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2015.09.19

409 安全保障関連法案の参院審議と感想

9月19日土曜日午前2時過ぎ、安全保障関連法案が参院で可決され、当法案は成立した.

この安全保障関連法案は現憲法の下で、『国際情勢の変化への対応』と『一国平和主義』、『平和ただ乗り論』から、一歩前進した法案になっているのである.

そこで、当ブログNO401安保障関連法案の骨子と所見(6月2日発信)で指摘した問題点や国会審議への期待を踏まえて,参院での国会審議の感想を述べてみたい.

①安全保障法案の特徴の認識不足

NO401でも述べているが、安保法制の特徴は、次の3点である.

『安保法制は有事に対する備え,保険である事』、
『シビリアンコントロールの裁量が大きくなる事』、
『してはいけない事の法制化が必要である事』

これが、一般法と大きく異なるのである.

『安全保障法案は有事に対する備え、保険である事』とは、

今回の安全保障関連法案は、いろんな有事の事態や国際貢献の必要性に対応できるように、法的基盤を事前に用意しておく法案である.この法律を実際に使うか使わなうか、使う内容をどうするかは、シビリアンオントロールにゆだねられているのである.

国を預かる政権としても、国民にとっても、法律がないから対応できなかったでは済まされないからである.

『シビリアンコントロールの裁量が大きくなる事』とは、

シビロアンコントロールの裁量とは、その時の状勢や政権の考え方で、法律を行使しない事も、行使する内容も、判断する事である.従って、シビリアンコントロールは極めて大きな裁量を持つ事になるのである.当然、適正なシビリオアンコントロールを行う為には、国際情勢は勿論、大所高所の判断力が必要になるのである.

『してはいけない事の法制化』とは、

大きいシビリアンコントロールの裁量に歯止めをかける為である.有事の時や国際貢献で、やれることを列記する事も歯止めの仕方としてはあるが、それを列記する事は実質、不可能である.有事の
状況や国際貢献の内容を一概に規定出来ないからである.

従って、『してはいけない事』を定めた方が歯止めとしては、わかり安く、明確になるのである.試しに、今回成立した安全保障法で,『してはいけない事』を書きだすと、法案の中身がわかり安くなるのである.

一方、この特徴を理解していない人は、こんな事を言うのである.

・この場合はどうだと,いろんなケースの議論を始める人がいる.挙句に、シビリアンコントロールの裁量が大きくなると危険だ、だから、裁量を小さくする為に、出来るだけ細かく、やれる事を定義すべきだ、と迫るのである.何か、反対の為の理屈を探しているようにも見えるのである.

・『戦争法案反対』と叫ぶ人もいる.安全保障法の特徴にあるように、この法案は有事への備え、保険である.実際、その備えを行使するかどうか、行使の内容をどうするか、等は、シビリアンコントロールの判断にゆだねられるのである.そして、戦争になるかどうかは、相手国やシビリアンコントロールにかかっているのである.

従って、安全保障法が戦争法ではないし,正しく言うなら、『備えに反対(不要)』、『行使内容に反対』、或は、『シビリアンコントロールの仕方に反対』と言うべきなのである.

②反対者の対案なし(国民へ選択肢示さず)

・野党は『反対運動の共闘』を組んだ.安全保障の考え方がバラバラな政党同士の同床異夢の共闘である.この共闘は、明らかに、法案の中身の審議や対案を出す事より、廃案に向けた委員会運営、或は、国民の反対運動の拡大を狙ったものである.対案を出せない野党にとっては好都合な共闘だったかもしれない.

結果、国会がデモ化し、私の持論ではあるが、『対案は公平に、採決は多数決』と言う議会の姿から遠ざかって行ったのである.国民から見ると、ますます法案の中身や反対の理由あるいは、選択肢が見えなくなって行ったと感じたのである.

・さらに言えば、今回の法案が『違憲だ』と主張する人がいる.野党共闘の結果、どの野党も違憲を言うようになった感じもする.

