« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

2015.04.27

398 中国主導のアジア・インフラ投資銀行への対応

2015年4月15日,中国が主導するアジア・インフラ投資銀行(AIIB)の創設メンバーが確定した(57ケ国、米国、日本は入らず).

中国の思惑はアジアでの経済的、軍事的覇権を強化する事だろうし、それに対し、日本,米国はすでに、国際金融機関を主導している事もあるが、数千億の出資を求められた上に、中国の戦略に乗せられることを警戒して、参加を見送ったと思うのである.根底には一党独裁国家の覇権拡大への警戒があると思う.

アジア以外の創設メンバー国の多くは、出資金は少ない上に、中国やアジアのインフラ市場に参画できる,と言う皮算用があると思う.

今後、世界銀行(世銀),国際通貨基金(IMF),アジア開発銀行(ADB),欧州投資銀行(EIB),米州開発銀行(IDB) などの各種国際金融機関との関係やAIIBの運営の透明性、融資条件、環境保護、リスク管理、等、この創設メンバーで協議される事になる.中国の思惑と創設メンバーの意向が、どのように、調整されるか注目されるところである.

又、運営の透明性が担保されても、米国や日本が参加しない事による、出資金不足や、中国と同じような程度にAIIBの信用が位置づけられ、既存の国際金融機関より劣る船出になるかもしれないのである.

さて、6月末までに、創設メンバーによる運営規約が策定され、本年中にスタートの予定だと言う.日本として気になるのは、運営規約の内容もさることながら、参加しない事による、日本のアジア・インフラビジネスやADBへの影響である.

当然、ADBの資金拡大や融資活動の強化が必要になると思うが、重要な事は、AIIBと連動した中国のアジア・インフラ市場への進出と,どう戦うかである.

その為に、日本の優秀なインフラ技術や実績もさる事ながら,アジア諸国との友好と信頼関係づくりが極めて大事になると思うのである.

その友好関係の中で、我国は、道路、橋、トンネル、鉄道、新幹線、港、護岸、防災、環境、耐震、治水、土地改良、灌漑用水、上下水道、都市開発、医療、医療機器、土木・建設機器、人財育成、等々を提案し、相手国の発展に貢献して欲しいものである.

その為に,日本の力を十分発揮できる官民の体制強化も必要だと思う.今後の対応に期待しつつ、推移を見て行きたいと思う.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.04.23

397 何んとかならないか、無投票当選

最近、いらいらする事が多い.直近で言えば、統一地方選挙後半における、無投票当選の多さである.私の所の市会議員選挙も、定数22であるが、図ったように、立候補者がジャスト22人で、4月26日の投票日を待たずに、全員の当選が決定したのである.共産党は全員当選で,議会第一党になり、歓喜の万歳をしていた.『なんだこれは』、『いらいら』の始まりである.

『いらいら』はそれだけではない.無投票当選は、選挙運動もなく、立候補者の主張もわからず、どれほどの支持を得て議員になったのかもわからず,挙句に、わけのわからない無投票当選者へ議員の資格と歳費を与えてしまう事に、『なんだこれ』と『いら立つ』のである.

何よりも、住民の選挙権が行使できない事が納得できない.市政の失敗があっても、『わしゃ知らん、議員で弁償しろ』と言いたくなる.

そんな『いらだち』をよそに、無投票当選者が喜んでいるのは,何の苦労もなしに、地位、権力、歳費、を得る事が出来た、或は,立候補者の調整がうまく行った、からだろうか.『いらいら』が講じて、こんな事を想像するのである.そして、『いらいら』度数がさらに上昇するのである.

この無投票当選は、民主主義の土台の崩壊とか、憲法違反とか、当選無効とか、の意見は昔からある.しかし、公職選挙法で無投票当選が認められているのである.

理屈の上では、無投票が嫌なら、定数を超えて立候補者を立てればよい、それをしないのは、候補者を議員として認めているからだ、となるのである.

言い換えると、候補者数は民意の表れであるのだから,定数割れで全員が当選する事になっても、民意の表れだと言う事になるのである.

しかし、市民は無投票当選になる事を立候補締め切り後でしか知らないのである.したがって、一般市民は、無投票を避ける手段は持てちえないのである.

民主主義の基本である投票権を奪う無投票当選は釈然としないのだが、真剣に、この制度の問題を考えて見た.

①選挙は立候補者の人柄、考え、業績、政策、等を聞き、評価する唯一の機会である.選挙が無い事で、これらのチャンスを奪われると言う問題がある.したがって,この機会を失わない為に、定数割れでも選挙をやるべきなのである.

➁更に言えば、選挙権を行使できないと言う、まさに憲法に抵触する大問題もある.無投票当選者は市民の付託、信任、の無い議員であり、その人が、政治をやる事になるのである.

➂公職選挙法の無投票当選の規定は、公職選挙法の他の規定(当選人の最低得票数の規定、供託金没収の規定)と整合していない問題がある.無投票だから、適用できないのである.これを整合させる為にも、選挙をやるべきなのである.

そんなわけで、無投票当選制度は違反臭いのである.法的に、もう一度、精査すべきだと思うのである.もし、無投票当選をこれまで通り許すとなった時、次の手として、こんな方法を考えてみた.

①無投票確定時、議員定数を減して選挙を行う(議員)
➁無投票当選者の任期を1年程度にする(組長、議員)
無投票確定時,不信任投票に切り替えて,当選無効者を決める(組長、議員)
④無投票にする為の談合には厳罰を科す(組長、議員)
⑤上記談合があった時、無投票当選者全員を当選無効にする(組長,議員)

無投票当選をなくす為に,是非、検討して欲しいのである.

無投票当選は効率的で、選挙費用を削減できると、思われがちだが、最も重要な、市政が民意とかけ離れたり、住民の議員や議会への不信感が募ったり、する可能性がある.

何よりも、選挙が無い事で、公約も、議員への付託もなくなり、従って、政策の失敗を市民が負うと言う、民主主義の理屈が成立しない事になるのである.市民としては、信任を得ていない政策の失敗を市民に押し付けるな、となるのである.

どうだろうか.これを書いただけで、少し、『いらいら』が収まってきた.しかし、こんな事を無投票当選で万歳をする議員が検討するだろうか、と思うと,虚しいガス抜きでしかないのかも知れないのである.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.04.17

396 高浜原発再稼働差し止め仮処分判決にみる疑問

昨年5月、福井地裁の樋口裁判長は大飯原発 3,4 号機に対し、次の理由で再稼働差し止めの判決を出した.

『原発事故の危険性が万が一にもあれば差し止めが認められるのは当然だ』

原発の安全性に関する判断には「必ずしも高度の専門的な知識を要するものではない」とも言及。生命や身体、名誉など個人が生活する上で保護されるべき権利を指す「人格権」を根拠に,原発のゼロリスクの証明を迫っていたのである.確かに、『万が一のリスクがあればダメ』と言うのは、高度な専門知識など不要で、子供でも言えるのである.

