文化

2017.01.15

458 英会話力向上への秘策提案

最近、英語教育の見直しが行われているようだが,はたして、効果が出るのだろうか.『読み書き』の訓練と、『聞く,話す』(会話)の訓練は,まったく違うように思うのだが、.果たして、どんな教育をするのだろうか.

言うまでもなく、英会話力の向上は、学ぶものではなく、自然に身に付くもの,慣れるものである.当然、英語圏に住むか、英語圏の友人を持つか、英会話教室に通うか、である.

たしか、1990年頃だ思うが、2代目桂枝雀師匠の英語落語が話題になった.英語の教材にしたらどうかと言う声も多かったのである.

久し振りにそれを思い出し、改めて、簡単な訓練方法と英会話の基本を教えてくれる、枝雀の英語落語’WHITE LION’を教材にする事を提案したい.

この英語落語は、英語の文法とか基本文型を意識しない、簡単な言葉で、ピッタリの英語表現をしている,ゼスチャーを大切にしている、のだが、ネイテブの人にも,絶賛されているのである.

(出典 祥伝社;枝雀のアクション英語高座 桂枝雀著

『ウォーミングアップ第1弾』 動作をしながら次の言葉を繰り返し言う.
 
・Pick up the pen. Put it down.

・Stand up. Go to the window. Open the window.
 Shut the window. Go back to your seat.

・Take out your pencil case and note book from your bag.
 Put them on the table.
 Open your pencil case. Pick up the pencil.
 Write your name in japanese.
 Put the pencil down.

 Pick up eraser from the pencil case.
 Erase yopur name.
 Put the eraser back to the pencil case.
 Write your name in English.
 O.K. Please show me.

ウォーミングアップ第2弾』 二人で動作をしながら会話をする.

(スチワーデスとの擬似会話)

A:Please show me your boarding card.
B:Sure.Here you are.
A:Thank yopu
B:You are welcom
A:Please come this way.This is your seat.
  Please put your bag under the seat.
  Please fasten yoyur seat belt.
B:where's the toilet?.
A:That's over there. Have a nice flight.
B:Thank you.
A:You are welcom.ser.

(受け付け嬢との擬似会話)

A:MayIhave your name ?
B:My name is K.
A:Do you have an apointment ?
B:Yes,I do.I have an apointment with him at 6:00
A:Just moment. I'll call him and tell him that you are here.

ウォーミングアップ第3弾』 大阪弁風に大きな声で、何回も、この小噺をする.

(演題'犬’)

A:おっちゃん,そこのいてんか.ボク 寒いがな,陰になって
B:アレッ,この犬,今,もの言うたんとちゃうかいな.
  そんな事ないわいなア、犬はもの言えへんわな
A:おっちゃん,そこのいてっちゅうに,陰になって寒いがな
B:エーッ,この犬,今,もの言うてる』
C:とうちゃん.さっきから,なにワンワン言うてるのん?

ウォーミングアップ第4弾』 これを上記のノリで、大きな声で、何回も言う.

A:Hey you. Get away. you're block the sun.
B:Am I crazy or is that dog speaking.
  That can't be,dogs don't speak
A:Hey, get away!you're blocking the sun.
B:Oh my Got、That dog is speaking
C:Daddy, Why have you been standing there saying bow・wow bow・wow

絶対に文法とか語句のパターンとか構文を意識しない,気分とノリだけで口を慣らす,Am I crazy or is とか That can't be とか Why have you been standing there とかは何時でも使えそうな言葉である

ウォーミングアップ第5弾』 英語落語WHITE LION)の実演を楽しむ. 

この桂枝雀の英語落語 ’WHITE LION’(原作は動物園)は,YOU  TUBEで見る事が出来る.他に、英語落語として’山のあなた’、’ロボットしずかちゃん’、時うどん’等があるが、WHITE LIONは米国でも人気がある.

話は3割の言語知識とあとは、経験知識の共有とBODY LANGUAGで成り立つと言われている.落語は日本独特の文化の共有がないと通じないのだが、WHITE LION は文化を共有しなくても分る話になっており、簡単な英語表現と,抑揚とゼスチャーで通じる話になっているのである.内容はこんな感じである.

朝が弱く,力仕事が苦手で,口下手なため、仕事勤めが続かない男.ある日,ぴったりの仕事を世話してもらうことになった.午前10時出勤でよく,何も持たないでよく,しゃべる必要もなく,昼食・昼寝付き1日1万円だという.好条件に飛びついて紹介状を受け取った男が着いた現場は,なんと移動動物園.

早速、目玉展示の動物である虎が死んでしまったので,毛皮をかぶって虎になりすませ,と指示された.毛皮をかぶった男は虎の檻に入れられ,園長に虎の歩き方を教わった.園長は,前足の方向と逆に頭を向けると虎らしく見えるといい,男の前でやってみせる.しかし,子供の前では疑われない様に,悪戦苦闘したり,空腹が極まったり,タバコも吸えず,難渋するのである.

そんな中,動物園のアナウンスが「虎とライオンの猛獣ショー」の開催を告げた.男は事前に説明を受けなかったので,慌てふためいた.虎の檻の中にライオンが放たれて,男はパニックに陥った.ライオンはうなり声を上げながら男の耳元に近づいて,言った.「心配するな、わしは園長だ」

原作の動物園のサゲは「わしも1万円で雇われたんや」であったが、園長自から縫いぐるみに入っていた方が面白いと、サゲを変えたのだと言う.又,この落語のタイトルをWHITE LION にしているのは,恐怖感をあおって,サゲに持っていく大事な役だからだと言う.

英語英語を作るにあたり、英語表現、抑揚、ゼスチアーをマメリカ人スタッフと徹底的に検討したのだと言う.例えば,上方落語のような方言での話し方を英語にすると意味を伝えるだけの標準語になってしまったり,方言の持つ雰囲気や間が損なわれる事がある.そこで,英語での表現の仕方,全身や顔の表情など,徹底的に練り上げたそうである.

この英語落語’WHITE LIONN’は話の面白さもあって、しかも、研ぎ澄まされた,平易な言葉で、英語表現がされている事から、英会話教材としては最適だと思うのである.

この英語落語を遊び感覚で、大きな声で、ゼスチャーたっぷりに、真似出来たら、英語を話す度胸が付くと思う.又、枝雀の’英語落語’を’英語紙芝居’にして演じる事も楽しいと思うのである.

ウォーミングアップ第6弾』 英語落語’WHITE LION’の中の名訳を身体で覚える.

'おまえさん,また仕事をやめたそうやな'
I heard you quit your job again.

'ところが,わたし朝早いのは弱いんですわ,それでやめました’
But as you know I am very weak in the morning, so I had to quit. 

'ほんまやろな''もちろん,ほんまですとも’
Are you sure ? Ofcourse. I am sure.

'ええがな.問題ないがな’
That sounds good,I'm sure, you didn't have any problems with that.

'本間によう来てくれましたなあ'
I've been expecting you.

'この檻の中を,歩きまわってさえしていたら,ええんやからな'
All I have to do is walk around in the cage.

'結構です,理解しましたね'
Very good,you've got it.

'だんだん暑くなってきたな’
I'm getting hot.

'おお,のどが渇いた’
Boy! I'm thirsty.

'子供を脅かしたろ'
I'll try to score the children.

'虎が手でコーラのコップをもってるよ'
The tiger is holding up the cup of Cola with his paws.

'オ-,信じられない'
Oh,That's incredible.

'やっと気分がよくなった’
I feel better now.

'では参りましょう'
Here we go.

'笑いごっちゃないで'
This is getting serious.

’あいつら,扉を開けかかっているがな’
They're going to open the door.

'あっちへ行け、どないしたらええねん'
Don
’t come. Go away. What shall I do ?

ウォーミングアップ第7弾』 日常会話の言い回しは身体に覚え込ませるしかない.

 英単語をよく知っている人ほど、日常会話が苦手である.例えば「手を拭く」をさんざん悩んだ末に、’wipe my hand ' 等と言う.正解は’dry my hand ' だが、これを聞けば、「手を乾かす」 と訳すと思う.頭の中は機械翻訳と同じなのである.直訳より意訳の方が正しい事が多いのである.

「それをしまいなさい」は ’put it away '、「それをとってください」は ’let me have it ',である.日常会話での言い回しは、理屈や翻訳なしに、身体に覚え込ませるしかないのである.

又、日本人が間違いやすい会話がある. 例えば、' It's not hard work ,is it ? ' 「しんどくないよな?」 に対し、「しんどい」 と思っても、hard work .が頭に残って、yes と言ってしまうことである.これだと「そうの通り,しんどくない」となってしまうのである.とっさにno と言えないのである.

又、' Don't open the door ' と言った時、no と言われたら、「逆らう気か」 とムッ とするが、本当は「わかりました」である. open に対する no で 「あけません」と言う意味になるのである.

そんなわけで,会話の言い回しは、聞くときも、話す時も、訳そうとせず、イメージで、聞いたり、話したり、あるいは慣れるしかないと思うのである.英語落語はそれを教えてくれていると思う. 

最後に、これは私見だが、こんな事もある.カントリーソングを直訳したら、全く意味不明になる事がある.その時の心情、情景,あるいは文化キリスト教の教え,を知らない事が原因だと思う.逆に直訳で意味がわかったつもりでも、本当の意味は全く違う事だってある.従ってカントリーソングやブルースを人前で歌ったり、曲の好き嫌いを言う時、要注意である.

例えば、結婚式で、好きな曲だからと言って、歌ったら,原曲が黒人霊歌のキリスト賛歌の歌だったり、葬式の歌だったりする.よく結婚披露宴で歌われるSTAND BY ME (私のそばにいて、私を支えて、)と言う歌は黒人霊歌のキリスト教信仰の歌である.そばにいて欲しいのは、彼氏や彼女ではなく、イエス キリストなのである.

このように、曲の意味を取り違えて理解している事はカントリーソングだけではなく、音楽全般あるいは映画全般にもあると思う.それは、言語能力で起こるのではなく,文化の違いで起こるのである.音楽や映画が文化を表しているとすれば,当然、起こり得るのである.

人に伝える為には、言語知識と経験知識とBODY LANGUAGが必要だと、改めて思うのである.従って、経験知識を共有していない文化圏間のコミュニケーションでは,意味の取違いが起こるのは当然なのである.

そんなわけで、英語落語の’WHITE LION’のように、経験知識をほとんど要しない内容で、英語を身に着ける事は理に適っていると思うのである.

以上,お後がよろしいようで. 

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2017.01.12

457 日本語力が危ない

下記の問題は10数年前に見ているのだが,久しぶりに、これを見ると、明らかに、今の方が、自分の国語力が落ちている事に気づく.随分,恥をかいてきたと思う.これからも、恥をさらし続けそうである.

たとえ、ワープロのチェック機能が強化されて,恥をかかなくなったとしても、その分、自分の日本語力は、さらに低下すると思う.その内、ワープロなしでは日本語を書けなくなるかもしれないのである.

ナビを見て運転していると、どこを走って来たか記憶に残らなくなり,その内、ナビなしでは運転できなくなる事と同じである.

そんなわけで、手書きがなくなる程、日本語力(漢字力、言葉使い力,手書き文字力)が低下し、恥をかくどころの騒ぎではなくなる気がするのである.

間違いと正解例.(日本語倶楽部発行’そんな日本語力では恥をかく’を引用

間違った例のあとに( )内に正しい言葉を記述している.

