教育

2018.10.03

499 人づくりのキーワードは『自主性』

アマチアスポーツで指導者による、’暴力を使った指導’や’権力を使った嫌がらせ’があったとの訴えが頻発している.これらの問題はアマチアスポーツに限らず、あらゆる組織,集団でも、起こり得るのである.

こんな事が依然として発生するのは,その根底に、村社会、長老社会、滅私奉公,上意下達,徒弟制度,男尊女卑,と言った古来からの精神文化が現在にも残っていて問題視されて来なかったからだと思う.セクイハラも同じである.

しかし、’人権の尊重’と言う価値観が広まって来た頃から、これらが問題視され始め、’伝統的精神文化と人権意識との葛藤'が始まったと思うのである.この葛藤は、どの時代から始まったのだろうか、日本文化の変遷をたどってみたい.

①農耕民族の村社会時代(弥生時代)
②中国・朝鮮からの仏教はじめ文明・文化の流入時代(明日香、奈良時代)
③貴族・武家による日本文化形成時代(平安,鎌倉,室町時代)
④鎖国と庶民文化の発展時代(江戸時代)
⑤和魂洋才の文明開化、富国強兵時代(明治時代)
⑥戦時下の軍国主義時代(昭和時代前期)
⑦戦後の経済復興と高度成長時代(昭和中期)
⑧資産バブル崩壊後の価値観・企業経営の見直し時代(昭和後期,平成時代)

この変遷の中で、上記のような伝統的精神文化は①から⑦の長い間、根底にあったと思う.そして、この精神文化が問題視され始めたのは、⑧の昭和後期頃からではないかと思うのである.

⑧のバブル崩壊後の時代は、現在も続く変化だが、日本的な価値観、構造が抜本的に見直され、同時にデジタル革命、情報化革命、グローバル化が進展した時代である.男女平等や人権意識も,この頃から言われ始めたのである.

そして、バブル崩壊から28年程経過している現在においても、伝統的精神文化と人権意識との葛藤がまだ続いていたり、善悪の線引きが難しかったりで、冒頭の様な事が依然として発生し、新しい精神文化の定着までには至っていないと思うのである.

そんな中で、人づくりの方法に示唆を得られる例を紹介したい.

1.職人、専門家、スポーツ選手の育て方

①宮大工の育成例

徒弟制度,丁稚奉公で厳しいと言われる’職人の育成の仕方’として、一つの考え方をもって育成している、宮大工の例を紹介しておきたい.

宮大の西岡棟梁の愛弟子の小川棟梁の宮大工を目指す弟子たちの指導方法である.(以前、NHKで鵤工舎のドキュメンタリー番組で紹介された)

小川棟梁は弟子が工具の手入れや,木を削ることがうまく出来ず悩み、試行錯誤をしていても、その壁を自力で乗り越えるまで、何も言わず、じっと見ているのである.

不完全ではあるが、何とか乗り越えたところで、『こうするともっとうまく出来る』とそれとなく、自分でやってみせるのである.弟子は目を皿のようにして食いつくのである.

小川棟梁の考えは、苦しむ前に教えても身につかない苦しんだ者にこそ先人の知恵の偉大さを感じそれが身に付き、引き継がれるのだと言う.ちなみに、師匠の西岡棟梁は何も教えず自分で学べと言う育て方であったと言う.

こんなやり方は時間がかかって,不効率であり,、最初から教えればよいとの批判があるが小川棟梁は知識先行の職人は必ず仕事で挫折し,途中で投げ出すと言うのである.

マニアルもデータも,当時の技術や工具もわからない古寺の再建と言う仕事に立ち向かう時、やり遂げると言う熱意と,あきらめない粘り強さが不可欠だと言う.

人を育てることは知識を教えることではなく、壁に打ち勝つ探求心や根性を鍛える事だと言うのである.これなくして技量、知識、ノーハウは絶対身につかないと言う.知識力より感受性,精神力が大事だと言うのである.

又、寮で暮らす弟子たちの人間関係は基本は平等とし、寮内の役割は順番性にした.実力の世界だから、丁稚奉公や徒弟制度の文化は排除し、仕事は実力に応じて作業を任せながら、指導しつつ、徐々に難しい作業に挑戦させるのだと言う.

「宮大工と歩く奈良の小寺」(文春新書950円)の中にも、随所に、この心意気が語られているが、次の二つの事を言っている.

・知識のある人は、あまりの難しさを感じて、仕事を引き受けない.自分が難しい古寺の再建に挑戦できたのは知識があまりなかったからである

・再建は自由に建物を作る事と違って、いろんな制約があって難しいのだが,目の前に古寺が現存している限り再建できると考えた.知識力より探求心、使命感があったからである

以上が宮大工の育成方法の例だが、今風に言えば、棟梁は人の育成において、テーチング(教える事)とコーチング(生徒を支援する事)を実に見事にやっているのである.

人権の尊重などと言う難しい事を持ち出すまでもなく,’いかに優秀な職人を育てるか’の一点で、職人を育てているのである.

