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2015.01.14

385 幕末から太平洋戦争までの歴史をじっと見た

本年は戦後70年になる.安倍総理はこの区切りの年の8月15日に未来への所信を出すと言う.すかさず、ここぞとばかり、中国や韓国は村山談話、河野談話を踏襲し,行動で示せと迫ってきた.日本のこれまでの平和外交、未来志向など、聞きたくもない、と言った感じである.どうしても100年前に日本を引き戻したいようである.

多分,安倍総理は歴史は専門家に任せるとして,言及しないと思う.ただ,すでに述べているように、歴代の政府と同じように談話を踏襲していると言うはずである.

米国はいつものように、日本は言いたい事があっても『黙っていろ』、『風波を立てるな』、との態度を続けると思う.風波を立てているのは中国、韓国なのだから、そちらの方にも、黙っていろと言うのがフェアーだと思うのだが.

それとも、日本の主要都市への空爆,広島・長崎への原爆投下、対馬丸撃沈,沖縄焦土作戦、シベリア抑留、北方4島占領,等々無差別な残虐行為を『今更持ち出すな、黙っていろ』、と言っているのかも知れない.

中国や韓国が言う『日本の侵略』に対しても、侵略と言う言葉が曖昧であるが、軍事介入された国としては、侵略と言うのだと思うが、それなら、何故、ロシアや列強各国に対しても、言わないのだろうか.どの時の、何に対して言うのかも,確認しなければならないのである.

又、毛沢東が言うように『日本のおかげで中国が統一出来た』と言う皮肉も交えた結果論的な認識もある.当時,無政府状態の中国は、イギリス、フランス、オランダ、ロシア、米国、等の列強の草刈り場になっていた.そこに日本が入って来て、列強を追い出し、中国を支配した.そして、日本の太平洋戦争敗北によって、蒋介石の国民党政権を打ち破った毛沢東の共産党独裁政権が誕生したからである.

毛沢東の言葉が意味するところは、もし,日本が中国に侵攻しなかったら,共産党独裁政権は誕生しなかった事になる.米国派の蒋介石国民党政権国家が今日まで続いていたかもしれないのである.

朝鮮併合や台湾併合にも、同じ事が言える.結果論ではあるが,『日本のおかげ』で,国の形や近代化が出来たと言う認識も出来るのである.

一方,イギリスの清王朝との阿片戦争・香港領有、列強各国の植民地政策、ロシアの南下政策,のように,列強の進出がいずれ日本にも来る,との恐怖から日本は『自衛の戦い』をしたとの認識もある.その結果、『列強の植民地を解放』したという認識もできるのである.

歴史認識にはいろんな見方があり,国家間で、同一認識する事は所詮、困難である.そこで、国際社会では、認識の違いで、更なる争いにならないよう、国家間で条約を締結し,政治的ケジメを付けているのである.

ところが、戦争のケジメを付けた国であるにもかかわらず、歴史認識の違いを持ち出して,政治問題にし,首脳会談を拒否している国がある.ナショナリズムを煽って,外交カードにする為のようだが,そんなことは、日本も、ヨーロッパ諸国も、成熟した国では,やらないのである.そんなことを各国がやれば、国際政治は大混乱に陥るからである.

このように、歴史認識と言うものは,主観的になるのだが、自分なりに、出来るだけ率直に、歴史を見直してみる事にした.この試みは、以前、次のブログでも,やっていた.

NO223『終戦の日・改めて戦史年表をじっと見た』(2010・08・15)

このブログでは,太平洋戦争について『何故、この戦争を回避できなかったのか』『何故、戦争を早く終わりに出来なかったのか』を考えてみたのである.

今回は『幕末から太平洋戦争突入まで』の歴史年表をじっと見て、浅学ながら、素直に、朝鮮、中国における日本の行動を振り返って『明治維新以降、どうして戦争の時代になったのか』を考えて見る事にしたのである.