・前代未聞の快挙(の珍事、の不祥事、の事件)
・喜びをひしひしと感じる(しみじみと感じる)
・毎日が東奔西走だ(毎日が東奔西走の忙しさだ,東奔西走の毎日だ)
・負債総額としては空前絶後(負債額としては空前)
・電車が混まない前に帰宅する(混む前に帰宅する)
・ネクタイをしないまま出社した(しないで出社した、せずに出社した)
・朝帰りは家に入りにくい(家に入りづらい、字が小さくて読みにくい)
・部屋中お祝いの花だらけ(花でいっぱい・借金だらけ)
・美しい絵画を唖然として見とれる(絵画の美しさに陶然として見とれる)
・父親の死に唖然とする(呆然とする)
・能力が低いことに負い目を感じる(引け目を感じる)
・対戦相手はきしくも,幼なじみだった(くしくも・奇しくも)
・縁は奇なもの(異なもの)
・口をつむる(口をつぐむ・目をつむる)
・炎が燃えたぎる(燃え盛る・煮えたぎる・血がたぎる)
・舌づつみ(舌つづみ・舌鼓)
・さかてに取る(ぎゃくてにとる・逆手に取る)
・鉛筆をぎゃくてに握る(さかてに握る・逆手に握る)
・予想以下の不振だった(予想外の・予想に反して・予想以上の不振)
・計画を実現化する・定員の削減化をはかる(実現する・削減する)
・豪華絢爛な時代絵巻(豪華絢爛たる時代絵巻)
・気持ち的には負けていない(気持ちでは・精神的には)
・彼は何も知らなさそうだ(彼は何も知らなそうだ)
・手離しで喜ぶ(手放しで喜ぶ)
・彼は口が固い(口が堅い・手堅い・義理堅い)
・片を付ける(方を付ける)
・きずなが深まる(きずなが強まる・太い・固い)
・手をこまねく(手をこまぬく)
・機転が効く(機転が利く)
・「はいはい」と二つ返事で引き受ける(「はい」と二つ返事で引き受ける)
・大代に乗る(大台に乗る)
・いまだかって(いまだかつて)
・身命を投じて(身命を賭して)
・頭をかしげる(首をかしげる)
・熱にうなされる(熱に浮かされる・夢にうなされる)
・順風に帆をはらむ(順風に帆をあげる・順風を帆にはらむ)
・子供たちは勝利に意気高々(意気高らか・鼻高々)
・灯下親しむ秋(灯火親しむ秋)
・魚心 あれば 水心 あり(魚、心あれば 水、心あり)
・過半数を超える(半数を超える・過半数を占める・過半数に達する)
・淡白な性格(淡泊な性格)
・卒直に言って(率直に言って)
・大古の昔(太古の昔)
・肉迫する(肉薄する)
・既製事実(既成事実)
・脅迫観念(強迫観念)
・使命観が強い(使命感が強い)
・いえじゅうで出かける(うちじゅうで出かける・家中で出かける)
・快晴のした開会式が行われる(快晴のもと・快晴の下)
・ふんべつゴミ(ぶんべつゴミ・分別ゴミ・あの人はふんべつがある)
・仕事がひとだんらくする(いちだんらく・一段落)
・のうさくもつ(のうさくぶつ・農作物)
・相手を力づくで押さえる(力ずく)
・傘をすぼめた(半開きにしたのなら,すぼめる・たたんだのなら、つぼめる)
・走り幅跳びの踏切のタイミング(踏み切り)
・タイだの、イサキだの、ヒラメが並べられていた(ヒラメだのが)
・彼は意外とやさしい(彼は意外にやさしい)
・鮎の塩焼を有田焼きの皿に盛る(鮎の塩焼きを有田焼の皿に盛る)
・彼はきっと成功しないだろう(彼はきっと失敗するだろう)
・バレーを踊る(バレエを踊る)
・佐藤氏ほか9名(佐藤氏ら9名・佐藤氏はじめ9名・佐藤氏以下9名)
・体の異常を訴える(体の異状を訴える)
・線路と平行する道(線路と並行する道)
・野生的な男(野性的な男)
・写真を修正する(写真を修整する)
・ホンモノ指向(ホンモノ志向)
・一人言をいう(独り言をいう)
・似た者同志(似た者同士)
・映画を観賞する(映画を鑑賞する・野に咲く花を見るのは観賞)
・飛行機は着陸態勢に入る(着陸体勢)
・映画制作会社(映画製作会社・テレビ番組は制作・創造物は制作)
・群集を煽動する(群衆を煽動する・野次馬が群集する・群集心理)
・彼は意思が強い(彼は意志が強い・本人の意思を尊重する)
・学級を編成する(学級を編制する・予算を編成する)
・予備校の夏季講座(予備校の夏期講座)
・実践的なトレーニング(実戦的なトレーニング・彼は実践家だ)
・過去を精算する(過去を清算する・
旅費を精算する
・泥棒が浸入する(泥棒が侵入する・侵攻・侵略・侵出)
・彼は良い性格だ(彼は善い性格だ)
・財産を増やす(財産を殖やす)
・山を超える(山を越える・限度額を超えて借金する)
・イスの足が折れる(イスの脚が折れる・差し脚・脚長バチ・雨脚・脚線美)
・犯人探しをする(犯人捜しをする)
・借金の返済に当てる(借金の返済に充てる)
・白髪混じりの頭(白髪交じりの頭)
・卵を生む(卵を産む)
・議長を勤める(議長を務める)
・優秀な成績を修める(優秀な成績を収める)
・時計が遅れる(時計が後れる)
・消息を断つ(消息を絶つ)
・癌と戦う(癌と闘う)
・小踊りして喜ぶ(小躍りして喜ぶ)
・8日まで出社しません(9日に出社します)
・部長の決済をあおぐ(部長の決裁をあおぐ)
・利益追究(利益追求)
・景気が鎮静する(景気が沈静する)
・こういうご時勢だから(こういうご時世だから)
・時期を逸する(時機を逸する)
・交代で勤務する(交替で勤務する)
・責任を転化する(責任を転嫁する)
・満10周年(満10年・10周年)
・パソコンの実態(パソコンの実体・電子商取引の実態)
・最少限の人数で行う(最小限の人数で行う)
・ご静聴ありがとうございました(ご清聴ありがとうございました)
・ご多忙中にもかかわらず(ご多用中にもかかわらず)
・感謝の気持ちに耐えない(感謝の気持ちに堪えない)
・暖かいもてなし(温かいもてなし)
・慎んでお詫び致します(謹んでお詫び致します)
・厚くお詫び申し上げます(深くお詫び申し上げます)
・先生より優秀な方をご推薦ください(先生から優秀な方をご推薦ください)
・恩師の話を心して聞く(心して聴く)
・病気が回復する(病気が快復する)
・勇気を振るって(勇気を奮って) 

皆さんの感想はいかがですか.最近、テレビ番組で日本語の問題がよく出ますが,意外と漢字が書けなくなっている自分に気が付きませんか.

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2015.12.26

420 世間の好みと自分の好みの乖離現象

どうやら、年配者と言われる私の音楽や映画の好みが世間から、どんどんかけ離れて行く感じがしている.

私は音楽で言えば、50年代から60年代の米国音楽のカントリー,スイングジャズ、スタンダードジャズやハワイアン、ラテン音楽が大好きである.これらの洋楽があまりにも、表現とリズムが豊かで、カッコよかったからである.この好みは,ベンチャーズ,エルビスプレスリー(70年代前半)の頃まで続いた.今でも、その頃までの洋楽が大好きなのである.

ベニーグッドマンやベンチャーズのサウンドにはウキウキするし、トリオロスパンチョスのラテンには哀愁が漂うし、プレスリーのロックンロールには体がゆすられるし、プレスリーのラブバラードには弾き語りにピッタリの雰囲気がある.そんなわけで、それ以降の音楽には興味が湧かなかったのである.

ビートルズは70年代に登場したが、最初、子供バンドのように聞こえた為か,何の興味も感じなかったし,その後も,興味を持つ事はなかったのである.

一方、好みの日本歌手で言えば、ジャズを唄っていた頃のフランク永井、ハワイアンの大橋節夫、カントリーのジミー時田、オールラウンドの尾崎紀世彦、等である.特に大橋節夫の数多い名曲や尾崎紀世彦のカントリー、スタンダードジャズ、ハワイアンは,世界にも類を見ない、飛びっきりの実力に魅了されたのである.

反面、日本の演歌、歌謡曲、フォーク、JーPOP(ポピュラー,ブルース、ロック等)に,カッコよさを感じなかった事もあって,あまり興味が湧かなかったのである.

映画もやはり,40年代から50年代の米国映画が好きである.大自然の中で繰り広げられる西部劇や風と共に去りぬ、ベンハーのような超大作は今でもすごいと思う.映像も自然色で深みがあって,実にきれいである.その後,アクション映画が多くなると、特撮やCGを屈指した映画が増えて,私の好みから離れて行ったのである.今も、ハリーホッターやスターウオーズ等の世界的人気映画にも興味が湧かないのである.食わず嫌いかも知れないが.

アニメでも同じ感じを持っている.何といっても、40年代の白雪姫,シンデレラ、ダンボ等のデ゙ズニー長編アニメである.現在でも、これを超える作品はないと思っている.

デズニー長編アニメではキャラクターや動物の動きは勿論、顔の表情から指先や服の動きまで、徹底的に研究し,一秒間に24コマ以上の絵で、一作品20万枚ほどの絵が描かれているのである.童話アニメではあるが、人の心をつかむ感動的なストーリーも素晴らしいが、表情豊かな,繊細な動きや音楽、擬音へのこだわりも、すごかったと思う.

当時としては一作品15万ドル程の巨額の投資と600人程のアニメーターを投入して、作品を次々に世に出したのである.勿論、このデズニー長編アニメは映画に革命をもたらし、世界的に,一世を風靡したのである.

れらの作品を通じて、アニメ映画の人気だけではなく、多くの挿入歌が名曲として,世に送り出された.キャラクターのライセンスビジネスやデズニーランドビジネスの展開にも,繋がって行っ.た又、デズニーの多くの失敗を経て、ここに至るまでの生き様も、今の世に受け継がれているのである.

日本で人気のテレビアニメのサザエさんやドラエモン、アンパンマン,等は、動画と言うより紙芝居に近く、比較できないが、最近の劇場用のデズニー長編アニメはCGがベースになり、映像に、きめ細かい手作り感がなくなった感じがする.宮崎駿の劇場漫画も,きめ細かい画像作りをやっているが、どうしても、作画の省略があって、動きに,ぎこちなさが感じられるのである.

そんなわけで、もう、40年代のデズニー長編アニメのような劇場漫画は誰も作らなくなり、結果、我が家では、子供から孫に至って、今でも、昔のデズニーアニメを何回も見ているのである.こんなロングランは我が家だけかもしれない.ついでに、日本語版より英語版の方が英語の勉強になる余禄もある.

以上の様に,私の好みは,40年代,50年代,60年代の米国の音楽,映画,アニメ、に,止まったままになっているのである.もっぱら,音楽は,YOU TUBEで往年の名プレーヤーの本場の音楽を楽しみ,映画はDVDを大型テレビで,見ているのである.

少し寂しい感じもするが、良寛の『世の中は,混じらぬとはあらねども、ひとり遊びぞ我はまされる』の心境である.

どうやら、私は、鍛え抜かれた人間の技と労力に、いわゆるARTに感動するが,工業製品や工芸品にはあまり感動しないのである.

建築物や絵画や彫刻の好みも同じである.現在の金をかけた学芸会の様なコンサートも,迫力満載のCG映画も、電子音楽も、私からすれば、うるさいだけで、本物感が乏しく、人間のすごさが感じられなく、興味が湧かないのである.

