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2015.08.12

406 日本の近代史と安倍総理談話

戦後70年の区切りで、8月14日、安倍総理談話が閣議決定ののち発表される.総理としては、国内外に日本の戦後の歩み、今後のビジョンを述べる事になるのだが、相変わらず、国内外から歴史認識の内容に注目が集まっている.

この歴史認識問題について,他国の認識を、いくつか挙げておきたい.

・中国や韓国は村山総理、小泉総理の談話(侵略、植民地、反省、謝罪)の認識が正しいとしているが、行動で示せと、政治カードにしているが,日本のこれまでの謝罪外交、平和外交、経済支援、未来志向には、何も触れていない.又、年表で明らかなように、列強が群雄割拠していた時代に、日本だけ非難している事にも、政治的意図を感じる.

・米国は日本は言いたい事があっても『黙っていろ』、『風波を立てるな』、『蒸し返すな』との態度を続けている.その姿勢に、日本ファシズムを打倒し、民主化と経済発展を達成させたと言う図式を崩したくない、中国・韓国と日本の対立を避けたい、を感じるのである.

・米国のこの姿勢に、もう一つ、米国の戦争犯罪(主要都市への無差別空爆,広島・長崎への原爆投下、対馬丸撃沈,沖縄焦土作戦、等)を蒸し返されたくない、と言う考え方もある思う.

・ロシアは、日本の歴史認識問題に特に言及していない.それはソ連が、日本の敗戦がほぼ確定した段階(広島原爆投下後)で、どさくさに紛れて,日ソ不可侵条約破棄、宣戦布告、満州侵攻、日本人のシベリア抑留、北方4島占領,をしたからである.そして,ロシアは北方4島を人質に、一連のソ連の国際法違反を封印させたい考えがあると思う.

・毛沢東(共産党)は日本は中国の侵略国であったが、その侵略があった事で、蒋介石(国民党)政権が誕生し、そののち、蒋介石を台湾に追いやって、共産党独裁政権が誕生した、と認識を示した.共産党政権にとって、日本の侵略を攻めていない姿勢を取ったのである.

戦後 27 年目の日中国交回復(周恩来尾・田中角栄)では、周恩来は『日本の侵略は一部の軍国主義者の責任であって,日本国民には戦争責任はない(二元論)とし、賠償責任を追及せず、日中国交回復を行ったのである.

・マッカーサーは日本への経済制裁、ハルノート(最後通告)が日本を戦争に突入させた.太平洋戦争は日本の防衛戦争だったとの認識を示した.

・ハルノートはソ連のスパイが仕掛けたもので、日米が戦う事をソ連が仕組んだと言う説もある.元来、米国は共産勢力(当時はソ連、戦後は中・ソ)と戦うべきであって、日本と戦争した事は間違いだったとの説もある.結果論かもしれないが、その後の朝鮮戦争、東西冷戦を見ると,うなずけるところもある.

・日本の歴史認識を一言では言えないと思うが、私の理解では,こんな風に捉えていると思うのである.

①日清・日露戦争、朝鮮・台湾併合は、列強国に対する『恐怖と自衛の戦い』
②満州侵攻、満州国建立は、『ロシアへの対抗と権益の拡大の戦い』
③日中戦争は清王朝崩壊(辛亥革命)後の『反日運動との戦い』
④太平洋戦争は日本の覇権主義に対する,列強国の『日本包囲網との戦い』

それぞれの戦いの中で、列強国、日本、そして、中國・朝鮮・東南アジアにそれぞれ事情があって、戦争の功罪も、いろいろあっただろうと、類推するのである.

只、日本の戦いは、太平洋戦争末期の米国による本土攻撃以外、ほとんど海外での戦いであった事を考えると、他国を戦場にした罪、責任ははっきりしていると思うのである.

そこで、何故そんなことになったのか、すでに多くの書物があるのだが、せめて自分なりに理解する為に,次のブログを発信してきたのである.

当ブログNO223 終戦の日・改めて戦史年表をじっと見た(10・08・16)では、太平洋戦争を何故早く終戦(敗戦)が出来なかったのかを、

当ブログNO385 幕末から太平洋戦争までの歴史をじっと見た(15・01・04)では、明治維新以降、何故、富国強兵で戦争を始めるようになったのか、を考えたのである.

このブログで率直に年表からにじみ出ている事を述べているが、単純に、こうだった,等と言えるはずもないのである.只,国としての『理と気』がアンバランスで、軍部を中心とする『気』が国家としての『理』を押さえつけて来た感じがするのである.

言い方を変えると,それだけ『理』が弱いと言う事である.『屁理屈を言うな』と言う現在にも残る日本文化の特徴が、露骨に出てしまったと感じるのである.

その結果、『冷静な理』が排除され、精神力に偏重した泥沼の戦いに陥って行ったと思われるのである.年表をじっと見ていると、これが、にじみ出てくるのである.

今回、それぞれのブログで掲載していた年表を一つにまとめて、改めて全体を俯瞰して見た.そして、以前の感想を含めて、もう一度、感想を述べる事とした.それを踏まえて,最後に、今回の安倍総理の談話についても、私見を述べてみたいと思う.

・1778(天明02年)・・露船,蝦夷地(厚岸)に来航、松前藩に通商を求める
・1786(天明06年)・・露人,千島に来航、幕府、樺太探検継続
・1792(寛政04年)・・露使節、根室に来航、通称を求める
・1793(寛政05年)・・露に長崎入港許可
・1796(寛政08年)・・英,、室蘭に来航,日本沿岸を測量
・1797(寛政09年)・・露,エトロフに上陸
・1798(寛政10年)・・幕府、エトロフに『大日本恵土呂府』の標識を建立
・1799(寛政11年)・・幕府,東蝦夷を直轄
・1802(享和02年)・・蝦夷(箱館)奉行設置
・1803(享和03年)・・米船,長崎に来航、通商を要求、幕府拒否
・1804(文化04年)・・露,長崎に来航、通商を要求、幕府拒否
・1806(文化03年)・・露,、樺太松前藩会所襲撃
・1807(文化04年)・・幕府、西蝦夷を直轄、ロシア,エトロフの会所襲撃
・1808(文化05年)・・幕府、伊豆,相模,房総に砲台設置、イギリス船長崎に来航、
・1809(文化06年)・・樺太を北蝦夷に改名、間宮海峡発見
・1811(文化08年)・・露軍艦長拘束、後,釈放
・1816(文化13年)・・英船琉球に来航、通商を要求、伊能忠敬測量完了
・1817(文政01年)・・英船、浦賀に来航、通商を要求、幕府拒否

・1825(文政08年)・・異国船打払を命令
・1828(文政11年)・・シーボルト事件、シーボルトを出島に幽閉、後、国外追放
・1831(天保02年)・・オーストラリア捕鯨船,蝦夷に来航

・1837(天保08年)・・大塩平八郎の乱、モリソン号、浦賀に来航、砲撃を受ける
・1840(天保11年)・・
英・清の阿片戦争(清国の阿片輸入禁止への反撃)
・1842(天保13年)・・清・敗北、南京条約で香港を英が領有

