教育

2007.10.09

117 相撲リンチ事件の本質的問題

伝統を重んじる相撲の世界が揺れている.精神修行に名を借りた,しごき、リンチ、いじめ事件である.過去から死亡者も、脱落者もたびたび出ているようである.相撲の伝統維持にまぎれて悪しき伝統も引き継がれている感じがする.世間も相撲界を特殊の世界として見過ごして来た問題でもある.

伝統を重んじる分野ほど封建的な人の育成が残存しているのではないか.日本的な文化の中に、これらの問題が内在し、スポーツに限らず、どこでも起こりうる事ではないか.学校教育の問題にも連動した現象ではないか.

このような人間関係、人の育成に係る問題が国技として最も日本的な伝統社会で起こった事は,いかにも象徴的であり、日本の精神文化に潜む問題として考えるべきだと思う.

それだけに、責任論で蓋をしてはならないし、伝統的なものをどう時代に合わせながら改革し行くか、に議論を発展させるべきである.文科省も日本の教育問題として、この問題と対峙する事が本筋だと思う.

ところで,日本の人間育成の伝統の特徴は、武道、柔道、剣道、武士道、相撲道、茶道、華道、と言った'道'を掲げる事である.技能、能力以前に、礼節、忍耐力、精神力、服従心などの精神の育成が重視される.ルーツは、出家僧侶の修行にあると思われる.掃除・洗濯・食事・就眠など全て修行とされる.この文化が、変形して世に広まった様に思う.

その精神修行の文化が強い縦社会の中で,本人の為以上に、秩序維持の為に行われたたり,その道の大義のもとで、封建時代のような精神修行が強調されたり,人権に対しても治外法権になりやすかったりする.
スポーツに限らず、丁稚奉公のような封建的精神修行は伝統を重んじる世界に多く現存していると感じる.

この封建的精神修行はこんな形で現われる.先輩が後輩をこき使う、後輩の絶対服従を強いる、気に入らない事があれば、いじめ、しごき、気合を入れる.スポーツの世界で言えば、通常の育成過程においても、玉拾い、掃除、用具の手入れ、洗濯、食事準備、後始末、などから始まる.スポーツの練習など、させてもらえない.相撲のように住み込みの集団では24時間、この精神修行が行われる.やくざやかつての軍隊を彷彿させる.

これらの掃除、洗濯、小間使い、しごき、いじめが精神修行に必要かどうかの疑問も無く育成方法の検討も無く、単に先輩の征服欲の表れであっても、手足であっても、伝統・習慣として繰り返されている感じもする.

このように、全人格を支配しながら、心・技・体を鍛える事を良しとした日本の風土が日本のメンタリティに残っていると思う.そのメンタリティが誘発する悪癖の部分をどう乗り越えて行くかが、改めて日本人に突きつけられていると思う.

宮大工の育成は自分で考える、先輩の技術を盗む、師匠・先輩は後輩に、めったにアドバイスしない・見ているだけ、補助はしても、教え込む指導はしない、日常生活はローテーションを組んだ分担だという.全人格を支配した徒弟制度ではないと言う.

宮大工は困難に向き合った時の対応力が最も大事だと言う.その為に自立心、探究心、向上心を育てる指導方を取っているのだと言う.あくまでも自主性を重んじる教育である.技術習得に時間がかかるかもしれないが、この方が一人前の、しっかりした宮大工になると言う.勿論、傷害、人権侵害、労働基準法違反、などに抵触する行為はないと言う.

又、そのように育った師匠、親方は名実ともに立派な技能者・人格者であり、スパルタ教育を強いる人達ではない.良き職人気質の伝統がそこにある.

今回の事件を契機に、相撲に代表される日本の伝統・風土・文化を守る事と現在の社会と、どう融合させていくのか、に議論を発展させる必要がある.

家制度、家父長制度に根ざした相撲部屋制度の問題、伝統芸能界も同じかもしれない.相撲部屋を家族の象徴として、あるべき姿を目指す方向に行くのか、公私分離のボクシングジムやクラブの様な方向に行くのか,子供を相撲部屋に預ける昔の風潮・文化が今風と合っているのか,相撲協会のあり方,など大相撲の存亡にかかわる根本的なテーマがある.

これらの検討は日本の風土・しきたりの改革に繋がる重要な意味を持っていると思う.

