文化

2008.08.31

148 柔道とJUDO

北京オリンピック柔道で日本は惨敗した.世界の力が強くなった事もあるが,

・一本を取る’柔道’がポイントを取る’JUDO’に,
・組んで始まる’柔道’がレスリングもどきの’JUDO’に,
・武道としての’柔道’が勝敗を争う’JUDO’に,

負けたと言われている.国際化で想像した事であったが,今回’柔道’と’JUDO'がはっきりと別物になったと感じた.

国際化とともに,すでに日本的なものが一枚一枚剥がされている中で,柔道もその一つとして露呈したと感じる.

そんな傾向の中で無差別級で優勝した石井選手は’JUDO'に徹した.前半は徹底的に動き回り相手から消極ポイントを取る,中盤は相手の反撃を交わしながら,体力消耗を待つ,後半は相手の疲労に乗じて動き回り,ポイントを守る.その為に徹底的に体力を鍛えたのである.技を決めに行く柔道は捨てたのである.

結局,武道としての’柔道’と競技としての’JUDO'が併存し,畳の上でガッツポーズをしない'柔道’とガッツポーズをする’JUDO'が併存する事になると思われる.

ところで,日本文化の葛藤は当ブログでも何度か発信しているが,日本文化の根底にある仏教の教えにもかかわっている問題だと感じている.浅学であるが私なりに理解している所をまとめて見た.

人間には煩悩(心を乱し,悩ませる諸悪の根源)があり,これを取り除く事を悟りとした.その為に,仏教は生活すべてにおいて,五感の規制を説き,煩悩を制する事,耐える事,が心の安らぎにつながると教えた.他力本願の思想も生きる苦しさを和らげる知恵であったと思う.決して争いに勝つための教えではく心の持ち方を説いたのである.

その結果,消極的,受動的,謙虚,没個性を良しとする価値観を生み,現在にいたる,日本の文化の基礎を形成している.日本文化は農耕民族の特性だけでなく,宗教の影響が大きいと思う.

先のオリンピックマラソンの優勝者は’日本で耐えることを学んだ’と言ったが,まさに教育現場に仏教の耐える教えが無意識のうちに,浸透している証だと思う.

この様に,仏教の影響が日本的なものを形成してきたわけだが,一方,日本の社会が欧米の合理性に押し切られて行く傾向にあり,仏教の教えによる精神文化も,国際社会や科学技術の発達,経済や民主主義,法社会の進展によって,なじまなくなっている感じもする.

結局,日本の文化は今後,柔道と同じように,日本的なものと,国際的なものとが,併存する形で推移して行くのではないかと思う.文化の並存とは,従来の和魂洋才や和洋折衷と言った足して二で割るような日本独特の文化の受け入れではなく,二面性が併存し,場面によって使い分ける文化である.’融合から並存’の時代に行くと思うのである.

社会の仕組みで言えば,場面に応じて切り分けが必要になるが,競争原理に基づく仕組みと和の精神に基づく仕組みを作ることである.教育においても,この二面性を併存させ,それぞれの指導が求められる.

最も文化の根本になる言語も従来のように,造語,合成語,外来語で対応するのではなく,日本語と英語の併存になる.仏教も古典的な教えに加えて今風の教えが必要になるかもしれない.あるいは寛容な日本ならではの多神教が加速するかもしれない.

ところで言語について,こんな話がある.同じ日本人が日本語で話すと曖昧になり,英語で話すと明確になると言う.言語によって鮮明さが変わるのである.日本でははっきりものを言わない人が,米国では,てきぱきと頼もしく見える事もある.同じ人間でも,言語によって考え,行動,印象が変わる例である.

又,外国人が日本語を話すと日本人が忘れていた感覚を思い出したり,日本人以上に日本人らしさを感じる事もある.日本語は常に相手を配慮する言葉だからである.どの言語でも,それを身につける事は,その文化を無意識であっても,身につける事になる例である.

この事は,元来人間には柔軟な資質があって,使う言語によって,その資質が言語の特質に染まるのではないか,まさに言語は文化そのものだと実感する.だとしたら,日本人は,米国人は,と一意に人間の資質を言う事は間違いと言う事になる.日本語と英語を並存させる理由がここにある.

以上,’柔道’と'JUDO'の例のように,日本は異文化が並存する社会になりそうである.従来の足して二で割る文化や仕組みはもう限界だと思うからである.わかりづらく,活力も損ねる.

この様に考えると,日本にとって21世紀は新たな文化の世紀になる予感がする.世界的に見ても,古代は宗教を作り,中性は芸術を作り,近代は科学を作ってきた.21世紀は世界にとっても新しい文化創造の世紀になるかも知れない.100年後の日本を見てみたい.

以上,柔道の敗戦を通じて,日本的なものの行く末,文化の変貌に思いをはせてみた.

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2007.05.06

98 宗教・自力・他力

宗教に関しては,全く無知であるが,断片的な話や神社仏閣を見るにつけ,其の壮大な理論体系や人間への影響力に感心する.物は言いようだと,つくづく思ったりもする.多くの信者や観光客を集めるマーケテングの仕掛け(縁起,由緒,御利益,花,名園,札所,仏像,美術骨董品,歴史資料,建築遺産,門前町,など)も,大したものだと感心する.

一方,私事であるが,父が亡くなった時,’無’になった実感だけで,延々と続く儀式の意味はあるのだろうが,むなしく感じた事を覚えている.

宗教は言うまでもなく,往生の道,苦しさからの救い,秩序の維持,生活や儀式・歳時の様式,などの教えである.時として,決意や願望の聞き役にもなる.心の安らぎ,心の支えの為の,気の持ち方,行動の仕方を教えていると理解している.

御利益は信仰する心,行動によって,本人が感じるものであり,願掛けも本人の安らぎを得るものである.先祖への尊厳や来世の極楽や地獄を説くのは,現世の行動を戒める為に考えられた論理だとも思う.そして,神社仏閣,あるいは神殿,仏像,仏前は神・仏と人間との接点の役割りを担っているのだと思う.

さて,宗教で言う'自力’は自らの努力で信仰し,修業し,行動して困難と対峙する事であるが,なんとしても,救われた気持ちにならない事がある.絶望感,失望感である.僧侶で言えば,どんなに難行苦行をしても悟り(静寂)が開けない状態である.

法然,親鸞(浄土真宗)は,このような状態に'他力’が必要だと考えた.宗教で言う他力とは阿弥陀仏であり,人間は他力の中で生かされていると,とらえたのである(他力本願).したがって,絶望,失望に際し,生かされていると気付く事が自力をもう一度よみがえらせ,絶望感が安らぐと教えたのである.大衆に対しては,只,お経を唱えれば,往生の道が開かれると説き,大衆に広く普及したのである.(私なりの理解)

軽薄に言えば,願望に,がむしゃらに向かう心は,ともすると,ますます苦しく,心がすさんで来る.他力を信じて,現状を認め,寛容になれば楽になる.と言う事か.