・1845(引化02年)・・英船、琉球,長崎に来航,
・1846(引化03年)・・米の東インド艦隊,浦賀に来航,仏艦隊長崎に来航
・1848(嘉永01年)・・米捕鯨船、蝦夷に漂着,
・1849(嘉永02年)・・英船、浦賀・下田に来航し測量,幕府、海防強化


1853(嘉永06年)・・東インド艦隊ペリー、軍艦4隻で浦賀に来航
・1853(嘉永06年)・・
極東艦隊、軍艦4隻で長崎来航
・1854(安政01年)・・
ペリー、軍艦7隻で神奈川沖来航(武力による圧力)
・1854(安政01年)・・日米和親条約(下田,箱館の開港)
・1854(安政01年)・・
艦隊3隻で長崎に来航
・1854(安政01年)・・日英和親条約(長崎、箱館の開港)
・1854(安政01年)・・日露和親条約(国境画定,長崎,箱舘,開港)
・1855(安政02年)・・日蘭和親条約
・1856(安政03年)・・ハリス、米初代駐日総領事,下田に着任
・1858(安政05年)・・日米,日蘭,日露、日英,日仏,
修好通商条約調印
・1859(安政06年)・・安政の大獄(吉田松陰斬首)

・1860(万延01年)・・幕府軍軍艦威臨丸、アメリカへ出向、桜田門外の変
・1861(文久01年)・・露艦、対馬占領事件
・1863(文久03年)・・長州、下関で米・仏・蘭艦を砲撃,報復攻撃を受ける
・1864(元治01年)・・池田屋事件(新撰組vs長州)
・1864(元治01年)・・
禁門の変(幕軍vs長州)
・1865(慶応01年)・・英,米,露,蘭,下関通航の自由,日本内乱不干渉を決議
・1866(慶応02年)・・坂本龍馬が薩長同盟密約、将軍:
家茂から慶喜に
・1867(慶応03年)・・坂本龍馬の船中八策、近江屋事件(坂本暗殺)
・1867(慶応03年)・・
大政奉還(慶喜),王政復古の大号令


・1868(明治01年)・・鳥羽伏見の戦い,統幕軍江戸入城、
・1868(明治01年)・・政体書公布(明治元年)

・1869(明治02年)・・東京遷都、戊辰戦争終了、版籍奉還
・1871(明治04年)・・廃藩置県,岩倉使節団横浜出向
・1873(明治06年)・・徴兵令布告、岩倉帰国、征韓派敗北,西郷参議辞職
・1876(明治09年)・・日朝修好条規調印、農民一揆多発
・1877(明治10年)・・西南戦争、西郷自刃
・1884(明治14年)・・清仏戦争

・1885(明治18年)・・清仏休戦、清国と天津条約調印(朝鮮からの撤兵)
・1889(明治22年)・・大日本帝国憲法発布(立憲君主制,議会制,行政強化)
・1894(明治27年)・・朝鮮で東学党蜂起、日・清両国朝鮮出兵
・1894(明治27年)・・日英通商航海条約調印


・1894(明治27年)・・日清戦争(清国と朝鮮覇権争い、ロシアへの警戒)
1895(明治28年)・・日清講和条約調印(台湾割譲
・1895(明治28年)・・三国干渉(露独仏),遼東半島還付条約調印

・1896(明治29年)・・朝鮮に親露政権樹立,日清通商航海条約調印
・1898(明治31年)・・独が広州,英が九龍、露が大連、仏が広州,を租借
・1900(明治33年)・・義和団の乱扶清滅洋),日本出兵

・1902(明治35年)・・日英同盟協約締結
・1903(明治36年)・・ロシアへ満州撤兵を要求、日露協定交渉


・1904(明治37年)・・日露戦争(遼東半島覇権争い)
・1905(明治38年)・・旅順陥落、日本海海戦、バルチック艦隊撃破
・1905(明治38年)・・ポーツマス講和会議
・1906(明治39年)・・南満州鉄道株式会社設立
・1908(明治41年)・・ロシアと樺太境界画定書調印
・1908(明治41年)・・清国西太后死亡
・1910(明治43年)・・韓国併合条約(朝鮮総督府設置)

・1911(明治44年)・・孫文による辛亥革命
・1911(明治44年)・・日米新通商航海条約、第3回日英同盟協約
・1912(大正01年)・・中華民国成立(清王朝崩壊)

・1912(大正01年)・・袁世凱大総統就任、孫文,蒋介石,日本に亡命
・1914(大正03年)・・第一次世界大戦参戦(ドイツに宣戦)
・1914(大正03年)・・ドイツ領南洋諸島占有
・1915(大正04年)・・中国に21か条を要求(袁世凱政権受託)
・1916(大正05年)・・袁世凱病死
・1917(大正06年)・ロシア革命(ロマノフ王朝崩壊)

・1917(大正06年)・・孫文,広東軍政府樹立
・1918(大正07年)・・政府、シベリア出兵を宣言
・1918(大正07年)・・第一次世界大戦終了(ドイツ降伏)
・1919(大正08年)・・パリ講和会議、ベルサイユ条約調印
・1920(大正09年)・・国際連盟成立,正式加盟(常任理事国),独、ナチス党結成
・1922(大正11年)
・・9か国条約・海軍軍艦条約調印,シベリア派遣軍撤退声明
・1923(大正12年)・・中国,21か条の破棄,旅順、大連の回収通告,日本拒絶
・1923(大正12年)・・関東大震災、孫文北伐を決定
・1924(大正13年)・・米,排日移民法成立,
・1926(昭和01年)・・日ソ基本条約調印(国交回復)

・1927(昭和02年)・・蒋介石,南京に国民政府成立(張作霖軍閥打倒)
・1927(昭和02年)・・蒋介石国民党革命軍、南京入城(米英仏日被害)

・1928(昭和03年)・・張作霖(満州利権の後ろ盾,北京政府),奉天で爆死
・1928(昭和03年)・・蒋介石国民党革命軍,北京入城
・1928(昭和03年)・・蒋介石国民党革命軍、済南に派兵(北伐軍)
・1928(昭和03年)・・日本軍、済南派兵(日本人保護),北伐軍退去
・1928(昭和03年)・・蒋介石に南満州鉄道,満州の治安維持を要請

・1929(昭和04年)・・世界経済恐慌始まる(ニューヨーク株式暴落)
・1931(昭和06年)・・
満州事変(軍部の大陸侵攻),(独・伊のファシズム台頭)
・1932(昭和07年)・・関東軍,満州全域の支配(反日抑止、ソ連進出阻止)
・1932(昭和07年)・・満州国建国宣言

・1932(昭和07年)・・5・15事件(犬養毅首相暗殺、政治への軍部の不満)
・1933(昭和08年)・・国際連盟,満州国不承認、日本の満州撤退を決議
・1933(昭和08年)・・国際連盟脱退(日本国民は快挙と判断)
・1935(昭和10年)・・独、ベルサイユ条約破棄・再軍備宣言(ヒトラー総督)
・1936(昭和11年)・・2・26事件(軍事クーデター、鎮圧)

