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2015.05.19

400  大阪都構想の否決で大阪から光が消えた

5月17日実施された大阪市民による『世紀の住民投票』の結果、投票率67%、賛成69万票、反対70万票で否決された.

当ブログで、統治機構改革の必要性、統一地方選の結果、から、希望的観測も含めて賛成多数になると言っていた.反面、改革に対する不安感、論理に対する拒否反応が作用して、最終的には僅差で反対多数になるのではないかと心配していた.

そこで、そうならない為に、『変えない事が、変える事よりリスクが大きい』、『CHANGEはCHANCE』だとして、次世代の統治機構ならではの実現可能な大阪ビジョンをもっとアピールすべきだと発信していたのである.

しかし残念ながら、心配通りの結果になったのである.

投票行動の分析によると、70歳以上の反対票と下町の反対票が、住民投票の結果を決めたと言うのである.結局、改革やビジョンより、今のままで良い、との判断である.今のままでも、松井知事、橋下市長の府政、市政のように、やりようによっては、大阪の問題は解決できると思われたのかもしれないのである.

反対票を上回る賛成を投じた20代,30代,40代,50代の現役世代にとっては、何ともやるせない結果になったのである.

この結果を受けて、私なりの感想を述べたい.

①元来、組織論の議論のはずが、政策論になった

地方自治の統治制度と言うものは、民意が対立して意思決定が出来づらい制度になっているのである.地方に勝手な事をさせない、地方を信用していない、と言う中央集権の考えが、昔から根底に流れているのである.

具体的には、府・県と政令市のと政策や利害の対立、知事と政令市長、市長と議会、の2元代表による民意の対立中選挙区制による政党勢力の分散化等で、政策が否決されたり、政策が骨抜きになったり、最大公約的予算になったり、しているのである.

現行の地方統治制度で必然的に起こる上記のような問題を解消し、機動力ある、効果的な統治制度を作ろうと言うのが大阪都構想である.大阪府にインフラや全体政策の権限を集約する一方、現在の260万人の大阪市を五つの特別区分割し、きめ細かい住民サービスを実施すると言う構想である.一言で言うと、大阪府と基礎自治体の役割を分けた統治制度にし、すっきりした自治体組織にしようと言うのである.

従って、住民投票では、現行の地方統治制度が良いのか、大阪都構想の言う統治制度が良いのかが問われたのである.

しかし、これまでの多くの議論を聞いていると、本来、地方統治制度の議論のはずが、住民サービスが落ちるとか、落ちないとか、財政がどうなるとかの政策論の議論ばかりであった.

『統治の器としての組織論』と『選挙によって変わる政策論』が混在し、本質的な組織論の議論が、どこかに行ったように感じたのである.大阪都構想に反対の人は、魑魅魍魎の発言も含めて、あえて、ごちゃ、ごちゃ、にしたのかも知れない.有識者からも、本質的なコメントはなかったように感じた.

又,現行は2重行政が必然的に起こる組織制度であり、それを解消しようと言うのが大阪都構想なのだが、現行で2重行政が無い、とか,話し合いで調整できるとか、反対者は言っていたが、デベートにもならない発言を繰り返していたのである.

➁大阪都構想は1%未満の誤差で、賛否が5分5分であった.

大阪都構想はインフラ、防災、都市計画、産業政策、等、大阪全体の事を司る大阪都と住民サービスを司る基礎自治体に役割を分離し、意思決定の仕組みと効果的・効率的行政体制を作る.事を目指したのである.

その為に、政令市が持つ府同等の機能を大阪都に集約し、同時に、260万人の大阪市を5つの基礎自治体(特別区)に分けるとしたのである.

これで、『フシアワセ』と言われてきた大阪の大きな問題を解決し、世界の都市間競争に勝てる大阪、少子高齢化に対応した、きめの細かい行政サービスを目指したのである.

特に、住民サービスについては、260万の都市を一人の市長で基礎的な行政サービスをすべて目配せするのはできない.260万人の大阪市は一人の公選市長で、一つの教育委員会、一つの保健所、一つの児童相談所しかない.これでは,いい行政サービスを提供できない.一律の制度、サービスでは、無駄が生じる.もっと、住民に密着したサービスを提供したい、と大阪市を分割して、基礎自治体としての特別区の導入を主張したのである.

この構想に対し、全国の政令市からの賛同が少ない.政令市は県なみの権限と財源が導入されるからである.それを願って、合併による、政令市の誕生が頻発しているのである.それどころか、もっと政令市に権限と財源が欲しい、政令市を中心に地域創生を進めたい、と言う市長もいる.そんなわけで、政令市を返上する等とは全く考えていないのである.

投票後のアンケートでも,巨大都市大阪市をなくしたくない、大阪市という名前を消したくない、小さな特別区になると不安だ、今のままで改革をして欲しい、等であった.勿論、これが全てではないが、本質的な統治機構の議論より、大きい事に安心する高齢者と下町の感情が反対票になった事は確かである.大阪都と特別区と言う全体の体制に思考が行かなかった事が残念である.