宮大工の例を述べたが、志を持った特定分野の人の育て方として、この例は多くの示唆を与えていると思うのである

②高校のスポーツ選手の育成例

熊本県立大津高校サッカー部は常に全国上位の成績を残し、多くのプロ選手を輩出している事で有名な学校である.どのような指導をしているのだろうか.ネット情報をまとめてみた.

サッカー部の監督は1965年生まれの平岡和徳先生である.先生は高校時代、名門帝京高校のサッカーフ部の主将として、2度の全国制覇、筑波大学時代は主将として総理大臣杯準優勝や関東大学リーグ優勝などの戦績を残して来た.

この平岡先生は大学卒業後、熊本商業高校で5年間指導後、大津高校へ赴任.同校をインターハイ18回、選手権16回出場.高校サッカーを代表する強豪校に育て上げた.又、Jリーガーを50名程輩出.日本オリンピック委員会強化スタッフとしても活躍.

この平岡先生の指導法は次の四つだと言う.

・『凡事徹底』
・『勉学に励む』
・『練習は一日100分』
・『一流選手を見せる』

『凡事徹底』とは、平岡先生の育成哲学である.日常の掃除、洗濯、整理整頓、挨拶、など当たり前のことを人並み以上にやり抜く事を徹底する指導である.試合メンバーの決定も、この評価で決めると言うのである.凡事が出来ない生徒は成果を発揮できないと言うのである.この指導が人間を生長させるとして内外からの評価は高いのである.

『勉学に励む』とは、勉学を通じて、見る,聞く,理解する,表現する,力を磨き、コミュニケーション力をアップさせる事である.サッカーの練習を理由に勉学をおろそかにすることは許さないのである.

『練習は100分』とは集中力をもって練習させる為である.当然、長時間居残り練習は禁止である.練習時間が曖昧だと,だらだらとした練習になり、目的意識も、自立心も、育たないとの考えである.勿論、凡事徹底や勉学の時間を作る事でもある.

『一流選手を見せる』とは自分と何が違うかを自覚させる事である.大津高校では大津高校出身者のJリーガーを呼んで、一緒に練習してもらうのだと言う.一流選手を身近に感じる事は生徒のモチベーションを大きく高めると言うのである.

平岡先生は『職業は教師、仕事は人づくり』と自認され、これらの『文武両道』の指導は他の部活にも好影響を生み、高成績や国立大学への進学率も向上したと言う.又、指導のノーハウはオープンにし、他高にも好影響を与えていると言うのである.

高校スポーツで秋田県の高校チームに触れておきたい.

今年の甲子園を沸かした金足農業高校も秋田だが、秋田県にはラグビーの県立秋田工業高校、バスケットの能代工業高校がある.ラクビーの秋田工業は花園で15回全国制覇、能代工業は22回全国制覇をしている全国有数の強豪校である.

近年,関東,関西に加えて,九州の成長が著しく,優勝から遠ざかっているようだが、秋田の高校スポーツへの取り組みは全国の強豪校とは全く違うのである.

古くから
秋田藩は北前船によって、上方の文化が入っていた.そして、明治時代に入ると鉱山で栄えた.それらの影響を受けて、秋田県は教育を重視するようになった.今でも、秋田県は『人づくり』や『スポーツ振興』に積極的に取り組んでいるのである.

学力では『人づくり計画』、スポーツでは『スポーツ立県』を宣言し、県市町村ぐるみで、その計画を実行しているのである.

学力では全国トップクラスの成績を出し、スポーツでは、スポーツ設備の充実、老若男女のスポーツへの参加と健康増進、スポーツイベントの招致、指導者・選手の育成等を積極的に展開し,地域活性化の柱にしているのである.

秋田の高校のスポーツ部員は,子供のころから練習してきた地元の選手である.当然、秋田工業ラグビー部員も能代工業バスケット部員も、金足農業野球部員も、全員が地元の出身者である.そして、地域ぐるみで、これらの選手を応援しているのである.

有望な選手を全国から集めている強豪校とは全く違って、秋田の高校スポーツは、地域の健康増進、地域振興の牽引役として位置づけられているのである.

この様な地域ぐるみの『人づくり』『スポーツ立県』の伝統が、無意識の内に『自立性』を導いていると思うのである.

③広島カープ緒方監督の育成例

今年、セリーグ3連覇を達成した広島カープの緒方監督に対し、先輩にあたる野球評論家、権藤博さんがその采配ブリを高く評価し、それが日経新聞のコラムで紹介された.それによると、主な評価内容は次の通りである.

①4番鈴木の育て方について、有望だからと言って、調子が悪くとも、我慢して使うと言うやり方はしなかった.誰が見ても,4番と言われるようになるまで待った.他のチームのように、調子に応じて、とっかえひっかえするような使い方はしなかった.

②危なっかしい時もあった中崎に関して、チーム事情で仕方なく使っているのではなく、決めた以上、ふらつこうが任せた.これで、守護神と言われるようになった.先発陣では岡田、九里らがやられた時、必ず、やり返すチャンスを用意した.采配で一貫した事は選手の自己責任、自己管理を求めた事である.失敗したら自分で這い上がれと言う厳しい姿勢を貫いた.