・1778(天明2年)・・露船,蝦夷地(厚岸)に来航、松前藩に通商を求める
・1786(天明6年)・・露人,千島に来航、幕府、樺太探検継続
・1792(寛政4年)・・露使節、根室に来航、通称を求める
・1793(寛政5年)・・露に長崎入港許可
・1796(寛政8年)・・英,、室蘭に来航,日本沿岸を測量
・1797(寛政9年)・・露,エトロフに上陸
・1798(寛政10年)・・幕府、エトロフに『大日本恵土呂府』の標識を建立
・1799(寛政11年)・・幕府,東蝦夷を直轄
・1802(享和2年)・・蝦夷(箱館)奉行設置
・1803(享和3年)・・米船,長崎に来航、通商を要求、幕府拒否
・1804(文化1年)・・露,長崎に来航、通商を要求、幕府拒否
・1806(文化3年)・・露,、樺太松前藩会所襲撃
・1807(文化4年)・・幕府、西蝦夷を直轄、ロシア,エトロフの会所襲撃
・1808(文化5年)・・幕府、伊豆,相模,房総に砲台設置、イギリス船長崎に来航、
・1809(文化6年)・・樺太を北蝦夷に改名、間宮海峡発見
・1811(文化8年)・・露軍艦長拘束、後,釈放
・1816(文化13年)・・英船琉球に来航、通商を要求、伊能忠敬測量完了
・1817(文政1年)・・英船、浦賀に来航、通商を要求、幕府拒否

・1825(文政8年)・・異国船打払を命令
・1828(文政11年)・・シーボルト事件、シーボルトを出島に幽閉、後、国外追放
・1831(天保2年)・・オーストラリア捕鯨船,蝦夷に来航

・1837(天保8年)・・大塩平八郎の乱、モリソン号、浦賀に来航、砲撃を受ける
・1840(天保11年)・・
英・清の阿片戦争(清国の阿片輸入禁止への英の反撃)
・1842(天保13年)・・清・敗北、南京条約で香港を英が領有

・1845(引化2年)・・英船、琉球,長崎に来航,
・1846(引化3年)・・米の東インド艦隊,浦賀に来航,仏艦隊長崎に来航
・1848(嘉永1年)・・米捕鯨船、蝦夷に漂着,
・1849(嘉永2年)・・英船、浦賀・下田に来航し測量,幕府、海防強化


1853(嘉永6年)・・東インド艦隊ペリー、軍艦4隻で浦賀に来航
・1853(嘉永6年)・・
極東艦隊、軍艦4隻で長崎来航
・1854(安政1年)・・
ペリー、軍艦7隻で神奈川沖来航(武力による圧力)
・1854(安政1年)・・日米和親条約(下田,箱館の開港)
・1854(安政1年)・・
艦隊3隻で長崎に来航
・1854(安政1年)・・日英和親条約(長崎、箱館の開港)
・1854(安政1年)・・日露和親条約(国境画定,長崎,箱舘,開港)
・1855(安政2年)・・日蘭和親条約
・1856(安政3年)・・ハリス、米初代駐日総領事,下田に着任
・1858(安政5年)・・日米,日蘭,日露、日英,日仏,
修好通商条約調印
・1859(安政6年)・・安政の大獄(吉田松陰斬首)

・1860(万延1年)・・幕府軍軍艦威臨丸、アメリカへ出向、桜田門外の変
・1861(文久1年)・・露艦、対馬占領事件
・1863(文久3年)・・長州、下関で米・仏・蘭艦を砲撃,報復攻撃を受ける
・1864(元治1年)・・池田屋事件(新撰組vs長州)
・1864(元治1年)・・
禁門の変(幕軍vs長州)
・1865(慶応1年)・・英,米,露,蘭,下関通航の自由,日本内乱不干渉を決議
・1866(慶応2年)・・坂本龍馬が薩長同盟密約、将軍:
家茂から慶喜に
・1867(慶応3年)・・坂本龍馬の船中八策、近江屋事件(坂本暗殺)
・1867(慶応3年)・・
大政奉還(慶喜),王政復古の大号令


・1868(明治1年)・・鳥羽伏見の戦い,統幕軍江戸入城、
・1868(明治1年)・・政体書公布(明治元年)