備えを違憲と言うのか、行使したら違憲と言うのか、法制のどの部分を違憲と言うのか、よくわからないのである.私の勉強不足カかも知れないが、とにかく違憲と言えば、先に議論が進まなくなるのである.70年間の思考凍結状態と同じである.

しかし、『違憲』だと言う人の中に、自衛隊も、個別的自衛権も、日米安保も、後方支援も、国際協力も、違憲だと言う人から、自衛隊、個別的自衛権、日米安保、国際協力は合憲、限定的集団自衛は違憲、或は、集団的自衛も含めて憲法を改定すれば賛成、と言う人まで様々な意見がある.

従って、各自の持論に応じて、『じゃどうするのか』を言わなければ、安全保障論議にならないのである.いつもの入り口論に終わるのである.従って、違憲だと叫んでいる政治家は対案のない、全く無責任な政治家だと言わざるを得ないのである.

どうやら,対案が無くても、違憲を叫んでいれば、国民の支持が得られると考えているようである.安全保障問題を党利党略の材料にしているように見えるのである.国民はこれに乗せられてはならないのである.あくまでも、国の有事の『備えが必要か不要か』、更には『今後の安全保障のあり方』や『憲法のあり方』で判断すべきだと思うのである.

このように、国会審議が反対の為の反対国会になり、安全保障のあり方の議論が遠のいたと感じになったのである.この議論を期待していただだけに、極めて残念だったのである.

次の選挙で、共闘と言う名の下で、立候補調整で、反対勢力を伸ばそうと言うのかも知れないが、同床異夢なのに選挙談合(候補者調整)が出来るわけがないのである.例え談合で反自民が勝利しても、民主党政権の二の舞になるだけである.

以上、法案の持つ特徴の無理解と野党の対案の無さを感じた国会であったと感じたのである.

しかし,法案が成立したのだから、安全保障の転換と同時にシビリアンコントロールに対応した政治家、政党の転換が始まるのである.政治家、政党、更には国民も、従来のような平和ボケ、安全保障論議からの逃避は許されなくなるのである.

同時に、これを契機に、政党の理念として、『安全保障のあり方』や『憲法のあり方』が求められ、選挙公約では、『安全保障政策』が必須になるのである.当然、これが、国民の政党を選ぶ大きな選択肢になるのである.

法案に反対した政治家も、政党も、国際情勢をよく理解し、シビリアンコントロールの場で、しっかり主張する事になるのである.これまでの様に、反対反対と言うだけでは政治は務まらないのである.

③野党に『審議妨害無罪』の思考を感じた.

法案の問題点を掲げ乍ら、審議を引き延ばし、国民の支持を高めようとする議会戦略は、野党としての一つのやり方だとしても、その為に、委員長を拘束したり、委員長席で取っ組み合いをする事は許されないのである.しかも、野党共闘でこれを行った事に唖然としたのである.良識の府と言われる参院がデモ会場化したと感じた.

国民の反対運動を盛り上げる為、或は、与党が強制採決をしたと言いたい為に、公務執行妨害に等しい審議妨害をしても、やむなし、と考えているようである.この行為に『愛国無罪』ではないが、『審議妨害無罪』の思想を感じるのである.国会が治外法権の場なら別だが.

いづれにせよ、参院特別委員会の騒動を見ていると、議会政治は発展途上国レベルだと感じたのである.折角の野党の問題指摘も、これでは台無しになった感じがするのである.

議会は言うまでもなく、『立論の戦いと、決着をつける場』である.諭に反対なら論で対抗すべきである.どうせ多数決で負けるから、と言って、審議を妨害する行為は政治家のやる事ではない.良識ある国民から批判を受けて当然だと思う.

④日本の安全保障のあり方の議論が急務.

NO401でも述べているが、現憲法に皆が認める国防の規定がないことが、安全保障の問題を複雑にしているのである.国会審議を聞いていると、もっと根本的な事を議論しないと、議論が噛み合わないのである.

違憲だ、危険だ、巻き込まれる、等の反対理由は、いかにも稚拙な理由である.現憲法も含めて、今後、どのような安全保障のあり方を取るべきか、当面、現憲法下でどうすべきか、今後、憲法をどのようにすべきか、等の討議されなければ、モグラたたきのような議論になるのである.