この判決に対し、当ブログで、司法の問題点を発信していた.

NO 356 『大飯原発再稼働差し止め判決に見る司法の問題』(14・05・25)

約1年後の今年4月14日に、同じ樋口裁判官は、今度は、検査完了予定の高浜原発 3、4号機に対し、再稼働差し止めの仮処分を決定したのである.基本的な判断の枠組みは大飯原発と同じだが,さらに踏み込んで,新規制基準に対しても、

『万が一にもないと言える厳格な内容を備えているべきだ』

と,『緩やかにすぎ,合理性を欠く』とまで言い切ったのである.この判決に対し,又,違和感を感じたのである.

いくつかの違和感を整理し,改めて列記してみた.

1.再稼働プロセスを無視した司法権の問題

通常、判決は、三審で結審される.ところが、『仮処分の判決』は、緊急を要する事を理由に、一審の判断で強制力のある判決が出せるのである.

今回の差し止め仮処分の判決は、一人の裁判官の判断で、国の再稼働審査プロセスを無視した判決であり、まさに、司法権の乱用の何物でもないと感じるのである.又、三審制度があるからと言って、司法権の乱用が防止できるわけでもないのである.

かねてから、当ブログで、裁判官の裁量による、『司法権の乱用』が進むと、その裁量権を狙って、政治問題を議会ではなく、司法の場に持ち込む事が増えて行くと危惧していたのである.

そんな事がまかり通れば、『民主政治』が空洞化し、『お代官様政治』になってしまうのである.今回の判決も、その危惧をさらに、大きくしてしまったと思うのである.

そんなわけで、民意に繋がっていない裁判官が『曖昧な事』に独断的裁量権を発揮して,民主政治プロセスを否定できる事に、制度的な対策が必要だと感じるのである.

『法治国家』とは、すべての国民の為の制度であり、『お代官様政治』を許す制度ではないのである.内閣(行政府)に属する法務省は、この違和感、問題点について、どう考え、行動しているのだろうか.最近の一票の格差問題でも、このような問題があるが、司法制度の根本的な問題だと思うのである.

2.関電への差し止め命令は、筋違いではないか、と言う問題

大飯原発でも、高浜原発でも、国が決めた手続きで、稼働可否を判断しているのだから、落ち度がない関電に差し止め命令を出すのは筋違いである.関電からすれば、『俺に言うな』だと思う.

稼働を阻止したい人達は、民主主義プロセスに従って、政党、地方議会、政府、原子力規制庁に訴えるか、それらの行政期機関に対する行政訴訟を起こすべきだと思うのである.したがって、裁判所が関電に判決を出した事が,そもそも間違っていると思うのである.

勿論、そんな事を承知の上で、原告と裁判官が連携して、強制停止させたいとの思惑があるなら、大飯も高浜も、同じ裁判官が判決を出した事も含めて、裁判の公平性を欠く、大問題だと思うのである

3.抽象的観念に基づく判決は裁量権の乱用にならないか、と言う問題

前記のように、裁判の入り口の問題もあるが、加えて、抽象的な観念だけで、判決を出してよいのか、と言う問題もあると思う.

『万が一の深刻な災害が起こる恐れのあるもの』は、『多くの人の人格権が侵される』から、『差し止める』 との事だが、あまりにも、『万が一』『深刻な災害』『恐れ』『多くの人の人格権の侵害』、等、どれを取ってみても、抽象的で観念的な言い方ばかりなのである.

言葉の定義も、具体的な判断基準も示さず、ましてや違法性のない行為に、観念的に、仮処分の判決を出す事は、『正義に反するからダメだ』と言っているようなもので、明らかに、裁判官の独断的解釈による裁量権の『乱用』、或は『暴走』、司法権の『越権』だと思うのである.

判決を出す以上、万が一の程度とは、深刻な災害の程度とは、恐れの程度とは、人格権の侵害の程度とは、と言う判断基準を示すべきである.それを示していないから、限りなく裁量権が大きくなり、短絡的な,イチゼロの判決になっているのである.

観念を判断基準にするような判決は出すべきではないし、ましてや、地方議会、政府、規制庁などを無視した判決など、出せるわけがないのである.

同じように、『自由』『平等』『人権』なども、極めて抽象的、観念的であり、何を持って、守られていないとするか、日常的な問題になるのだが、これらも,すべて、俗人的な裁判官の裁量、或は、その人達が出した判例にゆだねられている事にも、同じ違和感を感じているのである. 

4.『万が一の発生』を判決の基準にして良いのか、と言う問題

判決基準が観念的であると指摘したが、最も大きな問題は、『人格権侵害の有無』の判断基準を『万が一のリスクに対応しているか、どうか』とした事である.

『万が一』の危険性は、まず、自然現象にある.このリスクを人類は軽減する事が出来ても、ゼロにする事は出来ない.しかし、このリスクに人格権が侵害されると訴える人はいないし,人格権の侵害を認める裁判官もいないのである.

しかし,今回の判決では、『原発は万が一のリスクへの対応が出来ていないから,人格権の侵害を認める』と言うのである.この論によれば、自然現象に起因する万が一のリスクに対応が出来ていない文明は,深刻な被害の程度にも依るが、すべからく、人格権を侵害をしている、と言う事になるのである.

この福井地裁の論がまかり通れば、こんな判決が出るもかも知れないのである.(万が一、深刻な被害、人格権の侵害、等の程度の判断基準にも依るが)

・火力発電は地球環境に対し,100%安全ではないから、発電を差し止める
・水素エネルギーは100%安全ではないから、使用を差し止める

・超高層ビルは100%安全ではないから、建設や使用を差し止める
・建築基準は100%安全ではないから、建築や使用を差し止める

・飛行機・新幹線は100%安全でないから運行を差し止める
・新薬は100%安全ではないから、使用を差し止める
・インターネットは100%安全ではないから、使用を差し止める
・基地は戦争に巻き込まれる危険性があるから、基地の運用を差し止める
・軍備は戦争に巻き込まれる危険性があるから、軍備の保持を差し止める
・集団的自衛権は戦争に巻き込まれる危険性があるから、これを差し止める
・テロ対策はテロに巻き込まれる危険性があるから、テロ対策を差し止める
・相手国を非難すると、武力攻撃される危険性があるから、非難を差し止める

等々、挙げたらきりがないが、『再稼働差し止め』と同じ論理である.

はたして、『人格権の侵害の有無の判断』を『いつ起こるか分らない万が一の現象に対応しているか,どうか』で判断する事が許されるのだろうか.大いに疑問である.