③広島カープの練習の厳しさは有名だが、選手は自発的にやっている.西川や野間は自分で磨き上げた.これらを含めて、緒方監督が一貫している事は強くなるのは選手自身だとしている事である.

④以上の事からも分るが、緒方監督は選手任せで、何もしていない様に見える.しかし、これこそが『手腕なき手腕』であり、『監督の王道』だと、権藤氏は緒方監督を高く評価したのである.

以上、宮大工、高校スポーツ選手、プロ野球選手の育成方法を紹介したが、共通している事は弟子や選手の『自主性』を引き出している事である.

振り返ってみれば、この『自主性』は秩序を重んじる島国・農耕民族の伝統的精神文化では押さえつけられて来たのである.現在も,無意識に自主性を奪っている感じもするのである

今後は上記の例にある様に自主性を引き出す’人づくり’が必要だと思う.家庭を含めた、あらゆる人づくり現場で取り組むべきだテーマだと思う.その結果、自主的に行動する人が多くなれば,当然、『人権意識』も定着して行くと思うのである.

2.集団教育(学校教育)における育て方

時代の変化、技術の発展、情報化社会の中で、学校と言う集団教育(マス教育)の場で,’人づくりの為に、何を、どう教育するのか’と言う大問題がある.上記1.の目的を持ったグループ内の人づくりとは大きく違う問題がある.

’何を’は先ず、教える内容の選択が大問題になる.選択によっては教える側の対応の問題も発生する.

’どう教えるか’は教える側の俗人性に依存する事が多い中で、効果的な手法を共有しているかという問題がある.又、教え方による評価の問題もある.更に言えば、教育の実験とか、一機に変える事も、難しいと言う問題もある.

一方、この教育の問題の難しさからか、この問題を旧態依然のまま放置している感じも受けるのである.そうであれば、そのこと自体が真の問題だと思う.

そこで’どう教えるか’について、こんな方法を考えてみた.

従来の学校教育は知識を生徒・学生に教える事である.生徒・学生は受け身で,知識を覚えさせられるのである.入学、資格取得、入社の試験はその知識をテストされるのである.

一方、現在は、知識がなくとも、ネット等で早く、簡単に、調べられ、知識のない事はあまり困らまいのである.知識がある事より、本人の自主性、探求心、思考力、判断力、行動力、が大事になっているのである.

従って、今後の’人つくり’の基本は’自主性’を鍛える事だと思う.その為に、従来の一方通行で受動的な知識教育から、生徒・学生自身が自主的に、能動的に、調べる教育に切り替える必要があると思うのである.

そこで、こんな方法はどうだろうか.

先生は、月単位くらいで教科別の質問を生徒・学生にする.生徒・学生は電子教科書や電子副読本、或はネットで調査しながら、この答えを作成する.この答えに先生はコメントしたり,生徒・学生間で発表し合ったり、先生は全員を集めて講習をしたり、これらの内容は蓄積され個人指導にも活用されたりする.勿論,この学習は全て,学校に設置された一人1台のパソコンで行う.

この方法の基本は’良い質問が人を育てる’と言う考え方にある.したがって、自主性や探求心、思考力を駆り立てる、面白い質問が必要になる.教育においては’良い質問’こそがノーハウであり、このデータベースが教育の俗人性、不均質性、を排除できるのである.

こんなやり方で、生徒・学生の自主性、探求心、思考力、行動力を育成するのである.生徒・学生の姿勢を受動から能動に切り変えるのである.

勿論,入学,資格取得,入社等の試験は記憶の試験ではなく、望む人物像に従って、試験方法を考える事になる.特に外国人の受験が多くなると予想され、試験方法の改革が必要になる.

以上、『人づくり』の基本は『自主性の育成』にあると、今更のように述べたのは自主性が大事だと分かりつつ、家庭でも、教育現場でも、自主性の育て方をしていないと感じたからである.又、現代においても、自主性を抑えて来た古来の文化が無意識の内に残っていると感じたからである.

更に言えば、究極の文化である日本語も自主性に影響を与えているかも知れない.この事を次で考察してみた.

3.日本語と自主性の関係

こんな例がある.海外で英語をマスターした娘が英語で話す時、日本語より、断然、自己主張がはっきりして、頼もしく感じたと言うのである.

多分その原因は、日常の日本語での会話では、無意識に、主語がはっきりしなかったり、結論がはっきりしなかったり、行間でものを言ったり、する事が多いのに対し、英語ではハッキリしていないと英語表現が出来づらく、従って、内容がハッキリしていないと、英語で伝えられない事になる.この事から、英語の方に自己主張や自主性あるいは頼もしさが感じられたのだと思う.

こんな経験もある.日本語を翻訳して貰って,英語で伝える時、日常と違って、言いたい事を起承転結にしたり、言いたい事を箇条書きにしたり、結論をハッキリする事である.