・1869(明治2年)・・東京遷都、戊辰戦争終了、版籍奉還
・1871(明治4年)・・廃藩置県,岩倉使節団横浜出向
・1873(明治6年)・・徴兵令布告、岩倉帰国、征韓派敗北,西郷参議辞職
・1876(明治9年)・・日朝修好条規調印、農民一揆多発
・1877(明治10年)・・西南戦争、西郷自刃
・1884(明治14年)・・清仏戦争

・1885(明治18年)・・清仏休戦、清国と天津条約調印(朝鮮からの撤兵)
・1889(明治22年)・・大日本帝国憲法発布(立憲君主制+議会制+行政強化)
・1894(明治27年)・・朝鮮で東学党蜂起、日・清両国朝鮮出兵
・1894(明治27年)・・日英通商航海条約調印


・1894(明治27年)・・日清戦争(清国と朝鮮覇権争い、ロシアへの警戒)
1895(明治28年)・・日清講和条約調印(台湾割譲
・1895(明治28年)・・三国干渉(露独仏),遼東半島還付条約調印

・1896(明治29年)・・朝鮮に親露政権樹立,日清通商航海条約調印
・1898(明治31年)・・独が広州,英が九龍、露が大連、仏が広州,を租借
・1900(明治33年)・・義和団の乱扶清滅洋),日本出兵

・1902(明治35年)・・日英同盟協約締結
・1903(明治36年)・・ロシアへ満州撤兵を要求、日露協定交渉


・1904(明治37年)・・日露戦争(遼東半島覇権争い)
・1905(明治38年)・・旅順陥落、日本海海戦、バルチック艦隊撃破
・1905(明治38年)・・ポーツマス講和会議
・1906(明治39年)・・南満州鉄道株式会社設立
・1908(明治41年)・・ロシアと樺太境界画定書調印
・1908(明治41年)・・清国西太后死亡
・1910(明治43年)・・韓国併合条約(朝鮮総督府設置)

・1911(明治44年)・・孫文による辛亥革命
・1911(明治44年)・・日米新通商航海条約、第3回日英同盟協約
・1912(大正1年)・・中華民国成立(清王朝崩壊)
・1912(大正1年)・・袁世凱大総統就任、孫文,蒋介石,日本に亡命
・1914(大正3年)・・第一次世界大戦参戦(ドイツに宣戦)
・1914(大正3年)・・ドイツ領南洋諸島占有
・1915(大正4年)・・中国に21か条を要求(袁世凱政権受託)
・1916(大正5年)・・袁世凱病死
・1917(大正6年)・ロシア革命(ロマノフ王朝崩壊)

・1917(大正6年)・・孫文,広東軍政府樹立
・1918(大正7年)・・政府、シベリア出兵を宣言
・1918(大正7年)・・第一次世界大戦終了(ドイツ降伏)
・1919(大正8年)・・パリ講和会議、ベルサイユ条約調印
・1920(大正9年)・・国際連盟成立,正式加盟(常任理事国),独、ナチス党結成
・1922(大正11年)・・9か国条約・海軍軍艦条約調印,シベリア派遣軍撤退声明
・1923(大正12年)・・中国,21か条の破棄,旅順、大連の回収通告,日本拒絶
・1923(大正12年)・・関東大震災、孫文北伐を決定
・1924(大正13年)・・米,排日移民法成立,
・1926(昭和1年)・・・日ソ基本条約調印(国交回復)

・1927(昭和2年)・・蒋介石,南京に国民政府成立(張作霖軍閥打倒)
・1927(昭和2年)・・蒋介石国民党革命軍、南京入城(米英仏日被害)

・1928(昭和3年)・・張作霖(満州利権の後ろ盾,北京政府),奉天で爆死
・1928(昭和3年)・・蒋介石国民党革命軍,北京入城
・1928(昭和3年)・・蒋介石国民党革命軍、済南に派兵(北伐軍)
・1928(昭和3年)・・日本軍、済南派兵(日本人保護),北伐軍退去
・1928(昭和3年)・・蒋介石に南満州鉄道,満州の治安維持を要請