保守的になる感情も含めて、大改革案には反対する人が多くなりやすいものだが、賛否半々に拮抗した事は、いかに真剣に構想を吟味して、賛成した人が多かったかを物語っていると思う.1%未満の差で否決が決まったが,それは誤差の範囲で,民意は5分5分だったと思うのである.

そして、この僅差を制した要因が次の『反対組織票』だったのではないかと類推するのである.

➂維新勢力の阻止と既得権の死守を目指す組織票が僅差を制した

構想の中身より、打倒維新、打倒橋下、既得権死守で固まった大きな組織票が賛成票の善戦虚しく、僅差を制したと思うのである.私の事前予想にも、冒頭の投票行動調査でも、現れない反対の組織票が最後は効いた感じである.

具体的には反対の組織票とは、維新以外の全政党(自公民共)の組織票、政令市の利権にぶら下がった外郭団体、3万人の職員組合とその家族、知人、職員OBの反対票である.

投票前のアンケートでは、否決が若干多かったし、その上で、これだけの反対組織票で,圧倒的に否決になっても,おかしくないのだが、賛成票の善戦によって、勝敗は混とんとなった.その土俵際で,この反対組織票の多さが効いて、賛成票を僅差で抑えたのである.

その事を考えると、純粋に大阪都構想の内容だけの勝負では、賛成が多かったと認識できるのである.

当ブログで、巨大政令市大阪にぶら下がった議員や組合が大阪をダメにした、との見立てから、これをぶっ壊さないと明日の大阪はないと発信していた.しかし、残念ながら、大阪都構想はこの既得権者につぶされたのである.まるで、橋下市長誕生以前の大阪市政の姿が復活した感じになったのである.

代議政治における法案の賛否は、法案の内容の吟味で決まるより、党利党略、政局、政策バーター、等で決まることが多いと思うが、少なくとも、住民投票は、そんなしがらみのない判断が出来ると素直に思ったし、それが住民投票の真の価値だと思っていたのである.

しかし、今回の住民投票は、かつての悪い大阪市政を再現した感じになった.かつて大阪市政は、選挙も、政策も、予算も、3万人を超す大阪市職員組合が牛耳り、厚遇の役人天国を作って来たのである.

これで、残念ながら、橋下市長を潰して、以前の状態に戻したい勢力が勝ったのだが、反対組織票、とりわけ,大阪市職員は、歓喜の喜びと開放感にひたっているのではないかと思う.大阪統治制度の選択の場が、党利党略、既得権死守で、打倒橋下・打倒維新の場に化した事が残念でならないのである.

この事を大阪市民は、しっかり胸に刻み、次の政治に生かして欲しいのである.これなくして、明日の大阪はないと思うのである.

④大阪の光は消えたが、維新の志は消すな

日本で初めて、法的拘束力がある、しかも、大規模な住民投票が行われたのだが、その割に、元の木阿弥になっただけの結果に終わったのである.

改革の光が一気に消え、悪しき大阪に回帰した感じであるが、只、やり切ったとして,きっぱり辞任を表明した橋下市長のすがすがしさだけが、光っていたのである.

勿論、内心は、断腸の思い、口惜しさ、怒り、に打ちひしがれていると思うが、ラガーマンで鍛えた根性で、堂々と負けを認め、言い訳もせず、住民投票と言う民主主義の最大の意思決定プロセスで決定された事に、その素晴らしさをたたえたのである.

一方、反対運動を繰り広げた政党は僅差であった事もあるが、大阪都構想がつぶれて良かったと、もろ手で万歳は出来ないどころか、何をして良いのか戸惑っている感じである.とにかく、橋下改革提案をことごとく反対して来た勢力が勝ったのだから、政策が無いのは当然なのである.

多分、任期まで、橋下市長は、残っている改革案を議会にぶつけると思う.今度は、簡単に反対はできない空気もあるし、次の市長選への対応もある.各党派が混乱しそうである.

一方、維新の会としては、『統治機構の改革』と言う旗をおろさず、行政改革に取り組むと言う.大阪市民の政治への興味が一気になくなると思うが、是非、橋下氏のいないハンディを乗り越えて、既成政党、既得権政党ではできない、厳しい、大阪市政改革、日本の統治機構改革に取り組んで欲しいのである.今こそ、党の結束と力量が問われていると思うのである.

我が国初めての住民投票を意味のあるものにする為にも、元の木阿弥では済まないのである.勿論、大阪は座して死を待つわけにはいかないのである.これは悪しき保守勢力の大きな責任でもある.

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2015.05.17

399 イルカ・クジラ問題が示唆する『感情による支配』

数々の賞を取った、ドキュメント映画による『追い込み漁』の批判、シーシェパードによる過激な捕鯨妨害、南氷洋における日本の調査捕鯨の禁止、米国の『追い込み漁』は非人道的だとする発言、等があったが、今度は、世界動物園水族館協て会(WAZA)が『追い込み魚』は協会の倫理規定に違反するとして,そこで捕獲されたイルカを水族館が購入する事を禁止したのである.