戦後,米国ポップスに影響されて,今でも、『カントリーやジャズが好きだ』と言う人が結構いると思う.年配者が演歌とJ-POP中心のNHK紅白歌合戦を見ない事と符合するのである.

今、J-POPが好きな若者が60歳代,70歳代になった時,今度は,『J-POPが好きだ』と言う年配者が多くなる思う.『世は歌につれ』と言うが,その歌は数十年のタイムラグで、年配者の好みになるのである.いずれにせよ『年配者は演歌が好きだ』と言う既成概念は,すでに変わっていると思うのである.

ただ残念な事がある.日本の伝統的な芸能が、今の芸能に繋がっていない事である.日本の伝統的芸能は古典と言う枠の中でしか存在せず、その内、演歌も、懐かしのメロディから,古典の枠に入るかもしれないのである.総じて、欧米文化の普及で、日本文化が現世から切り離されて、古典として扱われて行く事と同じ潮流である.日本の『おもてなし』も、すでに、古典の中にしか存在していないのかも知れない.

そんなわけで、出来る事なら,現役世代の好みが多様化し,勿論、カントリーやラテン、ハワイアンが好きな若者もいて、将来は、『趣味も才能も豊かで元気な年配者』が多くなる事を期待したいのである.

PS

ついでながら、自分の好みが、社会から、離れていると感じる事は音楽や映画だけではない.例えば,人気があると言われて、連日、頻繁に流れている、ソフトバンクやauの一連のテレビコマーシャルである.私には、CMの意図や人気の理由が、さっぱり、理解できないのである.いらつく程である.相当、社会の嗜好、感性から私は乖離していると思わざるを得ないのである.

テレビついでに言えば、私のテレビの視聴傾向はNHK(特にBS)に傾斜している.その理由は、自分に時間が多くあるから,受信料を払っているから、民放の番組が軽薄になって来たと感じているから、特に、関西地区はローカル番組が多く、それに拍車をかけているから、或は、コマーシャルがうるさいから、かも知れない.

何れにせよ、この私の民放離れも、社会の嗜好から離れている事かもしれない.それとも、テレビが斜陽化しているのだから、当然の事なのだろうか.

 

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2015.11.10

414  日本人の組織論軽視への懸念

言うまでもなく企業の組織とは目標を達成する為に、政策を実現する為に、使命(ミッション),役割、機能,権限,責任を持った機能体の集合である.

各機能体はそれぞれのミッションに基づいて行動するのだが、同時に、ミッションに応じたナレッジの蓄積や人材の育成も、重要な役割なるのである.この様に各機能体は『事業推進のフォーメーションの一翼を担う』と同時に『ナレッジ,人材の畑』になるのである.

従って、この機能の集合体をどう作るのか、その機能体をどう活発に作動させるのか、は企業の重要なテーマなのである.この組織及び組織運営のあり方は企業のみならず,国家の統治機構を含めた,あらゆる組織に共通しているのである.

この重要な組織及び組織運営のあり方に対し、日本文化の影響からか、日本では,あまり重要視していない気がするのである.いくつか例を上げてみたい.

①企業の情報システムを設計する時、基本になるのは、その企業の組織体系図である.その部門の役割、機能、権限,責任を知ることが、情報システムの設計の基本になるからである.

ところが、現存の組織を見た時、機能、権限、責任が曖昧であったり、ひどい時には、組織体系図が書けない企業もある.そんな場合、情報システムの設計の前に、会社の機能の体系化とそれによる組織設計から始める事になるのである.

こんな経験もある.製品の販売価格、値引き、を、どういうプロセスで、誰が、決めているのか、と質問すると,その曖昧さが露呈し、大議論になる事がある.勿論、この質問は、企業の販売・利益管理体制や権限の問題に直結するからである.同じように、在庫の責任と管理の仕組みを聞くと、同じような現象が起こる事が多いのである.

②これまでに世間を騒がした,耐震偽装問題、理研のSTAP細胞の問題、東京オリンピックに向けた,国立競技場やオリンピックエンブレムの白紙撤回の問題、各競技施設の見直問題、ビル建設の杭打データ偽装問題、などが発生したが、いづれも、機能体組織に問題があると思う.その理由は責任体制が曖昧だからである.

通常、組織とは事業を推進する体制を表しているが,同時に,リスクに対する責任体制も表しているのである.従って,その責任体制が曖昧だと言う事は,その組織に問題があると言わざるを得ないのである.

『問題が起これば別途協議』と言う日本人の曖昧な契約文化が、事前のリスク対策を先送りにし,それが組織作りにも表れているのかも知れない.欧米の『リスク対応など細かく対応を決めて仕事を始める』と言う契約文化、ジョブデスクリプションによる作業文化、とは大違いである.日本人は会社や役所に就職するが、欧米人は職種に就職する,違いもある.

③大阪府と政令市の大阪市の二重行政の問題が議論されているが、これも地方の政治・行政組織の問題である.

同じエリアに同等の機能と権限を持った大阪府と大阪政令市が二つあって、しかも、別々に選挙が行われるのだから,二重行政が発生するのは当たり前の現象なのである.従って、これをなくすには、政令市を廃止Ðするしかないのである.これは、全国の道府県と政令市の関係に共通した行政組織の問題なのである.

又,知事と府会議員、市長と市会議員も別々の選挙で選ばれる為、それぞれに民意が衝突する事も必然である.加えて、それぞれの議会議員は中選挙区制で選ばれる事から、政党が単独過半数を得る事はほとんどあり得ない中で、首長・政党・議会が『なれ合い所帯』になったり、あげくに,大きな政策が出来なくなったり、地方政治の改革の足を引っ張ったり,投票率がいつも低調になったり、するのである.この事も、現在の自治体組織制度のあり方で起こる問題なのである.

更に言えば、260万人の大阪政令市で道府県の同等の機能と基礎自治体の機能を大阪市長が一人で対応する事は根本的に不可能である(公選される県知事、十数人の市町村長の仕事を一人でやるようなもの).従って、よく言えば政令市市長は調整役、悪く言えば、お飾り、あるいは名誉職になりかねないのである.これも政令市制度の問題である.

このような地方自治体の政治・行政組織には多くの問題が内在しているのだが、結局、現行の組織制度は自治体の意思決定をやりづらくする制度だと言える.『中央集権を強め、地方に勝手な事を決めさせない』と言うコンセプトに従って,現行の自治体組織制度が作られているなら見事な制度である.(勿論、皮肉だが)

これらの問題に対し、大阪維新の会が、二重行政を廃止し、大阪府全体を競争力のある都市にしよう、社会投資を一元化し、投資効率を上げよう、無駄な財政支出をやめよう、政令市大阪の役人天国をやめよう.,大阪市を住民サービスを任務とする複数の基礎自治体に分割しよう、と言う大阪都構想を打ち出したのは、まっとうな提案なのである.

これに対し,大阪府と大阪市の二重行政の問題は、話し合いでうまくやろう、等と言人がいる.しかし、その主張は上記の問題指摘の様に、組織原理からして、あり得ない主張なのである.歴史も、それでは、うまく出来ない事を証明しているのである.この人たちは、組織論に無頓着か、現状の政令市の既得権を守ろうとする人たちの主張にしか見えないのである.

又、明治以来の中央集権統治機構を、機能、権限、予算が肥大化している現在、思い切って、地方分権体制に移すべきだと言う構想もあるが、まさに、これも、組織論の話になるのである.

④海外企業と共同事業を始めようとする時、海外企業の発想は機動力発揮の為に、共同出資の別会社を作る事をイメージする.一方、日本人は既存組織の中でやる事をイメージする.日本人は新しい事を始める事には躊躇しないのだが、別会社設立となると、とたんに躊躇してしまうのである.日本人の起業が少ない事と関係していると思う.どうやら、新しい組織を作る事に大きなハードルを感じてしまうのかも知れない.

⑤日本人は、器用に、一筆書きで物を作る事は得意だが、論理設計(仕組みの設計)をして、多くの人に作らせる事は苦手だ、と言う傾向がある.よく言われる、職人文化と言われたり、テクノロジー(技術)は得意だが、アーキテクチャー(方式・仕組みの設計)は不得意だ、と言われる事でも、明らかである.これは物つくりの話だけではなく、その物を作る組織作りにも連動した話なのである.

複雑なソフトウエアー開発で言えば、日本人はコンピューター、パソコン、スマートフォン、の基本ソフト(OS)を作ったことが無い.財力の問題もあるが、OS全体のコンセプトイを決め、巨大なソフトの論理設計(構造化設計)をし、それによる分業開発体制を編成する、と言う一連の作業が苦手なのである.企業や金融の巨大なアプリケーションソフトの開発も、巨大なパッケージソフトの開発も、同じ様に感じるのである.

私の経験で言うと、大きな目標や課題解決に対し、米国人は先ず、それに必要な、大きな機能を切り出して、ブロックにし、全体の機能関連図を描くのである.そして、それぞれのブロックをさらに機能細分し、幾層にも、ブロックを展開して行くのである.まるで開発の組織体制図を書いている如きである.

これが機能体系図(=組織体系図)であるが、この機能体系図で重要な事は、機能ブロック間のインターフェースを定める事、細かな機能は逐次追加開発で可能になる事、トラブルやメンテナンスを局所化出来る事、並行して開発出来る事、組織編制や進捗管理や予算管理や責任体制が明確になる事、等、まさにプロジェクトマネージメントが的確に出来る事である.この機能体系図を的確にできるかどうかが,製品つくりや,組織作りに大きく影響するのである.

この論理設計に関して、日本人は、器用さ、阿吽の呼吸、和の精神、が災いしてか、構造的に論理を展開する事が、総じて苦手だと感じるのである.それが組織のあり方の軽視につながっているように思えるのである.

当ブログNO029『一頁と100頁の契約書に見る日米文化』(06・01)で発信した日米文化比較と類似しているのである.

以上、日本人の組織軽視の傾向に関して、その懸念を述べたが、日本人は、事業計画でも、組織作りでも、製品つくりでも、次の三つを連動させて認識すべきだと強く思ったのである.

①コンセプトの重要性(事業・組織・製品の考え方、目標)
②コンセプト実現に向けた合理的な論理設計の重要性(製品・組織の機能体系化)
③組織の機能体系化による専門家集団の形成(リーダーシップ,機動力)

是非,この三つの視点で,現状の事業(製品,組織)を見直すべきだと思うのである.各組織に属する人たちは、その役割、機能を発揮する為の研鑽を見直すべきである.勿論,これは,企業だけではなく、政治・行政の組織も同じである.

日本人はよく、一致団結とか、話し合いとかの掛け声や、組織より中身だ、と言ったりするが、それが,事業や組織の脆弱性,不合理性,不効率性を隠してしまう事になれば問題である.大きな組織体であるほど,これでは、良い成果は生まれない、どころか、組織全体が烏合の衆になって行くのである.事実、烏合の衆ほど,抽象的なエールが飛び交うのである.

ところで、オリンピック開催準備及び本番運営で言えば、政府及び国の各行政機関、東京都の各行政機関、オリンピック組織委員会、更には、関係企業、ボランティア組織、等による、巨大な組織になると想像する.

はたして、すべての役割を洗い出して、ツリー構造の全体組織体制をきちっと描かれているのだろうか.もし、描かれていないのであれば、各組織のリーダーシップも発揮されず、役割の漏れ,責任不在、臨機応変な対応、予算管理、進捗管理、新たな問題への対応、等、まさに巨大なプロジェクトの管理が出来なくなるのである.