・1936(昭和11年)・・ロンドン軍縮会議脱退、日独防共協定成立
・1937(昭和12年)・・
盧溝橋事件(日中軍事衝突、日中戦争に発展)
・1937(昭和12年)・・蒋介石、対日攻撃を宣言,日本、華北,上海、南京を攻撃
・1937(昭和12年)・・国際連盟日本非難を決議、日独伊防共協定成立
・1938(昭和13年)・・対中和平交渉打ち切り、日本軍、広東,武漢,三鎮を占領
・1938(昭和13年)・・近衛政権,東亜新秩序、南方進出を決定
・1939(昭和14年)・・日本軍,海南島占領,ノモンハン事件(日ソ軍事衝突)
・1939(昭和14年)・・日本軍,天津の英仏租界を封鎖,米が日米通商条約破棄
・1939(昭和14年)・・第2次世界大戦(ドイツ、ポーランドに侵攻、英仏海戦)
・1940(昭和15年)・・斎藤隆夫演説(戦争政策批判)
・1940(昭和15年)・・汪兆銘,南京に国民政府樹立
・1940(昭和15年)・・日独伊三国同盟締結,汪兆銘と日華基本条約調印
・1940(昭和15年)・・伊、英仏に宣戦、独、パリ入城、ソ連、バルト三国併合
・1940(昭和15年)・・北部仏印進駐
・1941(昭和15年)・・南部仏印進駐、仏領印度支那共同防衛議定書締結
・1941(昭和16年)・・米英、日本人資産凍結、対日禁輸発表(ABCD包囲網)
・1941(昭和16年)・・日ソ中立条約締結
・1941(昭和16年)・・対米戦争準備、平行して外交交渉を決定
・1941(昭和16年)・・近衛退陣、東条内閣発足(外交継続,軍部の抑制)
・1941(昭和16年)・・日本は中国、仏印からの暫時撤退を米に打診
・1941(昭和16年)・・米は日本にハル・ノート(10項目)通告(最後通告)
・1941(昭和16年)・・日本は米の宣戦布告と認識し開戦を決意
・1941(昭和16年)・・
真珠湾奇襲,マレー半島上陸,米英に宣戦布告
・1942(昭和17年)・・6月ミッドウエイ海戦日本軍玉砕
・1942(昭和17年)・・8月ガダルカナル島日本軍玉砕
・1943(昭和18年)・・東南アで消耗戦展開(連合艦隊・山本五十六戦死)
・1944(昭和19年)・・6月連合軍ノルマンディ上陸
・1944(昭和19年)・・7月サイパン島日本軍玉砕(B29の日本空爆基地)
1944(昭和19年)・・7月東条英樹内閣総辞職,小磯内閣発足

・1944(昭和19年)・・10月フィリピン・レイティ島日本軍玉砕(マッカーサーの反撃)
・1945(昭和20年)・・3月硫黄島日本軍玉砕
・1945(昭和20年)・・3月無差別空襲(東京,大阪,名古屋,横浜,神戸,等)

・1945(昭和20年)・・4月米軍沖縄上陸
・1945(昭和20年)・・4月鈴木貫太郎内閣発足(終戦工作)

・1945(昭和20年)・・5月ドイツ敗戦(4月ヒトラー自殺)
・1945(昭和20年)・・6月沖縄戦玉砕
・1945(昭和20年)・・6月ポツダム宣言無視(ソ連仲介の和平工作も失敗)
・1945(昭和20年)・・8月6日広島原爆投下
・1945(昭和20年)・・8月8日ソ連対日宣戦布告,
満州侵攻,日本人シベリア抑留
・1945(昭和20年)・・8月9日長崎原爆投下

・1945(昭和20年)・・8月10日ポツダム宣言受託通知・無条件降伏
1945(昭和20年)・・8月15日玉音放送・終戦(日本の終戦日)
・1945(昭和20年)・・8月28日ソ連北方領土占拠
・1945(昭和20年)・・8月30日マッカーサー日本到着

・1945(昭和20年)・・9月2日戦艦ミズーリー号で降伏文書調印、連合軍の終戦

・1946(昭和21年)・・4月極東国際軍事裁判
・1946(昭和21年)・・5月吉田内閣発足(1953年5月まで)
・1946(昭和21年)・・11月憲法公布(1947年5月施行),戦争放棄
・1948(昭和23年)・・11月極東国際軍事裁判,判決
・1950(昭和25年)・・6月朝鮮戦争(53年7月休戦)

・1951(昭和26年)・・9月サンフランシスコ講和条約調印
・1951(昭和26年)・・12月日米安全保障条約締結(米軍の駐留)
・1952(昭和27年)・・4月28日サンフランシスコ講和条約発効(日本の独立)
・19
54(昭和29年)・・7月自衛隊発足
・1960(昭和
35年)・・1月新日米安全保障条約締結
・1972(昭和47年)・・5月15日沖縄返還

以上、独断で日本の外交を中心に、近現史200年の年表をまとめてみたのである.又、年表を補完する為に、幕末、明治維新から太平洋戦争突入までの、日本,中国、韓国,台湾,の状況を既ブログで整理していたが,ここに,再掲載しておきたい.

1.太平洋戦争前の日本、中國、韓国、台湾の状況

①日本の状況(参考文献・産経新聞出版・日本の戦争)

西洋列強の軍艦を見て以来、日本は列強に強い恐怖を感じ、国内は開国派と攘夷派に分かれて,大混乱に陥った.どちらも、展望があるわけではなく、結局、現状肯定の佐幕派と現状否定の改革派(王政復古派)に二分した内乱に発展した.

幕府の大政奉還によって,幕藩体制は消滅し,王政復古の明治維新に時代が移り,明治政府は列強国の日本侵攻を阻止し、独立国として伍していく為に、慎重に列強との通商を進めながら、必死に新しい国作りに取り組んだのである.

この明治政府を牽引した人材が吉田松陰の同士、門下生であった.そして、かつて吉田松陰が説いていた、藩から近代的な独立国家・中央集権国家の建立、欧米列強文明の取り込みによる文明開化,人材育成,殖産振興,富国強兵が進められたのである.

この国づくりと並行して、清国との朝鮮の覇権争いの日清戦争、ロシアの南下政策による遼東半島支配や満州への侵攻に対する日露戦争,美並満州鉄道権益の確保、満州国建設、等を展開したのである.しかし,満州国は国際連盟で承認されず,日本は国際連盟を脱退する事になった.のである.

更に,日本は、蒋介石国民党の反日抗争による日本人保護、列強権益の排除を大義とした日中戦争に突入したのである.そして、上海、南京等の主要都市を支配するも、中国全土に戦線が拡大し、泥沼状態になって行ったのである.

そこで、蒋介石を支援していた米国の中国への物資輸送ルートのフランス領インドシナに進出(南進)し、『援蒋ルート』の遮断と『資源確保』を決定し,戦線が,さらに拡大して行ったのである.