事件の責任論だけで終わって欲しくないのは、伝統と人の育成と言う大事なテーマがあるからである.国技であればこそ、この問題に方向性を出さなければならない.相撲協会が文科省配下にある理由もそこにある.

マスコミ、識者が、こんな視点の取り上げ方をしていない.伝統も含めて、教育問題の根本が問われているとの感受性が乏しい.これでは教育の指針など出るわけがない.

今回も、伝統を重んじながら、義理人情浪花節の決着で済む事になるのだろうか.だとしたら、相撲界も入門者がいなくなり、学校・社会のいじめ問題も改善しない.

かくて伝統を重んじる事が伝統を消滅させる事になる.伝統は法律・社会の価値観を超えて存在できないからである.それとも伝統を治外法権で隔離するのだろうか.

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2006.10.31

64 いじめ問題

ふざけ,意地悪,苛め,誹謗,中傷,仲間はずれ,暴力等は本能的に持っている,征服欲,顕示欲,嫉妬心,等の感情が根底にある.子供の世界だけではなく,大人の世界でも,勿論存在する.

集団生活,社会の秩序の為に,道徳や法律で規範を作っているが,主観的な判断もあり,全くなくなる行動ではない.ましてや子供の世界は限りなく猿山に近く,残酷な行動が行われる.やる方もやられる方もこれらの経験を通じて理性が培われ,大人になって行く側面もある.幼児性が抜けない猿のような大人もいるが.

大人の世界はハラスメントや人権の法律で抑制したり,発生後の処置を行う事となるが,子供の世界でも,これを適用すべきとの意見もあるが,それ以前に,次の対策が必要だと思う.

①相手を傷付ける事は悪だとする教育の徹底
②征服欲や顕示欲を充足させる機会の増加
③苦痛を受けた時の対応方法の教育指導
④子供の話相手作り
⑤苛めが分かった時の子供への教育指導内容,処置の事前準備
⑥苛めがあった時の先生の結果責任論の排除

これらを親や学校が行う事になるが,この中で,一番の問題は④である.子供にもプライドがあり,言い付ける事に,大きな抵抗感がある.表面的に隠す傾向もある.結果,一人で抱えてしまう.特にメールや雰囲気と言った‘静かないじめ’は目配りしていても気付きにくいのである.

苛められる子供は多分友達もいなく孤独な感じもする.①③の指導を徹底して,親,親戚,ご近所,友達,先生,学校外のカウンセラー,等が愛情を持って子供と接する日常が全てである気もする.勿論,メールの方が言いやすいのであれば,それも有効な手段とすべきである.

子供の世界は大人の世界の鏡だと言う.昔,軍隊の風土がやくざの風土,会社の風土,運動部の風土,等だけでなく,不良グループや子供の世界にまで表れた.学校のクラスにも番長や子分がいた.大きな被害が表沙汰にならない限り,先生は立ち入らなかった.苛めなどいくらでもあったはずである.苛められた子供はそれに耐えたり,上下の秩序を許容していた.子供の成長や,クラス替え,進学によって,その子供同士の秩序は薄くなっていったのである.

現在,昔と比べれば,目に見えるような上下関係や喧嘩・暴力の風土が少なくなった半面,本能的行動が陰湿な形で現れるようになったと考えられる.陰湿なだけにその悪さの度合いも分からない.簡単にできるだけに,手加減も分からない.メール一本で心の傷になり得るのである.される方も心の傷だけに見えずらくなる.

この陰湿な行為に関して改めて,免疫をつける為の上記予防接種を打つ必要があると思う.

一方,トラブル防止のあまり,徹底した管理体制で厳しく子供を鍛える方向に行くのか,リスクを抱えながら,予防接種と言う教育指導で子供の理性を辛抱強く育てていくのか,親は考えなくてはいけない.先生が猿山で苦悩している挙句に結果責任を追求される状況ては,進歩がないのである.

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2006.10.23

62 根本的教育テーマ

今、教育問題がクローズアップされている.学力低下,いじめ,少年犯罪,教員の質・評価,学校・地域社会・家庭,教育委員会,歴史教科書,国歌・国旗,独立法人化,少子化,教育格差,公立と私立,など教育と言うゴールのないテーマに問題は尽きない.しかも,保育園・幼稚園から小中高大,社会,生涯学習に至るまで、教育問題は国民全体にかかわる問題なのである.