私見であるが、誰がこの組織体制を考えているか,さえも分らず,大変心配しているのである.日本人はしっかりしているから大丈夫だ、は,あまりにも楽観的過ぎると思うのである.組織の重要性を軽んじて欲しくないのである.

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2015.05.17

399 イルカ・クジラ問題が示唆する『感情による支配』

数々の賞を取った、ドキュメント映画による『追い込み漁』の批判、シーシェパードによる過激な捕鯨妨害、南氷洋における日本の調査捕鯨の禁止、米国の『追い込み漁』は非人道的だとする発言、等があったが、今度は、世界動物園水族館協て会(WAZA)が『追い込み魚』は協会の倫理規定に違反するとして,そこで捕獲されたイルカを水族館が購入する事を禁止したのである.

これを守らないと、日本はWAZAから除名し、日本と海外との、すべての動物の売買、貸し借りを禁止すると言うのである.

この一連の動きの根底に、明らかに、クジラやイルカに対する欧米の感情がある.イルカやクジラは、『哺乳動物で可愛い上に知能がある』と特別視しているのだと思う.しかし、この感情は他の哺乳動物への感情と整合しているはずもなく、もちろん、国際法で決めているわけでもないのである.

日本は、生きている者すべてに尊厳を感じ,自然と共生している民族だと思うが、どの民族でも、いろんな状況の中で、動物への感情に矛盾を持ちながら、折り合いをつけて動物と接しているのである.人間側の都合で人工的に繁殖した動物と野生の動物と感情が違うのも矛盾である.

いろんな動物への、いろんな感情に対し、国際法では科学的な視点で『捕獲禁止の野生動物』を定めている.WAZAの判断は、『追い込み漁』のどこが協会の倫理規定に反しているのかも答えず、さらに、国際法のどこに抵触しているかも答えず、感情優先の判断を下したのである.

WAZAの判断は国際法から見ればローカルな位置づけかも知れないが、いろんな感情の中の、一つの感情で、相手を非人道的だ、やめなければ制裁を科すと言うのは、イスラム教徒が豚を食べない事を他の宗教徒に押し付けない事と比較すれば、露骨なまでの『感情の押し付け』に写るのである.

この事は、明らかに、イルカやクジラに限らず『自分の生理的感情によって、相手の感情を抹殺する』『生理的感情によって、世界秩序を支配する』につながる、危険な行為だと思うのである.

この精神文化は、何でも受け入れて来た日本の精神文化から見ると、欧米人の本性に潜む、恐ろしい『蔑視、差別、排除』の精神を感じるのである.

同じ感情を持つ人が多いからと言って、それ以外の感情を排除するのは、論理や言論を封じる事になるのである.これが大きな過ちである事は人類の歴史が嫌と言うほど証明しているのである.

しかし、このような正論を言ってみたところで、国際社会では多勢に無勢である.論理で戦えない苦しさもある.従って、極めて残念な事だが,イルカやクジラに限らず、『感情による支配』が、グローバル・ボーダレス時代の進展とともに、露骨になって行くのではないかと危惧せざるを得ないのである.

日本はこれまで、合理性と言う新たな価値観で、近代日本を築く一方、伝統的日本文化も一枚一枚剥がされ、『和洋折衷』『和魂洋才』に変貌して来た.

更に、昨今、グローバル化で海外との人の交流が盛んになると,これまでの『文化や制度の融合』から『文化や制度の共通化』の時代になり、日本文化や制度がさらに大きく変わらざるを得ない時代になってきたのである.

今回の出来事は、この変化に、さらに、『欧米との感情の共通化』と言う圧力が加わる事になるのである.その意味で、イルカやクジラの問題は序の口の問題だと言えるのである.

今後、『おもてなし文化』は芸者ガールのイメージと連動して、突然、女性蔑視、人権無視と言われかねないし、日本の『解体ショー』や『生で食べる』文化は生理的に許せない非人道的な文化だ、と言われかねないのである.ばんえい競馬も闘牛も動物愛護の精神で非人道的と非難されるかもしれないのである.

更に言えば、刺青に対する日本の感情や制度も、同性婚を認めていない日本の制度も,人権無視に写るかもしれないのである.キリストの誕生を祝う気持ちもなく、クリスマスで大騒ぎする日本は、キリスト教の冒とくとしていると、非難されるかもしれないのである.

挙げればきりがないが、当ブログで、『葛藤する日本文化』で度々発信して来た.

NO384葛藤する日本文化④ では日本は『五常・五倫の教え』(仁・義・礼・智・信と父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の教え)と『人権・自由・平等の教え』が混在し、極めて分かりづらい、その上で、日本の文化は人権無視だと言われかねない事を発信した.

又、NO 372グローバル化(ボーダレス化)と日本文化・制度の行方 でも、物の交流から人の交流に移ると,日本の文化や制度が直接、外国人に接する事になり、そこで問題視されそうな日本の文化・制度を上げている.

いずれにしても、国際社会で生きて行く以上、ガラバゴス島にならないように、日本の文化、制度を国際感覚と共有できるように変貌せざるを得ないし、これが日本の宿命だと感じるのである.

しかし、言葉で言うのは簡単だが、固有の文化の良さまで放棄してよいのか、古来の文化と現在・未来をどう繋げていくのか、日本のアイデンティティや行動規範をどうするのか、と苦悩する事が多いのである.しばらく、日本人の精神文化は落ち着かない状態が続く事だけは確かである.

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2014.12.30

384 葛藤する日本文化④

当ブログNO002葛藤する日本文化①, NO019葛藤する日本文化②、 NO262葛藤する日本文化③、に引き続き、NO384葛藤する日本文化④を掲載したい

①儒教の五常・五倫教えの葛藤

紀元前、孔子は五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより、五倫(父子,君臣,夫婦,長幼、朋友)関係を維持すると言う儒教を唱えた.

日本へは、513年頃、百済から,伝わったと言われているが、『古事記』によると、これ以前の5世紀頃だと言う.

日本では儒教は学問(儒学)として受容され,国家統治の経世在民思想や帝王学的な受容をされたため,神道、仏教に比べて,宗教として意識されることは少なかったようである.そこで、奈良時代の律令制で官吏養成および学問研究として取り入れられたのである.

しかしながら、日本において科挙制度が取り入れられなかったためか儒教の価値が定着せず、学問の主体は,実学的な文章道に移り,次第に衰退したと言われている.空海が道教とともに批判するなど、仏教の隆盛も律令儒教の衰退の原因のひとつとなったのである.

江戸時代になると,それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ,一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離).そして,幕府によって封建支配のための思想として採用された.江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し,やがて尊王攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなったのである.

明治維新後に,資本主義経済が入ってくると,実業家の渋沢栄一氏は、資本主義経済の発展の為に、経済活動のマナーとして儒教の教えを説いたのである.いわゆる、『道徳経済合一』,『道徳と利潤の一致』,『経済は最大の道徳』,『士魂商才』の教えである.

明治中期以降から太平洋戦争までの一連の戦争時代になると,忠義、孝行の教えは,戦争の心の支えになったり,教育勅語として,子供の教育にも使われたのである.

敗戦後、西洋思想の『人権・自由・平等』の思想の普及や、これによる本格的な民主政治が始まると、儒教の教えは,統治の手段として言われる事はなくなったが、『人間の行動規範』として心に深く残ったのである.

例えば,企業間の取引や会社と社員の関係にも、目に見えない信義が大事にされ、西洋の契約社会とは全く違う文化として,日本に残ったのである.単一民族国家と多民族国家の違いである.

しかし,家父長制度や年功序列、集団主義.等の秩序が人権・自由・平等の思想とぶつかる事になるのである.大きく言えば、東洋文化と西洋文化の衝突である.今でも続く葛藤である.

②人権・自由・平等の教えの葛藤

この教えは18世紀後半のフランス革命での宣言から始まり、日本での民権運動にも影響を与えたと思うが、国民にとっては、輸入された政治思想である.もちろん、儒教のような長い歴史もない.もちろん儒教のような体系化された教科書もない.ただ、封建政治から民主主義政治への移行の中で、議論や立法の中で形成されながら、この教えが認知されて行ったのである.

しかし、この人権・自由・平等はフランス革命の時の宣言だが、この時の意味は王朝政治からの脱却だったのだが、時代と共に、二つの範囲に広がって行ったのである.

一つは『人間の行動規範』と言う広義の範囲である.もう一つは『法律で具現化された強制力のある規範』と言う狭義の範囲である.そして、それぞれに、を持って理念に適うのか、適わないのか、と言う判断基準の難しさにぶつかる事になるのである.

又,それぞれの理念を徹底的に追及すると、それぞれの理念がぶつかり合って、逆に、その理念が実現できなくなる、と言う『合成の誤謬』と言う矛盾にも、ぶつかるのである.

人権を徹底すれば不自由になり、自由を徹底すれば無秩序や不平等になる.平等を徹底すれば均一になり、人権や自由が制限されるのである.結局、それぞれを徹底すると,それぞれが出来なくなると言う矛盾が起こるのである.

法律の世界でも、商法、社会保障制度、民法、刑法、税法、或は選挙制度、等、あらゆる法制度において、人権、自由、平等のそれぞれの理念の適用程度の問題や『合成の誤謬』の問題が内在しているのである.そして,時々,違憲、合憲で揉めるのである.

自然保護,公害防止,安全基準,等の法的規制(社会の成熟とともに拡大すると思うが)がある事を前提にしてだが、『自由の結果の不平等』(格差拡大)が問題だ、自由競争社会はけしからんと言う意見がある.一方では、『機会の平等の下での自由(フェアー・フリー)』が大事で、その為の機会作りや結果的に生まれる敗者・弱者の救済制度が必要だと言う意見もある.

前者はじゃ、どう言う社会にしたいのか、と問うても、答えがない.実際は後者の意見が現実的なのだが、一方の価値観に偏ると、社会の仕組みが作れなくなるのである.

このように,人間の行動規範としても、法制度化にしても、適用程度を考えながら、合成の誤謬にならないように、この理念の適用を考えねばならないのである.永遠の葛藤かもしれない.

③『五常・五倫の教え』VS『人権・自由・平等の教え』の葛藤

日本には①②のそれぞれの葛藤があるが、さらに『五常・五倫の思想』と『人権・自由・平等の思想』と言う二つの価値観がぶつかり合った時の葛藤もある.

文化は歴史的産物であるだけに急には変われないところがあり,五常・五倫には敏感だが、人権・自由・平等には鈍感だ、と言う温度差が生じたり、どちらを取るかと言う葛藤が起こるのである.

例えば,伝統芸能や伝統競技,あるいは宗教や祭事の等の伝統的な文化は人権・自由・平等,あるいは法制度となじまないところがある.

例えば,修行と称して、四六時中滅私奉公を強制したり、厳しい縦社会を守らせたり、厳しいシゴキが日常化していた時,それが人権、自由、平等、の理念や刑法、労働基準法、等の法制度に触れるとして、問題になる事がある.まさに、二つの文化がぶつかり合った問題である.

ただ、法治国家の名の下では,伝統的な文化,価値観より、人権、自由,平等、或は、法的な判断が優先される事で,伝統文化(日本的なもの)が衰退していく事は避けられないのである.これも又、古典的文化の存続にかかわる葛藤なのである.