今回の法制度の成立を機に、日本の安全保障問題を、次の正攻法で検討すべきだと思うのである.今回の国会審議で、対案を持ちながら政府案に反対したり、根本問題に切り込んだ論戦を仕掛けたり、が無かった事に失望したのである.

『①安全保障の在り方→②憲法のあり方→③法制度化』

従来、憲法改定の手段も持たず、改定の経験もない為か、安全保障に関する思考が停止状態になり、安全保障問題は選挙公約にも上げず、根本的な議論(安保の在り方、憲法のありかた)を避けて来た感じを受けるのである.

結果、日本の安全保障は何もしない事(一国平和主義)が安全で、合憲だとの平和ボケが蔓延してきたと感じるのである.

ドイツなどは戦後、十回程度、国民投票で憲法改定していると言うが、雲泥の差である.日本はミスの記述も含めて、現憲法が化石の様に凍結しているのである.この事が安保に限らず、日本の孤立化、思考停止を深めている原因になっていると思うのである.

そんな中で、安全保障関連法案が成立した事で,その対応の為の準備が始まると思うが、政党も、国民も、今までの様に、安全保障問題に無関心ではいられなくなったのである.

政党、政治家は,当然,選挙で安全保障問題から逃げられなくなるし、常に、シビリアンコントロールが出来る情報や力量を持たなければならなくなったのである.今までのような平和ボケでは済まなくなったのである.この事は成立の一つの成果だと思う.

今回の安全保障法制が、安全保障の転換期と言われるが、それ以上に、政党、政治家、及びシビリアンコントロール能力の転換期になったと思うのである.

この機に、思考停止状態から脱出して、『安全保障のあり方』から、議論する、きっかけにすべきだと思うのである.

そこで、現憲法を超えて、『安全保障のあり方』のいくつかの姿を上げておきたい.(NO401の再掲)(注;自衛隊と軍を武装と標記した)

①非武装・中立(自衛隊も軍も不保持)
②武装・中立・自衛(日本独自路線)
③武装・中立・自衛・国連軍への後方支援(日本独自路線)
④武装・中立・自衛・国連軍への参加(日本独路線)

⑤武装・日米安保・自衛(個別的自衛,以下同じ)
⑥武装・日米安保・自衛&国連軍、他国籍軍への後方支援
⑦武装・日米安保・自衛・集団的自衛(限定的)&国連軍、多国籍軍へ後方支援

⑧武装・日米安保・自衛・集団的自衛(相互に自衛活動,以下同じ)
⑨武装・日米安保・自衛・集団的自衛・国連軍、多国籍軍への後方支援
⑩武装・日米安保・自衛・集団的自衛・国連軍、他国籍軍への参加(国連憲章)

細かく言えば、自衛にしても、後方支援にしても、その内容はいろいろあると思うが、まず、骨太の姿で分類してみたのである.ちなみに、日本の安全保障は、⑤、⑥と推移して、今回、⑦になるのである..

各政党は、このような『安全保障のあり方』のどれを主張しているのか、を明示し、『憲法のあり方』、『安全保障関連の法制度化』を議論して欲しいのである.

少なくとも、来年の参院選挙では,各政党は今回の法案の賛否だけでなく、『日本の安全保障のあり方』、『憲法のあり方』を主張すべきだと思うのである.これなくして、国民は政治家や政党を選べなくなるのである.日本の安全保障の国民的合意を形成する為にも、政党は主張をしっかり述べて欲しいのである.

従来は安全保障問題を公約に上げない事で票を取ってきたが、今後は、安全保障政策を公約に上げて、賛同を得ないと票が取れない、となるのである.これで,政党再編が起こるなら正常だと思う.

余談だが、どの国も、こんな基本的な事を議論している国はないと思うが、しかし、このプロセスを通らなければ、国民のコンセンサスが形成できないし、国際情勢に応じた安全保障政策も展開できないのである.ちなみに、国連加盟国なら、⑩の法理を持っていると思う(よく調べていないが).