そもそも,教育のやり方は国家主導の政治的,政策的意図を持って行う考え方と国家の介入を極力排除し教育の独立性,平等性重視する考え方がある.

戦後の教育は戦前教育の反省,自信喪失もあって,後者の考え方を取り入れたと理解している.その結果,規範や学力の問題が発生したのか,社会経済や家庭環境の変化,あるいは価値観の変化が起因しているのか,俄に判断できない.

はっきりしている事は主義主張が多様化したり,薄くなったり,迷ったり,社会全体が羅針盤を失って漂流している状態が教育に現れている事である.

国家にしても,個人にしても,夢や目標を失った中で教育が漂流する事は当然の帰結と考えられる.又,自由平等の影の部分が露呈しているのかも知れない.しかし,独裁国家のスパルタ教育,一糸乱れぬ行動よりは良いと思うが.

これらを踏まえて,今後の教育再生については,次のように整理し,議論すべきだと思う.

①学力向上の問題(育成と入試の問題)
②行動規範の問題(競争/和,学校/家庭の問題)
③教育行政,制度の問題(多様化社会への対応)

まず①の学力の問題であるが,小中高の学校間あるいは私学と公立の間で学力の差が出ることは防げない.むしろ健全である.学校の選択が可能であれば,なおこの格差は広がる.学力がどんなに高くても問題はない.お金をかけて学力が上がっても問題はない.問題は学力が低い学校対策である.公立であれば適材の先生を配置し,全力で学力向上に努めるべきである.決して生徒の質を理由にしてはならない.

もう一つ,なにをどの程度学ぶかの問題は子供に育成と言う側面と入学試験の側面に関係する.特に卒業に必要な履修科目と入学試験科目をどのようにバランスさせるのか.試験科目への集中は,予備校等の学校外勉学とするのか,等の検討が必要である.公立,私立の学校の入学試験科目の検討も必要となる.

尚,試験内容で学ぶ範囲,深さを誘導できる事を忘れてはならない.医師試験で言えば,臓器別学会,医局,医者の下では,試験問題も臓器中心になる.医学生もこれに集中する.結果,臓器を横断する免疫とか臨床の身体全体の学力が抜けてしまう.事実,日本の医学の弱点になっている.免疫や緊急医療を医師試験の内容に加えれば,医学生の勉強内容を誘導できるのである.

②は生徒に対する行動規範(しつけ)の問題である.欧米ではキリスト教,日本では朱子学あるいは道教,仏教,神教,中近東ではイスラム教がこの問題を支えてきた.

戦後日本の人間形成の教えは学校教育の外として来た.その結果,家庭も含めて,その指導は曖昧になった感じがする.競争,ルール,公平,和,道徳,人格,人間性などのしつけの問題を改めて議論する必要がある.

儒教や宗教,政治思想の教えをどうするか.自己主張,デベート力などの非日本的能力・文化についての教育方針をどうするのか,の論議から始める必要がある.

大げさに言えば日本的なもの,米国的なものをどう扱うかの論議が根本的に必要である.英語を例に挙げれば,言葉は究極の文化であり,英語教育は米国文化を身に付けることと等しいのである.どんな文化に向けて教育するのかの議論が必要なのである.

アメリカ文化を見ると歴史が浅い分,合理的考え方,個の自立性,がきわめて強い.反面,アメリカンドリーム,ファミリー,ボランテアー,宗教,ナショナリズムの精神文化も持ち合わせている.胸に手を当てて,アメリカ国家を歌う国民に感動すら覚えるのである.音楽的なすばらしさもあるが.このように,アメリカには競争と和,公と私の2面性が個人,社会に内在しているのである.どちらもはっきりしない日本文化では未来の子供を育てられない気もする.

③はそもそも,これからの教育機関,教育行政のあり方の議論である.私立と同じように教育内容を公立学校単位で②の論議も含めて,自由にしてはどうか,もちろん生徒の学校選択も自由となる.

教育方針は学校単位に公表,公立校は公費で学校をまかなうが先生の公務員制は廃止,教員資格も廃止,教員の採用は学校の自己責任,教員数は全学校で標準化,地域の教育委員会も廃止,いわゆる塾への回帰である.ただし学校監視は強化,人気のない公立校は必死で盛り立てなければならなくなる.生徒数の激減で人気が出る可能性もある.これらによって,地域も住民も学校を応援する構図が出てくる.