アメリカ(アングロサクソン)は,神との契約の元に’自力’で頑張る民族である.希望・願望が行動のモチベーションになる.その反面,苦しさは神が受けるとし,その苦しさを和らげるのである.自由,競争,自己責任の強い国ならではのメンタリティである.

一方,日本は上述の通り,’自力’が及ばない事に対して,現状を容認し,寛容になる事で心を保とうとする.あきらめたり,慰めたりする傾向である.日本的な悲観論,謙虚,感謝,忍耐,我慢につながるメンタリティかもしれない.

世界の宗教はそれぞれの民族の環境に応じた生き方のバイブルであり,其の徹底の為に,神・仏,先祖,来世とリンクした論理体系を作り上げたのだと思う.

しかし,古代の宗教の論理体系は今となっては無理があるように感じる.宗教の形式,様式の意味はあっても,昔ほど,心の問題,人間力向上につながっていないのではないか,との問題である.

そこで,今後の宗教および心の支えについて,三つの方向があると考えられる.

①歴史遺産,冠婚葬祭の様式,お祭りや歳時などとして存続する.(古典文化)
②教義を現代風に改革し,存続する(新宗教)
③宗教に変わって,人間力や行動を律する教えが出てくる.(道徳・倫理など)

このように考えると,①は今後,顕著になる傾向だとすると,人間力の向上の為に③が大事になる.

例えば,人間,人生,先祖,お墓,親,兄弟,友達,地域,国家,学校,文武,友情,自由,平等,競争,和,奉仕,貧富,死などに対する考え方,行動,マナーである.一律にはならないと思うが,選択可能な指針があれば,人間力を学べると思う.現在,既に存在する多くの教えを集大成するだけでも立派な指導書となるに違いない.

もはや,心の問題を政教分離,宗教の自由などと宗教に丸投げしている場合ではなく,現代にふさわしい,指導書が必要ではないかと感じる.神,仏,先祖,来世を持ち出すまでもなく,人間の行動を律する教えがあって良いのではないかと思う.

ところで,仏教,道教,儒教,朱子学などの教えが,現在の中国で,どの程度思考や生活に溶け込んでいるのだろうか.共産主義が消してしまったのだろうか.政治,経済ばかりが話題になるが,中国人のメンタリティについて,ほとんど聞く事はない.中国人を理解する上で是非,知りたいものだ.同じく,共産主義を取ったロシアについても,其の国民性を知りたいと思う.

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2007.04.29

96 戦前の残像

現在の北朝鮮の映像を見るにつけ,いつかの日本を思い出す人は多いと思う.7,80年前のタイムカプセルを覗いているような感じがする.

一方,現在の日本の中にも戦前の残像を見ることがある.先日,宝塚音楽学校の入学式をテレビで見た.80年の格式と伝統の式典だと言う.式次第,生徒の立ち居振舞い,制服などは,まるで北朝鮮の喜び組の入学式の映像を見ているようであった.

同じ様に,格式と伝統が重んじられる行事,式典に戦前の残像を見かける,例えば,高校野球や国体の行進,NHK合唱コンクールなど,戦前の風景を感じるのである.

一矢乱れぬ行動は,きちっと訓練された行動として,北朝鮮の軍隊パレード程ではないが,秩序正しく,美しく見える.しかし,一糸乱れぬ統制による全体主義の姿,戦前の軍隊の文化や,現在の北朝鮮を彷彿させて,違和感を感じる.

賛否両論があると思うが,礼儀や秩序を守りながら,もっとフランクな文化でよいのではないかと思う.あまりにも個を殺した考え方,様式は一見,綺麗に見えるもしれないが,あまりにも全体主義的で其の内容も乏しく,形式重視に見える.

もし,今でも,一矢乱れぬ様式,文化が良しとするならば,現在の北朝鮮や戦前の日本とメンタリティが同じだと言う事になる.

全くそんな時代ではないと思う.社会でも学校でも,セレモニー,発表会など,フランクなオープンな様式の方が好きである.大事なことは,人間の英知である形式を使うにしても,大事なことは,心に通じる中身だと思う.

それとも,日本はまだ,型にはめなければ動けない,型にはめた方が無難で面倒くさくない,やっぱり横並び文化が依然強いのか,結婚式披露なども,型通りの宴が多いと言う.成人式などは中身重視に動きつつあるようであるが.

オリンピックの入場行進は,お国柄がよくわかる.日本は一糸乱れぬ行進をするが,ドイツなどと少数派である.

大リーグの試合前のセレモニーや記録達成の選手表彰,ゴルフの優勝者表彰など,アットホームで楽しい雰囲気で行われる.式次第に従った入れ替わり立ち替わりの型通りのスピーチや表彰状の読み上げなどはない.`国家斉唱’などと号令をかけなくとも,観客,選手全員が胸に手を当てて国家を歌う.合唱コンクールなども,リズムに乗って,体を動かし,ハートフルに表現する.

大相撲の表彰式で小泉首相が'痛さに耐えてよく頑張った,感動した’と貴乃花を表彰した事があったが,これなども,形通りの表彰状を読み上げるより心が通じた.

茶道でもジャズでも合唱でも,基本(理論,形式)の上で,自由なフランクな,ハートフルな世界が存在する.一矢乱れぬ行動は心が通じない,堅苦しいだけ,横並び精神そのものである.

余談だが,何百人,何千人が集まるセレモニーで全員が黒の服,当然黒髪の風景は欧米人からすると,全体主義的な恐怖をおぼえると言う.言われてみれば,其の通りだと思う.せめてカラフルな服装にしたいものだ.

それにしても,北朝鮮の軍事パレードは精巧なロボットの行進を見ているようで,その無機質ぶりに驚く.日常も国威を発揮する時も底流に流れている’人間をロボットにする’北朝鮮の文化なのだろう.今でも日本で見かける戦前の残像も含めて,そんな文化から卒業すべきだと思うのである.

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95 もやっと&すっきり

世の中の仕組み,行動の中に,

①'もやっと’の状態を許容する文化(感情論先行の理論不足,波風が起こらない秩序・精神的合理性を重視),市民派,人道派,守旧派,穏健派,集団主義者に多い思考,白黒はっきりさせない,はっきりしない,曖昧の合理性(曖昧の方がうまく行く)を好む性格.

②’すっきり’すべきだ,とする文化(理論武装,曖昧の不合理性,経済的合理性を重視),改革派,理論派,強行派,個人主義者に多い思考

が存在する.夏目漱石ではないが’理は角が立ち,情は流される’悩みがある.

人間の営みである以上,両方の文化が常に存在し葛藤が起こる.,農耕民族文化と狩猟民族文化,縦社会文化と横社会文化,和の文化と競争の文化,精神的合理性(情)と経済的合理性(理),などの葛藤は典型的な例である.

’もやっと’に偏っていると矛盾や問題の解決が停滞し,社会の活力が失われて行く.かと言って’すっきり’は其の実現性,精神の荒廃,’すっきり’する事のリスク,などの問題がある.

時代背景や日常の中で,これをどう使い分けていくかの’新しい哲学・文化’が求められているように思う.