このように、日本の戦線が中国、東南アジアに拡大したのだが、第2次世界大戦が勃発し,ドイツがフランスを降伏させ,快進撃を続けていた事から、ドイツと同盟を結べば,フランス、イギリスも文句が言えなくなり、ソ連も満州に攻めてこない,との思惑があったのである.

日本の南進に米英は態度を硬化させ,日本人の資産凍結、対日輸出全面禁止に打って出た.この事態に日本は近衛内閣から東条内閣に移り、開戦やむなしとの覚悟を持ちつつ、外交交渉を続けた.

日本からは中国、仏印からの暫定撤退を米国に打診するが、これに乗じて、米国は逆に日本に対し、中国、仏印からの全面撤退、三国同盟の否定、等10項目を突き付けた(ハル・ノート).これを米国の日本への最後通告,宣戦布告だとして、日本は戦争を決断したのである.米国はドイツを攻撃する理由を得る為に、ドイツの同盟国である日本を戦争に引きずり込んだとの説もある.

➁清国、中国の状況(参考文献・ウイキペデイア)

19世紀の中国は清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である.清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいたのである.1900年には義和団の乱(扶清滅洋・欧米列強の排除運動)が起こり、国内の混乱が続いたのである.

1908年、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切るも.清朝は求心力を取り戻せず,漢民族の孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げ,1911年,辛亥革命に発展した.

翌1912年,中国の南京で中華民国が樹立された.清朝最後の皇帝,宣統帝(溥儀)は正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡したのである.

そして,中華民国成立後もイギリス,フランス,ポルトガル、ドイツ、日本等の列強による中国大陸の局地的な支配が続いた.その中国は軍閥による群雄割拠(張作霖、袁世凱,蒋介石,毛沢東、等々)による内乱が続くことになる.

1914年に勃発した第一次世界大戦中に日本から『対華21か条』(山東ドイツ権益の善後処理,,満蒙における日本の権益、在華日本人の条約上の法益保護)を提示され,袁世凱政権はこれを受託したのである.

1931年の満州事変勃発、満州国の建国後,日中戦争に発展し,中国大陸の多くの部分は日本の影響下におかれ、日中和平を推進する汪兆銘政権により統治された.

1945年の第2次世界大戦における日本の敗北で、ソ華友好同盟条約により、旅順・大連・南満州鉄道がソ連に引き渡された.日本は中国大陸から撤退し、中華民国が連合国の一国として香港・マカオ・旅順・大連などを除く、中国大陸を改めて完全統治する体制が整ったのである.

しかし1930年代から日中戦争を挟んで断続的に行われていた国民軍と解放軍の内戦において,ソビエトから支援を受ける中国共産党毛沢東の中国人民解放軍がアメリカからの援助を受ち切られた中国国民党に対して勝利をおさめ、1949年に共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国を樹立、翌年までに台湾、および福建省の一部島嶼を除く中華民国の統治地域を制圧したのである.

尚、国民党政府は台湾島に追われるかたちで政府機能を移転(その後、日本は1952年にサンフランシスコ講和条約で台湾の権益を正式に放棄)、その後も国際法上、空白地である台湾島と、これらの島嶼地域は現在国民党政府の実効支配下に置かれている.

➂韓国の状況(参考文献・ウイキペデイア)

朝鮮半島を挟んで日・清両国の関係が緊張するなか,李氏朝鮮内部においても悪政と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱が起きた.朝鮮は自力での解決ができずに清に救援を依頼し、清は朝鮮を属領と称し派兵を行った.この事により,朝鮮の独立の怪しさが露見され、日本を不安に陥れた.

日本は邦人保護を名目に朝鮮半島に出兵し,朝鮮の自主独立のために五カ条の改革案を朝鮮に提案した.改革案は受け入れられ、反乱終了後も,駐兵要求があるとして,日本軍は駐留を続けたのである.しかし,清国も軍の駐留を続行した.

1894年(明治27年)日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国と下関条約を締結し,朝鮮への清国の影響力を排除.独占的権益を得る事に成功したのである.

その後、大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服し遼東還付条約を締結した.朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し,帝政ロシアに接近.1896年(明治29年)に親露保守派が政権を奪取した.

この事態は,朝鮮が帝政ロシアの保護国と見なされる危険性もあった.1897年(明治30年)清国、大日本帝国、帝政ロシアに対抗する為,朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改めた.

しかしロシアは,1898年3月15日,清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び,遼東半島に不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ,1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した.

満州に権益を得た帝政ロシアが南下政策を続けていたが,大日本帝国は外交努力でロシアとの衝突を避けようとした一方、国内では、帝政ロシアに対し,朝鮮半島と満州の利権のどちらを手に入れられるか、で対立していた.大日本帝国とロシアは満韓交換論などめぐり交渉を続けたが,両国の緊張は頂点に達した.

そして,1904年,日露戦争に突入するのだが、帝国主義列国の相互牽制による独立維持という朝鮮国(大韓帝国)の外交方針は崩れ,大日本帝国による朝鮮国(大韓帝国)の保護国化が強行された.

日本は日本海海戦での勝利を経て,ロシア軍も米国の講和勧告を受け入れてた.1905年,米は韓国における日本の支配権を承認し,日本は米国のフィリピン支配権を承認.し、以下の三点が確認された.

・日本は,米の植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する
・極東の平和は、日本,米,英、3国による事実上の同盟によって守られる.
・米は,日本の韓国における指導的地位を認める.

1910年(明治43年)韓国併合に関する条約に基づいて、日本に併合され,1945年の日本の降伏後、解放された.そして,ソ連および米国の占領地に分割され、1948年に後者が大韓民国となった.

国際連合は同国を朝鮮唯一の合法政府であることを宣言したが,共産主義政体がすぐに北朝鮮に設立され,1950年には朝鮮戦争に突入した.1953年、朝鮮戦争休戦協定により、同戦争は休戦に至った.そして、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断されたまま、現在に至っているのである.

このように、朝鮮は、清国,露,日本の権益と軍事的要所の奪取争いの場になったのである.そして日本に併合されるのだが、日本の敗戦後、今度は米ソの対立の場になり、朝鮮戦争に発展、今日まで南北に二国が分断されたままになったのである.そんなわけで、朝鮮半島の近代史は列強国によって、翻弄された時代だったと言えるのである.

④台湾の状況(参考文献・ウイキペデイア)

19世紀半ばに列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると,台湾にもその影響が及ぶようになった.1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより,台湾でも台南・安平港や基隆港が欧州列強に開港されることとなった.1871年、宮古島島民遭難事件で日本政府は清朝に厳重に抗議し,1874年,日本は台湾に出兵.1884年の清仏戦争の際、フランスの艦隊が台湾北部を攻略.

これに伴い,清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化を推進.清朝は,それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになった.

1894年に清朝が日清戦争に敗北したため下関条約で台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる.

台湾が本格的に開発されたのは日本統治時代になってからである.農業振興政策、各種産業保護政策、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業、教育制度、などを実施した.また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現していた.