特に日本語表現で曖昧になる原因の一つに、『主語・述語、動詞』の動詞の問題がある.いろんな事を言った後に、結局、どう考えているのか、と表現するのが、この動詞だが、これが極めて曖昧になるのである.

『~想定されます、~思います、~考えます、~前向きに考えます、~考えたいと思います、取り組みたいと思います、~検討したいと思います、~やる方向で考えます、~難しいと思います、不可能だと思います、・・・・』

のように、YES/NOがはっきりしない事である.判断が決まっていないのか、決まっていても、曖昧にしているのか、YES/NOを断定する自信がないのか、原因はいろいろあると思うが、結果として、日本人同士なら理解し合う場合があるとしても、英語に翻訳しづらいし、翻訳の仕方で、真意が伝わらなかったり、YES/NOが反対に伝わる事もある.

『主語・述語・動詞』の動詞の表現も含めて、推敲された日本語の内容は翻訳後の英語を日本語に逆翻訳しても、ほぼ日本語の内容と同じになるのである.これくらい日頃の日本語の表現は曖昧になっているのである.

日本人同士の場合、そこまでやる必要がない、曖昧でも通じ合う、むしろ、そこまでやると、ハッキリし過ぎて、ギスギスする、と言う事になる.まさに、日本文化が持つ’曖昧の合理性’である.’ハッキリするより、曖昧の方がうまく行く’’曖昧の方が秩序(和)が保てる’という文化である.

かし,それに浸りすぎると、思考力、立論力、自主性から無意識に遠のき、それらを、自然に身つける習性が失われて行くのである..

英語圏の人達は、物事をハッキリする習性を自然と身についている感じがする.英語表現がそうさせているのかもしれない.そのせいか、英語圏の人は自己主張と自主性が強いと感じるのである.


そう考えると英語を身につける事は、言語能力のみならず、自己主張力や自主性を高める事に有効だと言う事になる.

ところで、『言葉は究極の文化』と言われるが、これによれば、日本語は島国・農耕民族・村社会の究極の文化と言う事になり、相手に気を遣う、はっきり言わない、曖昧だが分かり合える、等の表現にふさわしい言葉と言う事になる.

一方、英語は大陸・狩猟民族・多民族社会の究極の文化と言う事になり、英語は短く,はっきり言う表現にふさわしい言葉と言う事になる.

そこで、自主性を高める為に、英語表現を学ぶことが有効だが、まず、慣れっこになっている曖昧な日本語表現を極力やめる事も大事だと思う.それによって,思考力、立論力、自主性が自然と身につくと思うのである.

最後に、日本文化と日本語表現の課題について、下記の当ブログで発信していた.紹介しておきたい.

NO29 1頁と100頁の契約書に見る日米比較(2006・01・31) 

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.06.10

472 教育無償化の論戯 

今、育児から大学まで、教育無償化の議論が始まっている.教育費無償化で、家庭の経済力に依存しない「教育の機会均等化」と教育による「貧困連鎖の断ち切り」を実現しようと言う議論である.

このテーマについて、「合成の誤謬」にならない為に思考シミュレーションをやってみたい.

まず、平成28年度の日本の大学数は779校(国立86,立89,私立604)、学生数は256万人(国立44万,公立13万,私立199万)である.

大学への進学率は おおよそ

26大学の学費はおおよそ

Photo

大学の授業料を全大学すべて無償にした時の財源(おおよそ)

・現在の学生数で授業料を無償化すると、

国立・公立で57万人×54万円=年間約3078億円、私立で199万人×100万(例えば)=年間約2兆円、ざっと全部で、年間2兆3千億円の
財源が必要になる.

・進学率の上昇(学生数の増加)を見越して、授業料を無償化すると、

現在の約50%(学生数250万人)が70%(学生数350万人)くらいに上がるとすると、3兆2千億円くらいの財源が必要になる.

許容できる学生数を現在と変えなかった時(大学は増やさない)の影響

・明らかに受験者数が増加し、学校ごとの競争率が高くなる.
・競争率の上昇で、受験戦争がもっと激しくなり、浪人が増加する.
・有名大学に優秀な学生がもっと集まる可能性がある.
・少子化に悩む大学の救済になる(定員割れの防止)

許容できる学生数を増やした時(大学を増やす)の影響

・明らかに受験者数が増加し,競争率の分布は低から高に幅が広がる.
・全国的には学校の教育レベルも低から高に幅が広がる.
・教育レベルの低い大学の学生が増加する可能性もある.
・有名大学の競争率が上昇し受験戦争がもっと激しきなり浪人も増加する.
・大学生が増加し、国全体の労働力が低下する.
・大学無償化財源が拡大し、固定財源確保が困難になる.
・大学を出ても、就職できたり、貧困から脱出できるとは限らなくなる.
・中卒,高卒,高専卒,大学卒,大学院卒,に応じた職種選定が大きく崩れる.

ざっと想像しただけでも、大学授業料無償化はこんな影響が出ると思われるのである.