一方,情報化社会の進展,価値観の多様化,科学技術の発展,経済の発展,個の自立,国際化時代,社会保障費や安全保障費の増大,環境問題,教育問題,財政問題,の中で,社会を営む政策やルールが’もやっと’のままでは動きが取れなくなる傾向にある.

又,’もやっと’しているうちに立論力や決断力が低下し,政策を打ち出せない傾向もある.其の反動で今,’すっきり’しようとする機運が強まっている様に思う.

特に,バブル崩壊,財政難(水が満ち溢れていた湖の水が引いたら,ヘドロがびっしり詰まっていたの状態)に起因する政治・行政・経済・企業の改革,冷戦時代の終焉による新たな国際安全保障の問題に起因する9条問題,憲法改定問題,あるいは歴史認識問題などに,この’すっきり’願望が強まっていると感じる.

この’すっきり’願望は,’もやっと’を良しとする考えの反論と言うより,'すっきり’出来ない’もやっと’状態への苛立ちと見るべきだと思う.

典型的な議論は9条の改憲問題である.軍備は一切持たないとするなら’すっきり’である.

次ぎに'国際紛争に武力は使わないが自衛の為に武力を持つは’もやっと’である.自衛の大義でいつも国際紛争が起こっているし,そもそも自衛の定義は不可能に近いからである.集団的自衛を持ち出せば,ますますこの論理が分からなくなる.

’国の安全維持の為に武力は持つ,其の行使はシビリアンコントロールで行う’は'すっきり’である.どの国でも常識である.

又、市場原理、効率化、競争原理、利益追求などの局面と和・道徳・協力・ボランティア・集団活動・感情などの局面に対し、足して2で割る文化は’もやっと’である.結果、どちら付かずの行動になる.それぞれの局面で徹底する文化は’すっきり’である.格闘はするがノーサイドの付き合いもする行動である.

多分,議論を深めていけば,論理的なすっきり案が残る.ただ,’すっきり’すればするほど,決断には重大な覚悟が求められる.やっぱり決断を避ける’もやっと’案を選ぶ事になるのかも知れない.

結局,外国から考え方が分からない国との烙印を許容しても,国内的に閉塞感があっても,のらり,くらりの’もやっと’戦略をとっていく事が日本の生きる道かもしれない.

そもそも’もやっと’文化は日本の特徴でもある.日本は和洋折衷の如く,歴史的に,良い文化を輸入し、自分流に加工してきた.反面,コンセプトを発する事や決断,覚悟が苦手である.又,謙譲の美徳から,無意識に,相手に対して,'もやっと’した言葉使いをする.

しかし,論理的な表現に,これが災いする事画ある.卑近な例を挙げてみた,

日本では社外取締役(アウトサイドデレクター)と言うが,アメリカではインデペンデントデレクター(独立取締役)と言う.利害関係がない取締役と言うなら,アメリカの言い方が論理的である.

社外と言う言葉は日本の`内と外`を分ける文化(血縁・地縁・村社会の文化)から来ている.社外と言えば,よその人,他人を意味する事から利害関係がないとイメージされるが,異文化の人からすれば,社外にいくらでも利害関係者はいると思うし,利害関係がない人という意味にはならないのである.従って,社外取締役は’もやっと’,独立取締役は’すっきり’である.

外資という言葉も金融,株式のグローバル化とともに,曖昧な言葉になった.筆頭株主が外国の人・法人である場合を言うのだろうか.トヨタ,ソニーを外資企業というのだろうか.ファンドが株主の場合,その資金源は個人,法人,国内外,大多数であり一概に言えなくなる.この定義もなく,従来の感覚のまま,外資規制の論議が行われる.

そんなわけで,日本語で’すっきり’コンセプトを作る場合,単語の定義が常に必要になる.すっきり表現したつもりでも,使われた言葉が昔の概念(暗黙知)のままなら,その論理は簡単に崩れる可能性があるからである.

’もやっと’’すっきり’問題はあらゆる分野で存在し,葛藤は今後も避けて通れない.そして、’もやっと’から’すっきり’に移行して行くと思うが,考え方・言葉の使い方の訓練が必要である.同時に決断と覚悟も必要になる.その意味で,本格的な試練が,これから日本に起こると思う.

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2006.06.20

50 肩書に見る国民性

マスコミなどでは個人名に必ず’元△△’’△△役’などとつける.政治家には10年間役職についていなくとも元△△と10年前の肩書きを付ける.一ヶ月程度の役職でも同じである.

サラリーマン世界でも’◇◇会社の・・’・・部長’など言う.新入社員も’□□大学から来ました・・・です’と言う.

どんな活動,仕事をしたか,なにが出きるか,より,どこの出身で,どの大学を卒業して,どの会社に入り,どんな肩書きを持ったかを重視する.60歳70歳の人にも学歴が書かれる.たかが数年いた学校など関係ないのだが.

個人名に所属をつける風潮は,属する事を重大に考えるから,所属で品定めができるから,プロフィールが分かるから,盲目的にそれを信じられるから,何か肩書きをつけないと失礼に当たると思うから, だろうか.

日本の履歴書は生まれたところから書く.過去から書くのである.米国の履歴書は現在から書く.古い過去より現在に価値を持ち,生まれ育ちに価値を持つ日本の感覚とは違うのである.

歴史の勉強がいつも古代から始まる事にも共通している.挙句,自分の先祖をたどりながら歴史をさかのぼり,歴史にリアリティを感じる事はなくなるのである.

まさに日本の血統主義,単一民族主義のDNAが肩書き,略歴,履歴書に現れているのである.

’・・容疑者’’・・被告’などは訴訟社会になった時も常に付けるのだろうか.裁判中の人が演奏会を開いた時,・・被告は演奏会で腕前を披露した’などと報道するのだろうか.個人情報保護を持ち出すまでもなく,何か変な風潮である.

マスコミの個人名に職業や所属や肩書きを必ず付ける風潮は再考の余地がある.個人プロフィールを書くのか,書かないのかの考えをまず持たなければならない.交通事故で言えば個人名に肩書きや職業などをつける必要がない感じがするのである.

総じて個人名だけを基本と考えるべきである.会社員,土木作業員,タクシー運転手,市役所職員,大学教授,会社役員,無職,などの職業を必ず付ける必要はない.特にプライベートな事は名前だけでよいと思う.

所属や肩書きで判断したり,品定めをする社会の風潮はマスコミから是正すべきである.同時に価値感の変化も望みたいのである.

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2006.03.12

40 マイナーとメジャー

音楽の和音(コード)にマイナー系とメジャー系がある.不思議な事に日本の演歌,スペインのフラメンコ,中南米のラテンはマイナーコードである.コード展開もほぼ決まっている.どの曲も情緒的で哀愁がある.調子のとり方も前打ちである.

カントリー,ブルース,JAZZなどはメジャーコードである.リズムは後ろ打ちで,スイングしやすいリズムである.テンポ,和音,コード展開も豊富で喜怒哀楽の感情表現も発揮し易い.勿論,クラッシックも加えれば,洋楽には国境がない.