教員像は高度社会,高学歴社会のなかで,相対的に地盤低下してきた.教職と言う職業意識と職人としての実力を学校は開発していかねばならない.教職の人材開発は学校経営の基本としなければならない.

教育とは学習意欲と教育意欲と教育投資がなければ成り立たない,これを促進する事が制度の基本だと思う.義務教育だからと言って,生徒も教員も右から左では教育にならないのである.又,日本全国,均等な教育を行うなどと思わないことである.無理,無駄の平等主義が国を滅ぼす可能性があるからである.

大学問題もきわめて大きいと思う.亡国論を当ブログですでに発信しているが,教育の名のもとで200万人くらいの遊び人と10万人くらいの教職員を抱えている感じがする.

教育は高校までを基本とし,その後の教育機関は専門学校と生涯教育機関とする.大学はきわめて狭き門として,優秀者の選抜と育成を行う期間とする.このフレームが国力や少子化対策,国民の幸せを増やす事につながると思うのである.特に生涯教育機関は技術,専門性を高めるため,学習意欲のある社会人に開放された機関とすべきである.もちろんインターネット学校でも良い.個人,企業が大いに助かるはずである.

以上,乱暴ではあるが,国家として,教育再生を考えるなら,これくらいの本質的議論が必要である.現象的な問題は現場で考えればよいと思う.

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2006.09.20

58 大学の課題と対策

過去に駅弁大学乱立に際し,大学亡国論が叫ばれた事があった.ここにきて,その心配が真実味をおびてきた.若者が熱っぽくないのは大学に原因があるのかもしれない.大学亡国論が言われるのは裕福さが人間を堕落させるから,かもしれない.

学生はアルバイトに明け暮れ,挙句に,ニート予備軍になる.公立大学は独立法人化で産学連携を唱えながら補助金の確保に必死である.私立大学は一貫教育と言う青田刈りで学生の確保にやっきである.下手をすると大学4年間(学生200万人くらいか)は国家損失になっているかもしれないのである.

改めて,今,大学がやるべき事は研究と教育を分離し,人材育成へ回帰する事である.

学生はローンを組んででもアルバイトをやめ,勉学に専念すべきである.自己教育投資は決して損は無いのである.就職面接で,大学でなにを学んだかを問うた時,圧倒的にアルバイトを通して社会勉強をしたと答える.次に多いのがクラブ活動でリーダーシップやチームワークを学んだ,とかと言う.学業で学んだ事は出てこないのである.

大学はどんな人材を育てるのかマニュフェストを作り公言し,それに応じたカリキュラムを実行すべきである.これが大学の特徴につながる.当然,教科の利権状態を打破すべきである.地方の大学は天下りの受け皿から脱しなければならない.

又,大学は生涯教育やインターネット大学などの機能も持つべきである.何よりも先生の教育への情熱が不可欠であり,大学の知名度より,先生自身の知名度が大事である.

その結果,淘汰される大学や先生があっても問題がない.むしろ大学が多すぎるのである.人材を育成できない大学は大学ではないし,むしろ社会悪だと認識すべきである.卒業に値しない学業成績者に卒業証書を出してはならないのである.学生にも厳しく接するべきである.

少子時代,大学進学率が50%を超えてきたが,大学の経営の為の受け入れ競争の結果であってはならない.進学率の上昇が,ニート予備軍の増加につながるからである.大学改革が人材開発に向かって欲しいのである.その取り組みが本業であり,大学存続の決め手だと思うのである.

一方,高額の入学金,授業料を取って,裕福な子弟を預かり,キャンバスライフを楽しむだけの大学があっても良いかもしれない.その大学,学生が納得しているなら,どうぞご自由にである.

そもそも大学の増加や進学率の上昇は職人や就労人口を減らしてきた.この際,職人の増加に国全体が動くべきだと思う.特にブルーカラーは大学,専門学校の区別が不要なのかもしれない.高校卒業後の教育について,抜本的な改革が必要なのかもしれない.

私見によれば,大学の数の縮小である,10%くらいの進学率でよい.勉学は生涯学習が望ましい.職人や就業人口の拡大,少子化の防止にもなる.

学ぶ,好む,楽しむ,の仕事人生を歩んで欲しいのである.有意義な人生が国の繁栄にもつながる.明治維新で個の自立が叫ばれたが,残念ながら一般大衆にまで広まる事はなかった.今こそ実現したいものである.

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