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2017.07.28

477 神道、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の雑感

全く宗教には門外漢な自分ではあるが,神道や他の宗教がどんな行動規範を説いているのか、テロや戦争について、宗教はどう向き合っているのか、について、浅学なりの雑感を述べてみたい.

1.日本固有の神道についての雑感.

季節ごとの自然環境のもとで、農耕や漁師で生きて来た人々は、自然の驚異や自然の恵みに接しながら、そこに,人間を超えた聖なるもの(神)が宿っていると信じた.この聖なるもの(神)は,山,岩、木、滝、海、等、自然の全てに宿るとして,崇拝の対象とした.八百万神の信仰と言われる由縁である.日本独特の信仰である.

この八百万神に、人々は、火山,地震、津波、台風、等が来ない様に祈願したり、あるいは、五穀豊穣,大漁,子孫繁栄の、無病息災、等の感謝と祈願をしたのである.この誰もが抱く「無辺の信仰」には開祖も経典もない事から,神道と言われているのである.

この神道は神と人間が接する場として神社を作り、神話による神をお祀りしたのである.そこで、自然と共に生きている事,自然への感謝や祈願、を神事を通して人々は共有したのである.その意味で、神事は経典の代わりをしていたと言えるのである.この神事を毎年,季節の節目で,繰り返し行う事で、「自然との共存」が大衆の文化として定着して行ったのである.

神社は天皇家においては、宮中三殿や天皇を氏神とする伊勢神宮があり、全国には八幡宮、天満宮、神社,大社、等が土着信仰の拠点として、鎮守の森として建立され,祭りや神事が今日まで行われているのである.

特に伊勢神宮では、690年、持統天皇が降臨神話にもとづいて天皇を神秘化し同時に、20年毎の式年遷宮を決めたのである.式年遷宮は,あたかも神がそこに存在しているが如くの儀式が行われる.多くの神社あるいは家庭の神棚においても,八百万の神を祀り,あたかも神がそこに存在しているかのように、自然への感謝と,五穀豊穣、家内安全,子孫繁栄、無病息災,等を祈願したのである.

「継続は力」と現在では言うが、神道では「自然への恐怖と崇拝」の心が継続させたのだと思う.同時に、神事を繰り返す事で、辞める事は出来なくなると言う伝統の強さも働いていたと思うのである.

この神道の文化は生活様式や言葉にも、多くの影響を与えている.相撲はスポーツ事業の側面はあると思うが、中身は神道文化そのものが現在でも生きているのである.

又、神社には必ず大きな「しめ縄」が飾られているが,これは神話にある岩屋から出た天照大御神を岩屋に戻さない為の「しめ縄」がルーツだが、その後、神様の出入り口、神聖な所の守り,神への感謝や祈願の場所、あるいは、縁起物としての「しめ飾り」が存在しているのである.

家庭や社屋の神棚や玄関に、「しめ縄」を飾るのも、この神道文化によるのである.相撲横綱が腰に巻く横綱も、聖なるものの印なのである.

この「しめ縄」を飾っているお寺もある.明治時代の廃仏毀釈から逃れた,神仏習合時代のお寺である.神仏習合では、仏様を守る位置づけで神社が存在すると考えられていた事から、お寺の本堂の前に、しめ縄があってもおかしくないのである.

この神道は日本独特の自然環境で生まれた日本固有の信仰だが、自然信仰と言う誰もが共有できる宗教臭くない信仰である為、日本では、キリスト教、イスラム教、仏教、等と対立する関係になっていないのである.日本人が宗教に関して寛容である理由かもしれない.

他国の宗教は遊牧民族、あるいは、狩猟民族の行動を規範するバイブルの様な宗教や、仏教のように,精神を支え宗教、が普及しているのだが、その中に、自然への感謝や祈願もあり、神道とは排他的関係にはないと思うのである.

そんなわけで、科学技術が発展した現在ではあるが、皇室の神事や神社や農村や漁村で行われる神事を見るにつけ,「自然との共存」、「自然への感謝、祈願」の神聖なる神事だと感じるのである.勿論、神事に名を借りた都会の商業イベントは別だが.

2.仏教についての雑感.

仏教の根本的思想は「唯諸」である.「唯諸」とは,人間には煩悩と言う不健康で主観的な無情な心があって、これらを浄化し、心のありようを変える事が人間や社会に必要だと説いているのである.

この煩悩は6種類の根本煩悩と19種の髄煩悩があると定めている.この煩悩を空にするとが悟りの境地であり、そうなる為に,座禅、修行で,無分別智(自他を分けない,一つにする)の境地になる事だと説いているのである.