マイナーコードを好む国民は不思議と小柄な体つき,黒い髪,黒い眼,黄色の肌,である.ウエットな情緒的な音楽が好きである.多分,すぐ気持が通じあえる国民同士なのかも知れない.ポップスでもマイナーコードが混ざっている歌は人気がある.

民族性と音楽の関係を調べたり,分析した事はないが,きっと密接な関係があるに違いない.

一方,今,日本では演歌から洋楽(J-POP,JAZZ,ロック)に人気が急速にシフトしている.洋楽の方が表現力やリズム感,あるいはエンターテイメント性に勝っているからである.なんと言ってもかっこ良いからである.

ソーラン節が洋楽に編曲されて’よさこいソ-ラン踊り’になったり,紅白歌合戦でポップスが増えているように,音楽もエンターテイネントの世界もアメリカ文化が日本文化を席巻しているのである.

又,演歌とJAZZの中にいた団塊の世代も60歳になり,その子供,孫は洋楽の中にいる.年寄りは民謡や演歌が好きだと,昔のように,もはや言えなくなっているのである.

音楽は他の文化より先にアメリカの影響を受けているが,もうすぐ浪曲,民謡,の次に演歌も大衆芸能から消えていく運命にあるのかもしれない.

ところで,反物は縦糸が強さ,横糸が模様を作る役割りがある.文化を反物に例えると,日本古来の文化が縦糸で,横糸が仏教,中国文化,明治時代のヨーロッパ文化,戦後のアメリカ文化などである.それで和洋折衷,和魂洋才の文化を作ってきたのである.

強い縦糸があったから和洋折衷の模様を作り出せたと考えられるが,縦糸が弱くなると,横糸で模様が画けないどころか反物自身が弱くなる.これが今の日本の状態だと思う.この趨勢が続くと,縦糸がアメリカ文化で横糸が日本文化になる可能性もある.

日本文化の弱さは西洋文化の影響だけではない.たとえば,フラメンコ,ラテン,は演歌と違って国際的である.どの国でも楽しまれている.日本人も大好きである.一方,同じ感性の演歌は世界に広がっているわけではない.

海外の日本食ブームで言えば,日本食文化,稲作文化,農耕文化,自然保護文化等のソフトを広げているわけでもない.日本はハードは輸出できてもソフト(文化)まで輸出できない民族だという問題である.

日本文化を残す為には,それが国際的に広がっていかなければ,結局,国内でも一枚一枚はがれて行くのである.残そうとすると,古典文化になってしまうのである.

そう考えると,日本はシルクロード以来,到来する文化の終着駅であり続けることになる.縦糸の日本文化が弱くなっても多様な考えや文化が入り混じった国,文化を輸入し加工するの国,これが日本なのかもしれない.

国籍が血統で決まる血統主義の国は文化に寛容だが,人間には排他的である.チャイナタウン,コリアンタウン,日本人街を他国で必ず作る民族である.このことから,日本は文化の輸入国である事は,なんら不思議ではないのである.

ちなみに,国籍が出生地で決まる生地主義の国は多民族国家であるが,文化には排他的であり,宗教などは代表的例である.しかし人間には寛容で国際結婚は普通である.

そんな日本文化の趨勢の中で,家に入る時,靴を脱ぐかどうかが日本文化の最後の砦だと思う.内と外を分ける文化は農耕民族,村社会,血統主義から来ている文化だからである.

靴を脱がなくなった時,日本文化は完璧に欧米化した事になる.演歌は古典,民族芸能になるどころか,英語は日常語になる.あるいは欧米が靴を脱ぐように変わるのだろうか.大変興味がある所である.

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39 芸術の将来

芸術の定義は難しいが,素人では出来ない作品を言うのだろう.この芸術は古代の宗教・哲学,近代の科学に対して中世で発展したと思う.

洋の東西を問わず,現存する宮殿,神社仏閣,彫刻,絵画等の多くは,権力者の力で作られていた.圧政の限りであったが唯一,後世に芸術と言う遺産を残してくれたと思う.大きな権力が存在したところに芸術作品が多く残っているのである.

ヨーロッパ芸術でいえば,イタリアを中心としたロマネスク,ゴシック,ルネッサンス,オランダ,スペインのバロック,フランスのロココ,印象派など,勢いのあった国で栄えた.その後,現代に至っても,時代を風靡するような芸術は出ていない.むしろ,中世の芸術は現在でも生きているのである.

この芸術に感動するのは,表現力以前にそれを作ったことの偉大さにまず唖然とする.ヨーロッパの宮殿にしろ教会にしろ,あるいは大理石の彫刻にしろ,石の文化を見るに付け,どうやって作ったのかと,その難行に思いをはせるのである.絵画や壁画でも,その作成の労力を想像したときも同じである.その上で出来上がった作品の迫力や美しさや存在感,あるいは作品の主張が見る人を覆ってしまうのである.

芸術作品には,巧みな技・想像を絶する労力・目を釘付けにする表現力がある.労力や技の感じられない作品は表現に長けていても,軽薄に感じる.あえてもう一つ付け加えるならば,芸術作品は手作業(ARTIFICIAL)が条件だと思う.CGで作られた映像,高層ビルなどに芸術性を感じないのはこの為である.

民主主義,効率社会,科学社会では後世に残るような芸術が果たして作られるだろうか.絵画でも工芸でも職人気質によって作られた作品に芸術性を感じる事はあるが,中世のような大掛かりな物はない.絵画を例に取れば芸術性の追求で飯は食えないし,画家を抱えるパトロンもいない.

従って,現代がやれる事は過去の芸術作品をしっかり保存し,将来に残していく事である.また,芸術作品をつくれない社会であっても,せめて大衆による創作活動が華やかな時代になればと思うのである.趣味で絵を描くなど中世になかったはずである.

最近のアマチュアや画家の絵画展を見ると音楽もそうであるが,特徴,や独自性を追求するあまり,わけのわからぬ心象表現のような作品が増えてきた.人物,静物,風景などが評価される事はほとんど無い.特徴,独自性の発揮が難しいからである.

なにを画いても構図,色彩,インパクトが優劣の物差しだ,と思うが,趣味を中心とした大衆創作時代を築く為にも,大衆の好みから離れてはならないと思う.

後世に残るような芸術作品が作られる時代ではないだけに,創作の大衆化時代が発展して欲しいのである.21世紀は科学技術の発展,自然環境の保全,そして,大衆創作の時代でありたいものである.

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2006.02.07

32 競争と和

当,多事論戯で葛藤する日本の精神文化について2回,所見を述べているが,再度,’競争と和’について整理したい.

これは,政治でも仕事でも個人の行動においても,その相手が複雑に絡み合いながら,常に付きまとう悩ましい命題である.競争原理による経済的合理性,論理的合理性,と精神,感情との葛藤がいつも起こるのである.

’理と気’が一致する事はきわめて重要であるが,理は分かっているけど,そんな事はやれない,信義に劣る,クールすぎる,風土・慣習に合わない,合理性が既得権益にまで及ぶと,今までの和が崩れる,有利な立場にある者が競争原理を積極的に主張する,と,言った事が起こる.