④今後の行動規範や倫理、道徳教育の葛藤

戦前にあった国家神道、教育勅語が敗戦と伴に解体され,『人としての在り方』を公的に教育する事がなくなった.戦前教育のトラウマがあるからだが、宗教や政治思想を超越した倫理,道徳の教育までも、放置されてきたのである.学校も,家庭も,この教育に希薄で,せいぜい,スポーツを通じて,体力,精神力,マナー,等の育成をしているのが実態だと思うのである.

その結果、上述のように,①儒教に関する葛藤,②人権・自由・平等に関する葛藤、③それらがぶつかる葛藤、があり、加えて、神道、仏教、或はキリスト教などの宗教が入り混じって,④人間としての行動規範も葛藤を続けているのである.

最近,文部省が宗教や政治思想と関係しない部分の『人の在り方』の教育を進めようとしているが,まだまだ,議論が多く、前進していないのが実態のようである.

正解のない,精神文化の教育は,国の教育になじまない,国が介入してはならない,何を誰が教えるのか,習得の評価をどうするのか,学問の自由,宗教の自由,政教分離との折り合い,等々,入口の論争が依然と多いのである.諸外国と比べる,腫れ物に触るような異常さである.

ところで,日本の宗教である神道は.子孫繁栄・自然崇拝を唱えている.神道には確定した教祖,創始者がおらず,仏経の経典やキリスト教の聖書にあたる明確な聖典がなく、神典と称される古典を規範としているのである.

古典の規範とは自然と神とは一体的に認識され,神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀(神事)であり,祭祀を行う場所が神社だとしているのである.

皇室の氏神である伊勢神宮では毎日の神への食べ物のお供えに始まって,年間延べ1000回の神事が行われていると言う.又、20年毎に行われる『式年遷宮』では遷宮までの10年間で準備がされるが,工程の節目で30数回の神事が行われている.1万本と言われる樹齢200年~300年の檜の伐採、伊勢への運搬、新殿用の調度品等の政策、植林、等々、壮大なプロイジェクトが全国規模で10年間に渡って行われているのである.

この『式年遷宮』は藤原京時代の持統天皇(天智天皇の子、女帝)の発案であるが,意味するところは『降臨の儀式』(神が舞い降りる儀式)である.これを20年毎に行う事によって,技術,文化が継承されるだけではなく,神,天皇の神秘性を維持する事が目的であったのである.

これらの多くの神事は上記の伊勢神宮のみならず、皇室はもとより、全国の神社、或は,家庭の神棚で毎年,行われているのである.そして,1300年続いている歴史の前では,神がいるとか,いないとか、と言うレベルを超越して,神事が時の節目として、広く国民の生活の中に定着しているのである.

例えば,お正月の年賀、初詣、初日の出、しめ縄、門松、おせち料理、鏡餅、御供え物、或は、縁結び,結婚,安産,七五三,勉学,家内安全,五穀豊穣,お祭り,御神輿,等々,神事がもとになっているのである.

この神道の歴史は,奈良時代以降の長い間、信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合).しかし薩長が中心となり成立した明治政府は天皇を中心とした国民統合をはかるため、神仏分離(廃仏毀釈)を進めるとともに『国家神道』をつくった.さらに全国各地の氏神を祀ってきた神社に記紀の皇統神を合祀し,国による組織化が進めれれたのである.奈良時代、東大寺と全国の60余の国分寺による仏教による統治とよく似ている.

しかし『国家神道』は太平洋戦争の敗戦と伴に、GHQにより解体されたのだが、神道本来の神事は伝統に従って,今日も,粛々と続けられているのである.

このように神道は世界に類を見ない日本独特の自然信仰の教えである.日本人の創造力の大きさに今更ながら感心するのである.古代は宗教を作り、中世は芸術を作り、現代は科学を作っていると言われている.そして,現代は宗教や芸術が衰退していると感じるのだが,神道の自然信仰は逆に重要度を増していると思うのである.大切にしたい日本の文化,民族を超越した文化,異文化と共存できる文化,だと思うのである.

こんな分析もある.反物に例えて、反物の強さを支える縦糸が神道、模様を作る横糸は伝来した宗教や文化だと言う.そして,この強い縦糸があるから、いろんな文化が横糸として編み込まれ、日本と言う反物が出来ていると.

一方、仏教は個人の安心立命や魂の救済,国家鎮護を求める目的で信仰され,人間の苦しさや死への恐怖を和らげてきたように思うのである.このように,神道とは大きくコンセプトが相違しているのである.

さて、日本は,儒教,人権・自由・平等、神道、仏教、キリスト教、等々渾然と『人間の行動規範』が存在しているわけだが『価値観の多様化の時代だ、個人が考えろ』、と言う事なら、それも一考なのだが,少なくとも、社会教科の中で、歴史や文化・理念の勉強は避けてはならないと思うのである.

韓国人に日本人の有名な人は誰か、との問いに、多くの人は,伊藤博文と答えると言う.日本人に韓国人の有名な人は誰か,との問いに、冬のそなたのペ・ヨンジュとか、何人かの韓国人芸能人を挙げると言う.韓国のナショナリズムにゆがめられた教育より、日本人の方が健全かも知れないのである.

以上,結論のない事を述べてきたが、まさに、葛藤している証である.少なくとも,文化は歴史の産物であり,一体であるが、ここは、思想や歴史を知識として教える教育と行動規範を教える教育とに分けて考え、その上で、この二つの教育が併存すればよいと思うのである.どちらもない、片方しかない、は避けなければならないと思うのである.

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2014.10.10

372 グローバル化(ボーダーレス化)と日本文化・制度の行方

世界各地の文化が他国に広がるのは、人の移動もあるが、国力の影響もある.極東に位置する島国日本は、世界勢力の変化とともに、その影響を受けてきのである.

日本の文化を反物に例えると,古来の文化(単一民族,神教,天皇,稲作民族)を縦糸に,飛鳥・奈良時代、平安・鎌倉・室町時代、江戸時代、明治時代、戦後の時代、それぞれに、中国、欧州、米国の文化を横糸として受け入れ,日本独特の和魂漢才,和魂洋才,和洋折衷の文化を編んで来たのである.

分かり易いのは料理である.日本ほど世界の料理を日本風にアレンジして食べている国はない.しかも、稲作文化の日本料理は小麦文化の西洋料理に凌駕されているのである.一方、その日本料理が小麦文化圏で人気を得ていると言うのだから、西洋は洋魂和才になるかも知れないのである.

現在、日本は和魂洋才,和洋折衷,であるが、和の部分が少なくなる傾向にある.料理に見られるように、将来、和が古典になって、洋魂洋才になってしまうかも知れないのである.一方、海外では,洋魂和才、洋和折衷になって行くかも知れないのである.きわめて興味の湧くところである.

ところで、このような、融合文化の流れに、新たな動きがある.『ボーダーレスと言う意味のグローバル化』の動きである.人・物・金・情報が頻繁に国家間を行きかう時代で起こる必然的な動きである.情報ネット社会では、すでに、ボーダレスになっているのである.

この『ボーダレスと言うグローバル化』は,従来の『国の差を認め合う事』『文化・制度を融合する事』ではなく,『国の差をなくす事』『文化・制度を統一する事』を意味しているのである.勿論,従来以上に文化・制度,或いは,国益との激しい葛藤が伴うのである.

そんな時代に,各国はボーダーとボーダーレスの切り分けが求められる.日本も同じだが簡単ではない.日本独特の文化を縦糸に、他国の文化を横糸にして来た日本にとって、ボーダレス化は縦糸をどうするかと言う問題になるからである.

そこで、他国から異質と見られるであろう日本の文化の縦糸を,いくつかピックアップしてみた.いずれも、グローバル化、ボーダレス化の大きなテーマになる事ばかりである.

① 言葉の障壁

どの国でも母国語はその国の文化の象徴である.しかし、母国語人口が少なく、その言葉しか知らなければ、グ゙ローバル化の大きな障壁になる.日本語も少数派であり、当然、日本人は英語を身に着けざるを得ないのである.

新興国の急速な進展は、各人が生きる為に英語を必死に身に着けて来た事と関係している.日本では、生きる為と言ったひっ迫感がない.従って、いくら学校で英語教育をやっても、身に付くわけがないのである.

そんなわけで、日本のグローバル化にとって、言葉の障壁はきわめて大きいのである.日本は英語力の弱さで、政治、経済、技術、芸術、等すべての分野で、英語圏や新興国から取り残されるかの知れないのである.和の文化に浸ってばかりで、いられないのである.

更に重要な問題がある.こんな例がある.娘が英語で話すと、しっかりしている娘に見えるのだが.日本語で話すと、何を言いたいのか,どうしたいのか,よくわからない、頼りのない娘に見えるのだと言う.日本語は曖昧表現が得意だが,英語では,はっきり言わざるを得ない言語だからである.

日本語は、経験知識が共有された同一民族同士が使う言葉である.言わなくても分かり合える文化の中の言葉である.特に問題は、いろんな事を言う割に、結局、結論を最後に言う時、相手の顔色を見て、色んな言い回しで、曖昧にする事が簡単に出来る事である.聞いている方も、それで納得したりするのである.

英語は,経験知識が共有されない多民族同士が使う言葉である.はっきり、自分の主張を言わないと通じないのである.勿論、グローバル時代では、自分の立論力、自己主張力、と英語が必要になるのである.

大事な事は,同一民族社会では,この立論力,自己主張力,はそれほど要求されないどころか、抑制されがちになるが、多民族社会では,それでは生きていけない事である.

ところで、英文に翻訳する前提で日本文を書く時、言いたい事がいかに曖昧であるかに気づかされる.多分、英語を使う時も、自己主張である動詞を何にするか、とっさに出てこない事と同じである.

日本語でも、立論力を鍛え、言いたい事をはっきり持ちたいと思うが、英語を身に着けると言う事は,これが無条件に鍛えられるのである.言語知識以上に英語が必要になる理由である.

② 日本人の宗教心・信仰心の曖昧さ

この問題も、良し悪しは別にして、他国から奇妙に見られているのである.

・最大の疑念は世界の半数が信仰するキリスト教やイスラム教の信者が1%もいない.
・仏教や神教の形式に従って,区別なく宗教的催事をしている.
・仏教や神教の経典など理解しないまま,祈念している.
・神社・仏閣を,歴史,建築,芸術,植物,等のテーマパークとして訪れている.

・キリスト教の催事は本来の意味を無視して商業目的に行われるいる.

こうなった理由は多くあると思うが,一神教の人から見ると,日本人は本当に宗教心があるのか,ないのか,不気味に思われるのである.

『あなたの信仰はなに』と聞かれて,思わず言葉が出て来ないのだが,わけのわからぬまま,家の墓があるお寺を思い出して仏教の真言宗などと答えたりする.一方,『結婚式は何式で』と聞かれると,誇らしげに,『教会』などと答えたりするのである.

宗教とは,先祖や子孫を人質にとって,生きてる者の行動規範を教えたり,祈る事で精神的苦痛を軽くするものだと思うが.日本人はこの事を特定の宗教に求めていないのである.宗教儀式なども,それぞれの様式に抵抗がないのである.

日本人はバイブルを持つでもなく各宗教の経典を深く知らない事も含めて,日本人は『一神教』でもなく『多神教』でもなく,『無神教』かもしれないのである.日本人の宗教心・信仰心,或いは精神文化を一神教の人達に,どう伝えるのか,大きな課題である.

③ 単一民族,血統主義が持つ異質性

これも,多国から見ると異質な国に見える.