・1929(昭和4年)・・世界経済恐慌始まる(ニューヨーク株式暴落)
・1931(昭和6年)・・満州事変(満鉄爆破)
・1932(昭和7年)・・関東軍,満州全域の支配(反日抑止、ソ連進出阻止)
・1932(昭和7年)・・満州国建国宣言

・1932(昭和7年)・・5・15事件(犬養毅首相暗殺、政治への軍部の不満)
・1933(昭和8年)・・国際連盟,満州国不承認、日本の満州からの撤退を決議
・1933(昭和8年)・・国際連盟脱退(日本国民は快挙と判断)
・1935(昭和10年)・・独、ベルサイユ条約破棄・再軍備宣言(ヒトラー総督)
・1936(昭和11年)・・2・26事件(軍事クーデター、鎮圧)

・1936(昭和11年)・・ロンドン軍縮会議脱退、日独防共協定成立

・1937(昭和12年)・・
盧溝橋事件(日中軍事衝突、日中戦争に発展)
・1937(昭和12年)・・蒋介石、対日攻撃を宣言,日本、華北,上海、南京を攻撃
・1937(昭和12年)・・国際連盟日本非難を決議、日独伊防共協定成立
・1938(昭和13年)・・対中和平交渉打ち切り、日本軍、広東,武漢,三鎮を占領
・1938(昭和13年)・・近衛政権,東亜新秩序、南方進出を決定
・1939(昭和14年)・・日本軍,海南島占領,ノモンハン事件(日ソ軍事衝突)
・1939(昭和14年)・・日本軍,天津の英仏租界を封鎖,米が日米通商条約破棄

・1939(昭和14年)・・第2次世界大戦(ドイツ、ポーランドに侵攻、英仏海戦)
・1940(昭和15年)・・斎藤隆夫演説(戦争政策批判)
・1940(昭和15年)・・汪兆銘,南京に国民政府樹立
・1940(昭和15年)・・日独伊三国同盟締結,汪兆銘と日華基本条約調印
・1940(昭和15年)・・伊、英仏に宣戦、独、パリ入城、ソ連、バルト三国併合
・1940(昭和15年)・・北部仏印進駐
・1941(昭和15年)・・南部仏印進駐、仏領印度支那共同防衛議定書締結
・1941(昭和16年)・・米英、
日本人資産凍結、対日禁輸発表
・1941(昭和16年)・・
日ソ中立条約締結
・1941(昭和16年)・・日ソ中立条約締結
・1941(昭和16年)・・対米戦争準備、平行して外交交渉を決定
・1941(昭和16年)・・近衛退陣、東条内閣発足(外交継続,軍部の抑制)
・1941(昭和16年)・・日本は中国、仏印からの暫時撤退を米に打診
・1941(昭和16年)・・米は日本にハル・ノート(10項目)通告(最後通告)
・1941(昭和16年)・・日本は米の宣戦布告と認識し開戦を決意

・1941(昭和16年)・・真珠湾奇襲,マレー半島上陸,米英に宣戦布告

以上、独断で日本の外交を中心に、幕末、明治維新から太平洋戦争突入までの歴史年表をまとめてみた.そして,全体の歴史の流れをつかむ為に,その時の日本,中国、韓国,台湾,の状況を次に要約してみた.

1.日本 (参考文献・産経新聞出版・日本の戦争)

西洋列強の軍艦を見て以来、日本は列強に強い恐怖を感じ、国内は開国派と攘夷派に分かれて,大混乱に陥った.どちらも、展望があるわけではなく、結局、現状肯定の佐幕派と現状否定の改革派(王政復古派)に二分した内乱に発展した.

幕府の大政奉還によって,幕藩体制は消滅し,王政復古の明治維新に時代が移り,明治政府は列強国の日本侵攻を阻止し、独立国として伍していく為に、慎重に列強との通商を進めながら、必死に新しい国作りに取り組んだのである.

この明治政府を牽引した人材が吉田松陰の同士、門下生であった.そして、かつて吉田松陰が説いていた、藩から近代的な独立国家・中央集権国家の建立、欧米列強文明の取り込みによる文明開化,人材育成,殖産振興,富国強兵が進められたのである.