現在の制度では、専門知識が無くても判決が出せると言って,このような判決を出す裁判官がいても、防げないのである.更に、その裁判官が政治運動家と連携して,政治を左右させるような判決を出す事を防げないのである.

これらの問題は,言うまでもなく、国民や科学者を巻き込んだ政治の問題であって,俗人的に裁判官が高度な専門的知識なしで,采配を振るう話ではないと思うのである.裁判官の権限が青天井にならない為の制度が必要ではないかと思うのである.

5.原発再稼働を差し止めても、人格権は保護されない、と言う問題

再稼働差を差し止めでも、残念ながら、原発問題も、人格権も、何も解決しないのである.喜ぶのは、原発再稼働反対を掲げて、政治勢力を伸ばしたい人達である.

そこで、再稼働を差し止めても、解決しない問題をいくつか、挙げておきたい.

①発電所に高・低核燃料廃棄物がある以上、万が一のリスクは残る.
➁核燃料の処分の方法と設備が出来て、廃炉が完了するまで、このリスクは残る.
③廃炉財源、原発技術者の育成、技術革新、等の対応問題は残る.
④原発停止による、年間3兆8千億円の負担増や代替エネルギー問題は残る

そんなわけで、現実的には、原発再稼働を差し止めたとしても、根本問題が解決しないのである.これが『原発問題の本質』であって、だから、政治家も、国民も、科学者も、苦悩しているのである.

再稼働反対、原発反対、と言う論者は,この本質的問題をどう考えているのだろうか.それとも、再稼働させなければ、安全だと思っているのだろうか.高度な専門知識が無くても判断できる、と言うなら、『原発問題の本質』に策を示して欲しいものである.

そんなことを思うと、差し止め仮処分の判決を出した裁判官や全面勝訴と歓喜の声を上げている原告団の人達は、この本質的問題に悩むことなく、『万が一でも、危ないものはダメ』と子供のような事を声高らかに言っている愉快犯に見えてしょうがないのである.真剣に悩んでいる人達は、冷めた目で、この判決を見ていると思うのである.

そもそも、この原発問題始め、他の安全性確保の問題は、国民の生命・財産を守る問題であり、国民、政治家、地方議会、政党、国会、政府、科学者が、真剣に取り組む問題であり、国会で議論すべきなのである.

以上、高浜原発再稼働差し止め仮処分判決に対し、昨年、発信した,大飯原発再稼働差し止め判決への疑念、問題を踏まえて、改めて,この問題を取り上げた.

浅学で間違った理解があるかもしれないが、是非、有識者は、多数決による民意と司法の判断が違う時、どうすれば良いのか、を論じて欲しいのである.

余談だが、

福島原発事故の原因であるが、私の理解では、巨大地震による破壊でもなく、巨大津波による破壊でもなく、地下にあった電源が海水で水没し、電力が消失し、核燃料の冷却や、原子炉及び発電所プラントの管理が出来なくなった事が原因だと認識している.

従って、原発設備は、あの強大な地震や津波に耐えたのである.津波に耐えたのは、海側にある多くの建造物が防波堤になった事も幸いしたと聞いている.

にもかかわらず、原因がはっきりしていない内に、再稼働する事はけしからん、と言う主張をよく聞く.テレビの司会者やコメンティターの発言にもあった.どうやら、いろんな事故調査が行われた割に、その結果が国民に伝わっていない感じがするのである.従って、私の認識も、間違っているかもしれないのである.

そして、原発再稼働検査において,原子力規制委員会に、地震学者が多いせいか、活断層の議論ばかが出ているように感じるのである.

活断層があるから危険だと言うなら、再稼働云々ではなく、原発がそこにある事も、町がそこにある事も、危険であり、そこから逃げろと言うべきなのである.

しかし、現実は、原発をすぐ廃炉に出来ないし、町ぐるみで転出も出来ないのである.結局、活断層議論は何の為にやっているか、わからなくなるのである.

どうやら、活断層の上に原発を作れないと言う法律があるから、専門家は『活断層の有無を議論しているだけで、危険か、どうかを、考えているわけではない』と言うのかも知れない.とすると,危険か,どうかは,誰も分らないし,判断できない事になるのである.勿論、高度な専門的知識を必要としないと言う裁判官が判断できるわけがないのである.

はっきりしている事は、我々は、天変地異が、明日起こるか、100年後に起こるか、500年後に起こるか、わからない中で生きている事である.

それが,人格権を侵害していると思う人は,活断層や、火山や、地震や,津波が、ないところに移住するしかないのである.裁判所に訴えても、何も解決しないのである.裁判官が人格権の侵害を認めても、何も解決しないのである.

ところで、原発は危険で,すべて停止し、廃炉にすべきだ、と真剣に思っているなら、中国の原発は気にならないのだろうか.気になるなら、現地で原発廃止運動や人格権侵害の訴訟を起こしたらどうだろうか.政府反逆罪で逮捕されるかもしれないが、中国国民はどう考えているのか興味がある.

多分,原発は12億の中国国民が、『生きて行く為に不可欠だ』と言うと思う.そして,中国で原子力の専門家が多く育ち、安全性確保の革命的な技術開発が行われるかも、知れないのである.これも、否定できない、一つの考え方かもしれない.

追伸(4月21日)

高浜原発の再稼働を差し止めた福井地裁の判決文で、発言を引用された京大名誉教授(国の原発耐震設計指針作りに中心的役割を担った)は事実誤認が多いと指摘した.

地裁は差し止めた理由を『基準地震動は地震の平均像を基礎にさ定められ、それを超える地震が起こり得る』とした事に対し、教授は、『基準地震動は原発ごとに考えられる最大の揺れを計算するもので、過去や将来起こる地震の平均像で求めると言う意味ではない』と、地裁が曲解している事を指摘した.

又、地裁は『基準を超える地震はあってはならない(基準が甘い)』としたが、教授は、『科学は不確実さを伴い、基準地震動を超える揺れが絶対にないとは言えない.しかし、原発は、基準を上回る揺れにも耐えられるように設計され、基準を超えれば直ちに、重大事故に至るわけではない.』と指摘した.

更に、地裁は、『基準地震動を超えた例が10年間に4原発で5回あり、実績、理論面で、信頼性を失っている』としたが、教授は『2007年の新潟地震で基準地震動を厳しくした.5回の内3回は見直し前に起きた地震だ.東日本大震災では2か所で超えたが、観測と予測の差はわずかで有効性が裏付けられている』.と指摘した.

教授は、『高度な専門的知識を要しない』として、差し止め判決を出した樋口裁判官に、相当憤慨したのではないかと、思われる.

事実誤認に基づく判決は、異議申し立てを受ける前に、司法自ら取り下げる必要があるのではないか、それが、『司法の自浄作用』だと思うのだが.
さて、この教授の指摘が、関電の異議申し立て裁判で、どう取り扱われるか見ものである. 