大学の教育無償化の目的と評価

➀教育の機会均等化が可能か,

無償化の目的は,入試の機会均等化ではなく、家庭の経済力に係わらず、教育を受ける機会の均等化である.それによる若者の可能性の拡大である.その為に,入学希望者を出来るだけ多く,どこかの大学に入学させる事となる.従って,学校数の増加が必要になる.

但し、あくまでも、若者が熱心に学ぶと言う事が前提である.遊びほうけたり、アルバイトに熱心であっては、莫大な貴重な国家財源が無駄になるのである.そこで、財政の無駄を排除する為にも、成績が悪ければ退学させるくらいの制度が必要になると思う.

所謂、「入学は難しく,卒業は簡単」と言う日本の大学は「入学は簡単,卒業は難しく」に大転換する必要がある.

②貧困連鎖の断ち切りが可能か,

大卒者が多くなれば「貧困の連鎖を断ち切る事」が出来るか、と言う問題であるが,単純には断定できないと思う.日本で考えると、無償化で、現在の進学率50%が、さらに超える大学進学率になると思うが、それでも、貧困の連鎖が絶ち切れるのか、と言う問題になる.

この命題は貧困率が高く,進学率も極めて低い状態なら実現すると思うが,日本のように,更に進学率が高くなって,大卒者が多くなるからと言って,失業率が減ったり、賃金が高くなるとは限らないと思うのである.むしろ、学生の専門能力や経済状況次第だと思う.

③「優秀な人材開発」を目的とするならどうか,

家庭が貧困でも、成績次第で希望する学校に入学できる事になる.但し,入学後、成績が悪ければ、無償が打ち切られる事になる.現在、スポーツなどで、このような制度があると思うが、これを学問に広げるようとする制度である.これなら、実現性は高いと思うのである.

全体の教育改革と教育費無償化への私見

大学の教育無償化の「目的は何か」もう一度、しっかり見定める必要があると思う.そこで、「貧困連鎖の断ち切り」を掲げるのではなく、「若者の教育の機会均等、若者の可能性の拡大」を目的にする方が良いと思う.

勿論、そこの目的を実現する為には,教育費の無償化だけでは済まないと思う.

この目的を効果あるものにする為に、又、巨額の公金を使う事からも、現状の課題を踏まえて、何を教育するのか、どんな学校が、どれくらい必要になるのか、教師の育成をどうするか、と言った裏付けが必要になる.勿論、現在の教育制度や教育行政を根本的に見直す必要もある.と思うのである.

私見で言えば教育の全体の体系を「教養教育と専門教育」とし、教養教育は義務教育(保育,小,中,高)、専門教育は分野別の学校(現大学や専門学校)で行う事とする.それに伴って,教育カリクラムが作られる事になる.

教育費については、義務教育は無償、専門教育は授業料は半分個人負担と奨学金で対応する.このコンセプで「教育の機会均等、個人の可能性の拡大」と「生きがいを持った、自立した社会人の輩出」を実現していきたいものである.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.10.09

117 相撲リンチ事件の本質的問題

伝統を重んじる相撲の世界が揺れている.精神修行に名を借りた,しごき、リンチ、いじめ事件である.過去から死亡者も、脱落者もたびたび出ているようである.相撲の伝統維持にまぎれて悪しき伝統も引き継がれている感じがする.世間も相撲界を特殊の世界として見過ごして来た問題でもある.

伝統を重んじる分野ほど封建的な人の育成が残存しているのではないか.日本的な文化の中に、これらの問題が内在し、スポーツに限らず、どこでも起こりうる事ではないか.学校教育の問題にも連動した現象ではないか.

このような人間関係、人の育成に係る問題が国技として最も日本的な伝統社会で起こった事は,いかにも象徴的であり、日本の精神文化に潜む問題として考えるべきだと思う.

それだけに、責任論で蓋をしてはならないし、伝統的なものをどう時代に合わせながら改革し行くか、に議論を発展させるべきである.文科省も日本の教育問題として、この問題と対峙する事が本筋だと思う.

ところで,日本の人間育成の伝統の特徴は、武道、柔道、剣道、武士道、相撲道、茶道、華道、と言った'道'を掲げる事である.技能、能力以前に、礼節、忍耐力、精神力、服従心などの精神の育成が重視される.ルーツは、出家僧侶の修行にあると思われる.掃除・洗濯・食事・就眠など全て修行とされる.この文化が、変形して世に広まった様に思う.

その精神修行の文化が強い縦社会の中で,本人の為以上に、秩序維持の為に行われたたり,その道の大義のもとで、封建時代のような精神修行が強調されたり,人権に対しても治外法権になりやすかったりする.
スポーツに限らず、丁稚奉公のような封建的精神修行は伝統を重んじる世界に多く現存していると感じる.

この封建的精神修行はこんな形で現われる.先輩が後輩をこき使う、後輩の絶対服従を強いる、気に入らない事があれば、いじめ、しごき、気合を入れる.スポーツの世界で言えば、通常の育成過程においても、玉拾い、掃除、用具の手入れ、洗濯、食事準備、後始末、などから始まる.スポーツの練習など、させてもらえない.相撲のように住み込みの集団では24時間、この精神修行が行われる.やくざやかつての軍隊を彷彿させる.