この国づくりと並行して、清国との朝鮮の覇権争いの日清戦争、ロシアの南下政策による遼東半島支配や満州への侵攻に対する日露戦争,美並満州鉄道権益の確保、満州国建設、等を展開したのである.しかし,満州国は国際連盟で承認されず,日本は国際連盟を脱退する事になった.のである.

更に,日本は、蒋介石国民党の反日抗争による日本人保護、列強権益の排除を大義とした日中戦争に突入したのである.そして、上海、南京等の主要都市を支配するも、中国全土に戦線が拡大し、泥沼状態になって行ったのである.

そこで、蒋介石を支援していた米国の中国への物資輸送ルートのフランス領インドシナに進出(南進)し、『援蒋ルート』の遮断と『資源確保』を決定し,戦線が,さらに拡大して行ったのである.

このように、日本の戦線が中国、東南アジアに拡大したのだが、第2次世界大戦が勃発し,ドイツがフランスを降伏させ,快進撃を続けていた事から、ドイツと同盟を結べば,フランス、イギリスも文句が言えなくなり、ソ連も満州に攻めてこない,との思惑があったのである.

日本の南進に米英は態度を硬化させ,日本人の資産凍結、対日輸出全面禁止に打って出た.この事態に日本は近衛内閣から東条内閣に移り、開戦やむなしとの覚悟を持ちつつ、外交交渉を続けた.

日本からは中国、仏印からの暫定撤退を米国に打診するが、これに乗じて、米国は逆に日本に対し、中国、仏印からの全面撤退、三国同盟の否定、等10項目を突き付けた(ハル・ノート).これを米国の日本への最後通告,宣戦布告だとして、日本は戦争を決断したのである.米国はドイツを攻撃する理由を得る為に、ドイツの同盟国である日本を戦争に引きずり込んだとの説もある.

2.清国、中国 (参考文献・ウイキペデイア)

19世紀の中国は清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である.清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいたのである.1900年には義和団の乱(扶清滅洋・欧米列強の排除運動)が起こり、国内の混乱が続いたのである.

1908年、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切るも.清朝は求心力を取り戻せず,漢民族の孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げ,1911年,辛亥革命に発展した.

翌1912年,中国の南京で中華民国が樹立された.清朝最後の皇帝,宣統帝(溥儀)は正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡したのである.

そして,中華民国成立後もイギリス,フランス,ポルトガル、ドイツ、日本等の列強による中国大陸の局地的な支配が続いた.その中国は軍閥による群雄割拠(張作霖、袁世凱,蒋介石,毛沢東、等々)による内乱が続くことになる.

1914年に勃発した第一次世界大戦中に日本から『対華21か条』(山東ドイツ権益の善後処理,,満蒙における日本の権益、在華日本人の条約上の法益保護)を提示され,袁世凱政権はこれを受託したのである.

1931年の満州事変勃発、満州国の建国後,日中戦争に発展し,中国大陸の多くの部分は日本の影響下におかれ、日中和平を推進する汪兆銘政権により統治された.

1945年の第2次世界大戦における日本の敗北で、ソ華友好同盟条約により、旅順・大連・南満州鉄道がソ連に引き渡された.日本は中国大陸から撤退し、中華民国が連合国の一国として香港・マカオ・旅順・大連などを除く、中国大陸を改めて完全統治する体制が整ったのである.

しかし1930年代から日中戦争を挟んで断続的に行われていた国民軍と解放軍の内戦において,ソビエトから支援を受ける中国共産党毛沢東の中国人民解放軍がアメリカからの援助を受ち切られた中国国民党に対して勝利をおさめ、1949年に共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国を樹立、翌年までに台湾、および福建省の一部島嶼を除く中華民国の統治地域を制圧したのである.

尚、国民党政府は台湾島に追われるかたちで政府機能を移転(その後、日本は1952年にサンフランシスコ講和条約で台湾の権益を正式に放棄)、その後も国際法上、空白地である台湾島と、これらの島嶼地域は現在国民党政府の実効支配下に置かれている.