太平洋戦争が勃発すると,台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる.軍需に対応すべく台湾の工業化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備もこの時期に積極的に行われた.しかし戦争末期にはアメリカ軍の空襲を受けるなど台湾も爆撃などを受け、目標としていた工業生産を達成することなく終戦を迎えることとなったのである.

2.太平洋戦争までの歴史を振り返っての感想

超マクロで言えば、欧米列強の東南アジア、中国への植民地政策(通商、権益、租界)、ロシアの満州、朝鮮への南下政策(通商、権益、軍事的要所・不凍港の確保)があって、それが日本に押し寄せてくるとの恐怖心を生み、日本の朝鮮,満州、中国、さらにはインドシナ方面への侵攻、そして、引くに引けなくなった状態での太平洋戦争への突入に繋がったと思うのである.

明治維新以来、国を動かす原動力になってきた恐怖心は島国で鎖国を続けた結果、欧米列強には無知であった事からきていると思う.そして、この『異常なまでの恐怖心』が『軍部の政治介入』を許し、『軍部の論理』で国が動いたと思うのである.

当時のロシアの南下政策は極めて軍事的な色彩が強く,日本の朝鮮や満州への侵攻(日清戦争、日露戦争、満州への覇権,等)は、良し悪しは別にして、ロシアに対する『日本防衛の大義』と『軍部の論理』が見えていたと思うのである. 

しかし、孫文の国民党との戦いをしながら、中国主要都市を支配下に置いた日中戦争(支那事変)に関しては、現地で反日運動と対峙していた関東軍が『軍部の論理』で戦線を拡大して行ったと見えるのである.その為に、国家としての方向性や政策や出口は見えなかったのである.後付で『東亜新秩序』を宣言しても、欧米列強の反感を強めただけになったのである. 

そんなわけで、この時代の歴史を俯瞰すれば,『ロシアの南下政策への恐怖』から『自己防衛』すると言う大義があっても、『中国で展開されていた欧米列強の植民地政策への恐怖』が『軍部の論理』によって、いつの間にか、『中国の反日戦線との戦い』に変質し,太平洋戦争に繋がって行ったと思われるのである. 

今から見れば,明治維新,日清戦争,日露戦争の『坂の上の雲』の先に,日中戦争,太平洋戦争が待ち構えていたのである. 

歴史には、『たら、れば』はないが、もし、中国や朝鮮がしっかりしていれば、欧米列強の草刈り場にならなかっただろうし、ロシアの南下政策にも対抗出来たと思うのである.日本も、欧米列強に対抗する為に、中國はじめ東南アジア諸国との、外交・通商交渉に重点を置けば、日中戦争や南方侵攻の泥沼に陥らなかったと思うのである. 

このように、当時の歴史を振り返って見ると、短絡的な言い方になるが、明治以降の『富国強兵』の政策が軍部と結びついて、『理のない気』が横行し、日本の政治を動かしていたように感じるのである.

3.太平洋戦争から敗戦に至る歴史と感想

国際連盟は満州、中國への日本の侵攻に反対し、経済封鎖に入り、米国は、日本の満州、中國、仏印領、からの撤退、三国同盟からの脱退、等を内容としたハルノート(最終通告)を日本に突き付けた.日本は、これを日本への戦線布告と見なし、戦争に突入したのである.

この戦争は年表が示している様に,玉砕の連続である.戦争回避や短期終戦、早期講和の水面下での工作があったと思うが,功を奏さなかったのである.

この歴史で300万人の尊い命を失い,悲惨な爪痕を残したのだが,、年表をじっと見るにつけ、なぜ『戦争を回避出来なかったのか』,せめて『惨禍を小さく出来なかったのか』,と,年表が我々に迫っているように感じたのである.

①何故、戦争を回避出来なかったのか.

大きく歴史をとらえると,日清,日露戦争,朝鮮併合,世界恐慌,満州侵攻,国際連盟脱退,中国侵攻,ABCD包囲網,と一連の伏線があって,太平洋戦争に突入している事が分かる.

戦争回避は,この経過の中で見ると,国際連盟の決議に従って満州から撤退していれば,さらに,石油を止める等のABCD包囲網に対して,満州,中国から撤退していれば,可能だったかもしれない.

しかし、現実は日独伊三国同盟,日ソ不可侵条約などの手を打ちつつ、『戦争やむなし』の機運が高まって行ったのである.勿論、米国のハルノートに従えば、戦争は回避できたはずであるが、当時の日本としては、飲めない事を承知で米国は最後通告を出しており、これは日本への宣戦布告だ、ととらえたのである.

どうやら日本は米国の誘いに乗った感じがするのである.後の話だが、ハルノートはソ連のスパイが書いたもので、日本と米国を戦わせかったソ連の陰謀だったとの説もある.

一方、理性的な判断力で戦争回避論者であった連合艦隊司令長官山本五十六は,戦争をしても日本の国力から見て,短期決戦(6,7ケ月)しか出来ないと主張していた.だから、戦争には反対だったのである.

然し、山本五十六の主張は『戦争やむなし』の機運が高まる中で『短期決戦』『早期講和』と言う手前勝手なシナリヲに変わって行ったのである.そのシナリヲをに基づいて、マレー半島・真珠湾への奇襲作戦が敢行され、戦争に突入したのである.

➁何故、敗戦を早く決断し,戦禍の拡大を防げなかったのか

奇襲作戦が功を奏し、その勢いで7ケ月後,ミッドウエイ海戦に勝利して、早期講和を狙ったのだが、これに失敗.国力も限界を迎えた事もあって、ガダルカナル戦にも失敗し、早期講和の機会を失ったのである.そして,ずるずると悲惨な消耗戦の戦いに突入して行ったのである.『山本五十六の無念』は計り知れない程,大きかったと思う.

結局、『短期決戦』『早期講和』は絵空事で終わり,年表にあるように、連戦連敗の玉砕戦が続く事になったのである.『今までの多くの犠牲を無に出来ない』,『いまさら,引き返せない』の感情が『一億玉砕』にまで突き進む事になったのである.

せめて、1944年,日本の生命線であったサイパン島の日本軍玉砕,あるいは、東条内閣総辞職時、敗戦の決断をしていれば、その後の1945年の各地への大空襲や沖縄掃討作戦,広島・長崎への原爆投下もなかったのである.

更に言えば、1945年6月、ポツダム宣言をすぐ受託していれば,少なくとも広島、長崎への原爆投下は防げたのである.

結局、異例な天皇の御聖断が下るまで、軍部は『理のない気』から抜け出る事が出来なかったのである.国が滅びる事への恐怖心や,今さら敗戦を言い出せない心境があったとしても、その代償は計り知れなかったのである.

私の感じでは、この『理のない気』は,日本の村社会特有の『理より気を重んじる文化』が影響していると感じるのである.『気』が先に立つ判断は、冷静な客観的な視点が『気』に水を差すとして排除されてしまうのである.

結局、最後は、大和魂,、一億玉砕、生きて虜囚の辱めを受けず、自決、の美学が横行するだけで、戦争をやめる判断が出来なくなるのである.