以上、今回の法案審議、成立は、今後の安全保障のあり方が一歩前進したと思うが、最大の成果は国民が『安全保障のあり方』、『憲法のあり方』を真剣に考えるキッカケになった事だと思う.是非、この思考を続けて欲しいものである.

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2015.09.03

408 日本的な言い方 『わからない』への懸念

ある政策の賛・否を問われた時、『わからない』、『よくわからない』と答える人が多い様に感じる.『わからない』理由を言わないので、いくつか、その理由を想像してみた.

①自分の意見を言うと,角が立つから、『わからない』と言うケース.
②自分の意見を言うと,間違いを指摘されるから,『わからない』と言うケース.
③自分の知識・情報不足で、理解できないから、『解からない』と言うケース.
④概要は知っているが,賛・否の判断が出来ないから、『判らない』と言うケース.
⑤問題が多く論外だと言う気持ちで、『わらない』と突き放して言うケース.


この理由に次のような事が見える. 

㋑日本的な、『曖昧な文化』、『自己主張を避ける文化』の影響(①②)
㋺自分でわかろうとしない姿勢(③④)
㋩インテリ風を装って、偉そうに、物を言う性格(⑤)
 

この中で、問題は二つある.

一つは、㋑の文化の影響を受けて㋺が起こっているのではないかと言う問題である.そして、いつしか、わからない事は恥ずかしくもなく、当たり前だ、と言う感覚になっているのではないかと懸念するのである.

その証拠に、『申し訳ございません、私の勉強不足で解かりません』とは絶対言わないのである.むしろ、堂々と『わらない事は俺のせいではない』、『わからないのは、わかりやすく、教えてくれないからだ』との態度すら見えるのである.

このように、『わからない』と言う人が多いと言う事は、YES/NOをはっきり言う文化で鍛えられた人達の思考力,立論力,決断力とは、格段の差が生じる事を真剣に懸念しているのである.

二つ目の問題は、知名人が言う自己顕示的な発言の問題である.『専門家は’はにかみ’素人は’断言する’』との格言の通り『一概には言えない』と言うなら,そう言えば良いのだが、⑤㋩の場合は、自己顕示を意識した、論外の意味を含めた『わからない』である.偉そうに言う、このような発言が、ともすると否定的な世論煽動になりかねないのである.

しかし、インテリ風に見せたい、知識人に見られたい、との自己顕示欲が強い人は『批判はするが、対案が無い』事が多く、私から見ても、見識の無さが透けて見えているのである.

そんなわけで、『わからない』と言う日本的な言い方に非常に懸念しているのである.そこで、次の提言をしたい.

1.『わからない』と言う時はその理由を言うべきである.言わなければ聞くべきである.その理由を知る事で、会話が進むと思うし、アンケートでは、正しく分析できると思うのである.ちなみに、英語表現では理由によって、『わからない』の言い方が違うようである. 

2.政策立案者は、少なくとも、『政策が解決しようとしている問題は何か、その為の解決方法は何か』をハッキリと簡潔に明示すべきである.

3.一つの問題に対し、いくつかの対策案(対案)を示すべきである.これは、野党の仕事であるが、批判しているだけでは、国民に選択肢を与えられないのである.比較できる政策があって、初めて、国民は選択肢を手に入れられ、考え方や知識が広がり、自らの判断が出来るようになると思うのである.

4.解説者、コメンティターの仕事は、自分の感想や意見を言う事ではなく、国民の選択に役立つ情報を提供する事である.その為に、いろんな考え方、政策がある事を示す必要がある.各政党の対案を整理し、説明する事も重要である.自分の自己顕示欲を満足させる場ではないのである.

以上の様な事で、日本的で、曖昧な、『わからない症候群』を少なく出来るのではないかと思うのである.

民主主義制度とは、言うまでもなく、政治の責任を『国民が負う』いや『国民に負わせる』制度である.この民主主義制度では『わからない』は自分の責任を白紙委任している事になるのである.選挙でも、議会でも,『わからない』と言う選択肢はないのである.