・国籍の血統主義の異質性(多くの国は出生地主義)
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・日本人は村社会で,閉鎖的で,横並び志向で,個人の主張が見えない.
・小柄,黒髪の人ばかりで,多国から見ると,閉鎖的,排他的,にみえる.
・類似した民族同士(血統主義の中国,韓国)は生理的に仲が悪い.
・海外で地元と同化せず,単一民族で群れる(チャイナタウン,コリアンタウン,日本人街)

・多民族国家になる事を嫌い,多民族の受け入れ準備もない.

果たして今後,純潔を守る国になるのか,混血,多民族国家になるのか,大きな問題である.中国や韓国のように世界に中国系,韓国系の人口を増やして,本国の異質性を低くみせる戦力も必要かもしれない.日本には,明示された戦略はない.

ただ現在,世界では民族・宗教を同じくする国の独立が叫ばれ,境線の引き直し紛争が起こっている.戦争で政治的に引かれた国境を基に戻そうとする動きである.グローバル化の動きが民族・宗教の独立運動に点火した感じである.

それを見ると,単一民族,血統主義は国内に争いが起こらいと言う意味では安定的だが,それを守るとしても,国際間の交流の壁にならないような文化・制度が必要だと思うのである. 

④ 曖昧な日本人の和と競争の考え方

日本人は『和』が必要とする場合と,『競争』が必要とする場合の切り分けが曖昧である.海外から見ると,談合,根回しも,景気対策と称する予算のばらまきも,人間関係を重んじる商取引も,年功序列の賃金体系も,企業間の株の持ち合いも,別途協議ばかりが多い契約書も,和の精神に見えたりする.『和』とは『秩序を重んじる精神』に見えるのである.

一方では,自由・競争・自己責任・社会を認めながら,『過度な競争はダメだ』,『競争原理主義はダメだ』,とよく言うが,『じゃどうすれば良いのか』が聞えて来ないのである.

社会全体が機能体(競争の精神)と共同体(和の精神)の区別がなく,文化的にも制度的にも,『足して2で割る中途半端な精神と仕組』になっているのである.日本人の『金儲け』『自己主張』は秩序を乱す事だとして,陽に表に出さない精神文化が根底にあるのかも知れない.

そんな日本には,ラクビーで言う『正々堂々と激しく戦う精神』と『試合後のノーサイドの精神』を持つ必要があると思う.試合中にノーサイドの精神を出せば,弱くなるし,真剣にやる相手にも失礼なのである.

国の制度においても,企業内においても,公務員においても,個人においても,この二つの精神を分ける必要があると思う.足して2で割る精神では,冗長度や曖昧さを生み,グローバルな競争には勝てないと思うのである.

国全体でみると,北欧などは徹底した競争世界と、徹底した社会福祉世界を持っている.企業の役割りと国の役割りがはっきりしているのである.日本のように企業に社会福祉などの負担を強いることはないのである.

米国などは自由,個人主義,自己責任を根底に持ち,競争の世界と勝者による寄付の世界を併せ持つ国柄である.伝統的には国に依存する精神が少ないのである.

たとえば研究開発で言えば,日本は大学,専門の研究機関,もしくは,企業で行われるが,予算の制約や失敗のリスクから,研究開発費や積極性に抑制がかかる.結果,研究開発が中途半端になるのである.

一方,米国は,研究開発のリスクをベンチャーキャピタルや寄付が受け持つのである.キャピタルからすれば,たとえば10件の投資の内,1件の成功があれば,投資回収できると考えるのである.この環境によって,研究者は思い切った研究に没頭できるのである.まさに研究開発に自由・競争の精神が取り入れられているのである.

ヨーロッパ諸国は長い戦争の歴史を経て,社会主義的政策が多い.秩序重視の精神もあって,足して2で割る様な,『なんとなく緩んだ世界』になっていると感じる.日本も似たところがあるが.特に日本的経営は、まさに足して2で割る文化、はっきりしない文化になっているのである.

⑤ 羞恥,謙虚,滅私,横並び、曖昧の合理性,等の異質性

これらは仏教の教えであるが,そもそも,農耕民族の持つ国民性でもある.その教えは,争いを起こさず,村社会の秩序を乱さないように,煩悩(欲)を捨てる事を人の行動基準にしているのである.しかし,煩悩は動物も含めて,生きる為に備わった本能だけに,捨てる事は不可能なのだが,仏教はそれを目標にかかげて,存続しているのである.

世界中が農耕民族の仏教信者なら,この教えで良いのだが,残念ながら,世界は狩猟民族,砂漠の遊牧民族の宗教である.極端に言えば,煩悩を前提に理性を説き,行動規範にしているのである.従って,羞恥,謙虚,滅私,曖昧の合理性,ではとてもグローバルな文化の中では通用しないのである.それどころか,相手を重んじる精神文化は相手に付け込まれる危険性があると思うのである.

ここで言う『曖昧な合理性』とは,単一民族,,農耕民族,村社会,の日本文化を象徴する言葉である.『具体的に詰めるより,曖昧にしておいた方が,合理的だ』と言う精神文化を指している.ここには,二つの精神がある.

一つは,決めなくても,当たり前の事があって,誰でもが,それを共有し,臨機応変に実行する,と言う精神である.

二つ目は,この時点で,細かく決めるより,決めない方がうまく行く,との精神である.詰めるべき内容は知っているが,それをぶつけると争いになる事を懸念して,別途協議事項にするのである.いわゆる先送り精神である.

この精神は,『面倒な事は先送り』の精神になったり,『論理を追求しない』精神になったりすると,『曖昧の不合理性』になってしまうのである.こうなると,単一民族は立論力や自己主張に弱くなるのである.その傾向が強くなっていると思う.

そもそも,この曖昧の合理性は多民族国家,狩猟民族,欧米社会,では認められない合理性である.曖昧さは不合理に見えると思う.多民族で経験知識が共有される事派あまりなく,義理人情も生まれにくいのである.

必然的に細かい事を確認し合う契約社会になる.当然,企業の契約では,全てのリスクについて,どう対処するかが決められる.当然,分厚い契約書になる.

日本では,想定できるリスクの対応を決めようとすると,やる気があるのか,と疑いをもたれる.結果,未来のリスク対応はその検討もせず,別途協議事項になってしまうのである.当然,日本の契約書は数ページである.

欧米の場合は,未来のリスクの対応を協議している段階で破談になる事もあるが,契約をかわしておけば、リスクの心配はなくなる.一方,日本流の契約では,これで,ほとんどの仕事が無事終るのだから,日本流の曖昧な契約書の方が合理的かもしれない.只,一たびリスクが発生すれば大問題になるのである.

海外の人に対し,日本には曖昧の合理と言う知恵があると自慢するが,内心,『曖昧の合理性』の精神が『先送りの精神』に変質して,思考力をそいでいる感じを危惧しているのである.

法律などを比べると,日本で起こる問題の殆どが,すでに米国で法制度化されている事が多いのである.日本のフィードバック型の法律ではなく,フィードホワード型の法律で,未来のリスクに対しても曖昧にしていないのである.日本で言えば、安全保障や有事法制が、或は、医療やネット社会の法制度、等、フィードフォワードができていないのである.

そんな事を考えると,日本文化にある羞恥,謙虚,滅私,曖昧の合理性,等の相手を重んじる文化は,国際社会では通用しない感じがするのである.

⑥ 憲法第9条と国際協調

日本独特の文化ではないが、日本独特の憲法第9条の一国平和主義が世界に受け入れられるのか、と言う問題である.特に、グローバル化時代の集団安全保障体制,集団的自衛体制,に参加しなくてもよいのか、と言う問題である.戦勝国が決めた憲法だとしても、独立して70年、日本の意思が問われる事になるのである.

そもそも憲法第9条の戦争放棄、武力非保持,は憲法前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我々の安全と生存を保持しようと決意した.』からきている.言い換えると、『諸国(連合国?)を信頼して、丸腰になる』と言っているわけで、完全に米国の占領下ならではの憲法なのである.

独立後には,日本国の意思で、新しい憲法が制定されると,米国も吉田首相も考えていたのである.従って、たとえ、占領下と同じ憲法でも、独立後に、改めて制定すべきだったと思うのである.日本は『70年間も、憲法を変えなかった国』と言われて、問題が随所にあるだけに、『りっぱな憲法だから』とも言えず、ただ、はにかむばかりなのである.

⑦ 在日外国人対応(就学,雇用,税,健康保険,年金保険,公的資格、法律、等).

日本の制度は当然のことながら日本人を対象にしている.グローバル化が進むと,旅行者を含めて、日本国籍を持たない外国人が多く日本に滞在する事が予想される.

永住者,非永住者,居住者,非居住者,等の区分で,しかも,日本の家族単位と言う考え方で,税,健康保険,年金保険,或いは,公共料金,NHK受信料,等の各制度がきわめて複雑になる.又,子供の就学や各国の文化や言葉への対応も進んでいない.先ず,特区を設けて,外国人対応を積極的に進める必要あると思う.この外国人対応が地域活性化のインフラになる可能性もある.

外国人の増加で,日本の制度の複雑さや,未対応さが露呈するのは,もともと,外国人のいない前提の日本の制度の上に,外国人の制度を乗せているからである.ひょっとすると,これがボーダーになる可能性もある.

制度は公平にするほど複雑になると思うが,日本国民にとっても,グローバル化の前に,もっと制度の簡素を行うべきだと思うのである.

尚,外国人永住者の選挙権,公務員採用,あるいは地方議員へ秘被選挙権は従来通り,国籍条項を適用して,禁じるべきだと思う.在日の人から納税義務を負っているのだから,国籍条項を外すよう要望が出ているが,帰化の道がある以上,認めるべきではないと思う.

グローバル化で揺れる会社法、金融取締法、関税、税法

冒頭に述べた通り,グローバル化とは『融合』ではなく『統一』である事を述べた.いくつか、議論が起こるであろう法制度を挙げてみた.

企業の株主が世界に広がると、会社法や金融取締法、勿論、会計基準などが国際統一に向かうのである.日本の歴史を色濃く残している司法制度や量刑、或は民法なども,人権的視点で、議論になると思う.

現在協議がされているTPPも関税とか国による産業政策にも、フリー・フェアー・グローバルなルールが要求されているのである.又、国の統治の根幹になる税制も国家間のTaxヘブンの問題もあって,将来、協議の対象になるかもしれないのである.

現実に課題になっている例を一つ上げておきたい.海外株主が役員に社外(独立)を入れる事を強く要請しているのである.仲間内で行う企業経営は信用出来ない、役員は株主に目を向けていない、との主張である.その内,日本人同士は信用できない,役員に外人を入れろと言うかもしれないのである.

このようグローバル化(にボーダーレス化)はあらゆる国内制度に影響を与えるのである.

⑨ 印鑑文化の異質性

契約には印鑑証明されている印鑑が必要であったり,本人確認に,免許証や健康保険証が使われたりする.本人である事を証明する背番号もなければ,本人のサインも通用しないのである.海外から見れば異質な制度である.

日本人の擬装されない印鑑を作る技術を誇っても,印鑑文化は世界に共有されないのである.自動機等では個人番号と暗証番号,或いは生体認証などで行われているが,ペ-パー上の本人確認は欧米のようにサインで良しとするのか,母印で行うのか,或いは,何か違う方法で行うのか,検討が必要である.

⑩ 『政治と宗教』『政治と教育』『教育と宗教』の再整理

日本では,戦前の軍国主義が『政治・神教・教育』が相互に連動していた事から,これを反省し,戦後は,相互に分離する形をとった.

『政治と宗教』の関係は政治が宗教に介入したり,宗教が政治に介入する事がないように『政教分離』制度がとられた.『政治と教育』の関係も,教育の独立を重視し,行政は教育予算を出すが,教育内容については,相互に介入できない制度とした.