一方、もし,多くの人々が煩悩を浄化させ,空と言う悟りの境地になれなくても,そこに向けて努力を続けていれば、最後は死によって浄化され、地獄に落ちることなく、極楽浄土に行ける、と説いているようにも聞こえるのである.

煩悩本能を浄化しようと言う禁欲的発想は西洋哲学にはないと思う.むしろ、煩悩と言う本能は生きる為に人間に備わっていると考えていると思う.間違いなく狩猟民族的発想である.東洋文化と西洋文化の大きく違う所である.

3.ユダヤ教、キリスト教、イスタム教についての雑感

どちらの宗教も、エルサレムを聖地とする古代のユダヤ教から派生して,キリスト教が誕生し、さらに、その後、イスラム教が誕生した.

ユダヤ教は古代の中近東で始まった唯一神ヤハウを神として、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色としているユダヤ人の民族宗教である.

キリスト教は「人々が侵した罪はイエス・キリストが負う」「懺悔で悔いあらためれば救われる」「すべての死者は聖者になれる」と説いていると理解している.キリスト教の旧約聖書はユダヤ教のタナハと同じ書物である.

イスラム教は神が最後の預言者たるムハンムドを通じて,人々に下したとされるコーランの教えを信じ,唯一神アッラーへの絶対服従を説いている.なお、モーゼやイエスも預言者として認めている

コーラン(聖書)は社会生活のすべてを律する最も重要な行動規範(戒律、法律)として、信徒同士の相互扶助関係や一体感を説いているのである.

このイスラム教には穏健なシーア派(主としてイラン、ペルシャ語圏))と厳格なスンニ派(主としてサウジアラビア、アラビア語圏)の宗派がある.叉、イスラム原理主義者、その中にイスラム過激派の存在もある.これに、イスラム教(スンニ派)のオスマントルコ(現トルコ)があり、この中に、国を持たない多くのクルド人が生活しているのである.

こう見てくると、浅学の理解で言うと,それぞれの事情に応じて、神道は自然への驚異と崇拝を、仏教は心の浄化と秩序の維持を、キリスト教は懺悔と寛容・救済を、イスラム教は民族の行動規範と団結を、説いているように見えるのである.

4.現在も続く中近東の争いの背景についての雑感

ところで、現在も争いが続く中近東は、オスマン帝国やペルシャ帝国時代の比較的安定した時を経て,石油資源を背景とした英仏の植民地化と中近東の分断,アラブ,イラン、イラク、シリア、トルコ、の国内、国家間の争い、イスラエルとアラブの聖地エルサレムの帰属問題、昨今のイスラム過激派の問題、これら中近東問題への米露の介入、が複雑に絡み合って、依然として争いは止まる事を知らないのである.

この争いの中で、イスラム教と直接関係する問題は、聖地エルサレムの帰属問題とイスラム過激派の問題である.イスラム過激派は自分たちの理想をイスラムにより理論化し,そのような社会の実現を図る為に、同時に,西洋文化や中近東への進出に報復する為に、武力の使用を容認した戦闘的な組織である.この組織にはジハート主義(聖戦主義)を掲げるアルカイダ系の組織なども含まれている.なお,95%以上がスンニ派の信徒で占められていると言う.

5.テロ・戦争と宗教の関係についての雑感.

人類が最も悲惨になるテロや戦争と言う人間の最悪の行為に対し、人間の規範を説いている宗教は、これを強く戒める事はないどころか,戦意高揚や死の恐怖を取り除く事に利用されて来た感じがするのである.

そこで、宗教の教えがテロや戦争の抑止につながる事を期待したいのだが,対立する国同士が、この教えを共有していなければ、期待できない事になる.哲学、憲法、核廃絶、等も同じことが言えるのである.

例えば仏教の「唯諸」にある様に、煩悩はテロや戦争に繋がり、人類を破滅に導く、として、煩悩の浄化が必要だとしても、双方がこの教えを共有していなければ,戦争抑止には繋がらないのである.煩悩を浄化しようとする国と煩悩むき出しの国とが対立すれば、極めて危険な状態になるからである.

以上、各宗教がどんな人間の行動規範を説いているのか、テロや戦争と言う最悪の人間の行動に対して、宗教が、どう向き合っているのか、と言う視点で雑感を述べて来た.

テロや戦争の回避については、話し合い,妥協、制裁、あるいは、大量破壊兵器による戦争抑止があるが,残念ながら,今のところ、人類の歴史からテロや戦争がなくなる保証はないのである.

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