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407 経済成長・財政健全化に向けた予算制度改革

アベノミックスは『経済成長なくして財健全化なし』との考えで、金融政策によるデフレ脱却(物価・賃金の上昇)、需要拡大に向けた財政政策、特区による規制緩和、地域創生,先端技術等による経済成長戦略を展開し、長期的には、GDPの伸長、税収増による赤字国債発行の逓減(プライマリーバランスの維持)、借金価値の目減り、を図るものである.

これらの政策は勿論、実体経済、具体的には,各企業の創意・工夫がともわなければ、達成できるはずがないのだが、もう一つ大事な事は、国家としての経費の増大に,どう対応するかと言う問題がある.例え経済が成長しても、経費の増大に消えて尚、足らない事態も考えられるのである.そうなれば、財政健全化など夢のまた夢になるのである.

『経費』とは言うまでもなく、『経済的波及効果や投資効率、投資回収を求める投資』と違って、『国家運営の必要性によって支出される資金』であって、この経費支出は資金を回収する事が目的ではないのである.

具体的に経費となる事業は、社会保障、安全保障、防災事業、災害復旧、社会インフラの維持管理・修復、経済救済・給付、公務員の人件費、等である.これらは、経済的に見れば、公共需要を押し上げる事はあっても、それによって、経費が回収される程の税収増にはならないのである.従って、この経費支出が経済的波及効果や経済成長を牽引すると言う人がいるが、間違いである.

それどころか、その経費が借金で賄われていたら、借金は膨らむ一方である.この借金を自己破産で清算する事ができず、世代を超えて引き継がれるのである.例えて言えば、飯代を未来の国民が返済する事になるのである.まさに、未来の国民は、見返りのない借金返済に追われ、予算の自由度が奪われる事になるのである.言い換えると、借金は未来の国民の主権在民権を奪うのである.この事があって、財政法では借金(赤字国債発行等)を例外扱いとしているのだが、今や,借金なくして予算が組めない事態(税収50兆、借金50兆)になっているのである.

さて、このような認識に立てば、次のような事は許せるわけがないのである.

・選挙対策として、国会議員は地元への予算取りに奔走する.
・選挙対策として、国会議員は支持団体の既得権益を守ろうとする.
・経済政策(投資)と称して、実質は、救済・給付(経費支出)を続けている.
・投資効率を掲げて投資予算を取るが,誰も管理・評価していない.

これらの財源が年度の税収で賄うなら、自業自得だが、借金で賄うなら大問題である.

『財政は民主主義の鏡』と言われるように、国民,役人,政治家、の資質が、財政に表れるのである.ちなみに、今、この鏡に『借金して大国になった、あとは、しらない』と国民も、政治家も、役人も、口を拭っている姿が映っていると思うのである.

はたして今後、成熟社会における経費の巨大化、投資効率の逓減化、のなかで、経済成長だけで、日本の財政は賄いきれるのだろうか.公金を欲しがるだけの無責任さを反省し、びしっとした選択と集中の予算を作る事が急務だと思うのである.

そこで、すべての事業毎に、投資か経費かを区分し、その財源が税収か、資産売却資金が、事業収入か、借金か、を記載させるべきだと思うのである.予算が付くと,財源がなんであるかを気にしない現状を変える為である.

今や『交付金を増やせ』、『救済、給付を増やせ』が、『借金を増やせ』と同意語だと言う事を自覚すべきである.『予算要求と借金は別』の話ではないのである.昔、田中総理が,予算要求に対し、財源を示せと,牽制していた事を思い出すのである.

これによって、事業が経費か投資かを認識させ、投資なら投資回収の計画と実際を管理すべきなのである.勿論、一時的な景気対策は救済に近く、それなら、明らかに経費であり、景気対策としての投資ではないと、はっきり意識させるべきなのである.

少なくとも、予算取りの為に、詐欺のように大義をでっち上げる事は何としても排除したいのである.勿論、本当に救済・給付が必要なら、堂々と、経費として申請すれば良いのである.