これらの掃除、洗濯、小間使い、しごき、いじめが精神修行に必要かどうかの疑問も無く育成方法の検討も無く、単に先輩の征服欲の表れであっても、手足であっても、伝統・習慣として繰り返されている感じもする.

このように、全人格を支配しながら、心・技・体を鍛える事を良しとした日本の風土が日本のメンタリティに残っていると思う.そのメンタリティが誘発する悪癖の部分をどう乗り越えて行くかが、改めて日本人に突きつけられていると思う.

宮大工の育成は自分で考える、先輩の技術を盗む、師匠・先輩は後輩に、めったにアドバイスしない・見ているだけ、補助はしても、教え込む指導はしない、日常生活はローテーションを組んだ分担だという.全人格を支配した徒弟制度ではないと言う.

宮大工は困難に向き合った時の対応力が最も大事だと言う.その為に自立心、探究心、向上心を育てる指導方を取っているのだと言う.あくまでも自主性を重んじる教育である.技術習得に時間がかかるかもしれないが、この方が一人前の、しっかりした宮大工になると言う.勿論、傷害、人権侵害、労働基準法違反、などに抵触する行為はないと言う.

又、そのように育った師匠、親方は名実ともに立派な技能者・人格者であり、スパルタ教育を強いる人達ではない.良き職人気質の伝統がそこにある.

今回の事件を契機に、相撲に代表される日本の伝統・風土・文化を守る事と現在の社会と、どう融合させていくのか、に議論を発展させる必要がある.

家制度、家父長制度に根ざした相撲部屋制度の問題、伝統芸能界も同じかもしれない.相撲部屋を家族の象徴として、あるべき姿を目指す方向に行くのか、公私分離のボクシングジムやクラブの様な方向に行くのか,子供を相撲部屋に預ける昔の風潮・文化が今風と合っているのか,相撲協会のあり方,など大相撲の存亡にかかわる根本的なテーマがある.

これらの検討は日本の風土・しきたりの改革に繋がる重要な意味を持っていると思う.

事件の責任論だけで終わって欲しくないのは、伝統と人の育成と言う大事なテーマがあるからである.国技であればこそ、この問題に方向性を出さなければならない.相撲協会が文科省配下にある理由もそこにある.

マスコミ、識者が、こんな視点の取り上げ方をしていない.伝統も含めて、教育問題の根本が問われているとの感受性が乏しい.これでは教育の指針など出るわけがない.

今回も、伝統を重んじながら、義理人情浪花節の決着で済む事になるのだろうか.だとしたら、相撲界も入門者がいなくなり、学校・社会のいじめ問題も改善しない.

かくて伝統を重んじる事が伝統を消滅させる事になる.伝統は法律・社会の価値観を超えて存在できないからである.それとも伝統を治外法権で隔離するのだろうか.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.10.31

64 いじめ問題

ふざけ,意地悪,苛め,誹謗,中傷,仲間はずれ,暴力等は本能的に持っている,征服欲,顕示欲,嫉妬心,等の感情が根底にある.子供の世界だけではなく,大人の世界でも,勿論存在する.

集団生活,社会の秩序の為に,道徳や法律で規範を作っているが,主観的な判断もあり,全くなくなる行動ではない.ましてや子供の世界は限りなく猿山に近く,残酷な行動が行われる.やる方もやられる方もこれらの経験を通じて理性が培われ,大人になって行く側面もある.幼児性が抜けない猿のような大人もいるが.

大人の世界はハラスメントや人権の法律で抑制したり,発生後の処置を行う事となるが,子供の世界でも,これを適用すべきとの意見もあるが,それ以前に,次の対策が必要だと思う.

①相手を傷付ける事は悪だとする教育の徹底
②征服欲や顕示欲を充足させる機会の増加
③苦痛を受けた時の対応方法の教育指導
④子供の話相手作り
⑤苛めが分かった時の子供への教育指導内容,処置の事前準備
⑥苛めがあった時の先生の結果責任論の排除

これらを親や学校が行う事になるが,この中で,一番の問題は④である.子供にもプライドがあり,言い付ける事に,大きな抵抗感がある.表面的に隠す傾向もある.結果,一人で抱えてしまう.特にメールや雰囲気と言った‘静かないじめ’は目配りしていても気付きにくいのである.

苛められる子供は多分友達もいなく孤独な感じもする.①③の指導を徹底して,親,親戚,ご近所,友達,先生,学校外のカウンセラー,等が愛情を持って子供と接する日常が全てである気もする.勿論,メールの方が言いやすいのであれば,それも有効な手段とすべきである.

子供の世界は大人の世界の鏡だと言う.昔,軍隊の風土がやくざの風土,会社の風土,運動部の風土,等だけでなく,不良グループや子供の世界にまで表れた.学校のクラスにも番長や子分がいた.大きな被害が表沙汰にならない限り,先生は立ち入らなかった.苛めなどいくらでもあったはずである.苛められた子供はそれに耐えたり,上下の秩序を許容していた.子供の成長や,クラス替え,進学によって,その子供同士の秩序は薄くなっていったのである.