結局,損得や人情で使い分けたり,曖昧な決着にしたり,結果,合理性の論理に負ける事が多いのである.’真理は中庸にある’ではないが,いろいろな仕組みや行動の中に,競争と和,公と私を足して2で割る中庸な文化が存在し,中途半端になるのである.

例えば,会社は利益を追求する機関であるが,社会的責任を担う法人として,税金以外に健康保険,年金保険,福利厚生,家族手当,住宅手当,等のコストを負担したり,仕事の中に義理人情が入り込んだり,徒弟制度的人間関係や曖昧な人事評価制度が現存する.

又,個が自立していない為,仕事の評価と人格が一体化したり,公私が一体となった会社人間であったり,するのである.理のわずらわしさを気で補おうとする事が多いのである.

理のない気は衆愚化を招き,競争と和が混ざり合うと,わかりづらく,曖昧さが付きまとう.論理的にも精神的にも,競争と和が中途半端になるのである.

そして,いつもイチゼロの葛藤が起こり,深刻になるのである.中庸な人間にとって,不得手の事かも知れないが,社会が多様化,複雑化,国際化した現在では,この二つの概念を分離し,それぞれを追求し,相互に補完する新しい文化が必要だと思う.そして,競争文化と和の文化がバランスよく発展する必要があると思う.

目いっぱい稼いで,社会福祉やボランティアや寄付を充実させる.公私一体になった会社人間から公と私を分離し,個の自立にも価値を見出す,歴史的文化,行事も大事にする,会社コミュニティだけではなく,個のコミュニティも発達する,こんな競争(優劣の戦い)と和(共生)が両立する社会が活力を生むと思うのである.

このように,競争原理や経済的合理性の追求で,曖昧さや和の精神が追い出される反面,国でも企業でも個人でも,和の文化を追求していく必要がある.企業で言えば,実力・成果主義を取り,1割の社員を処遇するとした時,経営者は9割の社員のモチベーション,活力を考えなければならないし,社員は競争に耐えられる精神的バックボーンを持つ事が必要なのである.

アメリカ流は問題だ,との論調もあるが,競争・合理性を追求する一方で,ボランティア精神,アメリカンドリーム,ファミリー,個人主義,宗教,ナショナリズム,等の文化が根付いている事を見逃してはならない.これらが競争社会の精神的バックボーンとなり,下支えしていると思うのである.

子供の教育も,この2つの大切さを教える必要がある.勉強自身に価値がある事,友達同士の競争もある事,競争に負けじと勉学する事,勉強以外で違った優劣がある事,勝った者が負けた者を助ける事,勝った者をたたえる事,負けた事から次の事を考える事.など競争と和について学ばねばならない.

友情や仲良くする為に,区別を避ける為に,競争をさせない,は教育者の逃げである.試合とノーサイドの概念をしっかり教育する必要があると思うのである.

何よりも,個人の中に,’競争と和’の2つの精神を持ち,両方行動できる人間になりたいものである.心の中で相互に補完し合った方が精神的にも安定し,両方,頑張れる気がするのである.

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2006.01.31

29 1頁と100頁の契約書

日本と米国の文化比較の一つとして,比喩的に’1ページと100ページの契約書’としたが,根底に流れる思考風土を述べてみたい

同じ仕事をするのに,日本とアメリカの契約書の違いはビジネスや野球選手の契約にあるように,表題くらい違う.米国は仕事を始める時に契約書を見るが,日本はトラブルが起こった時に契約書を見る,あるいは全く見ない事も根本的に違う.

どちらが合理的なのだろうか.あえて日本の合理性を主張するならば,曖昧の合理性である.そこまで細かく言うな,分かっている,あるいは,はっきりしておかない方が融通が利く,白黒はっきりさせない方が当面,争いが起こらない,と玉虫色の合理性である.長い人間の英知かもしれない.歴史のある国ほど,玉虫色の文化があるように思う.

日本全体で見ると,この曖昧な合理性が根強く残っている.トラブルが発生すると法律や契約ではなく,道義性の議論が始まる.又,合理性を求めるとアメリカのまねだと批判する.法律や契約以前の暗黙地としての道義・信頼は大切だが,それに頼りすぎて曖昧にしている事が多いように思う.

この曖昧な合理性はもっと重大な問題と関係していると思う.リスクから目をそらしたり,思考力,決断力すらも曖昧にしているのではないか,その結果,立論力が育たない事につながっていないか,という問題である.思考力や立論力は低くても,行動力や結束力があれば良いとする考えもあるが,国際化や社会の複雑化,難問の増大,競争社会あるいは個の自立には,この立論力が必要だと思うのである.

よく,理(論理,コンセプト)と気(やる気,行動力)が両輪と言われるが,理の無い気は衆愚化を招き,気の無い理は行動が伴わない.曖昧な合理性はともすると理より気を大事にしている文化なのかも知れない.だから1ページの契約書でも仕事がやれるのである.しかし大きな問題が起こった時,きわめて深刻なトラブルになり,事前の考え方や詰めの甘さを嘆く事になるのである.

最近の偽装問題で言えば,販売主に瑕疵責任があるところまで決めているが,賠償能力をどのように担保するかは不問である.担保がなければ,瑕疵責任は全うできないのである.理の部分は素朴な事までも欠落している事が多い.建築確認機関が重大問題を見逃した時,どうするのか,など当たり前の理が欠落している.ご免ではすまないのである.

アメリカ流に日本が塗り替えられるのは問題だ,拝金主義はダメだ,利潤追求は問題だ,格差社会はダメだ,市場原理,効率重視は問題だ,実業がなくマネーゲームの錬金事業は問題だ,官から民や規制緩和は問題だ,などと批判する識者が多いが,気が優先して,理が聞こえてこない.頭の中は1ページのままである.

仕事も国も本当に理論武装が大事で1ページで会社や国が経営できない時代なのである.トラブルのつど契約のページ数が増えてくるようでは時代の変化とのギャップが広がるのである.大きな理論・哲学とそこから導かれる先手の理が必要なのである.憲法問題なども,まさにこの理論武装の欠落が問題なのである.

いつの世も,若者は理を好む.時々間違った理に走る事もあるが,曖昧さは若者を悩ませ,堕落に向かわせる温床になる.若者は自ら理を考える力が,必ずしもあるわけではなく,大人の理を期待しているところがある.

理の無い社会は若者から嫌われる.思考力も育たない.1ページだけでは若者の能力や行動力が発揮されない気がする.若者が受身に見えるのはこのせいだろうか.大人の責任は重い.

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2006.01.07

27 血統主義の課題

日本人のアンケートによると,半数以上の人が中国人・韓国人は嫌いだと言う.戦争や政治問題が影響しているとの見方もあるが,もっと根本的な事があるように思う.一つ考えられるのは国籍や戸籍の制度にもある血統主義である.