そこで、アベノミックス推進の為にも、下記のような、『予算制度の改革』が不可欠だと思うのである.

①全事業毎に財源を明らかにさせる事
②全事業毎に、経費か、投資か、の区分を明示させる事
➂経費事業は税収で賄う事を原則にする事
④投資事業を経済原則、投資効率、の視点で査定する事
投資事業の投資回収の計画と実績の管理と評価を徹底させる事

多分これだけで、財政出動に緊張感が出て、いい加減な出費、いい加減な借金が抑制されると思うのである.何よりも、経済成長に向けた意味ある投資事業が実施されると思うのである.これを実施するにあたって、実務上困難な事があれば、一定規模以上の事業に限って実施しても良いと思うのである.

ところで、昨今、地域創生の話が蔓延しているが、どれだけ、経済原則に沿った、投資計画があるだろうか.その場限りのばら撒き(経費)が多い様に感じるのである.税金の切れ目が縁の切れ目になるか、税金がなくせない麻薬になるか、非常に懸念しているのである.

最近、話題の『ふるさと納税』で言えば、ふるさと納税額で、地元産物を買って、ふるさと納税者にお礼として配ったり、『プレミアム地域商品券』では、プレミアム分を交付金で負担しているのである.はたして、将来の地域創生に繋がるのだろうか、上記懸念が頭をよぎるのである.

これらの制度はどう見ても、地元企業への『給付』(一部は消費税で回収するが)である.給付がなくなれば地元産業は元の木阿弥である.それどころか、給付と言う麻薬から立ち直れない事態になりかねないのである.

又、税の使い方として、極めて不公平だと指摘する人も多いのである.プレミアム商品券を多くの代理人を通して大量に購入し、それを転売して利ザヤを稼ぐ人もいるようである.こんなことが横行すれば、税の使い方として大問題になるのである.

中には、地元経済活性化につながる、波及効果を目指した税の使い道を考えている地域もあるが、このような例は極めて少ないと思うのである.

これらの制度を、善意に解釈すれば、交付金の使い方とその効果を測定し、良い使い方には、更に交付金を出すが、そうではない地域には、交付金を減額する、と言う、地域間競争を促す事が目的かもしれないのである.それを地方は知っているのだろうか.

悪意に解釈すれば、税金を使ったアベノミックスの人気取り、前回の消費税増税のダメージを消して、消費マインドを上げる事が目的かも知れないのである.

そんなわけで、是非、善意の解釈として、地域間競争意識を盛り上げて、交付金の使い方、成果をきっちりと精査し、これまでの、公平な交付金の配布制度から、地域創生に繋がらない交付金は即刻削除すると言う制度に変えるべきなのである.

更に例を上げれば、東京オリンピックに係わるすべての事業は経費と見るか、投資と見るか、意見が分れるところだと思う.投資回収が計算できるものは投資、出来ないものは経費で区分すればよいと思うのだが、どう区分するかの議論が起こる事は極めて大事だと思うのである.それによって、計画の性格、予算の内容が研ぎ澄まされると思うのである.

東日本復興計画の大方は、経費支出だと思う.これを投資と言う人もあると思うが、投資回収が計算できなければ、無理に投資と言わない方が予算の信頼性を落とさないと思うのである.

過去の公共事業をみると、国民の声を聴くと言う建前で、実質は党利党略で、経費と投資の区別もなく、或は、投資と銘打って、公共事業をばら撒いてきたと思う.これは高い経済成長期の中で,政策推進、選挙対策、安定政権維持の必要悪として行われていたと思う.

しかし、今日では、それが通用しないどころか、そんな考えは、命とりになりかねないのである.最近、東日本復興、巨大な自然災害の予想もあって、財政出動の感覚が緩くなっている感じを受けるだけに,懸念するのである.

いずれにせよ、『経済成長なくして財政健全化なし』には、『投資と経費の選択と集中』が不可欠であり、かつ、『成長戦略は規制緩和、投資政策』である事をもう一度確認すべきだと思うのである.

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