これを守らないと、日本はWAZAから除名し、日本と海外との、すべての動物の売買、貸し借りを禁止すると言うのである.

この一連の動きの根底に、明らかに、クジラやイルカに対する欧米の感情がある.イルカやクジラは、『哺乳動物で可愛い上に知能がある』と特別視しているのだと思う.しかし、この感情は他の哺乳動物への感情と整合しているはずもなく、もちろん、国際法で決めているわけでもないのである.

日本は、生きている者すべてに尊厳を感じ,自然と共生している民族だと思うが、どの民族でも、いろんな状況の中で、動物への感情に矛盾を持ちながら、折り合いをつけて動物と接しているのである.人間側の都合で人工的に繁殖した動物と野生の動物と感情が違うのも矛盾である.

いろんな動物への、いろんな感情に対し、国際法では科学的な視点で『捕獲禁止の野生動物』を定めている.WAZAの判断は、『追い込み漁』のどこが協会の倫理規定に反しているのかも答えず、さらに、国際法のどこに抵触しているかも答えず、感情優先の判断を下したのである.

WAZAの判断は国際法から見ればローカルな位置づけかも知れないが、いろんな感情の中の、一つの感情で、相手を非人道的だ、やめなければ制裁を科すと言うのは、イスラム教徒が豚を食べない事を他の宗教徒に押し付けない事と比較すれば、露骨なまでの『感情の押し付け』に写るのである.

この事は、明らかに、イルカやクジラに限らず『自分の生理的感情によって、相手の感情を抹殺する』『生理的感情によって、世界秩序を支配する』につながる、危険な行為だと思うのである.

この精神文化は、何でも受け入れて来た日本の精神文化から見ると、欧米人の本性に潜む、恐ろしい『蔑視、差別、排除』の精神を感じるのである.

同じ感情を持つ人が多いからと言って、それ以外の感情を排除するのは、論理や言論を封じる事になるのである.これが大きな過ちである事は人類の歴史が嫌と言うほど証明しているのである.

しかし、このような正論を言ってみたところで、国際社会では多勢に無勢である.論理で戦えない苦しさもある.従って、極めて残念な事だが,イルカやクジラに限らず、『感情による支配』が、グローバル・ボーダレス時代の進展とともに、露骨になって行くのではないかと危惧せざるを得ないのである.

日本はこれまで、合理性と言う新たな価値観で、近代日本を築く一方、伝統的日本文化も一枚一枚剥がされ、『和洋折衷』『和魂洋才』に変貌して来た.

更に、昨今、グローバル化で海外との人の交流が盛んになると,これまでの『文化や制度の融合』から『文化や制度の共通化』の時代になり、日本文化や制度がさらに大きく変わらざるを得ない時代になってきたのである.

今回の出来事は、この変化に、さらに、『欧米との感情の共通化』と言う圧力が加わる事になるのである.その意味で、イルカやクジラの問題は序の口の問題だと言えるのである.

今後、『おもてなし文化』は芸者ガールのイメージと連動して、突然、女性蔑視、人権無視と言われかねないし、日本の『解体ショー』や『生で食べる』文化は生理的に許せない非人道的な文化だ、と言われかねないのである.ばんえい競馬も闘牛も動物愛護の精神で非人道的と非難されるかもしれないのである.

更に言えば、刺青に対する日本の感情や制度も、同性婚を認めていない日本の制度も,人権無視に写るかもしれないのである.キリストの誕生を祝う気持ちもなく、クリスマスで大騒ぎする日本は、キリスト教の冒とくとしていると、非難されるかもしれないのである.

挙げればきりがないが、当ブログで、『葛藤する日本文化』で度々発信して来た.

NO384葛藤する日本文化④ では日本は『五常・五倫の教え』(仁・義・礼・智・信と父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の教え)と『人権・自由・平等の教え』が混在し、極めて分かりづらい、その上で、日本の文化は人権無視だと言われかねない事を発信した.

又、NO 372グローバル化(ボーダレス化)と日本文化・制度の行方 でも、物の交流から人の交流に移ると,日本の文化や制度が直接、外国人に接する事になり、そこで問題視されそうな日本の文化・制度を上げている.

いずれにしても、国際社会で生きて行く以上、ガラバゴス島にならないように、日本の文化、制度を国際感覚と共有できるように変貌せざるを得ないし、これが日本の宿命だと感じるのである.

しかし、言葉で言うのは簡単だが、固有の文化の良さまで放棄してよいのか、古来の文化と現在・未来をどう繋げていくのか、日本のアイデンティティや行動規範をどうするのか、と苦悩する事が多いのである.しばらく、日本人の精神文化は落ち着かない状態が続く事だけは確かである.

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