3.韓国 (参考文献・ウイキペデイア)

朝鮮半島を挟んで日・清両国の関係が緊張するなか,李氏朝鮮内部においても悪政と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱が起きた.朝鮮は自力での解決ができずに清に救援を依頼し、清は朝鮮を属領と称し派兵を行った.この事により,朝鮮の独立の怪しさが露見され、日本を不安に陥れた.

日本は邦人保護を名目に朝鮮半島に出兵し,朝鮮の自主独立のために五カ条の改革案を朝鮮に提案した.改革案は受け入れられ、反乱終了後も,駐兵要求があるとして,日本軍は駐留を続けたのである.しかし,清国も軍の駐留を続行した.

1894年(明治27年)日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国と下関条約を締結し,朝鮮への清国の影響力を排除.独占的権益を得る事に成功したのである.

その後、大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服し遼東還付条約を締結した.朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し,帝政ロシアに接近.1896年(明治29年)に親露保守派が政権を奪取した.

この事態は,朝鮮が帝政ロシアの保護国と見なされる危険性もあった.1897年(明治30年)清国、大日本帝国、帝政ロシアに対抗する為,朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改めた.

しかしロシアは,1898年3月15日,清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び,遼東半島に不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ,1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した.

満州に権益を得た帝政ロシアが南下政策を続けていたが,大日本帝国は外交努力でロシアとの衝突を避けようとした一方、国内では、帝政ロシアに対し,朝鮮半島と満州の利権のどちらを手に入れられるか、で対立していた.大日本帝国とロシアは満韓交換論などめぐり交渉を続けたが,両国の緊張は頂点に達した.

そして,1904年,日露戦争に突入するのだが、帝国主義列国の相互牽制による独立維持という朝鮮国(大韓帝国)の外交方針は崩れ,大日本帝国による朝鮮国(大韓帝国)の保護国化が強行された.

日本は日本海海戦での勝利を経て,ロシア軍も米国の講和勧告を受け入れてた.1905年,米は韓国における日本の支配権を承認し,日本は米国のフィリピン支配権を承認.し、以下の三点が確認された.

・日本は,米の植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する
・極東の平和は、日本,米,英、3国による事実上の同盟によって守られる.
・米は,日本の韓国における指導的地位を認める.

1910年(明治43年)韓国併合に関する条約に基づいて、日本に併合され,1945年の日本の降伏後、解放された.そして,ソ連および米国の占領地に分割され、1948年に後者が大韓民国となった.

国際連合は同国を朝鮮唯一の合法政府であることを宣言したが,共産主義政体がすぐに北朝鮮に設立され,1950年には朝鮮戦争に突入した.1953年、朝鮮戦争休戦協定により、同戦争は休戦に至った.そして、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断されたまま、現在に至っているのである.

このように、朝鮮は、清国,露,日本の権益と軍事的要所の奪取争いの場になったのである.そして日本に併合されるのだが、日本の敗戦後、今度は米ソの対立の場になり、朝鮮戦争に発展、今日まで南北に二国が分断されたままになったのである.そんなわけで、朝鮮半島の近代史は列強国によって、翻弄された時代だったと言えるのである.

4.台湾 (参考文献・ウイキペデイア)

19世紀半ばに列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると,台湾にもその影響が及ぶようになった.1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより,台湾でも台南・安平港や基隆港が欧州列強に開港されることとなった.1871年、宮古島島民遭難事件で日本政府は清朝に厳重に抗議し,1874年,日本は台湾に出兵.1884年の清仏戦争の際、フランスの艦隊が台湾北部を攻略.

これに伴い,清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化を推進.清朝は,それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになった.

1894年に清朝が日清戦争に敗北したため下関条約で台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる.

台湾が本格的に開発されたのは日本統治時代になってからである.農業振興政策、各種産業保護政策、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業、教育制度、などを実施した.また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現していた.

太平洋戦争が勃発すると,台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる.軍需に対応すべく台湾の工業化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備もこの時期に積極的に行われた.しかし戦争末期にはアメリカ軍の空襲を受けるなど台湾も爆撃などを受け、目標としていた工業生産を達成することなく終戦を迎えることとなったのである.