まさに、戦意高揚の為の『戦う美学』が,いつしか、『死の美学』に変質して行ったのである.これによる惨禍の拡大は計り知れななかったと思うのである. 

➂米国の理と気

米国の戦争は大義(理)を掲げ、世界を巻き込む事にたけていたと思う.日本の中国への侵攻を国際連連盟を通じて非難したり、経済制裁をかけるのである.戦争の引き金も,真珠湾奇襲作戦を待っていた感じもするのである.

戦闘現場にも『理』(合理性)が働いているように見える.例えば、自軍の2~3割の戦力が失われた時、現場の師団長は兵隊保護の為に、撤退や降伏の決断が出来る制度になっていたのである.終わり方を決めているのである.

一方、日本では司令部の指示で、撤退か玉砕である.降伏の選択肢はなかったのである.もし,捕虜になれば、自決を求めていたからである.日本には降伏して兵隊の命を守ると言う考えがなかったのである.

惨禍を大きくした原因が米国にもあったと思う.日本人の『玉砕』『自決』から連想して、野蛮で,残酷で,好戦的で,降伏しない国民,だとする偏見が生まれ、異質な民族への差別と脅威を増幅させ、これが,日本への異常な焦土作戦に繋がったと思うからである.

④最後に年表が示している事

最後に,この年表は,国を守る為に国民,兵士,戦没者が必死に戦った事を示している.一方,玉砕戦が次から次と起こった事を見れば,軍国主義,玉砕思想の被害者,犠牲者であった事も示していると思うのである.

歴史認識の問題が今でも議論されるが,表面的であっても,戦史年表を眺めるだけで,新たな発見もある.調べたくなる事柄も出てくる.今さらながら,年表を見る事の意義を実感したのである.

4.歴史認識で残った問題(戦勝国の戦争犯罪)

特に歴史認識明治維新からポツダム宣言受託、米国占領、新憲法公布、東京裁判、サンフランシスコ講和、日米安保までの歴史認識において一言で総括できる問題ではない.特に歴史は戦勝国の政治家が作ると言うのが世の常だが、下記のような、戦勝国の重大な戦争犯罪までも封印した歴史認識はあまりにも一方的だと言わざるを得ないのである.

・米国の無差別攻撃問題(沖縄焦土作戦,主要都市空爆,原爆投下),
・ソ連の不可侵条約破棄、日本人のシベリア抑留,北方領土占拠の問題,

特に原爆投下は戦争をやめさせる為と言う米国の主張もあるが、すでに死に体の日本に原爆投下は不要であって、本当の狙いは、広島型原爆と長崎型原発の実証実験であった事、世界に原発の威力を鼓舞する事.だったと言われている.

原爆の父、ロバート・オッペンハーマー氏は.『原爆は強力過ぎて使う事が不可能、この兵器を世界に見せて、戦争の抑止力に使うしかない』と言っていたと言う.(抜かずの剣).

米国の公式見解である、日本を早く降参させたいと思ったなら、原爆の恐ろしさを日本に示すだけで良かったはずである.それどころか、原爆を作った事を公表もせず、いきなり、広島と長崎に投下した事は、実際の威力を検証したかった事、その恐ろしさを世界に見せ付けたかった事、が目的であったと、間違いなく、思うのである.この原爆投下は、いかなる理由も正当化できない巨悪な戦争犯罪だったと思うのである.

又,ソ連の一連の行動(米国の8月6日広島原発投下、8月8日日ソ不可侵条約破棄、日本への宣戦布告、北方四島侵略、8月28日60万人と言われる日本国民のシベリア抑留、強制労働、多くの死者の発生)は現在もなお、ロシアに汚い性格を感じるのだが、これも、明確な戦争犯罪である.

東京裁判では,戦勝国が自身の大きな戦争犯罪を棚に上げて、日本の戦争犯罪を裁く事に限界を感じたのか、或は、ソ連、中国の共産勢力の防波堤として日本を位置付ける方が重要と考えたのか、東京裁判は急遽、閉廷したのである.このように東京裁判にも、いろんな思惑が交差していたと感じるのである.

この戦勝国の戦争犯罪は歴史には残るが、この問題を現在の政治カードにする事は難しい課題である.しかし,それぞれの国が相手の国の歴史認識を知ることは必要である.その上で、敗戦国だけではなく、戦勝国の戦争犯罪も含めて,2度と同じ事を繰り返さない誓いをする事は極めて重要だと思うのである.

5.国家間の歴史認識の差と近代における人間の英知

国家間で歴史認識を同一視する事は極めて困難である.時として、ナションナリズムにゆがめられた歴史認識があったり、戦勝国によって歴史が書き換えられたり、何よりも、勝者と敗者で歴史認識が180度違う事があったりするからである.

この歴史認識の差を、争いの材料にすれば、国際秩序など保てるわけがないのである.そこで、近代では、この歴史認識の差を争いの材料にしない為に、その認識の差を残したまま、条約等で戦争の政治決着をつけているのである.

日本はポツダム宣言受託、東京裁判、サンフランシスコ講和条約、その後の各国との条約で戦争の政治決着をしてきた.しかし、今日に至っても、中國、韓国、は独自の歴史認識を持ちだして、政治カードにしているのである.

中國、韓国とは2国間条約が締結され、政治決着がされているのだから、歴史認識の差を蒸し返して、現在の政治カードにする事は、近代政治とは言えないのである.こんなことを許せば、歴史認識の差が世界的に連鎖し、国際社会の秩序が崩壊するのである.

ソ連は、北方4島をサンフランシスコ条約で日本が放棄したとして(実際はカラフトは放棄したが、北方4島は放棄していない)、終戦直前に占領したまま、現在も、占領し続けているのである.ソ連はサンフランシスコ条約の調印国ではないのだから、放棄論義とは無関係に、一方的に占領(侵略)しているだけなのである.

この北方4島問題があって、いまだに、ロシア(ソ連)とは政治決着がついていないのである.早期に、ソベリア抑留問題や、北方4島問題を含めて、政治決着すべきだと思う.このままでは、『ロシアの汚名』は払しょく出来ないと思う.

近代政治の政治決着は、歴史の検証や歴史的事実を封印する事ではない.歴史認識の差を残したままでも良いのである.重要な事は、政治決着によって、歴史認識の差を国家間の紛争の材料にしないと言う事である.これによって、戦争を起こさない事である.これが、戦争後の近代政治の英知だと思うのである.

6.戦後70年の安倍総理談話への提案.

『日本は満州及び中国への侵攻、それにともなう国際社会からの経済封鎖を受け、太平洋戦争に至ったのだが、内外に多くの戦争被害が拡大し、その結果、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をしたのである. 

その後、東京裁判や各国の裁判を受け、新憲法の制定、サンフランシスコ講和条約を締結し、2国間の条約も結んできたのである.同時に、焦土となった国の復興と経済の復興、関連諸国への謝罪と平和外交、更には、諸外国への出来る限りの開発援助も行ってきたのである.一方、軍事的制約の中で、出来る範囲の平和維持活動にも、積極的に参画して来たのである. 