追伸(4月22日)

九州電力川内原発の再稼働是非が問われた、『差し止め仮処分の申請』に対し、鹿児島地裁は運転差し止めを認めない判決を出した.

原子力規制委員会による専門的安全審査に『不合理な点はない』として、福井地裁が出した『新基準に合理性はない』と切り捨てた事と正反対の判断をしたのである.

福井地裁が出した『地震列島の日本で、冷却機能を失う危険性は万が一という領域をはるかの超える切迫した危険だ、新規制基準は緩やかすぎて合理性が無い』と言う主張に対し、鹿児島地裁は『新規制基準は自然現象の不確実性を相当程度考慮しており、九電も多重防護の考え方に基づく事故対策をしている』としたのである.

同時に、原告の『原発の安全対策に欠陥があり、事故が避けられない』との主張に対し、『的確な立証が無い』と退けたのである.

このブログで、私は、原発の安全性を裁判所で議論する事が、そもそも問題で、司法の裁量権の乱用だと言っているのだが、それにしても、福井地裁のおかしな判断から見れば、鹿児島地裁はまともだと思うのである.

その論点の置き方でもわかる.福井地裁は危険性があって人格権の侵害になるからダメだ.と言う『観念的な視点』である.鹿児島地裁は、地震は不確実さが伴うのだが、想定を超えても耐えられる設計と、多重防護もされており、差し止める理由が無い、と『現実に目を向けた具体的な視点』である.

しかし、どちらの判決であっても、ブログで発信しているように、裁判では『原発の根本問題』は解決しないのである.

今後の他原発での再稼働差し止め仮処分の判決はどうなるのだろうか.繰り返しになるが,裁判所での議論ではなく、あくまでも、専門機関や行政プロセスの中で、徹底議論をすべきだと思うのである.

追伸(4月25日)コメントへの返信

コメントを戴き、ありがとうございます.今回の福井地裁の裁判のポイントは、原発の安全性の判断と人格権の侵害の有無の判断、でありました.

この判決への私の問題提起は3っあります.

第一は原発の安全性を裁判官が判断し、強制力ある判決を出す事の是非です.私の感じでは、原発稼働時、停止時の安全性の判断は国の独立した専門機関の仕事だと思います.特に、停止時と稼働時のリスクは、はっきりさせる必要があると思います.当然、専門機関の判断に疑義があれば、原告は専門機関に働き掛けるべきだと思います.

コメントで稼働時のリスクは高いとの指摘ですが、確かに稼働中は停止中より高くなると感じますが、実際はどの程度のリスクの差があるか,よくわかりません.福島原発の電源消失によって,停止中の原発にも危険が発生したように、専門家による稼働、停止,それぞれのリスク分析と対策が必要だと思います.(既に終わっているのかも知れませんが)

第二の問題提起は、専門機関の判断に対し,人格権の侵害になるかどうかと言う問題です.人格権は、自由、平等、人権、と同じように、崇高な理念ですが、相互に矛盾する理念でもあります.又、文化とも差が出る事もあります.

この理念に対し、何をもって侵害されていると言えるのか、と言う問題は、極めて困難な問題であります.再稼働なら人格権侵害あり、差し止めなら侵害なし、と言うほど単純ではないと思います.原告も民意の表れだと思いますが、原発立地地域や電力消費地域の民意とも関係する判断でもあり、まさに、政治や行政プロセスで判断すべき問題のように感じます.その意味で裁判官に判断を任せて良いのかと言う問題提起です.

第三の問題提起は、第一の問題提起と関係しますが、地裁の判決の根拠が抽象的で観念的に感じた事です.この裁判官は、大飯原発の差し止め判決を出した方ですが、同じような論評がまかり通る事への危惧を感じます.

抽象的、観念的な判決を許せば、現実と遊離したり、裁判官の裁量権が青天井になったり、司法権が政治に利用される危険性もあり、危惧しているのであります.

以上、コメントの答えになっているかどうかわかりませんが、一つ言える事は、再稼働に賛成とか、反対とか、の論評をしているのではなく、三権分立の在り方、特に、司法権の行使の在り方に問題提起をしたつもりです.

.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015.04.14

395 統一地方前半選結果と大阪都構想の行方

統一地方選前半戦の41道府県議選と17政令市議選は13日午前、全議席が確定した.今回の統一地方前半選はアベノミックスへの地方評価と,5月17日に大阪都構想の住民投を迎える大阪維新の会への評価、が注目された.

全国で見ると、

道府県議選(総定数2284)は,自民が1153議席(追加公認除く)を確保し、1991年の統一選以来24年ぶりに改選議席の過半数を占めた(得票率40%),民主は317人から264議席(得票率12%)になった..共産党は80人から111人(得票率8%)に躍進した.公明は169人(得票率8%)、維新と大阪維新合わせて70人となった.

同時に行われた10知事選では現職が全員当選.与野党対決となった北海道、大分とも自民、公明両党支援の候補が勝利しており、前半戦は与党の堅調ぶりが目立った.

政令市議選(総定数1022)は仙台、静岡、北九州を除く17市が対象.党派別では自民301、公明174、共産136、民主126、維新・大阪維新84、となった.

全国を総括すると,アベノミックスへの期待感が勝った結果となった.公明は相変わらず、政策と関係なしに、ほぼ全員が当選すると言う意味では、政治政党なのだろうかとの疑問を感じた.最大の変化は、民主の凋落,共産の躍進である.特に、民主は何を訴えていたのか、まったく聞こえてこない事が凋落の原因だったと思われる.

この結果について、読売新聞の報道によると、民主党の枝野幹事長は13日午前,国会内で記者団に『政権を失った2012年衆院選以来,マイナスからの再出発だったので,底打ちの流れは作れた』と語り,『党再生の足がかりになる』との認識を示した.

この発言に、枝野氏が官房長官の時の福島原発事故に関する発言を思い出す.当時、あまりにも責任感のない発言が多く,当ブログで批判したが、今回も、相変わらず無策のままの惨敗であっても、『底打ちの流れは作れた』、『党再生の足掛かりになる』と鼓舞しているのである.

きっと、『底は突いた、あとは再生のみ』と言う意味だと思うが、まるで、他人事である.自分の反省、責任、対策、など、自分のリスクになる事は一切言わないのである.福島原発事故対応とまるで同じである.政策もさることながら、性格を直さないと、『底なしの流れは作れた』、『党消滅の足がかりになる』と揶揄したくなるのである.

次に、大阪都構想の住民投票を控えた大阪に注目してみると,次の通りである.