5.歴史を振り返って見て

歴史、史実の意味・意義、などは、『立場の違いによる認識の差』、もあれば,『当時の認識と後年の認識との差』もある.もちろん、史実に対する把握の程度で『事実の認識の差』もある.

又、小さな軍事衝突が戦争に発展し、ドミノ現象のように、戦線が拡大する事がある.この場合は戦争の大義などないのだが、歴史認識としては、『後付の認識の差』になったりするのである.

そんなわけで、一意に歴史認識を国家間で共有する事はほとんどない.方や英雄、方や犯罪者、方や自衛、方や侵略、等、180度違う認識が生じる事が多いからである.結果としては,国家間の歴史認識は勝者の論理で決まることが多いのである.『歴史は勝者が決める』と言われる所以である.

このように歴史認識の差は避けて通れないのだが、この時代の上記の年表や各国の歴史の要約をじっと見て、素直に感じた事を整理してみた.

超マクロで言えば、欧米列強の東南アジア、中国への植民地政策(通商、権益、租界)、ロシアの満州、朝鮮への南下政策(通商、権益、軍事的要所・不凍港の確保)があって、それが日本に押し寄せてくるとの恐怖心を生み、日本の朝鮮,満州、中国、さらにはインドシナ方面への侵攻、そして、引くに引けなくなった状態での太平洋戦争への突入に繋がったと思うのである.

明治維新以来、国を動かす原動力になってきた恐怖心は島国で鎖国を続けた結果、欧米列強には無知であった事からきていると思う.そして、この『異常なまでの恐怖心』が『軍部の政治介入』を許し、『軍部の論理』で国が動いたと思うのである.

この『軍部の論理』とは私論だが『戦いの犠牲者の為にも負けられない』『やられたら,やり返す』『やられる前にやっつける』『軍部の自己増殖の目的化』である.論理と言うより習性である.この『軍部の論理』は感情に訴えて,人々を動かす力が大きいのだが、国家としての冷静な考え方や方向性,政策が必ず必要になるのである.

ロシアの南下政策は極めて軍事的な色彩が強く,日本の朝鮮や満州への侵攻(日清戦争、日露戦争、満州への覇権,等)は、良し悪しは別にして、ロシアに対する『日本防衛の大義』が国家の姿勢として見えていたと思う.

しかし、孫文の国民党との戦いをしながら、中国主要都市を支配下に置いた日中戦争(支那事変)に関しては、現地で反日運動と対峙していた関東軍が『軍部の論理』で戦線を拡大して行った様子は見えるが,国家としての方向性や政策や出口は見えなかったのである.後付で『東亜新秩序』を宣言しても、欧米列強の反感を強めただけになったのである.

そんなわけで、この時代の歴史を俯瞰すれば,『ロシアの南下政策への恐怖』から『自己防衛』すると言う大義があっても、『中国で展開されていた欧米列強の植民地政策への恐怖』は、いつの間にか、『中国の反日戦線との戦い』に変質し、太平洋戦争に繋がって行ったのである.

今から見れば,明治維新,日清戦争,日露戦争の『坂の上の雲』の先に,日中戦争,太平洋戦争が待ち構えていたのである.

歴史には、『たら、れば』はないが、もし、中国や朝鮮がしっかりしていれば、欧米列強の草刈り場にならなかっただろうし、ロシアの南下政策にも対抗出来たと思うのである.日本も、欧米列強に対する通商、航海等の開国と交流を進めながら,本の近代化に専念できたと思うのである.

ところで、人や国家が動くには『理と気』が必須である.『理』は考え方、方向性、『気』は感情、情熱である.『気のない理』は言うだけになり、『理のない気』は感情に走って,ブレーキが聞かなくなるのである.

現時点から当時の歴史を振り返って見ると、短絡的な言い方になるが、『軍部の論理』は『気』に見えるのである.だとすると、辛亥革命で1912年に孫文が南京政府を作って以来,日本は軍主導の『理のない気』が政治を動かしていたように感じるのである.太平洋戦争においても、当ブログNO223でも触れていたが、これを繰り返し、極限まで戦争を続ける事になったと思うのである.

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