ところで、歴史認識と言うものは元来、国家間で共有する事は極めて困難だと言われている.この差を政治カードにすれば、国際秩序は保てないのである.人類はその為に、歴史認識の差を残したまま、条約等で、戦争の政治的決着を図ってきたのである.日本も、戦勝国との間で交わされた政治的決着を尊重し、諸外国との友好関係を築いてきたのである. 

しかし、残念な事に,現在、我が国は、一部の国から歴史認識の問題を政治問題化されている.過去に2国間で戦争の政治決着をしている経緯があるだけに,早期に,人類の英知をもって、関係修復に努めていきたい.

さて今後であるが、我が国は、積極的平和主義のもと,世界の平和に貢献し、同時に、医療技術・科学技術の開発を積極的に進め、引き続き、人類の幸せに貢献して行く覚悟である.・・・』

阿倍総理への『侵略を求め、謝罪をし,それを行動で示せ』との抽象的な要求に対し、しっかり答えていると思う.どうだろうか.

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2015.08.06

405 テレビに黒船が押し寄せて来た

動画配信最大手の米ネットフリックスが9月2日に日本でサービスを始めると、8月6日の日経新聞が伝えた.

映画やドラマが低料金で見放題という同社のサービスが米国の4千万人超を含めて世界で6千5百万人が利用されていると言う.従来のCATV利用者は,このサービスに切り替えていると言うのである.

このインターネットを使ったストリーミング(逐次再生)型の動画配信サービスはインターネット接続端末なら、どんな機器でも、いつでも、どこでも、どの国の番組も、利用できるのである.この加入者はCMから解放される事もあって,もう従来のテレビに戻れないと言うのである.

ちなみに、ネットフリックスはレンタルDVD宅配サービスで創業した.現在のサービス概要は、最低月額料金7.99ドル、一日に配信する動画の合計時間1億時間、配信作品7700種類、視聴者の好みそうな作品を提示する機能あり(視聴者の75%が,この中から選択).年間売り上げは6800億円(NHKの事業収入と同程度)と言う潤沢な資金で独自番組も作っていると言う.

このように、日本のテレビ業界の従来の事業構造も、コンテンツ作りも、NHKのあり方も、CATV事業者も、CM業界も、家電業界も、インターネット接続業者も、インターネット網も、企業のテレビ宣伝も、映画や音楽の事業者も、根底から影響を受ける事になる.それだけではなく、インターネットテレビの普及によって、情報社会がさらに変化して行くと思うのである.

これが急速に普及すれば、まさに『黒船』になり、革命を起こすのである.もちろん、経済にも大きな影響を与えると考えられる.日本でも、以前から予想され、一部実施されていたインターネットテレビが、いよいよ,本格的に動き始めたのである.

一つだけ懸念があるとすれば、民放の無料放送を見ている視聴者の習慣を変えられるかと言う事だけである.ネットフリックス側は、一度体験してもらえば『変わる』と自信を見せているのである.

体験すれば、民放の番組より、おもしろく、CMから解放され、しかも、オンデマンドで好きな番組を選択できると言う優位性に気付くと言うのだと思う.日本での料金は公表されていないが、相当や安く設定するかもしれないのである.

さて、この黒船でテレビ放送や情報社会はどう変わるであろうか.いくつか想像してみたい.

・空中波のテレビがインターネット接続テレビ、高画質テレビに置き換わる.
・タブレットパソコンが高齢者から子供にまで,普及する.

第一種通信事業社(キャリア),設備投資とネット利用料金の検討が始まる.
・インアターネット網の信頼性確保が問題になる.

・番組・コンテンツ作成者と配信事業者とが分離する.
・従来のテレビ局間競争の構造が、コンテンツ間競争に変化する.

・配信事業者は収入を番組視聴率で番組に配分するようになる.
・NHKの料金制度及び料金が影響を受ける.
・国際的な、良質な番組・コンテンツが増大する.
・教則番組も,教育番組も,教材も充実し、教育方法が変わって行く.
・番組・コンテンツの作成には国際化の視点が不可欠になる.
・世界、日本、地域、のニュース番組も,配信サービスの対象になってくる.
・企業のテレビ広告はネット広告にシフトする.
・従来のテレビが残るとすれば、通販、韓国ドラマ、安物芸人番組、になる.
・個人ごとに視聴内容が変わり,情報の共有化、画一化が薄らぐ.
・無料の動画配信サイトと有料の動画配信サイトとに2分化する.
・インターネット・アプリの増化・多様化がさらに加速する.
・テレビ会話が普及する.
・個人向け、家庭向け、クラウドサービスの拡充する.
・パーソナルマーケテングが発達する.
・WORLD WIDE WEBの世界,
INTERNET‐EVERYTHINGの世界,が広がる.

このような情報化社会の拡大と共に、次のような変化も起こると考えられる.

・経験知識の重視
・個人、独自性の重視
・手作り、俗人的技量の
重視
・FACE to FACEの重視

・哲学、情報判断力の重視
・インターネットコンテンツ類の法的罰則の強化


ほかにも、広範にわたって、影響が出ると思うが、従来のテレビに係わる多くの事業が根底から影響を受ける事は確実だと思う.
取りあえず、雑駁な想像をしたが、行く末がどうなるのか,興味が湧くのである.

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2015.08.04

404 軽視できない東京オリンピック公式エンブレム問題

2020年東京五輪の公式エンブレムがベルギーの劇場のロゴなどと似ていると指摘された問題で、日本オリンピック委員会(JOC)は3日、劇場のロゴのデザイナー側からエンブレムの使用停止を求める書簡が届き,組織委員会に転送したことを明らかにした.劇場のロゴのデザイナーは,対応がなければベルギーの裁判所に提訴する考えを示している.

大方の専門家、マスコミの反応は、デザイナー本人が盗作を認めないかぎり、今回のエンブレムが敗訴する事はないと言う.過去にも盗作疑惑になったデザインがあったが、問題にならなかったと言う.又、デザイナー側からすると、デザインがシンプルになる程、似てしまう事があり得ると言うのである.総じて、よくある事で、大した問題ではないと言う反応であった.

関係者(組織委員会のマーケテング部門の責任者)のコメントも違う言い方だが、全く問題視していない口ぶりであった.

『厳正に公募し、慎重に専門家が選んだ結果であり、IOCにも商標確認をとっている.従って、なにも問題はない』との趣旨のコメントであった.これまでの進め方に問題はなかったと、自己弁護しているような態度が気になったのである.

更に問題は、今回は、商標権侵害の訴訟ではなく、著作権侵害の訴訟である事を全く理解していない事である.一般に、著作権問題の訴訟リスクは商標権問題より、はるかに高いのである.

これらの反応に私が感じた事を述べたい.

『模倣ではないか』と言われた時の専門家、マスコミ、関係者の反応の仕方に、総じて、疑問を感じた.国立競技場の白紙撤回事件のようになる事を恐れてか、或は、一度決めた事をやり直せないと言う組織論理が働いたのか、頭から問題にしたくない,と言う態度が露骨に見えたのである.