・大阪府議選(定数88・過半数45)(前回定数109・過半数55)

(今回;維新42・自民21・公明15・共産3・民主1・無所属  6)
(前回;維新45・自民12・公明21・共産4・民主7・無所属12)


・大阪市議選(定数86・過半数44)

(今回;維新36・自民19・公明19・共産9・民主0・無所属 3)
(前回:維新29・自民18・公明19・共産8・民主6・無所属 5)

この結果について、大健闘した大阪維新の会の松井大阪知事、橋下大阪市長、の談話はこんな感じであった.(テレビ報道を参考)

『皆が嫌がる改革を進めて早5年.何とか、府議会、市議会の第一党になった.府民、市民のご理解に、心より感謝したい.同時に、立候補者の大健闘に、心より、敬意を表したい.しかし、それぞれの議会で、過半数を取れなかった事は、敗戦であり、大反省点である.』と.

中選挙区の下で、過半数を取る事のむずかしさを言わずに、5月の大阪都構想の住民投票に向けて、兜の緒を締め直す発言をしたのである.

注目の大阪都構想の行方

この行政の大革新の賛否を問う住民投票は我が国、初めての事になる.大阪市民にとっても、両陣営の政党にとっても、天下分け目の最後の激しい決選になる.特に、公職選挙法のようなルールはなく、ほぼ、なんでもありの戦いになる.又、住民投票の運営側も、初めての経験になる.

この大阪都構想の住民投票は,憲法改正の住民投票における、国民、政党、運営の貴重な経験にもなるのである

大阪都構想の賛否を決める住民投票の結果予想だが、今回の大阪市議選の結果から見える事は次の通りである.

①大阪府議選投票率45.18%、市議選投票率48.64%であった.
➁出口調査では大阪都構想の賛否はほぼ同数であった.
③大阪維新の会の府議得票率41.2%、市議得票率37.0%であった.


この値をそのまま住民投票に当てはめると、投票率48.6%、賛成 37%となり、都構想は頓挫する事になる.しかし、住民投票は賛成か反対かの2択であり、何人かの立候補者の中から選ぶ議員選挙とは違う事から、この値をそのまま当てはめるには無理があると思う.

そこで、市議会議員選挙に投票した人だけが住民投票をした時は、市議選で維新に投票した人は賛成に回るとして、賛成票はこうなる.

賛成票A=〔維新の会得票率37%]+[他政党候補支持者の都構想賛成者]

又、投票率が高くなった時は、このようになる.

賛成票B=[賛成票A]+[市議選に投票しなかった人の賛成票〕

逆に、住民投票率が48.64%より低くなった時は、

維新支持者の37%の人が投票するとすれば、他党支持者が投票しなかったとなる.その数如何で維新のの得票率は上がる事になる.それで50%を超えるかどうかである.

いづれにせよ、現在、アンケートによると、都構想の賛否は拮抗しており、これからの賛否両陣営の活動が注目されるのである.

大阪維新の会としては、

賛成票=[大阪維新支持者+アルファー]

で反対を上回る必要がある.この鍵を握るアルファー対策に言及してみたいと思う.

このアルファーの人は、賛否の理屈で判断するタイプではなく、性格的には、変える事に躊躇するタイプであるが、今回、この人たちの中で、賛成に傾き、賛成を投じた人がアルファーになる.

とすると、大阪維新の会としては、変える事に躊躇する人達に、いかに賛成してもらうかが大事になる.そこで、この人達には、

『変えなくても良いと思っている市民は多いと思いますが、大阪府と大阪市が一体となって,魅力ある大阪にして行く事に、是非とも力を貸してください.不幸せと言われている行政を終わりにしましょう』

もう少し言えば、

『狭い大阪で、同等の機能を持つ大阪府と大阪政令市がある事が不幸.260万人の住民に、一人の政令市長は無理.大阪全体の事を考える行政機構と、住民サービスの事を考える行政機構に分けて、機動力ある大阪、活力ある大阪を作りましょう.』

で良いと思う.大阪市を『分割]して、住民サービスの向上・・・と言う説明が多いが、『分割』と言うより、大阪府と『一体』になって・・・、魅力ある大阪の姿を示しながら、訴えるべきだと思うのである.

そんなわけで、未来を語る方がアルファーの拡大につながると思うのである.できれば、有識者が夢を語るのも良いと思う.橋下市長の孤軍奮闘だけでは、アルファーの人の心は動かないと思うからである.

変える事に性格的に躊躇する人に対して注意すべき事は、過去の悪かった事を挙げ乍ら、こうしたいと、理路整然と説得しようとする事である.これをやるほど,半信半疑になるからである.

反対陣営はどうだろうか.

都構想に反対するなら、現状維持が良い、或は、このようにしたい、と、はっきり対案を示すべきだが、今のところ、『批判はするが対案が無い』状態である.

そうなる理由は、『政令市の利権・利点を失いたくない』市会議員や業界と、『大阪市労働組合を分断されたくない』『日本一の職員厚遇を維持したい』と言う公務員の集まりだからである.

この既得権意識が大阪市260万人で市職員3.9万人、市長は職員の言いなり、と言う巨大な役人天国を作ってきたのである.(ちなみに横浜市は370万人で市職員2.8万人である)この既得権が長い間の大阪府と大阪市の2重構造を生んでいる元凶なのだが、それを守ろうとする以上、現状死守となり、建設的な対案など出せる分けが無いのである.

従って、この陣営の戦略は、変える事に躊躇する人に対して、『反対の投票をしよう』とのキャンペーンしかない.正面から都構想議論をしても、対案が無ければ、説得力が出ないからである.

『反対投票キャンペーン』が必要なのは、通常選挙では賛成投票はするが、反対なら投票所に行かないからである.選挙のように、賛成者しか投票所に行かなければ、投票率が落ちて、賛成得票率が上がるのである.

いずれにせよ、両陣営の激しいバトルが予想されるが、この両陣営の戦い方のマナーも評価の対象になると思う.

さて、投票結果の予想だが、

希望的観測で言えば、『大坂都構想の勝利』と言いたい.賛成の人は確実に投票する、はっきり反対と言う人も、投票する.この両方が拮抗しているので、躊躇している人の投票行動が決め手になる.結局、賛成に傾いた人は投票、反対に傾いたか、迷っている人は投票しない、と呼んだ結果である.

然し、僅差である事には変わりがなく、最後は、大阪人の政治への無関心さ、茶化して終わる性格、が働いて、折角の有史に残る大改革の機会を逃がす可能性もある.そうなると、残念ながら、『地盤沈下の大阪』を払しょくできないまま、続く事になる.

思い返せば大阪は、戦後以来,地盤が軟弱であった為か、都市計画の青写真が描けなかった.開発があっても、断片的、単発的であったと思う.2重行政の影響も大きかったと思う、大手のデベロッパー企業も育っていないのである.

その結果、私鉄、JR、市営、の鉄道網や道路網も、それらの沿線の開発も、ベイエリアの開発も、緑の多い公園作りも、バラバラになっているのである.殺伐とした街のイメージは今も変わっていないのである.