現在,昔と比べれば,目に見えるような上下関係や喧嘩・暴力の風土が少なくなった半面,本能的行動が陰湿な形で現れるようになったと考えられる.陰湿なだけにその悪さの度合いも分からない.簡単にできるだけに,手加減も分からない.メール一本で心の傷になり得るのである.される方も心の傷だけに見えずらくなる.

この陰湿な行為に関して改めて,免疫をつける為の上記予防接種を打つ必要があると思う.

一方,トラブル防止のあまり,徹底した管理体制で厳しく子供を鍛える方向に行くのか,リスクを抱えながら,予防接種と言う教育指導で子供の理性を辛抱強く育てていくのか,親は考えなくてはいけない.先生が猿山で苦悩している挙句に結果責任を追求される状況ては,進歩がないのである.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.10.23

62 根本的教育テーマ

今、教育問題がクローズアップされている.学力低下,いじめ,少年犯罪,教員の質・評価,学校・地域社会・家庭,教育委員会,歴史教科書,国歌・国旗,独立法人化,少子化,教育格差,公立と私立,など教育と言うゴールのないテーマに問題は尽きない.しかも,保育園・幼稚園から小中高大,社会,生涯学習に至るまで、教育問題は国民全体にかかわる問題なのである.

そもそも,教育のやり方は国家主導の政治的,政策的意図を持って行う考え方と国家の介入を極力排除し教育の独立性,平等性重視する考え方がある.

戦後の教育は戦前教育の反省,自信喪失もあって,後者の考え方を取り入れたと理解している.その結果,規範や学力の問題が発生したのか,社会経済や家庭環境の変化,あるいは価値観の変化が起因しているのか,俄に判断できない.

はっきりしている事は主義主張が多様化したり,薄くなったり,迷ったり,社会全体が羅針盤を失って漂流している状態が教育に現れている事である.

国家にしても,個人にしても,夢や目標を失った中で教育が漂流する事は当然の帰結と考えられる.又,自由平等の影の部分が露呈しているのかも知れない.しかし,独裁国家のスパルタ教育,一糸乱れぬ行動よりは良いと思うが.

これらを踏まえて,今後の教育再生については,次のように整理し,議論すべきだと思う.

①学力向上の問題(育成と入試の問題)
②行動規範の問題(競争/和,学校/家庭の問題)
③教育行政,制度の問題(多様化社会への対応)

まず①の学力の問題であるが,小中高の学校間あるいは私学と公立の間で学力の差が出ることは防げない.むしろ健全である.学校の選択が可能であれば,なおこの格差は広がる.学力がどんなに高くても問題はない.お金をかけて学力が上がっても問題はない.問題は学力が低い学校対策である.公立であれば適材の先生を配置し,全力で学力向上に努めるべきである.決して生徒の質を理由にしてはならない.

もう一つ,なにをどの程度学ぶかの問題は子供に育成と言う側面と入学試験の側面に関係する.特に卒業に必要な履修科目と入学試験科目をどのようにバランスさせるのか.試験科目への集中は,予備校等の学校外勉学とするのか,等の検討が必要である.公立,私立の学校の入学試験科目の検討も必要となる.

尚,試験内容で学ぶ範囲,深さを誘導できる事を忘れてはならない.医師試験で言えば,臓器別学会,医局,医者の下では,試験問題も臓器中心になる.医学生もこれに集中する.結果,臓器を横断する免疫とか臨床の身体全体の学力が抜けてしまう.事実,日本の医学の弱点になっている.免疫や緊急医療を医師試験の内容に加えれば,医学生の勉強内容を誘導できるのである.

②は生徒に対する行動規範(しつけ)の問題である.欧米ではキリスト教,日本では朱子学あるいは道教,仏教,神教,中近東ではイスラム教がこの問題を支えてきた.

戦後日本の人間形成の教えは学校教育の外として来た.その結果,家庭も含めて,その指導は曖昧になった感じがする.競争,ルール,公平,和,道徳,人格,人間性などのしつけの問題を改めて議論する必要がある.

儒教や宗教,政治思想の教えをどうするか.自己主張,デベート力などの非日本的能力・文化についての教育方針をどうするのか,の論議から始める必要がある.

大げさに言えば日本的なもの,米国的なものをどう扱うかの論議が根本的に必要である.英語を例に挙げれば,言葉は究極の文化であり,英語教育は米国文化を身に付けることと等しいのである.どんな文化に向けて教育するのかの議論が必要なのである.

アメリカ文化を見ると歴史が浅い分,合理的考え方,個の自立性,がきわめて強い.反面,アメリカンドリーム,ファミリー,ボランテアー,宗教,ナショナリズムの精神文化も持ち合わせている.胸に手を当てて,アメリカ国家を歌う国民に感動すら覚えるのである.音楽的なすばらしさもあるが.このように,アメリカには競争と和,公と私の2面性が個人,社会に内在しているのである.どちらもはっきりしない日本文化では未来の子供を育てられない気もする.

