象(東京一極集中が人口減、市町村消滅を招く)も、この問題を提起しているのである.

感覚的な私見だが,別の角度から,この問題を論じてみたい.

近年の夫婦は昔のような子沢山を望まず、2人程度の子供で良しとする傾向があり,晩婚化も、これに沿っていると思う.

夫婦の希望通りに、子供を二人生んだとした時、確実に国の出生率は1.0台になり、人口は減少して行くはずである.過去の出生率の落ち込み分や分母に独身女性が含まれるからである.

過去の例で言えば,1975年以降、出生率は2.0を切り始め、出生数も200万人を切っている.そして、2005年には1.26まで落ち込み、出生数は2011年には105万人まで落ちているのである.

これから類推すると、多分、年間約200万人(現在の2倍)の出生数で出生率が2.0程度になり、やっと人口減少が止まるのである.人口を増加傾向にするには、年間200万人以上、子供が生まれなければならないのである.

そこで、まず、出生数を200万人にするには,出産適齢期女性の独身化や晩婚化を防ぎ,4人くらい出産する事になる.その為に、専業主婦を増やしたり,若者の早期自立を促進したり、その為の大学改革も必要になる.全く、現在の少子化対策とは違ったものになる.

しかし,どう見ても、人口減は食い止められないとなると,8000万人程度の人口と、その時の年齢構成を前提にした『,国の仕組みづくり』が必要になる.この対策の方が『子供を増やす少子化対策』より,ずっと深刻で重要な対策になる.

今のところ、『8000万人の国づくり』は頭をかすめる事がっても,ぞっとするだけで、目をそらしている状態だと思う.しかし,政治家も国民も、そろそろ『少子高齢化の恐ろしい現実』にどう対応するかを,正面から取り組む時期に来ていると思うのである.それだけに、託児所だ、子供手当だ、と叫んでいる政治家が虚しく感じるのである.

この危機意識から,自らの老後を考えて、両親、祖父母の協力を得て、早期結婚で、4人も、5人も、子供を産む夫婦が多くなるかも知れないのである.実はそうなる事が最も重要な少子化対策になるのである.

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2014.12.04

380 さあ衆院選挙だ、日本の行く道は

さあ、総選挙だ.しかし,日本には,憲法問題,安全保障問題,外交問題,社会保障問題、財政問題、経済成長問題,教育問題,少子高齢化問題,地方創生問題,原発・エネルギー問題、等々根本的な難問だらけで,国民は大いに悩む選挙である.その意味では,風が吹いた選挙ではなく,冷静な政策を考える選挙になると思う.

それにしても、日本の行く末を左右する難問ばかりである.どれをとっても,その処方箋は出来ているわけでもなく,出来たとしても,長期間を要する問題ばかりなのである.いよいよ,根本的な問題を放置して来た付けが目前に迫って来た感じである.

そこで、国力にかかわる問題、難問解決の土台になる問題である『経済問題』と『財政問題』に焦点を当てて考えてみたい.

大ざっぱに言えば,日本政府は500兆円ほどのGDPの2倍にあたる1000兆円の債務を抱えながら,毎年,国債償還分を含めて100兆円の予算を組み,その半分をあらたな借金で賄っているのである.数字だけ見れば日本は間違いなく『巨大な借金がパンパンに膨らんだ大きな政府』である.

にもかかわらず,依然として,地方にもっと金を回せ,社会保障をもっと充実しろ,教育にもっと金を出せ,防災対策をしっかりやれ、安全保障をの強化が必要だ,等々,財政支出要請は,とどまるところを知らないのである.

この調子で、財政支出を増やしていけば,いくら増税しても,財政が破たんする事は火を見るより明らかなのである.勿論,社会的コストが増大すれば,日本の資本主義経済や技術開発,ひいては国民の活力を減衰させ,財政破たんに拍車をかけるのである.まず,この現実を認識しなければならないと思う.

この現象をマルクス経済学者は我田引水的に『資本主義の終焉』と言ったりする.投資の限界効用の逓減が発生し,低金利になっていたり,貧富の格差が拡大したり,社会的コストの増大で資本主義経済は潰れる,等を指して言っているのだと思うが,じゃ,どうするのかには言及がない.

実際は,デフレからの脱却が行われれば,技術革新や需要の変化、或は価値観の変化が起こり,金利も生まれて.資本主義の原理が作動すると思うし,原理的には、景気の循環やデフレとインフレの循環で最適なところに行くよう,見えざる手が働くと思うのである.したがって、資本主義は終焉したと言うマルクス経済学者の見立ては間違っているだけでなく、処方箋も示さないと言う意味では無責任だと思うのである.

私見によれば、この『巨大な借金による大きな政府』が出現した原因は,民主主義政治がパイの分配に傾きやすい事で起こっていると思う.言うなれば,経済理論ではなく、民主主義の原理で起こっていると思うのである.

国民も,業界も,行政も,政治家も,常に財政出動を要請し続け,いつしか『入りを計かりて,出を制す』、『次世代に借金を回さない』と言う『財政法の精神』を民主主義の仕組みで乗り越えてしまったと思うのである.まさに民主主義とは民意によって良くも悪くもなるのである.

経済成長に向けた財政出動は,ケインズ理論がバックボーンになっていたと思うが,問題はケインズ理論をかざして,或は景気対策をかざして,公共事業をばらまいたり,行政の冗長性や国民の為と言う大義が経費の増大を招いたり、している事が原因だと思うのである.