特に、私鉄駅周辺、JR環状線駅周辺の再開発は全く遅れている.又、阪急、阪神、近鉄、京阪、JR、地下鉄、の各路線は大阪から放射線状である為、郊外では、横の連携が出来ていないのである.都市全体の価値を損ねている原因だと思う.

もう一つ、大阪地盤沈下の原因として、多くの大阪発祥の企業が本社を東京へ移転した事である.大手企業の本社移転は、その取引会社も含めて、人口の大移動を起こして来たのである.同時に、家電の街大阪も世界的な技術変化や産業構造変化に淘汰され、今や見る影もないのである.大阪の官・民ともに、産業振興に手を打てなかったのである.

結果、東京への対抗心はあるものの、リーダーシップのある政治家も輩出せず、都市開発も大きく遅れ、犯罪の多い、子供の学力も低い、吉本芸人と、阪神タイガースで湧くだけの大阪、役人天国の大阪、になっているのである.

そんな時代背景の中で、大阪維新の会が台頭し、大阪都構想が生まれ、今まさに、大阪市民の審判が下されようとしているのである.

この重大局面で、大阪市民は、危機感を持ちながら、関ヶ原、以来、失われた大阪の政治意識を取り戻し、明治維新で長州、薩摩、土佐が動いたように、平成維新は大阪が動く、としたいところである.その気概なくして、大阪の未来の展望は開かないと思うのである.

大阪市民の皆さん、まさに『 CHENGE は CHANCE 』(GをCに変えるだけの同意語)であり、大阪にとって、『変えるリスクより、変えないリスクの方が大きい』と思うのである.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.04.05

394 改めて一票の格差問題を整理する

当ブログのNO321(2013年3月)で『一票の格差問題を考える』で問題点や各国の考え方を整理してみた.

あれ以来、政党間で格差対策の議論をするも、決着が見られず、現在、第三者委員会に取りまとめが依頼され、検討が始まっているのである.しかし、衆・参含めて、選挙制度の方向が見い出せていないのである.

そこで、格差是正と新選挙制度の検討における問題点を改めて整理してみた.

①格差の判断を司法の裁量権に任せている問題

最高裁は憲法の番人であり、合憲・違憲の判断をする事になるのだが、格差の合・否の判断基準が法的に明文化されていない事から、『司法の裁量』で判断する事になるのである.

しかし、『司法の裁量』に任せて良いのか、国会(民意)の判断に任せるべきではないのか、と言う根本な問題が存在しているのである.

当ブログNO362司法裁量権の乱用による民主主義の空洞化 (2014・07・19)でも指摘.

又、選挙における『法の下の平等』とは、『参政権の保障』を言っているのであって、格差問題は立法府の裁量に任せられていると言う意見もある.この事もはっきりさせる必要があると思うのである.

このように、判断基準法的に明文化されていない憲法や法律の下での判決は『司法の裁量』によって判断されるわけだが、『平等』、以外にも、『人権』、『自由』、『自衛権』、等でも同じである.ここにも、民意ではない、『司法の裁量権』に任せて良いのか、と言う問題存在しているのである.これらの問題は『民主政治における司法の在り方』の問題なのである.

現在のままだと、司法の裁量権は、世の中の価値観や仕組みの多様化,複雑化で、ますます大きくなっていくと思う.この大きな裁量権を期待して,政治問題を国会ではなく、司法に持ち込む、司法を政治活動の手段として利用する事が増える事も予想されるのである(既に始まっていると思うが).

特に,政治運動家や少数政党に、この動きが強まると思う.本来なら議会で議論すべき問題を,違憲訴訟や行政差し止め訴訟を起こす事によって、政治に影響を与える事が出来るかもしれないからである.民意ではなく裁判官がその鍵を握ることになるのである.それだけではなく、司法闘争が選挙運動にもなりかねないのである.

このように、司法の裁量権の拡大とその政治利用によって、確実に,民主政治の空洞化が進むのである.将来、国権の最高機関が国会ではなく、裁判所になるかもしれないのである.これはまさに、かつての『お代官様政治』に戻る事を示唆しているのである.

いくら司法の独立と言っても、国会で決めたものを、司法独自の解釈で、『ちゃぶ台返し』をしてはならないと思うし,法治国家とは、,司法の裁量が大きくなる事ではなく、司法の裁量が小さくなる事を言うのだと思うのである.

『一票の格差』の問題に戻すと、司法(裁判官)の裁量で合・否を判断するのではなく、民主主義政治の基本になる選挙制度なのだから、少なくとも、立法と司法が同意する『法的な判断基準』を作るべきだと思うのである.

これまでに、多くの選挙無効訴訟が発生し、裁判所の判断も足並みが揃っていないのだが、総じて、『違憲状態だが、選挙は無効ではない』として、格差是正を立法府に要請している状態になっているのである.司法の裁量権はここまでだと思うのである.

国政の大混乱を起こす選挙無効判決を裁量権で行う事にでもなれば、民主主義から見て『司法の裁量権の乱用』になると思うのである.

どうやら日本は、憲法、法律と現実との間にギャップが広がって、素朴な問題が出るたびに、そもそも論の議論になったり、解釈の話になったり、司法の裁量権が大きくなったり、するのである.解釈や裁量が入らない、しっかりした法整備が必要だと思うのである.これこそ法治国家だと思うのである.

②『一票の格差』の定義の問題

裁判所の裁量権で違憲状態というのだから、司法独自に『一票の格差』の定義をしていると思う.しかし、『一票の格差』の定義が法律で定められているわけではないのである.

『機会の平等』と言う考え方で言えば、常識的には、『一票の格差』とは『有権者数を議員定数で割った値が選挙区によって開きがある事』を言うのだと思う.しかし、有権者数ではなく、人口を議員定数で割る、と言う考え方もあるかもしれないのである.

『結果の平等』と言う考え方に立てば、投票率(投票数)や無効票によっては、当選者の得票数が選挙区によって大きく差が出る事もある.これも、『一票の格差』問題である.もちろん、低い投票率なら、当該選挙区は再選挙にするような法律があれば、若干、格差は減少すると思うが.

更に言えば、選挙区が大きく、住民と議員の距離が遠くなれなれば、投票率が落ちる可能性もある.理屈の上で格差が是正されても、投票率が低ければ、民主主義は機能しない事になるのである.

そのほか、いろんな考え方があると思うが、それも含めて、『格差の定義』を立法,司法で合意しておかないと、次の『合法とする格差』も、適正な『選挙制度』も作れないのである.

③『合法とする格差』の定義の問題

どれほどの格差をもって違憲とするのか、と言う判断基準は法的に定まっていない.現在は、選挙の後で、選挙無効の訴訟がある都度、司法の裁量で判断されているのである.