血統主義の特徴は文化は許容しても人は排他的である点である.日本の場合で゙言えば,古代より現在に至って,文化の影響や経済活動は活発でも,血統主義の国との人間関係は排他的な感じがする.又,近隣の類似民族同士は特に排他的になる傾向がある.よそ者に排他的になる文化である.国際結婚もきわめて少ない.一方,東洋的コンプレックスもあり,憧れを抱く生地主義の欧米人には好感を持つのである.東洋を支配した列強欧米人には反感は少ないのである.

この特徴は中国人も韓国人も同じではないかと思われる.中国は血統主義の他民族で構成されており,民族同士は排他的と思われる.歴史的に内乱が多かったし,思想で束ねざるを得ない国と思う,経済発展によって思想や価値観が多様化すると,血統主義の特性が顔を出すかもしれない.

欧米人は国籍制度でも明らかであるが,生まれた所を基準とする生地主義である.生地主義は文化に対しては排他的であるが,人に対しては許容する.現に他民族国家がその証拠である.血統主義の逆である.

民族間で争いのあるのは単一民族の血統主義の国だと思う.これに宗教が絡むと,文化も排他的になり,さらに,対立が激しくなる.中近東の戦争の歴史はまさにこれである.

中国,韓国,日本は中近東と違って,宗教的対立がなく,文化や経済は許容されるが人同士が排他的になる典型的な血統主義の間柄と思う.これに歴史認識と国益の争いが乗りかかって経高政低の状況になっていると思う.

血統主義の国同士は仏教の教えではないが,怨念の連鎖を断ち切り,戦争終結によってノーサイドになる精神こそが必要である.怨念を引きずっていては,血統主義はますます排他的になるのである.歴史認識をつついても血統主義の下では民族の尊厳にかかわる事態にもなり,相容れないのである.血統主義国同士ではイチ,ゼロの議論になりやすいのである.他民族国家なら歴史認識の問題は,いろいろな考え方があると認識するのではないかと思うのである.

このようなとらえ方は独断であるが,かといって外交がうまく行かなくても仕方が無いと言う.事ではない.血統主義の国は経済発展や文化の欧米化,国際化と言う共通の動きがあり,この動きによって,排他性を少しづつ低くしていくしかないと思う.

時間のかかる課題だと思う.ことさら政治でこの問題を解決しようとすると逆効果になる危険がある.特に歴史認識を盾にする外交は血統主義の前では溝を深める.溝を作る事を国益とするならば別であるが.

兎に角,血統主義は相互に排他的である事を陽に認識してた上で,,価値観,あるいは欧米式の合理性がどう生活や企業の中で息づいているのか,精神文化が変化しているのか,共通の精神文化が生まれているのか,等の相互理解が必要である.

ひょっとすると,中国的なもの,韓国的なものは日本に行き着き,日本にしか残っていないのかもしれない.奈良に中国,韓国からの見学者が多い事でそんな事を感じるのである.血統主義がなくならないまでも,中国,韓国はすっかり大陸文化の欧米化,国際化が進み,島国の日本だけが古来の精神文化が残っているのかもしれない.経済活動を通じて,もっと人間について,相互に知らなければならないと思うのである.

話が変わるが,戦前,米国に移民した中国人は中華料理,韓国人は花屋,日本人はクリーニング屋を生活の糧にしていた.これを母体に中国や韓国は現在でも3世4世が母国の人たちの移民の受け皿になりながら,米国での活動範囲を広げている.ゴルフでも医学でも多くの人材を輩出しているのである.その影響で母国の国際化は飛躍的に進んでいるのである.彼らの憧れの視線は明らかに欧米に向いているし,日本も同じである.隣人同士は向き合っていないのである.

近くの親戚より遠くの他人(欧米)に目が向いた3国である.ならば今後共通の精神文化が出来上がっていく事が血統主義の障壁を低くすると思う.それとも独自文化を堅持し,人に対して排他的な関係のままのほうが良いのだろうか.

独自文化を持つ事が国際的だとするする考えは欧米の生地主義の場合である.文化は排他的だが人同士が許容されているから言えるのである.血統主義は独自文化を相互に許容するが人に対しては排他的であり,この問題を小さくするには,より共通の文化を作って共有する事で排他性を低くするしかないと思うのである.

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2005.10.15

20 プロセス重視への変化

日米の大学比較で入学と卒業の考え方の差はよく知られた事であるが,入り口重視の日本とプロセス重視の米国の象徴的差である.許認可,資格,与信,あるいは履歴書など,多くの場面で,この差が現れる.クレッジト与信で言えば,資産,収入重視の日本に対し,米国では取引履歴が重視される.履歴書では学歴や資格を重視するか,何をしてきたかを重視するかの違いがある.

許認可や資格の入り口重視は一度入り口を通過すると,その後,見直される事はなく利権化していく傾向がある.プロセス重視は活動内容,監視機能あるいは訴訟によって,見直される可能性を残す.文化的には秩序を重んじる日本と競争社会の米国との差である.資産評価で言えば取得価格か時価かの違いである.

一方,この日本の文化や制度はプロセス重視の方向に動いている.医師免許,教員免許あるいは選挙の関門を通過した政治家も,行政,法制度あるいは予算にしても,民意の向上や環境変化によって,入り口重視からプロセス重視に移るのは自然の流れだと言える.

企業評価にしても知名度より収益性,配当,株式時価総額などによる評価,格付けが重視される時代になっているのである.会社の人事評価においても,結果を重視する事は当然だが,それよりも結果が出る前のプロセスを重視する方向である.サラリーマンの職業意識も寄らば大樹ではいつかリストラされるのである.資産バブル崩壊状態での時価会計制度の導入は多額の含み損や資産売却,資産デフレを招いたが,企業力の客観的状態が分かるようになったのである.

このように入り口重視からプロセス重視へのシフトは,複雑で難解な問題が多い,変化が激しい社会では当然の流れである.依然と入り口重視になっている制度や考えを総点検しなければならないのである.

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2005.10.02

19 葛藤する日本文化②

日本は中国,韓国,ヨーロッパ,アメリカなど多くの文化を取り入れながら和洋折衷の文化を形成してきた.反物で喩えると,強さを表す日本的な縦糸に中国、欧米の文明・文化と言う横糸を入れて日本独特の模様(文化)を描いて来たのである.さてこれからの日本はどんな模様を描いていくのか.いまだ描ききれていないのである.

バブル崩壊,グローバル化によって,戦後の政治,経済を支えてきた,日本的価値観,政治,経済の構造に蓄積された不合理性が露呈し,新たな合理性にもとずく構造改革が急速に起こっているのである.

一方,経済は合理性を限りなく追求するものだが,広い意味での文化(精神文化)と密接な関係にある.経済の持つ最適化行動原理の変数として歴史・文化・国策があり各国の社会・経済システムを形成している.

この意味で今起こっている変化は合理性(理)と文化(慣習、歴史、気)との葛藤を伴ないながら、その新たな接点を求めて行くプロセスだと思う.科学技術を中心としたハードから、まさに制度や文化と言ったソフトに変化の焦点が移って来たのである.