はたして,1000兆円の債務残高の内、返済に見合う効果が出ている債務と,そうでない債務が,それぞれ,どれ位あるのだろうか.後者の借金こそが不良債務であり,次世代の国民の主権在民権を奪い,見返りのない返済を強いる事になるのである.この不良債務こそ未来に残してはならないのである.

そんなわけで、米国のように『大きな政府』論と『小さな政府』論とが,ぶつかり合って政治が行われているのではなく,単に民主主義が持つ危うさが『借金まみれの大きな政府』を生んでしまっていると思うのである.したがって,この原因を除去せずして,『経済と財政の再生』は図れないのである.

以上のような現状の懸念に対し,次の主張もある.

日本政府の借金は日本国民からの借金であり,海外から見ると,日本は借金国ではないように見える事、今のところ,国債は低利で売れる事,債権残や資産を引けば,ネット500兆くらいの債務残高である事,円の価値が下がれば,借金は目減りする事,等から,今のところ、深刻な問題ではないと言う説である.

事実,日本国債の金利は上昇していないのである.又、金融緩和政策による円安・株高,物価高で,借金や給付は目減りし,社会保障財源の運用益は目減り以上に増大しているのである.

説得力ある見方で、そうであって欲しいのだが,この『巨大な借金による大きな政府』という構造がこのままで良いわけがないのである.債権者の国民に借金を返す為に,国民から税金を取る事になるからである.誰しもが『財政の健全化』が必要だと考えているのである.

そこで、日本国民が,1000兆円の上げ底(借金)で生活していながら,1000兆円の借金はけしからんと言うのも、自分勝手な話だが,ここは真剣に『考え方を変える』必要があると思う.いくつか挙げてみたい.

・日本の現状打破は『経済の成長』しかない.パイの拡大無くして何も始まらないのである.経済成長は社会保障の最大の手段だと再確認する必要がある.

・経済成長政策は経済至上主義、競争至上主義、弱肉強食主義だと批判する人がいる.又、『成熟した社会』を目指そう、と言う人もいる.競争のない社会、格差のない社会、を言うのだろうか、もっと大きな政府あるいは社会主義国家を作れと言うのだろうか、言語明瞭・意味不明である.

経済活動の経験のない,正義感に酔って,パイの分配ばかりを言う人に多い意見である.この人達に,じゃどうするのかと問うても答えがないのである.

ラクビーに激しいぶつかり合いの世界とノーサイトの世界があるように,社会を競争(機能体)と和(共同体)を分けて考える必要がある.競争を促すには、フェアー・フリー・グローバルに向けた規制緩和とベンチャーキャピタル等の起業しやすい仕組み、再チャレンジの仕組み、が必要である.ノーサイドの和は優先度を持ったパイの分配とボランティアや寄付の精神が必要だと思うのである.

・経済成長政策の考え方として,重点思考の政策ではなく,,国民への給付を厚くして,消費を高め、経済全体を良くすべきだと言う人がいる.

後者は選挙対策としては都合の良い政策であるが,膨大な予算が継続的に必要になり、その割に、波及効果が小さく,同時に,次世代の技術や産業振興にも繋がらない可能性もある.経済成長政策としてはバラマキではなく、前者の考えで,国際競争時代を視野に,制度や新技術、新産業振興に焦点を当てるべきだと思うのである.

・もう一つ,経済成長政策の考え方だが,経済成長しやすい環境を作る事である.その政策は経済原理と合致したものでなければならないのである.国際的な競争力を減衰させるような政策をとってはならないのである.

考え方として,企業の税はじめ社会的コストの負担を低くして,増益企業数を増やし雇用や財源を確保する事だと思うのである.

・経済成長の主役は言うまでもなく,日本企業と国民である.政府ではない.企業・国民は知恵と行動力で増収増益を出しつづける事が必要なのである.景気が悪い,給与が上がらない,格差が広がる事を政治の責任のように言う人がいるが,違うと思う.これらを政府か解決すると言うのも間違いである.政治が介入すれば、経済の原理や活力が損なわれるのである.

・さらにこれ以上『大きな政府』に出来ないのだから『小さな政府』に向かわざるを得ないとの認識が必要である.その為に、歳出については徹底的な精査が必要である.いくつか、その視点を挙げてみたい.

100兆円の予算を中央集権で編成する事自体が無駄の温床になっているのではないか,目的をはっきりさせる為に,投資と経費を厳しく分ける必要があるのではないか,もし,バラマキ(景気対策と称する財政出動)があれば,食事代と同じ経費と言うべきではないか,さらに,地方も国も公務員の人件費の削減を検討すべきではないか,社会保障(介護、医療、年金,子育て)の抑制は避けて通れない問題ではないか,等々である.

根本的には,ダメ元みたいな予算申請の禁止,いい加減な予算申請や,いい加減な予算執行への厳罰化,一定額以上の予算執行の成果の監視,長期的には,統治機構の改革,等が必要だと思うのである.

このような切り口で筋肉質な,効果的な予算作りと執行が必要だと思うのである.さて、衆議院選挙は佳境に入る.『日本がとるべき方向』を視野におきながら『経済成長』『小さな政府』への『各党の本気度』を見たいものである.

特に野党は反対の為の反対であってはならない.当選する為のいい加減な主張をしてはならない,選択肢がない中で真剣に日本の国難に対峙すべきなのである.国民も,この難題解決の主役である事を再認識して選挙に臨むべきだと思うのである.

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