オリンピックのエンブレムは過去にも似ているデザインがあったが問題にならなかったとか、無名な類似デザインがあったからと言って、いちいち騒ぐ必要がないとか、の態度は、デザインの価値や著作権を軽んじているように映ったのである.

素直に、『似ているデザインがあると言われて、びっくりしている.もう一度、双方のデザイナー、専門家、或は国民の意見を聞いて、どうするかを検討したい』と言うべきだったのではないか、と思ったのである.

海外から起こされた著作権訴訟は、海外の裁判所の判決が各国で起こる同一訴訟にも大きな影響を与える.当然、訴訟リスクは高くなりやすいのである.従って、この訴訟を、高をくくって、軽視してはならないのである.

してや、最初から相手を無視した態度は、このリスクをさらに高める結果になったと思うのである.逆の立場なら、容易に想像できるのである.

もう一つ、大問題がある.企業の商標権や特許権のトラブルは最終的には判決で決着がつくのだが、公的財産(公式エンブレム)については、勝っても負けても、裁判で決着をつけるわけにはいかないと言う問題がある.

裁判に長期間を要したり、法的に勝っても、『似ている事実』は消えず、模倣臭いデザインを国民がすっきり受け入れられるのか、後世の語り草になっても良いのか、と言う大きな問題が起こるのである.ましてや、敗訴にでもなれば,その影響は計り知れないのである.

そんなわけで、この問題は似ていると指摘され段階で,法的な手段で対応しようとするのではなく、先ず、円満な了解を得る事を考えるべきだと思うのである.その上で、了解を得られなければ、デザインを変えてでも、裁判沙汰を避けるべきだと思うのである.

繰り返すが、公的なデザインは法的に勝てば良いでは済まないのである.裁判で勝っても、世間から、『よく似たところがある』と思われたら、公的デザインとしては失格だと思う.下手をすると、著作権軽視のシンボルになりかねないからである.公的デザインは、国の意思であり、一点の曇りも許されないと思うのである.

以上、国立競技場や他の競技施設の問題、今回のエンブレム問題、など東京オリンピック関連の問題に接すると、やたらと,怪しげな組織論理や露骨な保身本能が目につくのである.

追伸

結局、オリンピックエンブレムは、国立位競技場と同じように、9月1日、白紙撤回となった.経緯は次の通りである.

華々しく、お披露目された佐野氏のエンブレムに対し、類似しているデザインがある.佐野氏が提出したエンブレム展開写真に意図的な著作権侵害がある、佐野氏の過去のデザインに著作権違反や類似デザインが多くある、として、エンブレム問題は国内外で話題沸騰したのである.

この騒動の中で、組織委員会は、採用したエンブレムがオリジンナルである事を証明する為に、このエンブレムは佐野氏の原案(公募作品)を修正したものであったと説明したのである.

この発表で、次の事が明るみに出て、更に疑念が膨らむ事になったのである.

・原案に商標登録の問題があり、2回修正している事.
・修正は組織員会の指示であり、審査委員には事後承諾であった事.
・組織委員会も、佐野氏も、この経緯を伏せていた事.

・佐野氏の原案と最終案は、構図・デザイン共に違いがある事.
・原案にも、よく似た有名デザイナーのデザインがあった事.
・審査員,公募条件,審査内容,公募後の修正,等、閉鎖的な進め方であった事.

このように組織委員会の説明が、疑念の払拭どころか、火に油を注いだ結果になったのである.保身的組織論理が招く、典型的な結果である.

この結果、組織委員会は白紙撤回に追い込まれたのだが、その理由について、組織委員会および佐野氏は次のような弁明をしたのである.

『エンブレム・デザインに模倣はないと考えるが、国民の支持を得られていない事、佐野氏から辞退の申し入れがあった事、から,白紙撤回を決断した』

佐野氏はホムページで、こう述べている.

『模倣はしていない.しかし、模倣疑惑問題がマスコミやネットで沸騰したり、マスコミの事実に反する報道もあったり、私、家族、会社、への激しいバッシングも繰り返されたり、もう耐えられない状態になったので辞退を申し入れた』

結局、組織委員会は、国民の支持が得られない事、佐野氏が辞退した事、が白紙撤回の理由だと説明したのである.いかにも、『自分は悪くない』、『早い決断をした』と言いたげな発表であったのである.

元事務次官に上り詰めた、官僚中の官僚の人が、自信を込めて、得意満面で、『問題なし』を説明した矢先に、手のひらを返したように、淡々と、白紙撤回を宣言したのである.かねてから、官僚と言う宮使いの習性として、マネージメント能力、リスク管理能力、責任能力、は不要で、勿論、そんな経験もないと感じてはいたが、それを指摘する前に、『なにか、一抹のわびしさ』を感じたのである.

エンブレムの白紙撤回によって、国立競技場の白紙撤回ともそうだったが、プロセスが閉鎖的で、多額の費用を支払い済みで、すでに次の仕事に取り掛かっている事が露呈したのである.何よりも、国際的な信用が失墜したのである.

この事態に、誰も責任を取らない、自分は悪くない、との姿勢に、多くの国民は、全く、納得していないのである.国立競技場問題でも触れたが,ここでも、日本的組織体制の弱点が露呈したのである.

もう一度言うが、和気あいあい、一致団結の合言葉に、仕事内容も責任も曖昧な組織体制が潜む事が多いのである.そのような組織はトラブルが起こると、たちどころに、右往左往に陥るのである.組織とは、物事を効率的にやる為にあるのだが、同時に、責任を明らかにする為でもある事を忘れてはならないのである.

もう一つ、特徴的な事は、エンブレム問題が、『閉鎖的な村社会の論理』と、『開放的なネット社会の論理』が、ぶつかり合った事である.昔の様に、真実を伏せて、玉主色の誰も傷つかないやり方が,ネット社会では通用しない事を証明したのである.

さて、再発防止も含めて、新たなエンブレム公募が行われると思うが、エンブレムに要求するコンセプトの設定、公募資格の検討、決定前の商標登録防止策,著作権のネットによる事前チェック、審査員と選定方法、国民の評価、など、改めて考える事になる.さて、どんな、リカバリー策になるのか、興味が湧くのである.

以上、『著作権の問題は軽視できない』と当ブログで警告したが、不本意ながら、白紙撤回にまで発展したのである.

私流に言えば『国立競技場の白紙撤回の様な事にならない様に、クレームを無視してでも、後戻り出来ないように、このデザインで突っ走れ』との組織委員会の保身的組織論理が逆に、白紙撤回に追い込んでしまったと感じるのである.

まさに、保身的組織論理はネット社会では通用しない事を証明したのである.これは政治家、役人、業界の話だけではなく、企業経営に言える教訓だと思うのである.特に、役人組織は、もともと、議会、法律で動いている事から、責任を負う事がない組織である.法律でも、役人が責任回避できるように、作られているのである.その習性をオリンピック・プロプロジェクトに持ち込んではならないのである.

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