『宗教と教育』の関係については,信仰の自由から公教育で特定宗教を強要したり,特定の儀式に参加する事は禁じているが,各宗教の知識教育などは許されているようである又戦前の道徳教育が廃止されたことから,宗教色のない形で道徳教育が始まっている.

各国では,『政治と教育』は,先進国では,どの国も分離の方向であるが,ナショナリズム国家は一体である.『政治と宗教』,『宗教と教育』の関係は国情によって違うが,信仰の自由からそれぞれ分離している国が多い.

日本では戦前の反省から,政治・宗教・教育が,すべて分離されているが,それで,良いのか,背骨のない国や国民にならないか,いや,それでも良いのか,今後,世界各国でも議論を呼びそうである.

以上,グローバル化(ボーダーレス化)の課題は文化の縦糸になって来た日本独特の文化をどうするかである.ボーダレス化を進めるなら、日本が島国ではなく、海外との交流が活発で、しかも、多くの外国人が住む、との前提で、文化・制度を見直す必要がある.

従来、日本では、グローバル化と言うと、輸出や海外進出の事をイメージして来たが、今や、これまで以上に、人や企業や物や文化が入ってくる事をイメージしなければならないのである.勿論、国家であるから,限りなくボーダーを低くする事は出来ないが、島国日本のハードルをどう低くするか,国民は大きな課題を背負っているのである.

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2014.04.07

352 調査捕鯨敗訴が示唆している事

南極海で行われている『日本の調査捕鯨は商業捕鯨だ』とオーストラリアが4年前に国際司法裁判所に訴えていた裁判に判決が出た.判決は日本の敗訴である.日本の南極海における調査捕鯨は『科学的な調査ではない』との判決が下ったのである.

この判決で南極海で日本は調査捕鯨が出来なくなっただけではなく、北太平洋等の調査捕鯨も、裁判に持ち込まれたら、敗訴する可能性も出て来たのである.

この判決に対し、日本国内の反応は『日本の食文化を奪う判決だ』と不満を言う人が多かったと思う.はっきり言って、こんな反応をするようでは敗訴しても当然だと思うのである.そんな反応をすると言う事は、『食文化の為に調査捕鯨をしていた』事を認めたようなものだからである.

提訴したオーストラリアとしては、本心はクジラを殺す事に反対であり,なんとしても日本の調査捕鯨をやめさせたいのだが,調査捕鯨が国際条約で認められている以上、これに反対できず、そこで、『日本の調査捕鯨は科学的でない』、『調査捕鯨に名を借りた商業捕鯨だ』と訴えたのである.そして、本心であるクジラを殺す食文化にも、調査捕鯨にも反対だと言わずに、南極海でのクジラの捕獲を禁止できたのである.同時に、シーシェパードの捕鯨妨害行為に大義を与えてしまったのである.

この訴えに対し、日本としては、科学的に調査捕鯨をしていると主張したと思うが,日本自ら調査に必要だとした捕鯨頭数に比べて、実際の捕獲頭数が大きく下回っていたり、クジラ肉の需要の低下と捕獲頭数が比例していたり、クジラ肉の販売で調査費をおぎなっているのだが、この調査費も売り上げに比例して低下していたり、捕獲しているクジラの種類が食用に偏っていたり、捕鯨以外の調査をしていなかったり,素人でも科学的ではないと分る実態が指摘され、冒頭の判決が下ったのである.

今回の判決は日本に大きな反省を促す事になったと思う.

まず、率直に言って,日本国民の反応にあったように、『調査の為の捕鯨』ではなく『食文化の為の調査捕鯨』と理解し、調査の科学性を,おろそかにしていた点を反省すべきだと思う.

多分、そうなった理由は,商業捕鯨禁止の例外として,科学的調査を条件に,各国に調査捕鯨が認められたのだが,科学的と言う定義が曖昧なことに乗じて,『調査捕鯨に名お借りた商業捕鯨が出来る』,『日本の食文化が守られる』と,思った所に,そもそもの間違いがあったと思うのである.

さらに反省すべき事は,『科学的調査』と言う曖昧さに乗じて,自国のナショナリズムや文化が入り込んだ事である.ルールが曖昧なら,他国から文句を言われない科学的な論理を作って,行動すべきなのである.ナショナリズムや文化で行動することは『昔からの食文化があるから捕鯨してもよい』と主張しているようなものであり、これでは国際社会では認められないのである.

こんなプアな事になったのは,行政,専門家,業界,の閉鎖的な社会の発想に原因があると思う.専門家より,しがらみのない素人の方が論理的な発想ができると、思わざるを得ないのである.

今後、日本としては,クジラの科学的調査を継続しつつ,クジラの量によっては,商業捕鯨を認める論理が必要である.

クジラに係わらず、マグロなど他の食文化も科学的根拠の下に位置づけられると思うのである.『昔からの文化だから』、『牛を殺せてもクジラは殺せないから』等と、文化や動物に対する感情を持ち出しても、世界を説得できる解は出せないのである.あくまでも,種の保全と生態系のバランスがあって,その次に,食文化があると思うのである.

所で,今回,あえて『調査捕鯨敗訴』を取り上げたのはすでに述べたように,『科学的な調査捕鯨』を国民の感覚で、『食文化の為の調査捕鯨』にすり替わる、言い換えると、『論理より文化を優先する』事の問題を示唆しているからである.

一般的に言えば,国際化とは『価値観・論理・制度』を共有化する事である.人や物が国境を越えて交流するからである.当然,固有の価値観や慣習,文化と葛藤が生まれるのである.

『日本異質論』ではないが、日本は島国で単一民族の日本であるが故に,国際化には,常に,大きな葛藤が伴うのである.日本は,明治以来,『和洋折衷』,『和魂洋才』と言う形で,現在も,国際化を進めているのだが,その過程で,日本的な慣習や文化が一枚一枚剥がれているのである.言い換えると,世界の論理に日本の文化・制度が駆逐されているとも言えるのである.

今回の『調査捕鯨敗訴』も『論理が文化を駆逐した』のである.今後,日本的文化を守るとしても,相手を説得できる論理が必要なのである.日本には優れた考え方や文化や制度がある.これらを失わない為にも,それらを『一般的な論理』に組み立てる必要がある.政治にも言える,日本の大きな課題だと思う.日本的な良い文化を箱庭のように守るだけでは,何時かローカルの古典に追いやられるか、国際社会のルールで消えて行くのである.

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2013.10.27

335 葛藤する日本文化④

『葛藤する日本文化』に関して、当ブログの『カテゴリーの文化』にあるように,随分多くの事を発信して来た.発信が多くなったのは『日本文化』が時代に合わなくなり、新たな文化の形成が始まっていると感じたからだと思う.

事実,日本人が良さを主張している日本文化も、海外でブームになっている日本文化も,もはや日本では『古典文化』あるいは『文化遺産』になっていて,日常生活から消えている事が多いと思うのである.

そんなわけで,日本文化は時代との葛藤を通り超して『残すべき日本文化とは何か』,『今後,どのような文化を作っていくか』と言う段階に来ていると思う.その意味で,日本は現在,『新文化胎動期』に入っていると思うのである.

ここで,文化について、改めて整理してみたい.文化とは集団の中で『概念や行動や価値観』が共有され,集団生活の中で定着している様式を言うのだと思う.そして,その文化は古今東西を問わず,自然環境や宗教によって形成されて来たと思うのである.

この『宗教』は『社会や集団の統治・秩序を保つ為』,『苦しさや精神的不安,あるいは,死の恐怖を和らげる為』、あるいは,『ものの善悪を決める為』に考えられた偉大なる哲学である.『古代は宗教を作り,中世は芸術を作り,現在は科学を作った』と言われるほど,宗教は『人類の行動を律する存在』だったと思うのである.

この宗教は大きく二つの系統がある.一つはユダ゙ヤ教,キリスト教,イスラム教などのように,超自然的ではあるが意志を持った人格的存在としての神を中心に置いた宗教と,もう一つは神道,仏教,儒教,などのような,法,理,道,を中心に置いた宗教である.

神道は日本古来より,地縁,血縁の共同体を守る目的で自然信仰,民俗信仰,天皇信仰として定着してきた.一方、仏教は釈迦が唱えた仏になる教えとして,飛鳥・奈良時代の伝来以来,今日まで,日本文化の形成に大きな影響を与えて来たのである.

儒教は『孔子』による『道徳,教理の体系』であり,『考,仁,徳,礼中庸,和,義,君子,小人,忠』などの概念で構成されている.宗教特有の『あの世の世界』と言う『超自然的論理』を持ち込んでいない事から『宗教色のない行動規範の教え』として,仏教と併存していた.そして,江戸時代には『儒学』として、又、明治時代には『修身の教え』して,『人間力育成』に使われて来たのである.

日本は農耕民族の持つ,『村社会』と『神道,仏教.儒教』が重なり合って,『日本文化』や『日本的道徳』を形成して来たと思うのである.

この『日本文化』に,いくつかの大きな変化があった.列記しておきたい.

一つは,明治維新と言う『文明・文化の維新』である.

まず,王政復古(立憲君主体制)で『廃仏毀釈』が行われた事である.『祭政一致』による天皇の政治支配を正当化する為に,神道をただ一つの国教として定め,神社を国家統合の機関にしたのである.

次に列強国と伍して行く為に,長い鎖国を止め,『日本の近代化』,『文明開化』に向けて積極的に『西洋文明』を受け入れたのである.

一方,西洋文明・文化や資本主義経済の受け入れで起こっていた『道徳の乱れ』を正す為に政府は,『儒教による修身教育』を行い,二宮尊徳,渋沢栄一,福沢諭吉らが『道徳・経済の合一』,『士魂商才』を啓蒙したのである.(当ブログ『NO295 気になる論語の事』参照).以来,日本では今日に至るまで,『和魂洋才』,『和洋折衷』の文化が広まって行ったのである.

二つ目は先の敗戦による軍国主義と連動した精神文化の排除である.

敗戦によって,『新憲法の制定』,『軍部の断罪』,『国家神道の廃止』,『靖国神社の国営廃止』,『政教分離』,『修身教育の廃止』等が行われた.明治以来続いた軍国主義と連動した精神文化が危険な文化として排除されたのである.

三つ目は,その後の『日本文化の葛藤・漂流』である.

冒頭に述べた通り,米国文化(自由・平等・合理性・競争・個性・自立,寄付,民主主義など)の流入、工業社会化と都会への人口集中,核家族化,経済や科学技術の発展、国際化と価値観の多様化,などで,『日本文化の環境』が激変し、『日本文化の葛藤・漂流』が始まった事のである.

神仏で言えば,明治以前の『神仏習合』,明治維新以降の『神仏分離』,戦後の『神仏不在』と変化して行ったのである.日本文化で言えば,特に,高度成長後の『資産バブルの崩壊』で,これまでの,日本社会や日本的経営に潜む冗長度,無駄,無責任さ,が露呈し,『米国文化』が広まって行ったのである.

同時に日本文化の持つ,村社会,長幼の序,和,恥,滅私,謙虚,配慮,行間の表現,曖昧な合理性,等の文化も,一枚一枚はがれて行ったのである.当ブログNO19葛藤する日本文化②参照

私自身もそうだが、多分多くの国民も、感情的には『日本的文化』を,論理的には合理性を重んじる『米国的文化』を理解しつつ、その間で,『迷える子羊状態』になっていると思うのである.日本人は『和魂洋才』,『和洋折衷』の中で漂流しているのだが、どちらの『和』も,小さくなって行く感じがする.