経済の政策や仕組みを論ずる識者は多くいるが,歴史・文化から今後の精神文化を考える人は見うけられない.経済・社会の改革によって文化がどのように変わりそれが生きていく上で許容される事なのか,あるいは変えてはいけない事なのか,新ためて哲学や価値観が問われている時代に来たと感じられるのである.

ここで,日本と米国を比較してみた.

縱文化(日本)

曖昧の合理性(曖昧にしておいた方が合理的),単民族国家,農耕民族,村社会,帰属意識,儒教,道徳,調和,合議,年功,血統・世襲,寛容,律令国家(統治)立憲君主制,縦割り行政・団体・企業,秩序,融資,メインバンク,他人資本,企業間での株の持ち合い,会社は徴税・雇用・福祉・株主配当の機関,終身雇用,年功序列,会社別組合,集団主義,生産性,履歴書は生まれた時から記述(どこで生まれて,学歴は)転職暦は不利,人材はストック,日本料理,企業別セミプロスポーツ,お茶,生け花,美術,骨董,古典芸能,料亭,接待,義理・人情・浪花節,御祭り,歳時季,相撲社会,トラブルの時持ち出すのが契約書,俳他的ではあるが寛容で住みやすいがコストがかかる社会,レース的競争社会

横文化(米国)

曖昧の不合理性(白黒はっきり)多民族移民国家,狩猟民族,契約社会,市民社会,大統領制,ルール,競争,フェア-,採決,実力,民法,フロンテア‐,戦略性,訴訟ビジネス,出資,株価,M&A,創業者利益,会社は株主のもの,配当,株主代表訴訟,職種で雇用契約,職種別組合,個人主義,履歴書は現在から過去へ記述(人材時価主義),転職によって実力を高めていれば有利,人材はフロー,ファーストフード,ライフル,プロスポーツ,仕事をするとき持ち出すのが契約書,合理性,オープン,フェアーを目指す社会,勝ち負け貧富のでる社会、ゲーム的競争社会

すでに,上記の日本的なものが,一枚一枚剥がれている.経済的合理性と精神文化のバランスを急がねばならないのである.

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2005.09.08

07 全体主義と個人主義

大きな災害が発生すると,一揆に原始共同社会に舞い戻る.一方,農業社から工業社会へ,さらには昨今の技術革新や情報社会への変化は,必然的に,全体主義から個人主義への潮流を生み出している.

戦後の日本を振り返って見ても,農耕民族の良さを遺憾なく発揮しながら、日本的政治経済構造・日本的企業経営によって戦後の復興を成し遂げてきた.

反面,地域社会に代表される,他の町と対抗意識,祭りや運動会,海水浴などの町内単位での実施などの村社会文化は,会社社会の進展,集団就職に代表される産業都市への集中,核家族化などで,この村社会文化が崩壊し始めたのである.

又,文化住宅や団地さらには膨大な宅地開発と持ち家,マンションなど住環境の変化,人口の移動,家庭内の個人部屋化,寝具革命,台所革命,風呂・洗面台革命,トイレ革命,の進展と共に,集団主義から個人主義への潮流が始まったのである.

さらに,家電革命から個電時代へ,デジタル革命による情報化社会への急速な進展,家庭に1台から個人に1台になった車社会の出現などによって,価値の多様化を起こし,個人主義への潮流を加速して行ったのである.社員旅行など,皆で行なう行事がきわめて少なくなっている事もその卑近な例なのである.

個人の自由・自立・権利・責任などへの意識変化は,封建的社会への反動,知的変化,自我の目覚め,だけではなく,文明の発達と連動していると思うのである.社会主義国が文明の発達で崩壊する事は当然の帰結なのである.

逆に言うと,災害や危機で文明が使えなくなった時,個人主義が引き下がらざるを得なくなるのも,当然なのである.

問題は文明が発達した社会で災害や危機発生時,全体主義への復帰できるかである.都会では地域社会は崩壊しているし,制度面では,民主主義制度のもとで,全体主義的法制度が用意できていないのである.

個人の立場と全体の立場を状況に応じてどの様に使いこなすか,が文明の発達が進むほど,問題になる.文明の利便性や自由を謳歌できる社会を望む一方,常にこの事を考えなくてはならないのである.

まさに,自由・競争と和の概念は,どちらかではなく,状況によって使い分ける文化・制度が必要なのである.

子供の教育でもこの事をしっかり教えておく必要がある.仲良くしましょう,人の為になりましょう,だけでは矛盾や迷いを与えている事になり,指導力が問われる事になる.競争する事の意味,意義,和する事の意味,意義を社会全体の視点で教える必要があると思うのである.

走り競争を短絡的に廃止してしまう教育は哲学がなさ過ぎである.勝者・敗者それぞれに多くの事や価値観を学ばなければならないのである.競争の意識と和の意識は状況によって必要だと言う事を教えなければならないのである.

二律背反の事をどちらかではなく,時と場合によって,両方必要であり,制度面でも精神文化面でも,これを確立しておかねばならないと思うのである.文明の発達,競争社会や貧富の差の出現,個人主義の発達などの反面,社会保障や弱者対策,災害などの危機対策が精神面も含めて必要なのである.

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2005.09.06

05 7・5・3の不思議

この数字には不思議な説得力がある.和歌・俳句・民謡・演歌の七五調、七五三のお宮参りや仏事のように、多くの風習・慣習や諺に,この数字が出てくる。

それぞれに、英知があって、現在に至っていると思うのだが、その事を超えて、日本人のバランス感覚やリズムにまで、この数字が浸透し、更に無意識のうちに、その数字を受け入れてしまう程に無防備になるのである.

例えば'新入社員には七五三があり、新婚さんにも七五三という節目がある'と言うと誰からも反論が出ず、納得するのである。これが六四二と言うと全く説得力がないのである。

又仕事の面では、'仕事がどれくらい進んだか'と問われた時、6割と言えば'なにやってんだ'と言われ、8割と言うと'本当か'と言われ、7割と言うと納得するのである。更に'この商談取れそうか'と問われた時、'5分5分です'と答えると納得するが、上の数字を言えば'甘い'と言われ下の数字をいえば'なにやってんだ'となるのである。'シェアーはどれくらいか'と問われたら、3割と答える。これ以上でも以下でも反論が来る。'ウソだろう'とか'低すぎる'とか.

この様に反論されたくない時に,この数字を使うのである.この数字は妙に説得力があるのである(私には通用しませんが) 一方バランス感覚の面でもこの数字が出てくる.

例えば、箇条書きで物事をまとめる時、五とか三が落ちつくのである.四とか二は何か不安である。整理しきれていない感じがするのである。私見によれば、三が究極の姿である。もっと言えば真理は三つ存在すると思っている。3つに絞りきれていない時は、まだまだ追及が出来ていないとか、考えが浅いと思うのである.