③はそもそも,これからの教育機関,教育行政のあり方の議論である.私立と同じように教育内容を公立学校単位で②の論議も含めて,自由にしてはどうか,もちろん生徒の学校選択も自由となる.

教育方針は学校単位に公表,公立校は公費で学校をまかなうが先生の公務員制は廃止,教員資格も廃止,教員の採用は学校の自己責任,教員数は全学校で標準化,地域の教育委員会も廃止,いわゆる塾への回帰である.ただし学校監視は強化,人気のない公立校は必死で盛り立てなければならなくなる.生徒数の激減で人気が出る可能性もある.これらによって,地域も住民も学校を応援する構図が出てくる.

教員像は高度社会,高学歴社会のなかで,相対的に地盤低下してきた.教職と言う職業意識と職人としての実力を学校は開発していかねばならない.教職の人材開発は学校経営の基本としなければならない.

教育とは学習意欲と教育意欲と教育投資がなければ成り立たない,これを促進する事が制度の基本だと思う.義務教育だからと言って,生徒も教員も右から左では教育にならないのである.又,日本全国,均等な教育を行うなどと思わないことである.無理,無駄の平等主義が国を滅ぼす可能性があるからである.

大学問題もきわめて大きいと思う.亡国論を当ブログですでに発信しているが,教育の名のもとで200万人くらいの遊び人と10万人くらいの教職員を抱えている感じがする.

教育は高校までを基本とし,その後の教育機関は専門学校と生涯教育機関とする.大学はきわめて狭き門として,優秀者の選抜と育成を行う期間とする.このフレームが国力や少子化対策,国民の幸せを増やす事につながると思うのである.特に生涯教育機関は技術,専門性を高めるため,学習意欲のある社会人に開放された機関とすべきである.もちろんインターネット学校でも良い.個人,企業が大いに助かるはずである.

以上,乱暴ではあるが,国家として,教育再生を考えるなら,これくらいの本質的議論が必要である.現象的な問題は現場で考えればよいと思う.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.09.20

58 大学の課題と対策

過去に駅弁大学乱立に際し,大学亡国論が叫ばれた事があった.ここにきて,その心配が真実味をおびてきた.若者が熱っぽくないのは大学に原因があるのかもしれない.大学亡国論が言われるのは裕福さが人間を堕落させるから,かもしれない.

学生はアルバイトに明け暮れ,挙句に,ニート予備軍になる.公立大学は独立法人化で産学連携を唱えながら補助金の確保に必死である.私立大学は一貫教育と言う青田刈りで学生の確保にやっきである.下手をすると大学4年間(学生200万人くらいか)は国家損失になっているかもしれないのである.

改めて,今,大学がやるべき事は研究と教育を分離し,人材育成へ回帰する事である.

学生はローンを組んででもアルバイトをやめ,勉学に専念すべきである.自己教育投資は決して損は無いのである.就職面接で,大学でなにを学んだかを問うた時,圧倒的にアルバイトを通して社会勉強をしたと答える.次に多いのがクラブ活動でリーダーシップやチームワークを学んだ,とかと言う.学業で学んだ事は出てこないのである.

大学はどんな人材を育てるのかマニュフェストを作り公言し,それに応じたカリキュラムを実行すべきである.これが大学の特徴につながる.当然,教科の利権状態を打破すべきである.地方の大学は天下りの受け皿から脱しなければならない.

又,大学は生涯教育やインターネット大学などの機能も持つべきである.何よりも先生の教育への情熱が不可欠であり,大学の知名度より,先生自身の知名度が大事である.

その結果,淘汰される大学や先生があっても問題がない.むしろ大学が多すぎるのである.人材を育成できない大学は大学ではないし,むしろ社会悪だと認識すべきである.卒業に値しない学業成績者に卒業証書を出してはならないのである.学生にも厳しく接するべきである.

少子時代,大学進学率が50%を超えてきたが,大学の経営の為の受け入れ競争の結果であってはならない.進学率の上昇が,ニート予備軍の増加につながるからである.大学改革が人材開発に向かって欲しいのである.その取り組みが本業であり,大学存続の決め手だと思うのである.

一方,高額の入学金,授業料を取って,裕福な子弟を預かり,キャンバスライフを楽しむだけの大学があっても良いかもしれない.その大学,学生が納得しているなら,どうぞご自由にである.

そもそも大学の増加や進学率の上昇は職人や就労人口を減らしてきた.この際,職人の増加に国全体が動くべきだと思う.特にブルーカラーは大学,専門学校の区別が不要なのかもしれない.高校卒業後の教育について,抜本的な改革が必要なのかもしれない.

私見によれば,大学の数の縮小である,10%くらいの進学率でよい.勉学は生涯学習が望ましい.職人や就業人口の拡大,少子化の防止にもなる.

学ぶ,好む,楽しむ,の仕事人生を歩んで欲しいのである.有意義な人生が国の繁栄にもつながる.明治維新で個の自立が叫ばれたが,残念ながら一般大衆にまで広まる事はなかった.今こそ実現したいものである.

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)