こんな『文化の葛藤・漂流・胎動』は,あまり各国で見られない事だと思う.何といっても,結婚,七五三は神道、クリスマスはキリスト教、葬式は仏教、神社仏閣は観光資源・歴史遺産,食文化は西洋化,なのだから、日本ならではの現象だと思う.

『精神文化や行動規範』を『教会』が教えていたり,『サイドとノーサイドの文化』がある他国から見れば,日本が『顔の見えない国』,『何を考えているのか分からない国』に見えても不思議でもないのである.

政府の1000兆を超える借金も,日本文化と関係していると思う.

日本文化の持つ『人情,優しさ,和,の精神』が無責任の温床になり,『
内と外を区別する文化』が政治(外)を無関心にさせてき来たと思う.その結果,公金の使い方や借金に寛容になり,政治家も,この性格を利用しして,1000兆円の借金を積み上げたと思うのである.単一民族国家,血統主義国家,農耕民族国家の特徴かも知れない.

一方,欧米社会では『外』に当たる政治(課税制度と公金の使い方)には極めて関心が高い.古来より,『身内の事』以前に,『城壁内の事』に関心を持たざるを得なかったからだと言われている.他民族国家,狩猟民族国家,戦争の絶えない歴史,ならではの習性かもしれないのである.

以上のように、日本の文化は江戸時代までは中国、明治時代はヨーロッパ,戦後は米国,と影響を受けてきたわけだが,まさに『外圧』に後押しされて変化して来たのである.

そもそも、血統で国籍を決める血統主義国家日本は人間には排他的であるが,文明・文化には寛容なのである.ちなみに,誕生地で国籍を決める他民族国家は人間には寛容だが,文明・文化には排他的だと言われている.日本への『外圧』も,日本の『文化への寛容さ』で受け入れられて来たと思うのである.

従って,『文明・文化に寛容な日本』は『世界の文明・文化の終着駅』だと考えると,『世界の文明・文化のエキス』が日本に集まっているとも考えられるのである.だとすると,『文化の葛藤・漂流・胎動』は当然であり,そこから『最も成熟し文化』が生まれて来るかもしれないのである.

このように文化は時代に応じて、自然に変化していくものだと思うが、一方では文化の変化期に起こる『行動規範としての道徳の希薄化』の問題がある.明治時代,『儒教による修身教育』を始めた時と同じような問題である.この問題をどうすればよいのだろうか.

『道徳』の問題を宗教や文化と一体として捉え『思想・信条の自由』に任せるべきなのか,それとも,道徳の問題を『人間の共通の行動規範』として捉え,宗教や文化から切り離して考えるべきなのか,と言う議論になる.

私見によれば,長い歴史の経験を踏まえて,宗教や文化を超えて,日本人が共有できる、『道徳』(人間としての行動規範)を作るべきだと思うのである.

その『道徳の内容』において,『宗教や文化と対立する事』、『現実とアンマッチな事』,『新たな考え方が必要な事』,等があると思うが,世界の文化の終着駅である日本ならばこそ,人類にとって普遍的な『道徳』を作る事は可能だと思うのである.

そんな中で,『文部省の取り組み』に注目したい.

文部省は2002年度から小中生向けに副教材として道徳教育テキスト(心のノート)を全国に配布した.その内容は基本的な人間としての行動規範を教える内容である.自由・平等・人権・自立・友達,などの大切さを,それとなく教えているのである.いじめ防止の意図もあるようである.

そして,この『心のノート』は現在,多くの小中学校で利用していると言う.そして,2015年度より,国語や算数と異なる『特別の教科』として,本格的に『道徳教育を実施』する方針を固めたと言う.是非、道徳の内容や実施要綱に注力したいと思う.

勿論,道徳の啓蒙は学校だけではなく,社会・家庭でも必要である.そして,国,民族,宗教,文化を超えて『人間の行動規範』としての『道徳』を広く世界に発信したいものである.文化を世界から輸入して来た『日本の倍返し』である.

そして,『現代は科学技術を作った』と言われている事に,『宗教を超えた人間の行動規範も作った』と付け加えたいものである.

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2013.02.13

316 中国の『面子を重んじる文化』を考える

『面子』とは立場,自尊心,体裁,見栄,ナショナリズム,などを意味していると思うが,どの国にも,個人にも,この感情がある.国にもよるが,『面子が潰された』として,命をかけた争いに発展する事もある.そんな場合の面子とは『死より大事なもの』になるのである.

この『面子』の重要さは,『面子を守ろうとする言動』に表れる.最も『面子意識が強い』とされる中国の場合を例にすると、こんな言い方をする.

中国が反日デモ,日系企業への危害,日本製品ボイコット,貿易手続きの遅延,政治交流・交渉の一方的中断,等をした上で言う言葉,

『こうなった原因は日本側にあり,謝罪,反省すべきだ』
『謝罪,反省がなければ,紛争解決のテーブルにつかない』
『紛争解決の責任は日本側にある』


となる.勝手に反日行動を起こしておいて,その原因はすべて日本側にあり,謝罪,反省が無ければ交渉はできない,と外交カードを切るのである.過去に事の大小に関係なく,何度も繰り返された中国の論法である.

知らない世界の人からすると,日本が何か悪い事をしたのか,と言う感じになる.こうやって,中国の『面子を守り』,『日本を抑え込む』のである.時として,『したたかな中国外交』に見えるのである.

このように,『非を認めたら面子が題無しになる』事を恐れて,『絶対,非を認めないし,勿論,謝罪などあり得ない』のである.それどころか,『自分の面子の為なら,何でもあり』の攻撃をするのである.まさに『愛国無罪の文化』である.

この『面子を何よりも大事にする文化』は,永い中国の歴史の中で培われたと思うが,日清戦争の敗北で決定的になったと言う説がある.敗戦によって賠償金や領土を奪われ,列強の各国の草刈り場になったのだが,その時,『国の面子を失う』と『国が滅びる』との教訓を得たと言うのである.

その教訓は一般の生活においても,政治,外交においても,定着し今や,中国文化になっていると思うのである.改めて,その教訓・文化を言うならば,こんな感じになる.

①絶対,面子を潰されてはならない.
②その為なら,何をしても,許される.

是を,日常の教訓・文化に落とすと,次になる.

③相手の面子を大切にすれば争いは起こらない.
④相手の面子を傷つければ,争いが起こる.

となる.日常生活の中で,相手の面子を持ち上げる様な言動やプレゼントや接待が行われるのは,この教訓・文化の現われだと思う.プレゼントで言えば,周りの人が見える位に大きい品物が良いと言う.それほどすごい人だと,思われたいのである.小さな品物は要注意である.朝廷への貢物文化の影響かもしれない.

この『面子を重んじる文化』は日本にも,勿論ある.相手の面子が立つ様に気を使ったり,自分の面子が潰されると,いやな気分になるのである.ただ,面子が傷付けられたからと言って,嘘を言ってでも,面子を守ろうとはしないのである.

そんな事をすれば,かえって,自分の面子が潰れると思うからである.日本には『恥の文化』があり,『面子を汚すような,恥ずかしい事をするな』と考えるのである.まさに日本では『嘘』は『恥』であり『面子を汚す事』になるのである.ちなみに,西洋では『嘘』は『罪』である.

中国では『嘘』は面子の為の『方便』,『生きる術』のようである.中国人は『嘘を付く』,『騙す』,『約束を守らない』と度々聞くのも,『面子の為』と言う『大義』を掲げれば,許されると思っているようである.

まさに『面子の為なら何でもあり』,『愛国無罪』の文化なのである.その結果が上記の例の様になるのである.日本や西洋から見れば,『面子の大義に潜む危うさ』である.

勿論,そんな中国の教訓・文化は世界で通用するはずがない.だから,中国政府の報道官が,平気で,堂々と,威圧的に,見え透いた嘘を公言されると,誰しもが『よくも平気でシャーシャーと』と唖然となって,開いた口がふさがらなくなるのである.

これは国内向けで,余り気にしないで,と言う事なのだろうか.いつもの大げさに言う中国の癖なのだろうか,いや,正気で言っている事なのだろうか,一瞬,迷うのである.ただ,真剣に原稿を読み上げている報道官が不憫に思えてくる事だけは確かである.

そんな中国の『事実や,史実や,法令より,面子を重視』する教訓・文化の問題点を,改めて整理してみた.

・『独裁政治による13億人の統治』に都合のよい文化である.

日常生活においては,争いを避ける為に,『物言えば唇寒し』の風潮が社会全体を支配して行く.勿論,政治に対しても,同じである.信じあえるのは一族郎党内だけになる.確かに,争いは起こらないかもしれないが,独裁国家にとっては,都合の良い社会になる.ただ,封建社会ならいざ知らず,『面子で維持される社会』は,民主的社会とは程遠い社会なのである.

・国際政治を混乱に導く文化である.

外交の場で,この戦法を使われると,嘘を平気で言う外交,責任を相手に転嫁する外交,謝罪や反省をしない外交,さらに,制裁やデモで相手を脅迫する外交,行きつくところは,中華思想や覇権主義に繋がる外交,に発展して行くのである.一口で言うなら『面子を台無しにされた』と凄む『ヤクザ戦法』そのものなのである.

ヤクザに言いがかりを付けられた方は,勿論,正攻法で抵抗したいところだが,紛争が大きくなる事を恐れて,曖昧な,穏便な対応(大人の対応)になるのである.それを狙った戦法とも言える.

しかし,仕掛けられた方が,正面から対抗すれば,戦争に繋がる極めて危険な戦法なのである.ヤクザ戦法は勝手気ままな幼児性と未成熟さと危険性を感じるのである.

そんな中国戦法が許されるはずがない.その為に,一日も早く,国際社会と連動して,法秩序による国際関係を築く必要がある.同時に,次の問題である中国の民主化も不可欠である.

・『面子至上主義の独裁国家』は必ず息詰まる.

上記の問題の様に,国内外の問題に中国あるいは政府の面子を持ち出して押し切ろうとすれば,解決どころか,非を絶対認めない独裁政治が強まって行くのである.問題が起こる都度,圧政や国際関係,経済関係が悪化し,独裁と孤立化が強まる事になる.

何かにつけ,反日デモや不買運動が起こるが,100年前のシーンを見る感じがする.面子の大義を掲げながら,独裁体制を維持するために,ナショナリズムを煽っている感じもするのである.

これに対し,①屈服して妥協するか,②無視するか,③対抗するか,④折衝するか,となるが,①は中国の為にならないと思う.世界と連携しながら,②③④の対応をすべきだと思う.何よりも,中国の未来を思えば,中国自身が,一日でも早く,『面子至上主義の国家』から『民主主義の連邦国家』に脱皮する必要があるからである.

『13億人を統治するには独裁が必要だ』との考えは,封建時代ならいざ知らず,文明文化,経済の発達で,必ず崩れる運命にあると思う.それとも,独裁体制が限界になるまで,中国は発展しない,と思っているのだろうか.

以上,『面子に潜む危うさ』を述べたが,それがある限り,国民の間にも,国の間にも,信頼感は生まれない.それに気づいている中国人はいると思う.勿論,日本も人ごとではない.面子にこだわって,無茶な事だけは避けたいものである.

あくまでも,『面子』は相手の『攻撃の抑止』や『攻撃の大儀』の為にあるのではなく,『自らを律する為にある』と思う.自分で面子丸潰れの事をやっておいて,面子が潰された,はないのである.

日本では,自ら面子を汚さない様に自らを律し,『尊敬される国,国民』になりたいと思うのである.この文化を世界に広めたいものである.

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