例えば、ある坂道に対し'下り坂'と言う人と'上り坂'と言う人がおり、立つ位置によって、真理は2つしかないと考えた時、3つにする為に、もう一つ違った見方があるはずだと更に考えるのである。はるか遠くにいる人は水平に見えるかも知れないと気が付くのである。

'真理は三つある'といつも自分に言い聞かせているのである。いろいろな選択も、2択や4択や5択ではなく3択が究極の選択肢であると思うのである。

これはタバコの節煙の方法であるが、夕方、家に帰るとき、箱に5本残しておくのである.次にタバコを吸うとき、これを吸うと朝までになくなってしまうので吸うのを控えようと思うのである.出来たら箱を別の部屋に置いておくとその日はタバコを吸わなくて済むのである。5本以下だとタバコを買いに行ってしまうし、5本以上だと気にせず吸ってしまうのである。5と言う数字は微妙なバランスにある数字なのである。節煙したい人は試す価値があると思うのである.

日本人は微妙なバランス感覚を好む.色彩,構図,あるいは、物事の考え方,等にそれが現われている.7、5、3を好む感覚と同じである.

7、5、3、の持つ不思議な力は多分中国に由来し,日本的なものとして定着したように思う.詳しく勉強してみたいとは思うが、多分西洋では通用しないと思われる。リズム感がそれぞれ違う事からも推測できる。

7、5、3は不吉な数字と思っている民族もいるくらいである。奇数派・偶数派や好き・嫌いの数字を国別に分類すると、文化圏がわかるかもしれないのである。

余談だが,言語で見ると,英語は単語そのものに単数と複数を意識する.音楽で言えば2拍子のアフタービートが基本である.ちなみに仏語は男か女を常に意識しているが,日本語は単一民族で経験知識の共有を前提に,相手の創造力を期待した抽象的な表現言語である.単語も抽象的にする為に単数表現なのである.’テーブルに卵がある’と言っ時,卵が1個か複数個かは気にしないが.英語ではそうは行かないのである.

'古池や蛙飛び込む水の音’は誰もが静寂な世界をイメージするが、欧米人は経験知識から蛙は複数形、騒々しい世界をイメージするのである.

日本における,この数字やリズム感が持つ不思議な力も、民謡や演歌の衰退,グローバル化、洋楽の流行、英語の普及、合理性の追求などと共に、少しずつ弱まり、多様化に向かっていると思うのである.

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04 情報化社会の表現力

言葉で伝える’には,相手に言語知識と経験知識が必要である.この言語知識,経験知識は文化として概念化され,共有化されていないと伝わらない.まさに言葉は文化なのである.従って、異文化間で’伝える’事はきわめて難しいと言う事になる.

'古池や蛙飛び込む水の音’で日本人は静寂な世界を思い描くが,米国人は騒々しい古池を思うかも知れない.(この場合,蛙にSが付いていると思うが.日本語表現は概念の共有化を大前提にしている為,単数表現でも状況を伝達できる文化である)

文化の塊である古典落語を英語に翻訳しづらいし,したとしても米国人は理解できない事も同じである.

一方,余り概念に依存すると,本質的な追求や主張が曖昧になる事がある.結果,思考力,立論力が鍛えられない傾向もある.

以上のことから,情報化社会,インターネット社会では,相手と言語知識,経験知識を共有しているとは限らず,文章表現力,言葉使い,に細心の配慮が必要となる.

立論力や表現力が乏しいと,不特定相手に対し,全く意味不明で無視されるか,無用の混乱,無用なコスト,誤動作を,すさまじいスピードで撒き散らす事になる.こうなれば情報化社会のメリットが損なわれるのである.

日本語表現は日本固有の芸術文化の中は別として,早く,正しく,伝える為の,努力と留意が必要になる.日本文あるいは話の特徴は

①主語がはっきりしない
②説明ばかりで主張がない
③玉虫色の言いまわしが多い
④語尾の言いまわしで論旨がボケる

であり,これに慣れてしまうと,言葉で逃げて,説得力や立論力が育たない事になる.日本文化が持つ曖昧の合理性(曖昧にしていた方が白黒はっきりする,よりうまく行く)を表現しやすい日本語ではあるが,論理や主張をはっきりし,それを日本語で表現して行く必要がある.

又,理解を補足する図解の活用も重要である.ただし,未熟な図解は逆効果になる.完成度の高い図解は早く,正しく伝わるのである.

総じて,日本的なウエットな表現・文化からドライな表現・文化も取り入れていかねば,世界の人々と交われないと思うのである.独自文化だけでは,情報化社会,グローバル社会に取り残されるのである.

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2005.09.04

02 葛藤の日本文化①

農耕民族,縦社会,島国根性,単一民族性に総称される日本文化は,歴史的には中国,ヨーロッパさらにはアメリカの文化の影響を受けながら和洋魂才の独特の文化を形成してきた.

そしてさらに,日本のバブル崩壊,グローバル化によって,日本の社会や企業の根底に流れていた不合理性が露呈し,新たな経済的合理性の追求が政治,経済,文化をも巻き込んで始まったのである.一枚一枚日本的な制度,仕組みを剥がしながら,合理性に向けて構造改革が本格化し始めたのである.

各国の歴史,文化によって経済的合理性の程度は違うが,グローバル化や途上国の発展によって,世界的にも経済的合理性に基づくグローバルスタンダード化は避けられないのである.

経済的合理性の強いアメリカにはもう一つの側面がある.貧富の差を許容したアメリカンドリーム,ボランティア,寄付,ナショナリズム,自立自己責任,宗教心などである.これらはアメリカの経済的合理性を支える必然的な価値観なのかもしれない.又これらは会社と個人,公と私,競争と和,富と施し,など,はっきりと使い分ける文化に根ざしていると考えられるのである.

日本では和,義理,人情,浪花節,しきたり,慣習など秩序を維持するための人間の英知だと考えられるが,それがあらゆる事に顔を出し,経済的合理性との葛藤がいつも起こるのである.ともすると合理性の対抗軸になるのである.個人の中で上記2つの行動を使い分ける文化,並存する文化がないと経済的合理性は中途半端になってしまう可能性がある.

社会制度で言えば,経済的合理性にのった制度作りと,人道的制度・文化の充実の2本立てで考える必要がある.日本人がやりそうな,どちらつかづの1本立てではダメだと思うのである.

企業経営においても,合理性をどこまで徹底できるかは,世の中の精神文化や制度に関係している.企業に企業内失業者や,福利厚生まで求めるより,企業の役割り,社会の役割りを区別し,それぞれに徹する方が全体としては活力が発揮され,国の社会福祉も充実させられる様に思う.同時に国民も会社人間ではなく,個の自立に勤めなければ,経済的合理性を追求する社会にはならないと思うのである.

日本の産業は戦後の大量生産大量販売で許容されてきた多くの類似企業や下請け企業が淘汰され,特徴ある企業が多く存在するフラットな構造が求められているのである.企業の社会的存在意義を再定義しこれに取組む時代なのである.景気をひたすら待ち続ける企業は時代の大きな変化から取り残されるのである。地方経済の振興も公共事業による社会主義経済から脱しなければ,国全体の活力が出てこないのである.

日本はバブル崩壊後10数年,やっと政治も経済も文化も次世代の姿に向け胎動しはじめた.保守的な考えがこれを妨害してはならないのである.経済的合理性の追求とフェアー・フラットな社会がこれからは必要なのである.

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