しかも、有権者が少ない選挙区を違憲とするのか、有権者数が多い選挙区を違憲とするのか、両方とも違憲とするのか、等もはっきりしないのである.

本来なら、司法の裁量に任せるのではなく、司法も認めた法的な判断基準を決める事が必要なのである.選挙前に、それに応じた選挙区と議員定数を調整し、機会の平等を担保した上で選挙を行うべきなのである.

ちなみに、米国の上院は格差を無視して、州の代表を選び、下院は格差が起こらないように、州の定数調整を行うのである.ドイツは格差2倍以内、フランスは1.5倍以内を合法としているのである.英国は格差なしを前提にしつつ、島等の格差発生の特例を設けて、議員を選出しているのである.

日本でも、司法の同意も含めて、『合法とする格差の程度』を定めて、それに基づく、『選挙制度』を決定すべきだと思うのである.

④選挙制度改革(選挙区,選挙区定数、議員数)の問題

結局、『格差の定義』や『合法になる格差の程度』、及び、『その判断を誰がするのか』、と言う問題が、はっきりしないと、結局、『適正な選挙制度』は作れないのである.

『格差なし』を平等の判断基準にするなら、全国区(大選挙区)、或は、自治体を超えた、大きな選挙区(大選挙区)にするしかないのである.当然、小選挙区制は出来ない事になる.その結果、小政党の乱立が起こるかも知れないのである.

現在は自治体を基準に、かつ、県に一人別枠を設けて、自治体毎に、国会議員を選出すると言う考え方を採用しており、格差発生の原因になっているのだが、この選挙区設定の良さを認めて、格差を特例的に認めるか、小さな選挙区に合わせて、大きな選挙区を分割し、議員数を大幅に増やして、合法とする格差を小さくするか、の判断が必要になる.

『身を切る改革』と称して、『議員数の削減』を主張している政党があるが、どんな選挙区にするのだろうか.県を超えた大きな選挙区を作るしか、格差問題や議員削減問題は解決しないのだが、どうするのだろうか.

このように考えると、『合法的な一票の格差の程度』にもよるが、それを守ろうとすると、考え方として、次の3択になる.

・自治体単位の考え方で、人口の少ない県は特例として格差問題から外すか
・自治体単位の考え方で、大きい選挙区を細分化して、議員数を増やすか
・自治体を超えた選挙区を作って、有権者数を横並びにするか

ところで『国民が増税に苦しむのだから、議員も身を切って、議員数削減や歳費の削減をしよう』等と言う政治家がいるが,説明が要らないくらいの非論理的な話である.

まず、『議員数削減』を『身を切る』と言うのは、根本的に間違っている.

もし、議員の数を減らすと,議員になれなくなる、と言う意味で『身を切る』と言っているのだとすれば、議員失格である.『議員数削減』は民意の反映や選挙制度の議論によって、出てくる話であり、決して、議員が身を切る話ではないのである.

又、『議員歳費削減』に関しても『身を切る』と言うのは間違っている.


自腹を切ると言うのであれば、『歳費の返却』、多すぎると言うのであれば、『歳費の減額』,無駄な支出をやめると言うのであれば、『無駄の削減』と言うべきである.『身を切る』と言う意味が全く意味不明なのである.

どうも、議員が『身を切る』とよく口にするのは、次の理由からだと思う.

・議員数や歳費の削減は議員の『既得権を手放す事』だと思っている、
・身を切る,と言うと、いかにも、『かっこいい』と思っている、

これに議員の良識を疑うどころか、国民をだます魂胆さえ感じるのである.

横道にそれたが、格差問題は民主主義政治、選挙制度、の根本的な問題であり、数合わせでは解決しないのである.以上の問題認識を踏まえて、今後、衆・参それぞれで、次の事を議論して欲しいのである.

イ. 格差の定義をどうするか
ロ. 合法とする格差の程度をどうするか
ハ. 自治体と選挙区の関係をどうするか

ニ.
選挙制度(小・中・比例)をどうするか
ホ. 以上の結果,選挙区、定数、及び、議員数をどうするか
ヘ. これらへの『
司法の裁量権排除』をどうするか

今の状態では、これらを考える基本的な方向が出されていない事から、第三者委員会と言えども、答申の出しようがないと思うのである.それとも、これらのすべてを、第三者委員会が答申すると言う事なのだろうか.

いづれにせよ、決着まで相当時間がかかって、総理の解散権や任期による選挙に影響が出るかもしれないのである.

 

.

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

393  ふるさと納税制度への法的、政策的、疑念

『ふるさと納税』制度について、『役所のお礼に法的問題はないのか』、『他自治体への寄付がどうして居住自治体の税控除になるのか』『ふるさと納税がふるさと創生に繋がるのか』等の疑念を抱いている.今回は、これについて、私見を述べてみたい.

1.役所が出す『お礼』に法的な問題がないのか(法的疑念)

『ふるさと納税』の仕組みは、きわめて簡単に言うと、『ふるさと納税額』を所得税では『所得控除』(課税所得の減額、ふるさと納税額×所得税率の減額)され、住民税では『税額控除』(住民税からふるさと納税分を減額)される制度である.これでほぼ、『ふるさと納税額』が、そのまま、還付される事になるのである(自己負担分2000円は除く)

(下図はクリックで拡大) Photo

この『ふるさと納税』を『寄付』と呼んでいるが、実は、税額控除と言う特別な制度なのである.(通常の寄付は税額控除ではなく、所得控除である.企業は損金算入)

このように、ふるさと納税制度は、『ふるさと納税』をしても、しなくとも、住民の負担の総額は変わらない制度にしているのである.(住民税の一部を任意の自治体に配分する制度)

ところが、『ふるさと納税』に対する加熱気味の『お礼』を加味すると、見方によっては、『ふるさと納税者の負担額』は『お礼の分』だけ軽減(減税)される事になるのである.多額の納税者は、上限まで、あちこちに、『ふるさと納税』をして、多額のお礼を得て、実質、税負担を軽くする事が出来るのである.

その結果,ふるさと納税した人と、しない人とに、税負担の不公平が生じ、『税法違反』になるかも知れないのである.更に言えば、年間110万円以上の『お礼』は、『贈与』になり、お礼を受けた人に贈与税が発生するのである.これに該当する人(高額納税者)が贈与税を払っていなければ脱税になるのである.

『お礼』に対する、もう一つの見方だが、『お礼を出すから、住民税の一部を横流しして欲しい』と言っている様にとらえると,お礼は賄賂に見えるのである.収賄事件の『お礼を出すから発注して欲しい』と同じ構図である.

総務省から,最近,『お礼の過熱競争』に対して、自粛するように通達が出ているが、自治体は、最初から、おかしいと思わないのだろうか.ふるさと納税制度はあくまでも、税の一部を納税者が寄付と言う名目で、他自治体に、振り分ける制度だから、即刻、『賄賂』のような『お礼』は禁止すべきだと思うのである.

更に言えば、突き詰めれば、住民税の一部(住民税の税額控除分)で商品を買って、只で配るのだから、住民税の目的外使用になる恐れもある.

又、ふるさと納税額に上限(今年から住民税の2割)はあるものの、この制度が普及すれば、現住所の自治体の住民税の減収も、交付金との関係も出てくるのである.

この制度の延長に、ふるさとに投票したいと言う意見も出てくるはずである.この事も含め、『ふるさと納税』制度を再レビューすべきだと思うのである.

2.『ふるさと納税』が『ふるさと創生』に役立つのか(政策的疑念)

現在多くの自治体は『役所が他自治体住民から集めた税金(寄付)で地元商品を買って,お礼と称して、ふるさと納税者に無償で配り、これで、地元商品を宣伝し、実需につなげる』との思惑で動いているのだと思う.その結果がお礼の過当競争になっているのだが、本当に、『ふるさと創生』に役立つのだろうか.

はたして、ふるさと納税のお礼として、只で貰っていた商品を、今度は、お金を出して買うだろうか、と言う疑念である.この実需が増えなければ,単に自治体がふるさと納税金で地元商品を買い上げて、いるだけになるのである.

何よりも、『お礼』の自粛、もしくは廃止となれば、この思惑はすべて崩れるのである.そうなると、『お礼』以外の『ふるさと納税金の使い方』を考えなければ、『ふるさと創生』に繋がらないのである.

そんなわけで、どの自治体も、『お礼』に走った分、真の『ふるさと創生』に向けた『施策』が欠如しているように思えるのである.

これでは、『ふるさと納税』は、1988年の基礎自治体に一億円ばら撒いた『ふるさと創生事業』とか、わしづかみの税金(使途自由の交付金)を使って、商品券を配ったり、商品や宿泊料金を割り引いたり、お買い上げポイントで割り引いたり、した事と同じになるのである.

いづれも、一過性で終わり、その後の波及効果もなく、巨額の借金だけが積み重なったのである.今回の地方創生事業も、同じ轍を踏みそうである.すでに、同じような事が各自治体で競うように、始まっているのである.

自治体は、『ふるさと納税金』も、『わしづかみの交付金』も、国民の負担である事を忘れて、全く無責任な、一過性の、金の使い方で競い合っているように見えるのである.これなら形の残る公共事業の方がましである.

『国家の財政は民主主義の鏡』と言われているが、1000兆の政府の借金は日本の民主主義の最大の特徴なのである.したがって、日本は『自分さえよければ良い』と言う精神が1000兆の借金を積み上げた、と言われても返す言葉が無いのである.

小泉政権での『米百表の精神』ではないが、今日、明日のひもじさを我慢して,将来の為に金を使う、と言う事業はないのだろうか.この精神無くして、地方創生は出来ないのである.税金による値引き競争は即刻廃止し、将来の為の事業化競争を展開して欲しいのである.

地方創生を図る上でも、是非、全国のふるさと納税者が評価できる制度、わしづかみの交付金の使途や効果が分る制度、を作り、公表すべきだと思うのである.

.

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015.04.04

392 テレ朝・報道ステーションは放送法を無視しているのか?

当ブログで、たびたびテレビ報道の問題を指摘していたが、今回、その延長にあるような問題が発生した.テレ朝系報道ステーションでの古賀茂明氏の降板理由発言と,古館キャスターとの口論である.

古賀氏が本番で、(報道ステーションにおける、自分の政府批判が原因で)『テレビ朝日会長や古舘プロジェクトの佐藤会長の意向、加えて、菅官房長官はじめ官邸からのバッシングで、降板になった』と言う趣旨の発言をしたのである.

これに対し、古館キャスターは、『私としては承服できない』と反論し、口論になったのである.本番前に、何かがあったのかもしれない.

この騒動に、テレ朝会長は『圧力を受けていない、このような事態になったことをお詫びしたい』、菅官房長官は、『公共の電波を使って、事実無根な事を報道するのは極めて不適切だ』と言った趣旨の発言をしたのである.

この一連の、出来事に対し、見えない事が多すぎる感じがする.

『古館氏の承服できない』と言う意味が不明である.

①古賀氏が勝手に降板の理由を暴露したからか
②古賀氏が言った降板理由が間違っていたからか

次に、『テレ朝会長のお詫び』も意味不明である.

①報道ステーションが放送法に触れたからか
②古賀氏の政府批判に問題があったからか
③古賀氏が政府圧力があったと言ったからか

④古賀氏と古館しの口論が流れたからか

肝心の古賀氏の言動にも意味不明な事がある.

①テレビで一方的に政府批判をする事がコメンティターの仕事か
②何故、降板させられた理由を勝手にテレビでしゃべったのか
③菅官房長官はじめ官邸からのバッシングが本当に、あったのか

更に、私見で言えば、日頃の報道ステーションの報道姿勢にも疑念がある.

①客観報道を装って、偏った主観報道をしているのではないか
②放送法で言う公平公正を保とうとする配慮が見えない
③朝日新聞の論調に従って、テレビ朝日は報道をしているのではないか


そんなわけで、日頃から、放送法にある公平公正を意識した報道をしていれば、こんな騒動は起こらなかったと思うのである.どうやら、テレビ報道には放送法があって、新聞や雑誌とは違うと言う事が徹底されていない感じを受けるのである.テレビ業界の放送法の空洞化が背景にあるのかも知れないのである.

どうも、マスコミの中に、政府を批判するのは、マスコミの仕事だと言って、放送法を無視している人が多いように感じるのである.テレビで政府を批判するなら、反対意見も紹介すべきなのである.それが放送法の規定なのである.それもせずに、しかも事実と異なる事を報道すれば、コマーシャルのように、これは個人の意見です,では済まされないのである.

そんな中で、菅官房長官の反応は適切であったと思う.本心は放送法に違反していると言いたいところだったと思う.

テレビ朝日の会長も、デレクターも、古館氏も、自ら、率直に、日頃から、公平公正な報道になっているか、間違った報道をしていないか、を謙虚に自問しながら、番組を進めるべきだと思うし、その上で、今回は、どうであったのか、を言明すべきなのである.これが報道人として責任ある姿勢だと思うのである.

所詮、放送法は建前で、実際は守られていないと言う、テレビ局があれば、政治資金規正法はざる法だと批判する資格はない.法律に忠実なら、テレビ局は新聞社の子会社である事をやめるか、放送法改正を主張するか、或は、放送法が適用されないインターネットテレビ局になるか、を選択すべきなのである.いずれにせよ、放送法の空洞化はテレビ局の選択肢にはないのである.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »